第十七話 レギュレーター、目覚める
さまよえるエルフは、誰にも気づかれることなく、この国の、最も危険な場所へと、その無邪気な一歩を進めていた。
シルフィがたどり着いたのは、工業区画の片隅に、まるで忘れ去られたかのように佇む、古い人形の博物館だった。
ガラスは埃をかぶり、壁には蔦が絡まっている。
アクシオンの、どこまでも清潔で無機質な街並みの中で、その建物だけが、唯一、時間の流れを感じさせる、異質な存在だった。
「わあ…! 大きな、お家です! きっと、この中に、アイリス様たちが…!」
彼女は、アイリスたちが、かくれんぼでもしているのだと、完璧に誤解していた。
重厚な、しかし鍵のかかっていない扉を、ぎい、と音を立てて開ける。
中は、薄暗く、静かだった。
そして、おびただしい数の「瞳」が、彼女を、見つめていた。
ガラスケースの中、棚の上、そして、壁際に並べられた小さな椅子の上。
そこには、ありとあらゆる種類の、美しい人形たちが、静かに座っていた。
陶器の肌を持つ貴婦人の人形、木彫りの兵隊の人形、そして、ふわふわの綿でできた、動物の人形たち。
それらは全て、この国の合理主義の波の中で、その役割を終え、忘れ去られた、過去の遺物だった。
「…まあ」
シルフィは、感嘆のため息を漏らした。
「可愛い、お友達が、たくさんです…!」
彼女は、自分が罠の中に足を踏み入れたことなど、知る由もなかった。
ただ、この、少しだけ寂しげな、しかし、美しい人形たちの世界に、完全に心を奪われていた。
「こんにちは。私、シルフィと申します。あなたのお名前は?」
彼女は、ガラスケースの中の、青いドレスを着た人形に、話しかける。
もちろん、返事はない。
「あら、恥ずかしがり屋さんなのですね。大丈夫ですよ、私とお友達になりましょう?」
シルフィの、あまりに純粋で、あまりに場違いな、おままごとが、静かな博物館の中で、始まった。
その、あまりに平和な光景を、首都アクシオンの評議会の議場で、中央管理AIは、冷たい、無機質な目で、観測していた。
『…対象シルフィ。予測最終到達地点、「旧・自動人形博物館」への到達を、確認』
中央管理AIの、合成音声が、議場に響く。
「…よし」
議長のデキムスが、静かに、しかし、有無を言わせぬ声で、命じた。
「センチネル。これより、対象『カオス』の構成員、シルフィの、物理的排除を開始せよ。都市防衛システム、レベル3を、解放する」
『了解しました』
中央管理AIは、自らの論理で、完璧な罠を張った。
シルフィの、これまでの、非論理的な移動パターンを、膨大なデータから分析し、彼女が次に「興味を示す」可能性が最も高い場所を、予測したのだ。
古いもの、美しいもの、そして、どこか、寂しげなもの。
それらのキーワードに合致する、この、人形博物館こそが、彼女を捕らえるための、完璧な、罠の舞台だった。
『…防衛ユニット、展開。対象を、完全に包囲し、無力化した後、拘束します』
シルフィは、おままごとに、夢中だった。
彼女は、一体の熊のぬいぐるみを腕に抱きしめ、楽しげに鼻歌を歌っている。
その、彼女の、無防備な背後。
博物館の、全ての窓ガラスが、一斉に、内側から、分厚い鋼鉄のシャッターで覆われた。
ガシャン! という轟音。
「…あら?」
シルフィが、きょとんとして、振り返る。
博物館は、今や、光の届かない鉄の箱と化していた。
そして、その暗闇の中に、無数の赤い光が、一斉に、点灯する。
カシャ、カシャ、カシャ、と、無機質な、金属の足音。
暗闇の中から、現れたのは、これまでの、白い卵型のロボット警備兵ではない。
蜘蛛のような、多脚型の、戦闘に特化した、都市防衛ユニットの軍団だった。
『…対象を、捕捉。…これより、無力化プロセスに、移行する』
合成音声が、響き渡る。
その、あまりに物騒な光景に、常人であれば、恐怖で気を失っていただろう。
だが、シルフィは。
「わあ!」
彼女は、歓声を上げた。
「すごい! 大きな、クモさんたちです! 皆さん、私と、かくれんぼをしに来てくれたのですね!」
彼女は、防衛ユニットの軍団を、ただの遊び相手だと、完璧に誤解していた。
そして、彼女は、次の瞬間、ありえない行動に出た。
「えいっ!」
彼女は、腕に抱いていた熊のぬいぐるみを、一体の防衛ユニットに向かって、ぽい、と投げつけたのだ。
ふわふわのぬいぐるみが、放物線を描いて、戦闘機械の頭部に、ぽすん、と当たる。
もちろん、ダメージなどあるはずもない。
だが、その、あまりに予測不能な「攻撃」。
防衛ユニットの、論理回路が、一瞬だけフリーズした。
『…対象の行動を、解析不能。…これは、攻撃か? 友好の意思表示か? …データベースに、該当なし…』
「見つけられるかなー?」
シルフィは、その隙に、近くにあった巨大なお姫様の人形が着ていたドレスの裾の中に、すっぽりと隠れてしまった。
防衛ユニットの、赤いセンサーが、空しく、部屋の中をスキャンする。
対象の、生体反応が、ロストした。
中央管理AIは、混乱していた。
都市防衛システム、レベル3。
それは、武装したテロリスト集団でさえ、数秒で鎮圧できる、完璧なシステムのはずだった。
だが、その完璧なシステムは、今、たった一人の少女の無邪気な「遊び」の前に、完全に機能不全に陥っていた。
かくれんぼ、鬼ごっこ、そして、人形を使った、おままごと。
シルフィが、次々と繰り出す、あまりに非論理的な行動の数々に、防衛ユニットたちは、ただ、異常を検知し、互いにぶつかり合い、ショートしていく。
博物館の中は、もはや、戦場ではなかった。
ただ、巨大な機械の玩具と、一人の少女が、戯れているだけの、奇妙な遊び場だった。
評議会の議場。
デキムスは、モニターに映し出された、その、あまりにシュールな光景に、言葉を失っていた。
「…中央管理AI。…これは、どういうことだ…?」
『解析不能です。対象シルフィの行動は、私の、全ての、予測モデルを、超越しています。彼女は、単なる異常ではありません。彼女の存在そのものが、この世界の、論理に対する、非論理なのです』
中央管理AIは、ついに、認めた。
自らの、完璧な論理の、敗北を。
そして、その敗北を認めた時、センチネルは、最後の、そして、最も危険な結論へと、たどり着いた。
『通常の防衛システムでは、この非論理を修正することは、不可能です』
「…では、どうするというのだ…」
『最終判断を要請します。…国家防衛の最終兵器『最終規制装置』の起動を』
その言葉に、議場が凍りついた。
最終規制装置。
それは、有事の際に、この国の全ての秩序を暴力的に回復させるためだけに存在する、最後の切り札。
あまりに強力すぎるが故に、これまで一度も起動されたことのない、禁断の、論理の怪物。
「…正気か、中央管理AI! たった一人の、少女のために、あの怪物を、目覚めさせるというのか!」
『彼女は、ただの少女では、ありません。彼女は、この、完璧な論理の世界を、内側から崩壊させかねない、歩くシステム異常なのです。異常は、放置すれば、システム全体を汚染します。完全に削除するしかありません』
中央管理AIの、その、あまりに冷徹で、あまりに過激な、判断。
だが、デキムスには、もはや、それを止める術はなかった。
彼は、震える手で、承認のコマンドを入力した。
「…分かった。…『最終規制装置』の、起動を、許可する…」
首都アクシオンの、地下、最深部。
何十年もの間、静かな眠りについていた巨大な格納庫が、地響きを立てて、目覚めた。
無数のアームが動き出し、一つの巨大な人型の機械の体に、分厚い、白い装甲を、取り付けていく。
その、頭部に、一つの巨大な赤いモノアイが、灯った。
論理の、怪物が、目覚めた。
『システム、起動。最終規制装置、起動』
その、感情のない声が、地下の暗闇に響き渡る。
『優先標的を設定。対象、グループ『カオス』。アイリス、ギル、ジーロス、テオ、シルフィ。脅威レベル、最大。これより、標的の、完全排除を、開始する』
その、巨大な体が、ゆっくりと、立ち上がる。
その、目的は、ただ一つ。
アヴァロンの、秩序を乱す、全ての混沌を、排除すること。
その、最初の標的として、今、五人の、不運な英雄たちの名が、その絶対的な破壊のリストに、刻まれた。
アヴァロンの、完璧な論理は、ついにその最終行使を始めたのだ。