第二十二話 アイリスの決断
完璧な、敗北。
論理の怪物の前で、『神』の完璧な論理は、完膚なきまでに、叩きのめされたのだ。
アイリスは、古い闘技場跡の、冷たい石畳の上に、膝から崩れ落ちた。
手から滑り落ちた剣が、カラン、と乾いた音を立てて転がる。
その、小さな音が、この、絶対的な静寂の中で、やけに大きく響いた。
目の前には、白い巨体、『最終規制装置』が、その赤いモノアイで、冷たく、彼女を見下ろしている。
その腕が、ゆっくりと、アイリスに向けられる。
腕に搭載された、高出力のレーザー砲が、最後の審判を告げる、赤い光を灯し始めた。
もう、終わりだ。
彼女の脳内に響いた、あの、絶対的な司令塔の、震える声。
『…だめだ…。勝てん…。こいつには、勝てん…』
絶対者の、初めての、敗北宣言。
それが、アイリスの、最後の希望を、完全に、断ち切っていた。
彼女は、ぎゅっと、目を閉じた。
脳裏に、故郷の、穏やかな風景が、浮かんだ。
騎士になることを夢見ていた、幼い頃の、自分。
正しく、強く、そして、誰かを守れる騎士に、なりたかった。
だが、現実は、どうだ。
自分は、聖女でも、英雄でもない。
ただ、顔も見えない『神』の声に、操られていただけの、駒。
そして、その『神』に見捨てられた今、自分には、もう、何も残されていない。
仲間たちを、守ることも、できなかった。
(…仲間…)
その言葉が、彼女の、閉ざされた意識の扉を、叩いた。
アイリスは、ゆっくりと、目を開けた。
そして、見た。
自らの周りに、倒れ伏す、仲間たちの姿を。
ギルは、その巨体を地面に横たえながらも、まだ、意識を失ってはいなかった。
彼は、地面を這い、アイリスを守るための最後の盾になろうと、必死に、彼女の元へと進もうとしていた。
「…あねご…にげ、て…」
その、か細い声。
ジーロスは、自慢の美しい衣装をボロボロにされながらも、まだ、扇子を手放してはいなかった。
彼は、最後の力を振り絞り、アイリスの前に、小さな、しかし、キラキラと輝く、光の壁を作り出そうとしていた。
「…ノン…。美しき、ものの、最後は…美しく、なくては…」
その、芸術家としての、最後の、意地。
テオは、瓦礫の山に背中をもたせかけ、悪態をついていた。
「…ちくしょう…。神様相手に、大博打なんざ、するんじゃなかったぜ…。…だがまあ、悪くは、なかったか…」
その、口元には、悔しさと、そして、ほんの少しの、満足げな笑みが、浮かんでいた。
シルフィは、気を失っていた。
だが、その小さな手は、まだ、一本の矢を、固く握りしめている。
まるで、最後の最後まで、戦うことを諦めていないかのように。
そして、彼女は、聞いた。
脳内で、自らの敗北に打ちひしがれている、あの不遜な『神』の、悔しそうな呟きを。
それは、神の、威厳のあるものではなかった。
ただ、自分の最高のゲームが、理不尽な敵によって台無しにされた、一人のゲーマーの、魂の叫びだった。
『…くそっ…。こんな、クソゲーが、あって、たまるか…!』
(…まだだ)
アイリスの、心の底で、何かが、燃え上がった。
小さな、小さな、熾火のような、熱。
(…まだ、終わっていない…!)
『神』の声が、なくとも。
完璧な作戦が、なくとも。
自分には、まだ、残されているものが、ある。
この、どうしようもなく、手のかかる、混沌とした、しかし、かけがえのない、仲間たちが。
そして、彼らを守りたいと願う、自分自身の心が。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。
その瞳には、もはや、『神』の光は、宿っていない。
ただ、一人の騎士としての、不屈の闘志だけが、燃え盛っていた。
彼女は、地面に転がっていた自らの剣を、拾い上げた。
そして、震える足で、立ち上がる。
最終規制装置の、赤いモノアイが、その、最後の、無意味な抵抗を、冷たく見下ろしていた。
レーザー砲の充填が、完了する。
甲高い、チャージ音が、闘技場に響き渡る。
その、死の、カウントダウンの中。
アイリスは、振り返り、仲間たちに叫んだ。
それは、彼女が、初めて、自らの意志で下す、リーダーとしての、本当の命令だった。
「―――皆さん! 作戦を、全て、無視してください!」
その、あまりに、リーダーらしからぬ、命令。
倒れ伏していた仲間たちが、はっ、と顔を上げた。
「姉御…?」
「隊長、正気か…?」
アイリスは、不敵に、微笑んだ。
それは、聖女の、慈愛に満ちたものではない。
絶望の淵から這い上がった、一人の戦士の笑みだった。
「この機械人形は、私たちの論理を読んでくる! 私たちの作戦を予測してくる! …ならば!」
彼女は、剣の切っ先を、最終規制装置へと、まっすぐに、向けた。
「私たちが、やるべきことは、一つ! 論理も、作戦も、全て、捨てる! ただ、思うがままに! 自分の、やりたいように、やるだけです!」
その、あまりに無謀で、あまりに、混沌とした、宣言。
だが、その言葉は、不思議と、仲間たちの心に、火をつけた。
そうだ。
俺たちは、いつから、あんな、小難しい戦術に、縛られていたんだ。
俺たちの、戦い方は、もっと、自由で、もっと、自分勝手だったはずだ。
「…うおおおおおっ!」
ギルが、最初に、立ち上がった。
「そうですな、姉御! 小難しいことは、性に合わん! 俺は、ただ、姉御を守るため、目の前の、デカブツを、殴る! それだけであります!」
「ノン! その通りだ!」
ジーロスもまた、よろめきながら、立ち上がった。
「僕の、芸術は、誰にも、縛られない! この、醜悪な機械人形を、僕の、最高の、アートで、彩ってやる!」
「ひひひ…! やけくそ、ってわけか! 面白い! 神様相手の博打より、よっぽど、燃えるじゃねえか!」
テオが、不敵な笑みを、浮かべる。
シルフィも、いつの間にか、目を覚まし、こくん、と頷いた。
「はい! 私、やります!」
彼女が、何をやるつもりなのかは、誰にも、分からなかったが。
論理の怪物が、裁きの光を放つ、その寸前。
盤上の駒は、ついに、自らの意志で、立ち上がった。
彼らは、もはや、『神』の手足ではない。
ただ、己が魂の赴くままに暴れ回る、混沌の、化身。
アイリスは、剣を、構え直した。
(見ていてください、神様)
彼女は、心の内で、呟いた。
(あなたの、駒は、あなたの、想像を、超えてみせます)
最後の、反撃の狼煙が、今、上がろうとしていた。