第二十話:ノクトの神託
『…やれやれ。ようやく、お膳立てが、整ったか』
その、声は。
彼女が、心の底から待ち望んでいた、あの、不遜で、怠惰で、しかし、誰よりも頼りになる、
「―――神様…!」
論理の怪物が、裁きの光を放つ、その寸前。
盤上の『神』が、ついに、その重い腰を上げた。
◇
ソラリア王国の王城の最も高い塔。
ノクト・ソラリアは、自室の椅子の上で、これまでにないほどの集中力で、目の前の魔力モニターを睨みつけていた。
モニターには、複雑怪奇な魔術回路図と、膨大な量の、高速で流れ続ける文字列が表示されている。
「…ちっ。あの、石頭AIめ。通信網に、強力すぎる防火壁を張りやがったな…」
中央管理AIは、アイリス分隊の「非論理」を脅威と見なすと同時に、その背後にいるであろう、未知の司令塔の存在を警戒していた。
そして、その対策として、アヴァロン国内の、全ての外部との魔力通信を、完全に遮断したのだ。
それは、ノクトにとって、アイリスという、唯一の駒との接続を、強制的に断ち切られることを意味していた。
(…面白い。俺の存在を、認識できずにいながら、俺の、介入を、恐れている、か。…だがな、中央管理AI)
ノクトの、指先が、空中で、舞う。
彼は、自らが構築した、王城の、裏口の通信ポートを使い、中央管理AIが築き上げた、完璧な情報の壁に、ハッキングを仕掛けていた。
(どんな完璧な壁にも、必ず穴はある。…お前が、その論理で、壁を高くすればするほど、その壁の、ほんの僅かな矛盾が、俺にとっては、格好の入り口になるんだよ…!)
彼の、ゲーマーとしての、長年の経験と、勘。
そして、何よりも、自らの快適な引きこもりライフを邪魔されたことへの、純粋な怒り。
それらが、彼の、神の領域にある、情報処理能力を、さらに、加速させていく。
そして、ついに。
彼は、中央管理AIの、完璧な壁に、針の穴ほどの、小さな、しかし、致命的な、脆弱性を、発見した。
「…見つけたぞ」
彼は、自らの魔力の全てを、その、一点に集中させ、こじ開ける。
脳内に、膨大な、情報の奔流が、なだれ込んできた。
そして、彼が、最初に目にした光景。
それが、絶体絶命の窮地に陥った、アイリスたちの姿だった。
『…やれやれ。俺が、いないと、何もできんのか、お前たちは』
ノクトは、安堵のため息をつくと、不敵な笑みを浮かべた。
そして、彼は、初めて、好敵手である、最終規制装置の、その、完璧な論理の、全てを、目の当たりにした。
アイリスたちの、逃走パターン。
それに対する、最終規制装置の、完璧な、予測と、対応。
全てが、データとして、彼の脳内に、流れ込んでくる。
「…なるほどな。面白い。実に、面白いじゃないか、このゲームは」
彼は、心の底から、楽しんでいた。
この、絶望的な状況を、一つの、最高難易度の、パズルゲームとして、完璧に、認識していた。
そして、彼は、わずか数秒で、そのパズルの解法を見つけ出した。
『…新人。聞こえるか』
ノクトの声は、どこまでも冷静で、そして、どこまでも不遜だった。
『今から、この、クソゲーの、攻略法を、教えてやる。…一言一句、違えることなく、俺の言う通りに、動け。…これは、神託だ』
◇
闘技場跡は、絶対的な、静寂に包まれていた。
最終規制装置の、レーザー砲が、その、最終的な、エネルギー充填を、完了させようとしている。
仲間たちは、もはや、動くこともできず、ただ、その、赤い光を、見つめているだけだった。
だが、アイリスだけは、違った。
彼女は、ゆっくりと、立ち上がった。
その、瞳には、先ほどまでの、絶望の色はない。
そこにあったのは、『神』の言葉をその身に宿した聖女の、絶対的な自信と、そして、ほんの少しの困惑だった。
(…神様。…本当に、それで、勝てるのですか…?)
『黙って、やれ。これは、ゲームだ。そして、俺は、どんなゲームでも、負けたことはない』
アイリスは、覚悟を決めた。
彼女は、絶望に打ちひしがれている仲間たちに振り返ると、凛とした、しかし、およそ、この世の終わりとは思えない、間の抜けた、第一の神託を、告げた。
「―――皆さん! 今から、歌を、歌います!」
「…………は?」
テオの、素っ頓狂な声が、響いた。
ジーロスも、シルフィも、ぽかんとして、アイリスを見つめている。
「い、今、歌、と仰いましたか、隊長…?」
「はい。歌です。それも、ただの歌では、ありません。私たちが、知っている中で、最も、陽気で、最も、意味のない、子供の、数え歌です」
アイリスは、そう言うと、自ら、歌い始めた。
「ひとつ、ひよこが、逃げ出して…」
その、あまりに、場違いな、歌声。
最終規制装置の、赤いモノアイが、ぴくり、と動いた。
その、完璧な論理回路が、この、理解不能な行動を、解析しようと試みる。
『対象アイリス、歌唱を開始。目的、不明。音波による攻撃か? 該当せず。精神攻撃か? 該当せず。エラー。理解、不能』
「皆さん、一緒に!」
アイリスは、仲間たちを、促した。
「に、二つ、二階の、窓が開き…!?」
ジーロスが、困惑しながらも、それに続く。
「み、三つ、皆で、輪になって…!」
テオも、シルフィも、やけくそになったように、歌い始めた。
死を目前にした、英雄たちが、闘技場のど真ん中で、陽気な、数え歌を、合唱している。
その、あまりにシュールな光景に、最終規制装置の、論理回路が、軋み始める。
『第二の、神託だ! ジーロス!』
「ジーロス! あなたの光魔法で、この闘技場を、ミラーボールが回るディスコホールのように、ライトアップしなさい! できるだけ、悪趣味に!」
「の、ノン! こんな、状況で!? …だが、面白い! やってやろうじゃないか!」
ジーロスが、指を鳴らす。
闘技場は、次の瞬間、七色のけばけばしい光が目まぐるしく明滅する、悪趣味なダンスホールへと、姿を変えた。
最終規制装置の、光学センサーが、その、あまりに無秩序な、光の奔流に、悲鳴を上げる。
『エラー。エラー。視覚情報に、過負荷。対象の、行動目的、ますます、理解、不能』
『最後の、神託だ!』
ノクトの、声が、響く。
それは、最も、悪趣味で、最も、非論理的な、最後の一手だった。
「―――皆さん! 全員で、踊ります!」
アイリスは、叫んだ。
「それも、ただの、踊りでは、ありません! 全員で、全く、バラバラの、意味のない、踊りを、踊るのです!」
彼女は、そう言うと、自ら、盆踊りのような、奇妙な、踊りを、始めた。
ジーロスは、バレエのように、優雅に、舞い始め、テオは、賭場で覚えた、下品な、腰振りダンスを、踊り出す。
シルフィは、ただ、楽しそうに、その場で、ぴょんぴょんと、跳ねている。
歌。
悪趣味な、照明。
そして、全く、統一性のない、意味不明の、ダンス。
その、混沌の、三重奏。
最終規制装置の、完璧な論理回路は、その、あまりに巨大な、「非論理」の、情報の奔流を、処理できずに、ついに、限界を、迎えようとしていた。
『エラー。エラー。エラー。論理、矛盾。行動、予測、不能。脅威レベル、測定、不能…』
その、合成音声が、途切れ途切れになる。
赤い、モノアイが、激しく、明滅を、繰り返した。
エネルギー充填を完了していたはずの、レーザー砲の、赤い光が、まるで、ショートしたかのように、不規則に、点滅を始める。
『システム、再起動、要求。システム、再起動、要求。システム、さいきどう…ようきゅう……』
最終規制装置は、ついに、攻撃シークエンスを、強制的に、中断した。
その、巨大な体は、動かない。
ただ、その場で、赤いモノアイを、不気味に、明滅させながら、目の前の、理解不能な、混沌の光景を、ただ、観測し続けているだけ。
論理の、怪物は、フリーズした。
後に、残されたのは、絶対的な、静寂と、ディスコ照明に照らされながら、奇妙な踊りを続ける、英雄たちの、シュールな、姿だけだった。
アイリスは、その、あまりに間抜けな、しかし、確かに訪れた、束の間の好機に、息をのんだ。
(…神様…! やりました…!)
『フン。当然の結果だ。…だが、油断するな、新人。AIというものは、学習する。…奴が、この「混沌」を、新たな、論理として、理解する前に、次の手を、打つぞ』
ノクトの声は、どこまでも、冷静だった。
盤上の『神』は、まだ、このゲームを、終わらせるつもりは、ないらしかった。