その傍らに神は座す
【影向の松】
能舞台の背景、鏡板に描かれる松の木のこと。
影向とは神仏が現世に降臨することを意味する。松の木は神の依代、化身とされ、能楽師は松の姿を神に見立てて舞うという。
※
柏原恭平は自宅で能楽の稽古を終えてまもなく書斎へと足を運んだ。
中に人がいる気配はするのに、ノックをしても返事がない。
しかたなく、恭平はそのまま扉を開く。
本棚より先に、中庭を一望する大きなガラス窓が目に入った。書斎の主人である祖父は、窓辺においた椅子に片膝を立てて座りながら、夕映えに赤く染まる庭木に目をやっている。部屋の照明は落としたままだ。
柏原の家は去年建て替えたばかりで真新しく、造りも現代的だ。吹き抜けになった中庭には、どこから持ってきたのか、立派な松の木が一本すっくと生えていた。庭というより巨大な盆栽のようである。
書斎から最も見栄えするように植えられている松の堂々とした佇まいに、恭平も風情を感じはする。だが、舞台の上でも嫌というほど松を見るのに、なぜ家にもわざわざ植えるのだろうか、というのが本音だ。
庭木に松を植えたいと言い出したのは無論、祖父であり大師匠――柏原秋光である。
能楽を家業とする柏原家で名実ともに一番の能楽師だ。
舞台の上で面をかければ、神だろうが鬼だろうが女だろうが、何にでも変身する祖父は、暇さえあればこうして、ぼうっと庭木を眺めていた。
祖父の傍らにある机には湯呑みと急須がポツンと置かれているが、中身が減っている様子はなく、また、勝手に書斎に入った恭平に気づいてもいないようだ。
しかたなく、恭平は祖父に声をかける。ハキハキと、腹式呼吸で。
「秋光先生!」
「お。恭平か。どうした?」
振り返った祖父は恭平を見るとニッと笑った。八十を越えているが、歯は揃っている。
歳よりも若く見えるとはいえ、舞台を下りたなら稀代の能楽師・柏原秋光もその辺にいる老人である。カーディガンとチノパン姿では舞台上で発する神々しい〝気〟は保てず、霧散する。
恭平が失礼なことを考えていることなどつゆ知らず、祖父は「ほれ、座れ」と手招きした。恭平は素直に促されるまま、祖父の向かいにある椅子に腰掛ける。
「珍しいね、おまえがわざわざ書斎に来るのは」
「……このあいだの、正月の舞台で気になることがありまして」
正月は能楽師にとって休みではない。
能楽堂では新年を祝って『翁』『高砂』などのおめでたい演目が上演される。三が日はもちろん、柏原家の人間は総出で舞台に駆り出された。二週間前に行われた『翁』の演目で、恭平は声楽を担う謡のひとりとして、祖父は当然舞手として舞台に立った。
そのときのことだ。
「場がいつもと違ったというか、変だったと思うんです」
祖父は肘置きに頬杖をついてうなずく。
「そりゃあ、『翁』の演目は特別だからなァ。あれは格調高い最古の演目だろう。演じるにしても精進潔斎して臨むものだし、こっちもピリピリするわな」
恭平は首を横に振った。
「いえ、先生をはじめ演者側はいつもどおりでした。でも……」
言い淀んだのは、やはり恭平自身が自分で見たものを信じられていないからだろう。
――能楽鑑賞をする客には着物姿の人も多い。だけど。
「客席に、……」
「ああ」
恭平がまごついているのを見て何を思ったのか、祖父は合点した様子で言う。
「おまえさん、客席に能装束の男を見たんだね」
パッと恭平は顔を上げた。
祖父は至って真面目な顔で恭平を見ていた。決して冗談を言っている雰囲気ではない。そして、祖父の指摘は、的中していた。
二週間前の『翁』の舞台――。
恭平は舞台が始まってすぐに違和感を覚えた。その正体はたぶん、視線の一つだとは思う。演じていれば人から見られるのは当然のことだが、いつもと違う感覚だった。客と演者が作る緊張感とは別の、こちらを見下ろす巨大な仏像と目を合わせたときのような、落ち着かない〝感じ〟がした。
なぜだか「普通の客の視線とは違う」と、思ったのだ。
その〝感じ〟が客席から発せられていることはわかったから、恭平は折を見てちらりと目を向けた。
すると、猛烈な視線を感じたあたりに、狩衣――平安時代の装束をまとった客が居たのである。
照明の関係か、暗くて顔までは確認できなかったし、なにより演目の最中だったから恭平は役を全うしなければならず、その客を注視できたわけではない。だから、気のせいか、見間違いだと最初は思った。
しかし、結局演目が終わるまで、恭平はずっとその客から発せられる妙な緊張感と、存在感から逃れることができなかったのだ。
――そこに居る。狩衣の客がこちらを見ている。……なんだ、これ? いつ落ちるかわからない崖っぷちで、無理やり演技させられてるみたいな……。
震えを抑え、声を張り、なんとか無事に演目を終えると波が引くように、身が竦むほどの緊張感はなくなった。
ふっと息をつくと、疑問が恭平の脳裏に浮かぶ。
――着物を着た男性客は珍しい。もしも狩衣のような目立つ格好をしていれば上演前に気づくはずだ。でも、俺は気づかなかった。上演中にはじめてその客を認識した。……しかも、あれは、能装束ではなかったか。
そして、上演後に舞台袖から客席を確認しても、もちろん能装束を着た客など一人もいないのだ。
異様だと思った。
着替えるために楽屋へと戻る途中、冬場だというのに滴るほどの汗をかいていることを、他の役者から指摘されてはじめて気がついたのも、妙だった。
恭平はこの二週間「あれは見間違いだったのだろう」と自分に言い聞かせてきた。
しかし、あまりにも能装束の客のことが頭から離れなかったものだから、人を食ったような物言いを好む祖父に笑い飛ばしてもらえれば気が晴れるだろうと、こうして打ち明けることにしたのである。
……結局、当ては外れた。
他ならぬ祖父に「能装束の男を見たのだろう」と言い当てられたならば、恭平が見たものは、おそらく見間違いでは、ない。
恭平が恐る恐る祖父の顔色を窺うと、祖父は真顔で言う。
「あれはな、別の神だよ。俺がこの身に降ろしていた柏原の〝翁〟とは、別の神だ」
「へ?」
恭平は思わず間抜けな声を上げ、慌てて居住まいを正した。
傾聴の態度を見せた恭平へ、祖父は応えるように語り始める。
「おまえも知ってのとおり、能の起こりは神事だ。人の身に神を降ろす儀式が現代に伝わって今の形になっている。特に、『翁』にその質が色濃く残っているのは有名な話だよな」
恭平はうなずいた。
『翁』は他の演目と一線を画し、物語を持たない。
翁面をかけて神に扮した演者が天下泰平を祈って舞う、特別な舞である。
「能楽師の身体と翁の演劇は神への捧げ物。だから演じている最中に『自我はいらん』とされている。本番と同じ舞台で通しの稽古をほとんどやらんのも理由は同じだ。稽古のつもりで不完全なものを神に捧げちゃ、まずいから」
祖父は薄く笑いながら松の木を見やる。
「能楽師が神に身体を貸している最中――つまり演じている最中に一人の客の存在を猛烈に感じることがあるなら、それはこの身体に降ろしている神が意識せざるを得ないものが客席に居るってこった。普通の人間なら神の眼中に入らない」
「……なんでそれが別の神ってことになるんです?」
「ウチの流派には言い伝えがある。……いや、長尾のおっさんから似たような話を聞いたことがあるから、アレは、ウチに限った話でもねえのか」
柏原とは別の流派を舞う、祖父の同業の友人のことに触れたのち、祖父は気を取り直した様子で続けた。
「曰く、その時代の一等腕の立つ能楽師は客席に、簡素な能装束を着た、すんなりした顔の男を見ることがある」
「私は顔まで見ていませんが――」
言いかけて恭平は気がついた。
〝その時代の一等腕の立つ能楽師〟――それは眼前の柏原秋光に、充分に当てはまる条件である。
瞠目した恭平に、祖父は首肯する。
「うん。俺もあの日、おまえと同じ客を見ている。俺は顔もちゃんと見ているし覚えているよ。能装束を着た、涼しげな美男だった」
「……面は、かけていなかったんですね」
「おう。直面だった」
素顔だったと祖父は言う。
「俺の見た限り、ありゃあ亀甲紋の狩衣――老人の扮装だ。あちらも〝翁〟なんだろう。年頃は三十か、二十代後半……下手すりゃおまえと変わらないくらい若かったけれど、あの堂の入った佇まいは、古木のようだった。うん。まさしく〝翁〟だった」
静かに目をつむり、祖父は手探りで過去を思い出すように言葉を選んだ。
「あの日、俺がいつもどおりに舞台に立つと、フッと音も景色も消え去った暗闇で、能楽師とその客の二人きりになったような気がした。俺も面をかけているから視界なんてあってないようなものなのに、その客だけ、ぼうっと姿が浮かび上がるんだよ」
祖父は机に目を落としながら言う。
「その客は食い入るように能楽師を見ている」
恭平は、背筋を冷たい指で撫でられたような心地がした。
祖父も――柏原秋光も、恭平と全く同じ思いを、舞台の上で味わっていたのだ。
動揺する恭平をよそに、祖父はなおも淡々と言葉を連ねていく。
「あれは普通の客とは違う。一挙手一投足から心のうちまで、全部を見透かす怖い目だ。……『たぶん、見取り稽古をしているんだ』とひいじいさんは言ってたなァ」
懐かしそうに言うと、祖父は本棚の方へ顔を向ける。恭平が目で追いかけると、古い本ばかりが並ぶ一角を、祖父はジッと見つめていた。
「あの中にある、ひいじいさんのそのまたじいさんの日記にも、能装束を着た客の記述があるんだよ。昔の人は筆マメだし、柏原もまあまあ古い家だから、ちゃんと残っているんだ」
祖父は恭平へ向き直り、問いかけた。
「ときに恭平。おまえさんは何百年ものあいだ、定期的に現れる同じ顔の男がまともな人間だと思うか?」
すぐに恭平は首を横に振る。
「私と先生とその曽祖父……先祖代々、全く同じ姿の人間を見ることなんて、普通に考えて、あり得ないでしょう。……もし、もしもそんなことが本当に起こったのだとしたら」
思わず恭平は言葉を切った。
恭平も、祖父も、祖先たちも、おそらく〝まともな人間ではないもの〟を見たのだ。とは、なんとなく、口にし難い。
祖父は恭平の言いたいことを汲んだらしい。「そうなんだよなァ、だから神なんだよ」と答える。
「しかも舞台が終わるとなァ、そこに座っている客はいつも、全然違う人間なんだ。俺が正月に見たのは、晴れ着姿のえらいかわいい女の子だった」
祖父の言う女性客には恭平も覚えがあった。
「ああ、そうでしたね。声をかけそびれたので覚えています」
真面目に答えた恭平に、祖父は呆れた様子で肩を落とした。
「……おまえ、そんなことばかり明快に答えるなよ」
「いや、明快にもなりますよ。おいそれとお目にかかれないタイプの美人でしたよ、あの子」
同い年くらいで、しかもかなり華やかな美人だったから、気に留めていたのだ。能装束の客に気を取られ、妙なプレッシャーに消耗していなければ、場所が違ったなら、普段の恭平なら間違いなく声をかけていた。
――それにしても彼女は『すんなりした男』とは似ても似つかない。着物姿ではあったが、もちろん能装束ではなかった。
恭平は眉間を揉んでため息を吐いた。
――神事の流れを汲む芸能に幼い頃から触れてきたが、それでも。
「とにかく、あんなにはっきり……。神的なものを見たのははじめてでびっくりした……」
「あはは! そうだよなァ? 俺も俺も! 最初見たときは度肝を抜かれたよ!」
祖父は恭平に向かって大笑すると、なんてこともないように自分を指さして言った。
恭平を完全に面白がっているそぶりである。
ジト目になった恭平が祖父を見つめると肩をすくめてみせる。
「まあ、俺はあの客をはじめて見る前、ひいじいさんから話を聞いていたから取り乱すことはなかったがな。あの客が元々は同業者だろうっていうのもなんとなくわかったし」
「同業者……」
祖父や祖父の曾祖父の見解が正しいなら、時代を超えて能楽鑑賞に来る能装束の男は、もともと能楽師だったということになる。
「どうやったら能楽師が神になるんですかね?」
「さてなァ? うっかり神を降ろしたまんま、ずうっと演じて過ごしてしまって、いつしか人間に戻れなくなっちまったのかもしんねェなァ」
祖父は腕を組んで小首を傾げる。
「あの客は生前、おそらく相当の役者だったのだろう。演技に没頭し、人でなくなったあともずっと能楽にとらわれ続けているのか。それとも単に、後世の能楽がどんなもんか気になって観にくるのか……」
祖父の立てた仮説はどちらもそれらしかったが、どちらにせよ、演者にとってはやりにくいことこの上ない。
「とりあえず、神様になっちゃった人が気軽に観劇にやってきて、やたらめったら演者にプレッシャーを振りまかないで欲しいですよ。こう、もうちょっと圧をなんとかしてほしい。もう令和ですし、神様にも鑑賞マナーを守っていただきたい」
恭平が辟易して言うと、祖父は口角を上げた。
「なんにせよ、あの客は腕の立つ能楽師の前にしか現れない。姿を見たってことは、恭平。おまえ見込みがあるんだよ」
祖父は冗談めかした口調で言う。
「いやあ助かる助かる。若いモンが元気だとジジイは嬉しい」
「はぁ……」
恭平は困惑してため息と返答の中間にある声を発した。しかし祖父は上機嫌で笑うばかりだ。
「あの客の前でとちらなければ、そいつは能楽師としていっぱしのモンになったということだ。いつもどおりにやればいい」
不思議と、とちらなければ、という言葉だけがやけに重く響いた気がした。
「失敗したら、どうなりますか」
「死にはせん」
短く答えると、祖父は言葉が足りないと思ったのか、付け加えた。
「ただ、この身に降ろしている神も恥をかかされたら怒るからなァ。別の神の前で格好がつかないとおかんむりになるだろう。命までとりはしないけど」
祖父が舞台の上にいるときの、得体の知れない〝気配〟が周囲を取り巻いた気がして、恭平は眉をひそめる。
「二度と舞台に上がれんようには、なるだろうね」
松の木に目を向けながら、祖父は笑う。
気配を断ち切るように、恭平は口を開いた。
「おじいちゃん」
パッと振りむいた祖父に、恭平は眉を下げる。
「舞台から下りたなら、ただの人の振る舞いをしてください。たぶん、領分をわきまえないと、あの客みたいになるんだと思います」
能楽師には――ひいて芸術家には業というものがあるという。
表現したいものを理解するために没頭し、どんな苦も楽も芸術のための糧とする。ときに人でありながら人でないものに扮し、現実には存在しないものを顕現させようと躍起になり、自身やその一部を見せ物にする。
まともな人間のやることではない。
だから、それに血道をあげれば当然、まともではないものと自我の境界が溶けていく。
ある程度はしかたのないことだが、行きすぎてはよろしくない。
「本当に神様になってしまったら、演じる意味がないじゃありませんか。生身の人間が、舞台の上でだけ人を超越するからこそ、芸が輝くというものでしょう」
祖父は瞬くと、感心したように目を細めた。
「そうか。恭平は、そう思うか。……俺はダメだなァ」
恭平が何か言うより先に、祖父は話を変えた。
「ところでおまえさん、やっぱり見込みがあると思うんだが、もうちっと稽古に熱が入らないものかなァ?」
この話の流れで下手なことを返すと小言が続きそうだと悟った恭平は、あえて真面目腐った顔を作る。
「私自身、家業に向いてはいると思いますが、入れ込みすぎた結果がアレなら、ほどほどでごめん被りたいですね。なにより私は俗物ですから、まだ遊んでいたいです。ええ。後腐れない程度に」
「そこまで聞いてねえんだよ」
真顔でピースサインを作っておどけた恭平に、祖父は呆れた様子で「おまえ話運びが俺に似てきたなァ」と笑う。恭平は笑い返して、「そうですかね?」と空惚けた。
惚けながら、恭平は考えていた。
祖父がわざわざ松の木を庭に植え、暇さえあれば眺める意味を。そして、恭平の持論に対する反応を。
――もしかすると、祖父はあの客のように、なってみたいのかもしれない。一度なったら辞められるものじゃないだろうに。それが技量を磨いた先の一つの到達点であるのなら、神様にだってなりたいのかも。
祖父は「暗くなってきたね」と言って、書斎の照明を灯した。
明るくなると、祖父の顔がよく見える。過ごした年月が年輪のように皺として刻まれ、頭髪や眉は白く、笑うと能面の〝翁〟を彷彿とさせる。
その姿に、恭平は自分ではどうしようもない寂しさを覚えていた。
――俺が祖父を〝人〟に繋ぎ止め続けられる時間は、もう長くないのかもしれない。領分を越えることを他ならぬ祖父自身がよしとするならば、止めることなど誰にもできない……。
恭平はあごを引き、感傷的な態度にならないよう、表情を作った。
――それでも、祖父をそれとなく引き止めることを、やめようとは思わない。
笑顔のまま、恭平は祖父を前にたわいもない話を続けてみせる。
柏原恭平もまた、役者である。
※
庭木の松は夜に溶け、笑う二人を影から見ていた。