一章 日常と非日常
三日前
空が茜色に染まった頃、青年クリードは帰宅した。今は小さな平屋に一人暮らしだ。合鍵を渡しているアイツが勝手に入っていることがあるが。
服のボタンを上から外しながらリビングに着くと、テーブルの上の料理と置き手紙が目に入った。
「暇だったから晩御飯を作っておいたよ。
食後にはちゃんと薬を飲むようにね。
愛するクリードへ」
普段は栄養の偏った食生活を過ごしているので有難かったが、それと同時に心が傷んだ。
つい思わず呟いてしまった。
「すまない、ユリ...。俺は...」
気が付くと見知らぬ森の中に寝ていた。私は何をしていたのだったか。思い出そうとするも、記憶が抜けてしまっているようだ。
酒は全く飲まないし、後頭部に打撃を受けた様子も無い。私の住んでいる地域は都市部の住宅街で、これほどの自然は遠くまで行かなければならないだろう。
周囲を見渡すと鬱蒼とした木々ばかりが月明かりの下で佇んでおり、見通しがかなり悪い。遠くの人間には気付けなさそうだ。
先程まで横になっていた大きな切り株から腰を上げ、腕を伸ばし、首を回す。身体に不調は感じられない。
歩き出そうとした時、どこかから声がした。
「何者だ」
少し張った声の方向へ体を向けると、徐々に足音が聞こえてきた。
このような森の中の、しかも夜に人が居ることに驚いていると、間もなく声の主が現れた。
胸部まで伸びた美しい金髪、濃緑の独特な服装、凛々しい顔立ち、背中には弓を背負い、腰には矢筒と剣を携えている。
身長は170程だろうか。四肢の素肌は見えないが、顔つきや歩き方から筋肉量と戦闘力が
伺える。
それらより一段と目を引くのは、鋭利に尖った耳だ。
その外見から架空の種族が頭に浮かんだ。
「エルフ..?」
「見ての通り」
コスプレだろうか。こんな夜中に。完成度の高さは目を見張るものがあるが、変質者の類いに違いない。
いや、コスプレだとすると私に声を掛けた理由は何だ。見つからないよう隠れるのが心理のような気がする。
そんなことを考えていると、彼が先に口を開いた。
「ズバリ訊くが、キミ、転生者だろう」
転生者?近年漫画や小説で流行している異世界転生物の事だろうか。主人公が死後別世界に生まれ変わり、新たな人生を歩むような。
確かに今の私の状況は転生物のそれに酷似している。
「名前は?」
「ショウゴです」
「じゃあショウゴ君、歩きながら話でもしないか。俺の家までそう遠くない。」
仮にこれが変質者の茶番だとしても、本当にここが異世界だとしても、断る理由は無い。
どちらにしても、面白そうだ。
「俺はシンゲン。変な名前だと思うかい。ペンネームってやつさ。執筆、狩猟、探偵、色々やってるよ。」
彼の後をゆっくり歩きながら話を聞く。
「探偵?」
「長く生きていると、何かと事件の相談を受ける事が増えてね。気付いたら探偵稼業のようになってしまったんだ。こう見えて400歳になる」
「執筆もしていると」
「ああ。嬉しいことに結構売れているんだ
よ。専らミステリを書いていてね。いつの間にか有名人さ」
こうして歩いていると、どうもここは本当に異世界のように思えてきた。
植生が日本とは異なるように見え、聞いたことの無い動物の鳴き声が聞こえ、シンゲン氏の喋りは淀み無い。
「私は元の世界で死亡し、ここに転生したということですか」
「覚えていないのかい。転生者は大抵、事故に遭ったとか、女神と話したとか、それらしいことを覚えているんだが」
「私以外にも転生した人が居るんですか」
「少なくないよ。年に一人か二人ってところかな。俺の把握している限りだけど。
そろそろ着くよ」
その言葉通り、家が見えた。壁の綺麗な二階建て。こんな森の中にしては立派なものだ。
玄関扉まで続く石畳を踏み、到着した。
シンゲン氏は鍵を取り出すと、扉を解錠した。日本と変わらない、防犯性の高いロータリーディスクタンブラー錠のようだ。
「土足でいいよ」
土足で大丈夫な上、これだけ立派な建物なら、後は庭にプールでもあればアメリカの別荘のようになる。
シンゲン氏が壁に手を当て、電気を点ける。
ここも日本と変わらない。相当文明が発達しているか、それともここは異世界などでないのか。
見たことの無い絵画を眺めながら歩くと、
「そこに座っていてくれ。」
と言われた。部屋には椅子が四脚あり、テーブルの上にはこれまた見たことの無い植物が活けられている。
玄関に近い一脚に腰を下ろし、周囲を見回す。内装も元の世界と余り変わらないが、テレビやエアコン等の家電は無いようだ。
土足に慣れず自分の足を見ていると、彼が戻ってきた。
「お待たせ」
片手にカップを、もう一方に瓶を持っている。どんな飲み物だろうか。
持ち手が変わった形のカップには、薄茶色の液体が満たされている。ハーブティーか。湯気がゆらゆらと昇っている。
「着いて早速なんだが」
そこでシンゲン氏は一拍置いた。
「本を持っているかい」
予想外の質問に驚きつつも、自分の体を探る。ポケットは空だと確認した後、パーカーのフードから一冊の本が出てきた。どうして今まで気付かなかったのだろう。
それは小説家の藍裏御朗のものだった。
顎に手を当て考えていると、シンゲン氏が身を乗り出し、表紙を見た。
「ん?おお!」
そう言うと突然部屋を出て、直ぐに戻ってきた。手に雑誌を持って。
ページをパラパラ捲り、目的のページを開く。そこには、
『小説家と名探偵の二足のわらじ!今話題の藍裏御朗とは!』
という見出しがあった。軽く目を通すと、どうやら去年刊行された物のようだ。顔写真は載っていない。確か初めて世に顔を出したのは半年前だったか。蓄えられた顎髭がトレードマーク。
「どうして私の元居た世界の雑誌が?」
そうだ。どうして異世界にこれがあるのか。
ここは本当に異世界なのか。
「知り合いから貰ったんだ。君の世界について書かれたこの本は、その知り合いにとって有益なものでは無かったようでね」
そこで私は直接訊いてみる事にした。
「ここって本当に異世界なんですか。どうにも確信が持てなくて」
「ああそうか。ここまでに君が目にした情報ではまだ実感が湧かないか。では''魔法''を見れば確信が持てるかな」
シンゲン氏は少し離れ、壁の近くへ行くと、人差し指を立たせて、ゆっくりと付け根から折る。すると、手の回りから無数の緑色の刃が現れ、こちらに向かって飛んできた。
思わず体を仰け反ったが、その無数の刃はテーブルの上の名も知らぬ植物を切り刻み、瞬時に消滅した。
こんなものを見せられては納得するしかない。ここは異世界だと。
「どうだい。中々面白いだろう」
「ええ、とても。魔法について少し教えて貰っても?」
「ショウゴ君の世界でイメージされる魔法と殆ど変わらない思うよ。手から火を出したり、瞬間移動したり、空を飛んだり。違うところは、一人二種類までしか魔法を使えない事かな 。この世界の住人は生まれた瞬間から扱える二種類の魔法が決められているんだ 。殺傷力を持つアタックスキルと、個別に異なる効果を持つユニークスキル。俺が今使ったのが、エルフお得意の風魔法。火や水を操るエルフも居るけど、およそ半分は風だね」
「ユニークスキル?」
「世界中の誰もが持っているが、一つの被りも無いようになっている。『空を飛ぶ魔法』というユニークスキルを持つ者は一人しか存在し得ないが、その者が死んだ後ならば、新しく産まれた者が『空を飛ぶ魔法』を持っている可能性が出てくる」
「シンゲン氏のユニークスキルは?」
彼は顎に手を当て、目線を下げる。
「それは...言えないな。あまり俺の魔法は明かすべきものじゃない。家族以外には誰も知ら無いんだ」
「強力な魔法を持っていると命が狙われるからとかですか」
「そんなところかな。出産を控えた者が、我が子に魔法を継がせる為に、有能なユニークスキルを持った者を殺すなんて事は何度も起きている」
そこで私は思い出したようにハーブティーの入ったカップに手を伸ばした。
少し冷たくなってしまった。
それからしばらく話をして、少しずつこの世界について分かってきた。
電力は魔力によって生み出されており、近くの街からここまで電線のようなものを引っ張ってきたという。電気料金は無料。
ここは5つある大陸の1つのイデア大陸で、その中のカナロ公国という国の近くらしい。
夜が明けたらそのカナロ公国にある街に行こうかという話をしてからかなり経ち、もう既に日が昇りつつあった。
「私の世界では有名な昔話が幾つもあって、桃から産まれた桃太郎とか、花を自在に咲かせる花咲かじいさんとか、体が小さい一寸法師とか」
脱線に脱線を重ね、なぜこんな話になってしまったのか思い出せない。シンゲン氏も私と同じく、別世界について興味があるようだ。
しかし、先程からシンゲン氏があらぬ方向に視線を向けているのが気になった。私もなんとなくその方向を向いていると、足音が聞こえてきた。窓を開けていなくても聞こえてきそうな、激しい足音だ。
それが玄関の辺りで止まると、扉が三度ノックされた。足音とは裏腹に丁寧なものだ。
予測していたとばかりにシンゲン氏は立ち上がり、玄関へ向かう。こんな日の出の時間に来客とは。
私は気になり、遅れて付いていく。
シンゲン氏が扉を開けると、恰幅の良い中年の男性が肩で息をしていた。
「ああシンゲンさん!良かった!いらしたんですね!」
「何用かな、オーナー」
シンゲンというのはペンネームという話だったが、他の人からもそう呼ばれているのか。
「えっと、そちらの方は?」
「転生者のショウゴ君。昨夜出会ってからこれまで話をしていたんだ」
「はじめまして」
「成る程そうでしたか」
転生者にさほど食い付かない所を見ると、そこまで珍しいものでもないようだ。
「オーナーさんというのは?名前ですか?」
「カナロ公国の話をしただろう。そこで宿を営んでいるから、オーナーというわけさ」
そのカナロ公国からここまで走って来たとなると、かなり重要な用件のようだ。
「こんな時間に訪ねたのは他でもなくてですね、是非ともシンゲンさんのお知恵をお借りしたいと思ったんです」
「ほう」
「実は..実はですね...」
そう言い下を向いて固まる。溜めて焦らしているのでは無く、言いにくい用件のようだ。
「うちの宿で、人が死んだんです」
「なんだと?オーナーの宿で?そんな事営業開始以来百年も起きていないじゃないか。まさか、ロックされた部屋の中で死んでいたのかい」
「ええ、そうなんです。うちの宿は万全なセキュリティが売りじゃないですか。それなのに部屋で人が死んだとなると、今後に影響が出ます。そこで、シンゲンさんにお力をと思いまして」
「その隠蔽をしろと」
「それは、まあ、そういうことです」
頭を掻きながらばつが悪そうにする。
「部屋の中で自殺というなら、世間から事実を隠すのは簡単だが、どうもそうじゃないみたいな口振りだね」
「いやあそこに泊まっていたのは二人だったんです。その上、死体はどう見ても自殺なんかじゃなかったんです」
「ではもう一人が犯人で決まりだろう。殺人なら隠蔽は難しいが」
「それがどうもそうでもないようで」
「というと?」
「これからお時間ありますか?見て頂いた方が良いと思うのですが」
シンゲン氏はこちらに目を向ける。私は意図を汲み取り、頷いた。
「オーナーの宿については歩きながら話すが、彼の言う通りなら、これは」
シンゲン氏は目を輝かせる。
「密室殺人だ」