第一話
王城の一角、石造りの記録室内を紙のこすれる軽快な音だけが静かに響く。
燭台の火が揺れ、書類に浮かび上がる文字の影をリリーの瞳が追っていた。
検死記録、現場の間取り図、使用人たちの供述。そして、被害者たちの素行調査記録。
殺された者たちは皆、王都に領地を持つ貴族達だった。財を持ち、権力を握り、周囲に影響を及ぼす者たち──。
彼女は眉ひとつ動かさず、調書を一枚ずつめくって目を通していく。
『第一の被害者──バルド・ヘイス伯爵。武器商人として財を成し、軍関係者との強い繋がりを持つ。辺境への武器横流し疑惑あり。証拠不十分のため追及に至らず。』
『第二の被害者──エルネスト・カヴァル侯爵。社交界の顔役。過去に複数の少年使用人が不審な理由で辞職、いずれも行方知れず。市民団体より調査要請が出るも貴族特権により却下。』
『第三の被害者──アンドレ・レオグラン伯爵。慈善活動に積極的で市民からの評価は概ね良好。過去に娼婦との金銭未払いを原因とするトラブルが噂されるも詳細不明。』
『第四の被害者──エドモンド・ヴァレリー男爵。娯楽産業を手広く経営。裏で賭場と違法娼館を運営していたとの情報あり。内部告発者が消息を絶ち立件断念。』
『第五の被害者──ジル・マラン侯爵。芸術家の庇護者。若年労働者の搾取と人身売買に関与していた疑いあり。証拠不十分にて立件ならず。』
『第六の被害者──ロナン・ヴィルジ侯爵。文官出身で教育制度改革に積極的。一部孤児院との癒着が噂され資金の不透明な流れが問題視されていた。』
『第七の被害者──テオ・グランツ准男爵。地方出身の叩き上げ。遺族の訴えにより過去の訓練兵への過剰指導が一部記録として残されている。』
『第八の被害者──セリグ・オルディス侯爵。鉱山業と交易利権を有し、王都経済界に強い影響力を持つ。密輸品の横流しに絡む失踪事件への関与疑惑あり。屋敷内で若い女性使用人の頻繁な交代と退職が続き、うち数名が行方不明。過去に複数の示談記録あり。いずれも詳細非公開。』
彼女はその全てに目を通し、もう充分だとばかりに小さくため息をこぼす。
資料を机に雑に放って脇に積まれた別の紙へと手を伸ばした。
指先で検死報告書の束を引き寄せ、先程と変わらない仕草でまた一枚ずつめくりはじめる。
そこに記された整然とした文字列には、どれも共通する記述が並んでいる。
──死因:左右いずれかの頸動脈に対する鋭利な刃物による切創。創傷は深く、即死と認められる。
──死後処置:致命傷とは別に、胴体部へ複数の刺創および切創を確認。いずれも死後に加えられたものであると断定。
──死亡推定時刻:全てにおいておよそ午前一時から午前三時の間と推定される。
リリーは一度報告書から目を離し、椅子の背に深く身体を預けた。
その姿勢のまま再びそれに視線を落として一人静かに思考を巡らせていく。
──今ある情報だけで考えられる犯行動機は──。
階級制度そのものへの憎しみ。
被害者の爵位に一貫性はないが、階級を象徴する存在として貴族を無差別に標的にしている可能性がひとつ。
被害者の生前の罪を知ったうえでの選別。
記録に残る限り、誰一人として潔白な者はいない。犯人がそれらを把握していたとすれば、裁きのような意図が伺える事がひとつ。
もうひとつはもっと個人的な怒り──私怨。
遺体の異常なまでの損壊ぶりから、犯人に何かしらの強い感情がある事は疑い様がない。
しかし今のところ、被害者同士の接点は確認されていない。
思想か、信仰か。何らかの信念による犯行という線も捨てきれないだろう。
「──つまりはまだ何も分からない、と」
リリーの小さな呟きは、音のない記録室内にやけに響いた。
彼女はしばし宙を見つめ、先程よりも深く息をついて目を閉じた。
いくつもの可能性が浮かぶばかりで、そのどれもが決め手には欠けている。
犯人までは、まだまだ遠い。
ふいに記録室の扉が軋み、静かなこの場所にはそぐわない足音と共に、その青年は現れた。
整えられた紫紺の髪を揺らしながら彼女の元へと近づいていく。
青年は顔に軽い笑みを浮かべ、その手に抱えていた紙の束を彼女に差し出した。
「もううんざりだって顔してるな。──ほら、追加分」
新たな紙の束を無言で受け取り、ゆっくりとページをめくる彼女の眉間に小さな皺が刻まれていく。
その様子から、新しい情報にも特段手がかりはないと見える。
「こっちも目新しいものはなかったよ。まるでそんなもの、はなからなかったみたいにな」
今度はわざとらしく眉を下げ肩を竦めてみせるこの青年は、アイヴァン・イオリエ。
彼女と同じ年に近衛騎士に任命された同期だ。
リリーは「そう」とそっけなく一言返すだけだったが、彼はそれを気にもしていない様子で机の端に寄りかかる様にして言葉を繋げた。
「ちゃんと寝てるか? 最近お前、目が死んでるぞ」
「……そう言うのなら、休暇申請でも出しておいてくれる?」
ほとんど意味のない書類のページを尚も律儀にめくりながらリリーは返す。皮肉とも本気とも取れるその口調に、アイヴァンは「ははっ」と軽く笑った。
二人はそれ以上の言葉は交わさず、リリーが静かに立ち上がる。無駄のない動きで書類を整え歩き出すも、その足取りはやや重い。
扉へ向かう彼女の先回りをするように、アイヴァンがドアノブへと手を伸ばした。
「こんな事件さっさと終わらせて気持ちよく休もうぜ」
軽口と共に開かれた扉を抜けて、今日も変わらず事件の捜査へ繰り出して行く。