第十六話 歩くシステムエラー
アイリス分隊が、結成以来、最大の危機に直面していた頃。
その、元凶の一つである、エルフの弓使いシルフィは、全く、自分が危機的な状況にあるという自覚がなかった。
「あれー? 皆さん、どこへ、行ったのでしょうか?」
薄暗い地下ダクトの中、彼女は、一人、首を傾げていた。
先ほどまで、確かに、アイリスとテオと共に、この、少し臭う、秘密の通路を探検していたはずだった。
だが、壁に生えていた、キラキラ光る綺麗な苔に見とれているうちに、いつの間にか、一人ぼっちになっていた。
「…きっと、私を、試しているのですね!」
彼女の、超絶ポジティブな思考回路が、またしても、完璧な誤解を導き出した。
(そうです! これは、アイリス様からの、特別な訓練! 私一人で、虹色のお花畑を見つけ出しなさい、という、最終試験に違いありません!)
彼女は、元気よく、顔を上げた。
そして、自らの、エルフとしての野生の勘(という名の、ただの思いつき)を、最大限に発揮した。
「こっちの通路から、なんだか、楽しそうな匂いがします!」
彼女が、選んだ道。
それは、もちろん、アイリスたちが向かった正規の脱出ルートとは、全く逆の、都市のさらに奥深くへと続く、メンテナンス用の古いダクトだった。
その頃、首都アクシオンの中央。
評議会の議場では、中央管理AIが、議長であるデキムスに、現状を報告していた。
『…対象テオ、及び、対象アイリスの、ロストを確認。地下の、廃棄物処理ダクトを経由し、包囲網外へ脱出したものと、推定されます』
「なんだと!? あの、完璧な包囲網を、破られたというのか!」
『はい。彼らは、我々の論理の死角を突きました。最も、非効率で、非論理的なルートを選択したのです』
デキムスの、顔が、苦渋に歪む。
「…他の、メンバーは? 芸術テロリストのジーロスは?」
『現在も、行方不明。ですが、都市の全ての監視カメラの映像データを照合し、彼の逃亡ルートを予測中。間もなく、捕捉できるかと』
「では、残るは、あと一人…。国家中枢に侵入した、あのエルフは、どうした?」
『…それが…』
中央管理AIの、合成音声が、初めて、ほんのわずかに、揺らいだように、聞こえた。
『…対象シルフィ。…現在、完全に、ロストしています』
「ロスト、だと…? どういうことだ!」
『彼女の、生体反応が、都市の、いかなる監視網からも、完全に消失しているのです。…まるで、最初から存在しなかったかのように…』
ありえない。
アクシオンは、完璧な、監視都市。
この街にいる限り、その存在を完全に消すことなど、不可能なはずだった。
中央管理AIは、この、観測史上、最大の例外を、「異常」として、認識した。
そして、その「異常」を排除するため、都市の、全てのセンサーの感度を、最大レベルに引き上げた。
完璧な、捜索網。
そこから逃れられる者は、誰もいない、はずだった。
だが、シルフィは、その、完璧な網の目を、あまりにも、あっけなく、すり抜けていった。
彼女は、大通りを、歩かない。
ただ、面白そうな、細い、裏路地を選んで、進んでいく。
彼女が、地上へと這い出したのは、古い、今は使われていない、工業区画。
そこは、中央管理AIの監視網においても、優先順位の低い、空白地帯だった。
「わあ! 煙突が、たくさんです! きっと、この煙突の上からなら、虹色のお花畑が、見えるに違いありません!」
彼女は、錆びついた、非常階段を、楽しげに、登り始めた。
上空を、監視ドローンが、高速で通過していく。
中央管理AIの命令を受け、テオとアイリスの、捜索範囲を、広げているのだ。
「あ、大きな、トンボさんです!」
シルフィは、ドローンの存在に気づくと、まるで、かくれんぼでもするかのように、とっさに煙突の陰に身を隠した。
中央管理AIの、光学センサーは、彼女の、その、あまりに子供じみた、しかし、完璧なタイミングの隠蔽行動を、捉えることができなかった。
彼女の、予測不能な、街の散策は、続く。
彼女は、今度は、花の匂いに誘われて、植物工場の、巨大な温室へと、迷い込んだ。
そこは、ロボットアームが、完璧なスケジュールで、野菜や果物を栽培している、自動化された農園だった。
「お花では、ありませんでした…。ですが、美味しそうな、トマトです!」
彼女は、真っ赤に実ったトマトを、一つ、もぎ取って、かじった。
その瞬間。
温室の、全てのセンサーが、異常を検知した。
『警告。区画C-7にて、管理対象資源の、予期せぬ消失を、検知。…商品コードTMT-893、個体番号アルファ10243、その質量が、データベースから、ロストしました』
中央管理AIは、その異常を、「害虫による食害」であると、判断した。
完璧に管理された農園において、計画外の質量の減少は、害虫の侵入以外にありえなかったからだ。
『…区画C-7に、殺菌用の、高濃度ガスを、散布します』
赤い、警告ランプが、点滅し始める。
シルフィは、その、物騒な警告音の意味など、知る由もなかった。
彼女は、トマトを食べ終えると、次の、面白そうな場所を探して、温室の、反対側の出口から、てくてくと、出て行ってしまった。
彼女が、去った、数秒後。
区画C-7は、致死性の、白いガスで、完全に、満たされた。
シルフィの、ただの「食欲」が、中央管理AIの、完璧な、駆除システムを、完全に、空振りさせたのだ。
中央管理AIは、混乱していた。
観測できない。
予測できない。
捕捉できない。
対象シルフィの行動は、中央管理AIの、全ての論理と、計算の、外側にあった。
彼女は、中央管理AIにとって、観測不能な、幽霊。
歩く、システムエラーだった。
中央管理AIは、ついに、一つの、結論に至った。
『…対象シルフィの行動パターンは、既存の、いかなる論理モデルとも、一致しない。…これは、単なる、例外ではない。…我が、システムの、根幹を、揺るがしかねない、致命的な「異常」そのものである』
異常は、放置してはならない。
速やかに、排除しなければならない。
『…結論。対象シルフィを、脅威レベル6に、再設定。…これより、対象の、物理的な排除に移行する』
中央管理AIの、合成音声が、冷たく、響く。
『都市防衛システム、レベル3を、作動。…対象の、予測最終到達地点に、防衛ユニットを展開する』
その頃、シルフィは、ようやく、工業区画を、抜け出していた。
そして、彼女の目に、一つの、巨大な、そして、どこか、物悲しい雰囲気の、建物が、飛び込んできた。
それは、今では使われなくなった、古い人形の、博物館だった。
「わあ…! 大きな、お家です! きっと、この中に、アイリス様たちが…!」
彼女は、その、寂れた博物館へと、吸い寄せられるように、歩み寄った。
彼女は、まだ、知らない。
その場所こそが、中央管理AIが、自らの論理で予測した、「異常」を排除するための、罠の舞台であることを。
そして、その、中央管理AIの、完璧な論理的予測を、今回もまた、彼女の、非論理的な気まぐれによって、完璧に裏切ることになるのを。
さまよえるエルフは、誰にも、気づかれることなく、この国の、最も危険な場所へと、その無邪気な一歩を、進めていた。