第十四話 市場崩壊
「ひひひ…。百万ラティオ、もはや端金だぜ」
不徳の神官テオの、満足げな呟き。
それは、彼の詐欺師人生において、最も輝かしい勝利の宣言だった。
アイリスは、彼の腕輪に表示された天文学的な数字の羅列を、信じられないものを見る目でただ見つめていた。
この男は、たった数時間で、たった二百ラティオの元手から、英雄の保釈金をいともたやすく稼ぎ出してしまったのだ。
その、あまりに非現実的な光景に、彼女は、もはやツッコミを入れる気力さえ失っていた。
「アイリス様、すごいですね! テオさん、魔法みたいです!」
シルフィだけが、何が起こったのか全く理解しないまま、純粋な賛辞を送っている。
「さあ、隊長! これで、あの筋肉馬鹿を牢屋から出してやれるぜ! ついでに、残った金でジーロスの逃亡資金も…」
テオが、勝ち誇ったようにアイリスの肩を叩いた、まさにその時だった。
彼らの背後、宿舎の壁に備え付けられたニュースモニターに、深紅の緊急速報が流れた。
『緊急警報。緊急警報。アヴァロン中央市場、一部銘柄において、観測史上、前例のない取引量を検知。システムが、不安定な状態にあります』
その、感情のない合成音声が、静かな部屋に響き渡った。
「…おいおい。なんだか、とんでもねえことになってるみてえじゃねえか…」
テオは、そのただならぬ雰囲気に、眉をひそめた。
彼が、自らの悪運で火をつけた、ほんの小さな「投機」の炎が、この完璧な論理の国で、未曾有の大災害の引き金となったことを、彼はまだ知らない。
◇
首都アクシオンの中央。
評議会の議場は、戦場と化していた。
ホログラムモニターには、赤い警告メッセージが、嵐のように表示され続けている。
『金融システム、異常な取引量を検知』
『特定の銘柄群に、パニック的な売り注文が集中』
『システム、安定化介入を開始』
十二人の評議員たちは、その悪夢のような光景を前に、初めてその冷静さを失っていた。
「中央管理AI! どうなっている! 説明しろ!」
議長のデキムスが、叫ぶ。
中央管理AIの、合成音声が、わずかなノイズ混じりで、応答した。
『…原因、不明。…株式市場に、これまで観測されたことのない、極めて大規模かつ、非論理的な、投機的取引パターンが出現。…市場の、安定性が、著しく、損なわれています』
「投機だと!? 我が国の市場は、非論理的な投機を、完全に排除したはずではなかったのか!」
『…はい。ですが、その前提が覆されました。…実行者は、トレーダーID、七七四番B。識別名、テオ。要監視対象グループ「カオス」の、構成員です』
その名前に、評議員たちが、息をのんだ。
また、あの、混沌の集団か。
中央管理AIの、完璧な論理回路は、今、自らが経験したことのない、未知の事態に、直面していた。
アヴァロンの株式市場は、人工知能である中央管理AIによって、完璧に管理されていた。
その基本理念は、「長期安定投資」。
企業の、堅実な成長と、国家全体の、緩やかで確実な発展。
中央管理AIは、その理念に反する、短期的な利益を狙った、ギャンブルのような「投機」を、非論理的な行為として、システムから完全に排除していた。
だが、そこへ、テオという異物が現れた。
彼の、「勘」と「ハッタリ」と「ラッキーカラー」だけで動く、あまりに非論理的な取引。
中央管理AIは、当初、それを、未知の、高度なアルゴリズムによる攻撃だと誤解した。
だが、彼の、その後の、あまりに気まぐれで一貫性のない行動パターンを分析した結果、中央管理AIは、信じられない結論に至った。
『…結論。対象テオの行動に、論理的な一貫性は、認められず。…彼の行動は、ただの、偶然と、気まぐれによる、無秩序な投機行為であると、断定されます』
「なんだと!?」
議場が、どよめいた。
この、完璧な論理の国が、ただのギャンブラー一人にかき乱されている、と?
その、屈辱的な事実に、評議員たちが激昂しかけた、その時だった。
中央管理AIの、警告レベルが、一段階引き上げられた。
『…緊急事態。…対象テオが、保有する全ての株式を、一斉に売却しました。…これは、市場に対する、明確な攻撃です』
テオは、ただ、目標金額を達成したから、全ての株を売って、利益を確定させただけだった。
だが、長期安定投資しか知らない中央管理AIにとって、その行動は、ありえないものだった。
健全な企業が、何の論理的な理由もなく、その株式を、一人の投資家によって一斉に大量に売却される。
中央管理AIは、それを、「その企業が間もなく倒産するという、致命的な内部情報を得た投資家による、売り逃げ行為」であると、誤って判断してしまったのだ。
このままでは、他の投資家たちがパニックに陥り、売りが売りを呼ぶ、連鎖的な暴落が始まってしまう。
中央管理AIは、市場の安定を守るため、自らの権限で、緊急介入を開始した。
『…市場の、安定化のため、システムが介入します。…対象銘柄、及び、関連企業の株式を、一時的に買い支えます』
中央管理AIの、その、あまりに「論理的」な、しかし、パニック的な、過剰反応こそが、本当の地獄の引き金となった。
人工知能による、不自然な、大規模な、買い支え。
その、異常な動きを、市場に参加していた、他の、人工知能《AI》トレーダーや、人間の投資家たちが、即座に検知した。
「なんだ、この動きは…?」
「中央管理AIが、介入したぞ!」
「何か、我々が知らない、致命的な問題が、発生しているに違いない!」
彼らは、中央管理AIの介入を、市場の安定化ではなく、「市場崩壊の前兆」であると、誤解したのだ。
そして、彼らもまた、自らの資産を守るため、一斉に、売り注文を、入れた。
売りが、売りを呼ぶ。
中央管理AIは、その売りを抑えるため、さらに介入を拡大する。
その、中央管理AIの、不自然な動きが、さらに人々の不安を煽る。
負の連鎖。
フィードバックループ。
完璧なはずだった、アヴァロンの株式市場は、今、自らの、完璧な論理によって、自己崩壊を始めたのだ。
宿舎の部屋で、その光景を、ホログラムモニターで見ていたテオは、何が起こっているのか、全く、理解できずにいた。
「…な、なんなんだ、こりゃあ…。市場が、メチャクチャじゃねえか…」
アイリスもまた、その、あまりの惨状に、言葉を失っていた。
「…まさか、テオ。あなたのせいでは…」
「俺のせいなわけ、あるか! 俺は、ただ、ちょっと、株で儲けただけだ!」
テオが、全力で、否定した、その時だった。
部屋の、全てのホログラムモニターが、一斉に切り替わった。
そこに、大写しになったのは、テオの、胡散臭い笑顔の顔写真だった。
そして、その下に、深紅の文字で、こう表示される。
【最重要指名手配犯】
【識別名:テオ】
【罪状:国家経済システムに対する、悪質な、経済テロ】
『市民の皆様に、お知らせします。ただいま、首都アクシオンは、経済テロリストの攻撃により、非常事態にあります…』
その放送は、もちろん、アイリスたちが軟禁されている宿舎の室内にも、大音量で流れていた。
「ひ、ひいいいいいっ!」
テオは、生まれて初めて、金の力ではどうにもならない、国家権力という純粋な恐怖に、顔を真っ青にした。
「た、隊長! 助けてくれ!」
「助けてくれ、と言われましても!」
アイリスもまた、パニックに陥っていた。
その、絶体絶命の、窮地。
宿舎の外から、けたたましい警報音と、おびただしい数の足音が近づいてくるのが聞こえる。
窓から外を覗くと、建物の周囲が、無数のロボット警備兵と、敵意に満ちた市民たちによって、完全に包囲されていた。
アイリスの脳内に、久しぶりに、あの不遜な声が響いた。
『…やれやれ。あの詐欺師。ついにやらかしたか』
ノクトの声は、どこか、呆れたようだった。
『…まあ、いい。予想の範囲内だ。…新人、聞こえるか。これより、クエスト『英雄、奪還』から、新たなクエストへと、移行する』
(し、神様!? この状況で、何を…!)
『―――クエスト『国家からの、逃亡』。…面白い。実に、面白いじゃないか』
ノクトは、この最悪の事態ですら、一つのゲームとして楽しんでいた。
彼は、塔の自室で、水盤に映る大混乱の光景を眺めながら、ポテチを口に運ぶ。
(…中央管理AI。お前の、完璧な論理が生んだ、パニック。…その穴を突かせてもらうぞ)
彼の、ゲーマーとしての魂が、この、最高にスリリングな、ステルスゲームの、開幕を告げていた。
アイリスの胃痛は、もはや、一周回って、何も感じなくなっていた。