第九話
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闇に閉ざされた、小さな石の部屋。
湿った空気と染みついた鉄の臭い。
その中で、幼い彼女は息を殺して震えていた。
──痛い、苦しい。
隣にいる少年は足から血を垂れ流して横たわり、少女は嗚咽を噛み殺している。
ドアの向こうで誰かの叫び声が上がり、やがて何も聞こえなくなった。
その直後だった。
扉が軋みを上げて開き、影が一つ、こちらに足を踏み入れる。
──多分、死ぬんだ。
力任せに引き摺られた先の部屋。
そこに裸のまま転がされた、名前も知らない子供の姿。
この子はきっと、少し先の私。
肌に感じる湿った感触と、目に映る、暗がりに浮かび上がる男の醜く折れて歪んだ鼻。
どうしてこんな事になったのか、幼いリリーにはよくわからない。
どうすればここから抜け出せるのか、教えてくれる人は誰もいなかった。
助けて。お願い、誰か。
助けて───。
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アイヴァンの身体から、どっと血が溢れる。
リリーの剣は急所を僅かに逸れながらも、彼の肩口を深く貫いていた。
「……お前…っ」
アイヴァンが呻くように言葉を漏らしたその瞬間──リリーが、口から血を流して崩れ落ちた。
彼の刃もまた、リリーへと届いていた。
胸の間、ちょうど鳩尾を貫くように深々と突き立っている。
染みのように広がる血が、彼女の服をじわじわと濡らしていった。
「おい…っ!」
アイヴァンが倒れるリリーを抱き抱えるようにして支える。
「お前…っ、まさかわざと……っ!」
「…そんなわけ、ない、でしょう……殺す、気だった……」
掠れる声を振り絞るように言葉を繋ぐリリーが、ひとつ咳き込んだ。
その拍子に溢れ出した血が、更に彼女の口元を汚す。
「……っ!もういい!もう喋るな!」
取り乱すアイヴァンを、リリーは小さく首を振って制した。
「お願いがあるの」と静かに口にし、そのまま返事も待たずに続ける。
「……教会の、子供達と、ローザの事……どうか、お願い。あの子達には、何の罪もない、わ」
そこで一度言葉を区切り、彼女は胸を震わせるように息を吸った。
「……ああ、約束する」
リリーを抱く彼の腕に力がこもる。
「それから、オレア……神父の事、も。彼は私を、救おうとした、だけ……」
「……できる限り手を尽くすよ」
アイヴァンの言葉に安心したのか、リリーの身体に僅かに残っていた力が抜けていく。
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「リリー……?」
「そう、リリー。あなたには百合の名前をあげましょう。
それは、清らかさと強さの象徴。どんな苦しみにも染まらず、真っすぐに咲く素敵な花よ。
どうか、どこにいても自分の心だけは失わずにいてね。」
幼いリリーの頬を撫で、マザーセリアが優しく微笑む。
隣に座る少女へと視線を移し、同じ様に優しい瞳で語りかけた。
「ローザ。あなたには薔薇を。
愛と美しさ、そして傷を抱えながらも咲き誇る気高さを持つ強い花。
その心で、きっと誰かの痛みに気付ける人になるわ。」
そっと微笑みローザの頭を撫でてから、まっすぐに少年の目を見つめる。
「オレア。あなたにはオリーブの名を。
争いの後に平和を告げる希望の枝。
癒しと救いの力を、あなたはきっと持つ様になる。」
そして、三人の小さな手を取りマザーセリアは言葉を続けた。
「これはね、ただの名前じゃないの。あなたたちが生きていくための祈りであり、約束よ」
「リリー……」
彼女は自分の名前を確かめるように、何度も口の中でそう呟いていた。
「リリーの髪は素敵ね、真っ黒でとっても綺麗だわ」
リリーの長い髪に櫛を通しながら、ローザが羨ましそうにこぼす。
「そんな事……」
「あるの!私の髪はどうしてこんな色なのかしら」
指先で不満げに髪を摘みながら、彼女は頬を膨らませた。
そんな二人の様子を傍らで見守っていたオレアが口を挟む。
「君の赤毛も素敵じゃないか。太陽の下で輝いて、すごく綺麗だ」
「……っ!も、もう!そんな事言ったらオレアの金髪だってそうだわ!光に透けて、とっても綺麗なんだから!……でも、ありがとうっ」
先程まで膨らんでいた頬を赤らめ、照れた様に早口で捲し立てるローザ。
リリーとオレアは顔を見合わせ、くすっと笑い合った。
「なぁお前、相当強いんだって?」
訓練場の砂を踏みしめて、一際目立つ少年がリリーに声をかけた。
紫紺の髪を無造作に撫で上げたその姿は、年のわりに堂々としていて、身なりもどこか育ちの良さを感じさせる。
リリーはちらりと横目を向けただけで、返事をしなかった。
そんな様子を気にもとめず、少年は彼女へと距離を詰めていく。
「俺はアイヴァンだ。よろしくな。
なぁお前、スクワイアの間でちょっとした噂になってるぞ。やたら腕が立つってな」
アイヴァンは顔に笑みを浮かべ、遠慮のかけらもなくそう言い放つ。
リリーはそんな彼に眉を顰め、小さくため息をもらしてから、訓練用の木剣を持ち直した。
「……ふっ。望むところって顔だな」
そう言って、アイヴァンも変わらぬ笑みを浮かべたまま剣を構える。
数秒──ほんの数秒だった。
気が付いた時にはアイヴァンは地面に背をつけて、剣は手元から転がっていた。
彼が言葉もなく見上げた視界に涼しい顔のままリリーが立っている。
「容赦なさすぎるだろ……」
呻くように言いながら上体を起こしたアイヴァンは、一瞬だけ悔しげに唇を噛んだ。
けれどすぐにその表情は崩れ、先程と同じ笑みに変わる。
「まいった。完敗だ」
立ち上がると、両手を上にあげ首を振る。
「また手合わせを頼むよ。今度はもう少しましなところを見せるからさ」
そう言い残して去っていくアイヴァンの徐々に小さくなる背中が、リリーの瞳に映っていた。
「……また来る気なのかしら」
「……必要性を感じないだけよ」
賑やかな食堂内の一角、少し不満げなリリーの言葉がもれる。
「いーや、同じだね。つまりそれは嫌いだって事だ」
事の発端は、リリーの皿の隅に小さく纏められた野菜を見て、アイヴァンが「野菜嫌いなんて意外だな」と呟いた事にあった。
「……違うわ。ハーブやセロリで取れる栄養なんてたかが知れているってだけ。食べられないわけじゃないもの」
頑なに譲らないリリーが珍しいのか、尚もからかう様に言葉を発する。
「わかったわかった、そういう事にしといてやろう。……いやーしかし、お前にも苦手な物があったとは…ふっ……あはははは!」
食堂にはしばらくアイヴァンの大きな笑い声が響き渡っていた。
「リリー」
彼女を呼ぶ彼の声。
「リリー」
楽しそうに笑う、彼の笑顔──。
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「リリー……っ!」
赤い目で顔を歪めるアイヴァンが、目を閉じ、今にも息絶えそうな彼女の身体を揺さぶった。
リリーが薄く目を開き、弱々しく彼の頬に手を添えると、その上から包み込む様にしてアイヴァンが彼女の手を握る。
「……死ぬな…っ」
「……ふふ…なんて顔、してる、の……」
最後に小さく微笑んだリリーの唇は、もう二度と動く事はなかった。