プロローグ
昼間の喧騒が嘘のように静まり返る王都の夜。僅かな月明かりが屋根をすべり、路地裏に長い影を落としている。
石畳の通りに人の姿はなく、当然の様に街全体が眠りについていた。
誰もが日常の続きに身を委ねるばかりのその月夜にまたひとり、貴族が死んだ。
絹の寝巻きは原型をとどめない程に裂かれて赤黒く染まっていた。
胴体の皮膚という皮膚にはおびただしい数の刺傷が残っている。
衛兵たちは沈黙したまま顔を見合わせ、ただ頷き合う。
これで、八人目───。
異常なまでに残虐な犯行に加え、被害者がすべて貴族階級だったことが決定打となって、ついに王から近衛騎士団に調査命令が下されたのだった。
王命を受けた騎士団員の中に、長い黒髪を一つに束ねた女──落ち着いた深い翠の眼差しを携えたリリー・セラフィンの姿があった。
血まみれの現場に足を踏み入れた彼女は、一瞬だけその光景に目を細めた。しかしすぐに、その瞳は何事もなかったかの様に静けさを取り戻す。
「被害者の身元を確認。防犯の記録と使用人の供述、すべて洗い出しましょう。──始めて」
彼女の声に現場の空気が僅かに引き締まる。
衛兵たちが小さく頷き、各々が役割を果たすため散り散りに去っていく。
床の血溜りはまだ完全に乾ききっておらず、室内の空気は鉄とほこりの混ざり合う重たい臭いで満ちていた。
彼女は男の遺体へと、静かに一歩ずつ近づいて行く。
この屋敷の主である男は、目を見開いたまま息絶えていた。その顔に苦悶の色はなく、無残な遺体の有様とはあまりにも釣り合わない印象を与える。
首筋への迷いのない一太刀、それに反して皮膚を埋め尽くすほどの刺傷の数々──それを冷静に視線で追いながら、リリーは傍らに膝をついた。
「致命傷は──ここ。頸動脈」
血の海を避けながら、彼女は遺体に刻まれた傷のひとつひとつを確認していく。
衝動と理性、激情と冷徹、まるで違う二つが交錯している様だった。
部屋を一巡し、最後に再び遺体を一瞥する。
「現場保存と記録が終わり次第遺体の回収を。私は前の事件記録と照合を始めるわ」
端的に指示を出し終わると、すぐにリリーは身を翻して足早にその場を後にした。
彼女の足音が遠ざかるにつれ、現場の空気が僅かに緩んでいく。
王都を揺るがす貴族連続殺人事件の真相は、依然としてまだ深い霧の中にあった。