第十五話 包囲網からの脱出
首都アクシオン、『外国人滞在区画』。
アイリスたちが軟禁されていた純白の建物は、今や、怒れる市民と、無数のロボット警備兵によって、完全に包囲されていた。
窓の外からは、「経済テロリストを引き渡せ!」という、これまでこの国では聞いたこともない、感情の剥き出しになった怒号が響き渡っている。
「ひ、ひいいい…! お、終わりだ…! 俺は、ここで捕まって、一生タダ働きさせられるんだ…!」
全ての元凶であるテオは、床に蹲り、自らの顔写真が映し出されたモニターを見上げ、完全に戦意を喪失していた。
アイリスもまた、顔を青ざめさせ、この絶望的な状況をどう打開すべきか、必死に思考を巡らせていた。
だが、彼女の脳内に響く『神』の声は、どこまでも冷静で、そして、どこまでも楽しげだった。
『―――クエスト、『国家からの逃亡』。…面白い。実に面白いじゃないか』
(こ、この状況の、どこが面白いのですか!? 私たちは、完全に包囲されています!)
『だから、面白いんだろうが、新人が』
ノクトの声は、まるで最高難易度のステルスゲームを前にした、熟練のゲーマーのそれだった。
『いいか、よく聞け。中央管理AIの、あの完璧な包囲網には、たった一つだけ穴がある。…奴の、完璧すぎる「論理」そのものだ』
ノクトは、塔の自室で、水盤に映し出されたアクシオンの三次元マップを睨みつけていた。
彼の目には、ロボット警備兵たちの、完璧な配置と、巡回ルートが、全て見えている。
『奴らは、最も効率的なルートを、完璧な連携で、封鎖している。ならば、こちらも、最も「非効率」で、「非論理的」なルートで、その包囲網を突破するまでだ』
彼の、ゲーマーとしての、悪魔的な発想が、閃いた。
『新人。今から、俺の言う通りに動け。…この、最高にスリリングな脱出ゲームを、楽しもうじゃないか』
ノクトの、常軌を逸した脱出作戦は、始まった。
『まず、テオの腕輪をハッキングする。奴の、個人認証IDを偽装し、中央管理AIに、「テロリストは、すでに建物の外へ逃亡した」という、偽の情報を掴ませる』
(そ、そんなこと、できるのですか!?)
『中央管理AIのシステムは、今、市場崩壊の対応で、リソースの大半を食われている。セキュリティに、僅かな穴が生まれているはずだ。…よし、成功した』
ノクトが、そう告げた瞬間、建物を包囲していたロボット警備兵たちが、偽の情報に釣られて、一斉に別の方向へと移動を開始した。
『包囲網に、穴ができた。…だが、時間はない。これより、全員で、地下の廃棄物処理ダクトを通って、脱出する!』
「は、廃棄物処理ダクト!?」
アイリスは、悲鳴を上げた。
聖女にあるまじき、あまりに汚く、あまりに屈辱的な、脱出ルート。
「文句を言うな! 行くぞ!」
アイリスは、もはや抜け殻のようになっているテオの首根っこを掴み、シルフィの手を引くと、ノクトが示した、建物のサービス用の裏口へと、駆け出した。
そこは、清掃ドローンが出入りするための、小さなハッチだった。
「ひ、ひいい! こんな、汚ねえ場所に、入るってのかよ!」
「文句を言わない! 生きて牢屋に入るのと、どちらがいいのですか!」
アイリスは、テオをダクトの中に蹴り込むと、自らもシルフィを伴って、その薄暗く、異臭のする闇の中へと、身を滑り込ませた。
地下ダクトの中は、地獄だった。
狭く、暗く、そして、鼻を突く生活廃棄物の不快な匂い。
足元は、ぬるりとした感触がし、時折、正体不明の小さな生き物が、足元を駆け抜けていく。
「う…うう…。最悪だ…。俺様の、この、一張羅が…!」
テオの、悲痛な叫び。
「静かに! 声が響きます!」
アイリスは、先頭に立ち、ノクトのナビゲートだけを頼りに、この、迷宮のようなダクトを進んでいった。
『次の分岐を、右だ。左は、大型シュレッダーに繋がっている』
(そのような、物騒な情報を、なぜ、あなたは知っているのですか…!)
『この街の、設計図は、全て、俺の頭の中にある』
その、あまりに頼もしい、しかし、どこか不気味な声に、アイリスはもはやツッコミを入れる気力もなかった。
だが、『神』の完璧な計画にも、一つだけ、計算外の要素があった。
シルフィの、その、常識を超えた「天然」である。
薄暗い、地下通路。
鼻をつく、異臭。
アイリスが、先頭に立ち、仲間たちを導いていた、まさにその時だった。
「あ!」
シルフィが、突然、素っ頓狂な声を上げて、立ち止まった。
「アイリス様! 見てください! キラキラした、苔が、生えています!」
彼女が指さしたのは、ダクトの壁の、継ぎ目。
そこから、僅かに漏れ出す、魔力を含んだ廃液に照らされて、ぼんやりと、青白く光る、ただの苔だった。
「シルフィ! 今は、それどころでは…!」
アイリスが、制止しようとする。
だが、シルフィは、その、汚泥の中に咲く、ささやかな光に、完全に心を奪われていた。
彼女は、アイリスの手を振りほどくと、その、キラキラした光へと、ふらふらと吸い寄せられていく。
そして、その光る苔が、別の、分岐した細いダクトのさらに奥深くへと続いているのを、見つけてしまった。
「わあ! この先に、きっとお花畑が!」
彼女は、そう呟くと、何の躊躇もなく、その、大人が到底通れないような狭い分岐路へと、体を滑り込ませてしまった。
「待ちなさい、シルフィ!」
アイリスの、悲痛な叫び。
だが、シルフィの姿は、あっという間に、暗闇の中へと消えていった。
テオが、顔を青ざめさせる。
「おい、隊長! まずいぜ! このままじゃ、あいつ一人だけはぐれちまう!」
『…チッ。あの、歩くバグめ…!』
ノクトの、舌打ちが、響く。
『追うな! 中央管理AIの警備ドローンが、この区画に接近中だ! 捕捉されるぞ!』
(ですが、シルフィを、一人に…!)
『仕方ない! 新人、テオ! お前たちは先に行け! シルフィのことは後で考える! 急げ!』
アイリスは、一瞬だけ、ためらった。
だが、背後からは、ロボット警備兵の、機械的な足音が、迫ってきている。
彼女は、歯を食いしばり、テオと共に、光の見える出口へと駆け出した。
一人ぼっちになった、シルフィを、暗闇の中に残して。
◇
数分後。
アイリスとテオは、マンホールの中から、地上へと、這い出していた。
そこは、彼らが、全く見たこともない場所だった。
アクシオンの、古い、今は使われていない、工業区画。
灰色の煙突が林立し、人影は、一つもない。
「…はぁ…はぁ…。な、なんとか、逃げ切った、みてえだな…」
テオが、地面に、へたり込む。
だが、アイリスの表情は、晴れなかった。
「…シルフィが…」
彼女は、仲間を、一人、見捨ててしまった。
その罪悪感が、ずしり、と彼女の肩にのしかかる。
その、彼女の絶望を、打ち消すかのように、脳内に、ノクトの冷静な声が、響いた。
『…心配するな。…あのエルフは、おそらく、このパーティーの中で、今、最も安全な場所にいる』
(え…?)
『センチネルの、完璧な捜索網も、あの、非論理的な天然の前では無力だ。…奴は、今頃、誰にも気づかれることなく、この街のどこかを、楽しげに散歩していることだろう』
その予言は、あまりにも的確に、的中することになる。
だが、今のアイリスには、それを信じることはできなかった。
包囲網からの脱出には、成功した。
だが、その代償として、分隊は、分断されてしまった。
アイリスとテオは、指名手配犯として、この論理の国で、逃亡生活を始めなければならない。
ギルは、捕らわれの身。
ジーロスは、行方不明。
そして、シルフィは、一人、この、巨大な迷宮をさまよっている。
アイリス分隊は、今、結成以来、最大の危機に、直面していた。