第八話
リリーが吠えた、あの瞬間。
アイヴァンはただ、呆然と立ち尽くしていた。
殺意に駆られ、怒声をあげ、何の躊躇いもなく刃を振るう姿。
そこには、彼の知る同期のリリーはいなかった。
───あれは、一体誰だ──?
彼の中に存在するリリーは、一見どんな時も涼しげに見え、その実、ほんの僅かな眉の動きや視線の揺れで、自身の心をいつも静かに語っている。
アイヴァンは、そんな些細な仕草で彼女が何を感じているのか理解していた。
───理解していた、つもりでいた。
「……どうして何も言わないの」
その怒気に満ちた問いに、瞬きもせずに答える。
「……もう、いいのか?」
アイヴァンがその瞳に一度ローザを写してから、リリーへと戻す。
それは、自身の揺れる心を隠すかの様な静かなひと言だった。
「……ずいぶんとお優しいのね。このまま見逃してくれるのかしら」
穏やかな応酬を交わしながら、リリーが剣を握る手に力を込める。
「……そういうわけにはいかないだろうよ」
アイヴァンもゆっくりと剣を構えた。
二人を包む一瞬の静寂の後───先に動いたのはリリーの方だった。
斬りかかってきた彼女の剣を、アイヴァンは咄嗟に受け止める。
「何でこんな事をしたんだ!!」
礼拝堂に彼の悲痛な雄叫びと、金属のぶつかり合う音が大きく響き渡った。
「どうせ生きる価値のない人間だったでしょう!」
「断罪人にでもなったつもりか!?九人も殺して…っ!なぁ今、どんな気持ちだよ!!」
打ち合う刃と共に二人の怒声が飛び交う。
「──とてもいい気分だわ!!」
「お前…っ!それ本気で……っ!」
激しく切り結んでいた二人が息を整えるように距離を取り、間合いを外す。
「ええ、もちろん。──ひとり殺していく事に、あの日の私が救われた…っ!!!」
先程見せた激しい感情を更に上回るかの様に、リリーが一際大きな声で絶叫する。
それに一瞬気圧された様子でアイヴァンは小さく息を飲んだ。
「……っ!…何言ってんだよ……!!」
「あなたには関係の無い事よ」
「……ああそう、そうかよ。──相棒だと思ってたのは俺だけだったみたいだな」
僅かにリリーの瞳が影を落とす。
「……そうかもしれないわね」
そんな彼女に気付く事なく、アイヴァンは左手で顔を覆い隠して「ははは」と乾いた笑いをこぼした。
「同期の情けだ、ここでお前を止めてやる」
再びきつく剣を握りしめ、悲しみとも決意ともつかぬ瞳でリリーを真っ直ぐに見据える。
「あなたが私を……?私より弱いのに?」
嘲笑う様に短く息をもらして、彼女も目の前のアイヴァンへと意識を集中させた。
その剣の腕のみで近衛騎士団にまで上り詰めたリリーに対して、元々が騎士の家柄で育ち、恵まれた立場と環境でその座についたアイヴァン。
それはごく僅かな差でありながらも、二人の間には明確な壁があった。
彼はこれまでの訓練で、まだ一度たりともリリーに勝てた事はない。
「これで最後だ」まるでそう言うかの様に、アイヴァンがリリーへ向けて大きく剣を振りかぶった。
「──リリーーーーッ!!!!」