第二話 白と灰色の国
ソラリア王国の緑豊かな丘陵地帯を越え、隣国アヴァロンの領土へと足を踏み入れた瞬間から、アイリスの胃は、嫌な予感にキリリと痛み始めていた。
最初に彼らを迎えたのは、まるで巨大な定規で引いたかのように地平線の彼方まで続く、完璧なまでに平坦な街道だった。
ソラリアの、轍やぬかるみが当たり前だった土の道とは違う。
継ぎ目一つない、滑らかな灰色の石で舗装された道は、不気味なほど静かだった。
馬車の車輪は、ゴトゴトという音さえ立てず、ただ「サー」という乾いた音を立てて滑るように進んでいく。
「…なんだか、息が詰まるような場所でありますな…」
馬車の中で、激情のギルが、珍しく小声で、しかし心底居心地が悪そうに呟いた。
彼の言う通りだった。
アヴァロンの風景には、生命の色が、決定的に欠けていた。
道端に生える木々は、全てが同じ高さ、同じ形に、まるで工業製品のように完璧に刈り揃えられている。
空はソラリアと同じ青色のはずなのに、どこか色褪せて見える。
鳥のさえずりも、虫の音も聞こえない。
ただ、時折、白い箱型の魔導機械が、音もなく上空を滑るように通過していくだけ。
あまりの静寂と、完璧すぎる秩序。
それは、生命が本来持つはずの「ゆらぎ」や「遊び」を、完全に拒絶しているかのようだった。
「ノン! これは、国ではない! ただの、巨大な、墓石だ!」
馬車の窓から外を眺めていたジーロスが、扇子で顔を覆い、本気で気分が悪そうに呻いた。
「見てごらん、あの山を! あの、無粋な、完璧なまでの円錐形を! 自然の造形美に対する、最大の侮辱だ! おそらく、この国の為政者は、山ですら、分度器とコンパスで設計しないと気が済まない、美的センスの欠片もない朴念仁に違いない!」
彼の芸術家としての魂が、この、あまりに計算され尽くした風景に、悲鳴を上げていた。
「ひひひ…。まあ、確かに、気味が悪いっちゃ悪いが、ある意味、すごいじゃねえか」
テオだけが、この異様な光景に、どこか感心したような目を向けていた。
「道に、穴一つ空いてねえ。これなら、馬車の車輪が壊れる心配もねえし、輸送コストは、大幅に削減できる。無駄がねえ。俺は、好きだぜ、こういうの」
彼の商売人の目は、この国の、徹底した合理主義に、商機すら感じ取っているようだった。
数時間の、無音の行軍の末、一行は、ついに、アヴァロンの首都『アクシオン』の、巨大な城門の前にたどり着いた。
城門は、白。
城壁も、白。
その向こうに見える、天を衝くかのような高層建築物も、全てが、白か、濃淡の違う灰色だけで構成されていた。
まるで、巨大な、精密機械の内部に迷い込んだかのようだ。
アイリスは馬車を降り、仲間たちに最後の念押しをした。
「いいですか。アクシオンに入ります。絶対に、静かに。絶対に、目立たず。ただ、ポテチを買って、帰るだけ。…いいですね?」
一行が、入国審査のために、音もなく開かれた純白のゲートへと進むと、彼らの前に、宙に浮かぶ水晶のパネルが現れた。そこから、感情のない合成音声が響く。
『入国目的を、明確に、簡潔に、述べてください』
アイリスは、代表して一歩前に出た。
「ソラリア王国からの、親善訪問団です。目的は、貴国の文化視察と、特産品の購入です」
『了解しました。次に、各個人の身分証を、こちらのスキャナーに提示してください』
アイリスが、ソラリアの騎士の身分を証明する紋章を提示すると、パネルは緑色に点灯した。
『アイリス・アークライト。ソラリア王国騎士。特記事項なし。…合格です』
次にジーロス、テオ、シルフィも、それぞれの身分証を提示し、問題なく通過した。
問題は、最後の男だった。
ギルが、傭兵ギルドから発行された偽の身分証を提示すると、パネルは、初めて、赤い警告色を灯した。
『警告。生体情報と、登録情報に、著しい乖離を検知。筋力、骨密度、魔力量、いずれも、人類の平均値を、三百パーセント以上、超過しています。あなたは、本当に、人間ですか?』
「なっ…!?」
ギルの顔が、引き攣った。
「当たり前であります! この、鋼の肉体と、燃える魂を持つ、れっきとした、男でありますぞ!」
『質問には、「はい」か「いいえ」で、簡潔にお答えください』
「む…! ぬうううううっ…!」
単純な二択を迫られ、ギルは、答えに窮した。
彼は、元魔王軍幹部。
厳密には、人間ではない。
だが、ここで「いいえ」と答えれば、どうなる?
彼の、あまりの葛藤の表情と、唸り声に、周囲を歩いていた無表情なアヴァロン国民たちが、初めて、怪訝な顔で、一行に視線を向け始めた。
「だ、大丈夫です! 彼は、少し、人見知りなだけで…!」
アイリスが、必死にフォローしようとした、その時だった。
『…再スキャンを実行します。…エラー。エラー。…論理的に、ありえない数値を、検出。…思考回路に、過負荷…。…審査を、一時、中断します』
パネルは、そう言うと、ぷすん、と煙を吹いて、光を失ってしまった。
ギルの存在そのものが、アヴァロンの完璧な論理システムを、物理的に破壊した瞬間だった。
近くにいたロボット警備兵が、滑るように近づいてくる。
「…どうやら、機械の故障のようです。…あなた方は、通って、よろしい」
警備兵は、そう言うと、壊れたパネルを、回収していった。
アイリスは、冷や汗を拭った。
『最後に、滞在許可証を発行します。腕を、こちらの端末にかざしてください』
合成音声が復活し、一行は一人ずつ、腕輪型の機械に腕を通した。機械が微かな光を放ち、それぞれの腕に、ぴったりとした銀色の腕輪が装着される。
『個人認証、完了。これは、皆様の身分証であり、国内での電子決済端末を兼ねています。滞在中の全ての支払いは、この端末から自動的に行われます』
「電子決済だと?」
テオが、興味深そうに腕輪をいじくる。
『皆様がお持ちのソラリア王国の通貨は、現在のレートで、我が国の電子通貨「ラティオ」に自動的に両替され、皆様の端末にチャージされました。残高は、腕輪の表面をタップすることで確認できます。なお、出国時に、残額は自国の通貨に再両替され、返却されますので、ご安心を』
「ひひひ…! なるほどな。現金を持ち歩く必要がねえってわけか。こいつは、合理的だ」
テオは、腕輪に表示された自らの資産|(に換算されたラティオの額)を見て、満足げに頷いた。
こうして、一行は、なんとか、首都アクシオンへの第一歩を記したのだ。
街の内部は、外から見た以上に、異様だった。
人々が、笑っていないのだ。
道行く人々は、皆、同じような灰色の機能的な服を身にまとい、無表情で、黙々と、目的地へと歩いている。
すれ違う時に、肩がぶつかることもない。
まるで、全員が、見えないレールの上を、完璧な速度と距離感で、移動しているかのようだった。
店に、客引きの声はない。
ただ、商品の情報と価格が、ホログラムで、静かに表示されているだけ。
子供たちの、はしゃぐ声も聞こえない。
公園では、子供たちが、決められた時間、決められた遊具で、決められた順番通りに、静かに遊んでいた。
感情を、どこかに、置き忘れてきてしまったかのような、街。
「…なんだか、少し、怖いです…」
シルフィが、アイリスの服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
彼女の、純粋な感性が、この街の、異様な「無感情」を、敏感に感じ取っていた。
アイリスは、そんな仲間たちの不安と、いつ爆発するか分からない混沌の気配に、背筋が凍るのを感じていた。
「皆さん、聞こえますね? この街では、感情を、特に大きな声や派手な行動で示すことは、おそらく『非合理的』な行為として、罰せられます。ギルは黙っていること。ジーロスは魔法を使わないこと。テオは余計なことを考えないこと。シルフィは…私の服の裾から手を離さないこと。いいですね?」
彼女の悲痛なまでの命令に、仲間たちは、それぞれ、不満げに、あるいは、不安げに頷いた。
この、白と灰色の国で、彼らが平穏に過ごすことなど、最初から、不可能だったのだ。
彼女は、ただ、破綻の瞬間が、一秒でも遅れることだけを、心の底から願うのだった。