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いつだって、ここにある光

作者: momowo

想像することを、やめてしまった。

いつからだったか、私の中にはぽっかりと穴が空いている。

ずっと前、目を瞑ると、そこはいつでも空想の世界だった。

夜の闇から点々としたあわい光が、群がったり散らばったり、明滅を繰り返す。足元には闇を吸い込んだせせらぎが流れていて、真緑の水苔と、背の高い草の根っこと、私の足の甲とを冷たく濡らしていく。

耳を澄ませる。鈴虫の、ジー、ジーッという音が連鎖して、とめどなく響き渡る蛙の合唱。うるさいけれど、それが心地いい。

驚くほど美しい景色の中に、私はいた。


小学生の頃に、よく蛍を見に行ったことを覚えている。年に二回か、三回か。初夏の風を帯びる季節、たった数週間だけ、蛍の乱舞が見れるのだ。祖父に連れられ、三つ上の姉と私は―五つ上の姉もいるのだが、どうやら部活で疲れているようであまり一緒に行くことは無かった―家からほど近い土手を登っていく。そこに見えるのは光、光、光。闇に浮かぶ美しいきらめき。これほどまでに美しい光景を、きっと私は死ぬまで覚えているのだろう。


私を一言で表すなら、いわゆる「文学少女」である。今風に言うなら、文学オタクの陰キャ。

保育園児の頃から専ら地域の図書館に通いつめた。もちろん自らの力で図書館へ行く脚はない。ド田舎の三世代住宅だから、一緒に住んでいるおじいちゃんかおばあちゃんに「連れてって!」と駄々をこねたことを覚えている。

「お宅のお子さん、どうやったらそんなに本読むようになるの?やっぱり本とか買ってあげてるん?」

「いやぁ、私はほんまになんもしてへんのよ。あの子が好きで勝手に読んでるだけやわ」

母親の道端会議では、よくそんな話が出る。私の母親は子供の趣味には一切口出ししない。口出ししないというか、娘がいくら本を読んだかなんて興味がないようだった。その方が都合がいい。私は至って自由気ままに、悠然と読書ライフを楽しんだ。

学校においても、通学でも下校でも本は手放さない。まるで現代版二宮金次郎だ、と誰かに言われた。そのくらいに私は本が好きだった。読書が私の一番の幸せだった。

小学校の道徳の授業で、「将来の夢」について語る授業はお決まりだった。みんなが次々と「ケーキ屋さん」「消防士」「学校の先生」となんとも小学校らしい望みを語る中で、私の夢は「小説家」だった。自分の空想の世界を発信したい。この空想の楽しさを誰かに知ってもらいたい。同じクラスの子達が「本いっぱい読んでるし、向いてそう」だとか、「もし本当になれたら読ませてね」だとか、優しい感想をたくさんくれたことを覚えている。

中学生になっても、私の趣味は変わらなかった。休み時間は教室の端で静かに読書をする。読書好きの陰キャはいじめの格好の餌食だったらしい。クラスメイトからの視線が刺さり、何かひそひそと話す声が聞こえてきたこともある。でも、私は読み続けた。本の世界がある限り、私は自由だったから。無反応な私を見兼ねて、その何割かの人間たちはじきにターゲットを変えた。なんともつまらない人間の集まりである。やるなら気合い入れて最後までやり通せよ、と面と向かって反論もできやしないのに、頭の中で思っていた。

同時に、小説を書くことを本格的に始めた。本格的になんて言っても趣味でルーズリーフに思いついた小話を書くだけのものだし、書き始めはなんともお粗末なものであったが、心意気だけは本物だった。

本を読んでは小説を書き連ねる。それはつまらない授業の催眠術のような先生の話を聞いている時も、お風呂上がりのドライヤーの片手間でも続いた。

しかしその行為に反して、小学生の頃のように素直に「小説家になりたい」とは言えなくなっていった。代わりに、進路希望プリントの欄に小さく、少し現実を見据えた「図書館の司書」と書くだけになってしまった。自分もつまらない人になっている。それは、世間体を気にするようになってくる思春期の私に訪れた、悲しい変化だ。


「なあ!これ何?」

そう明るく言ってのけた三つ上の姉が持っているそれは、私が数年かけて書き連ねた、到底他人には見せられないようなルーズリーフの束であった。

「ああっ、やめて、今すぐそれから手ぇ離して!」

「残念、もう全部読んだ」

にししと笑う姉は、私の気持ちなんて露ほども知らずに笑顔でそう言う。その時の私の気持ちは、まさに地獄の底だった。

元々、人に読ませるなんて気は毛頭ない。下手くそ、稚拙。文体も、表現もぐちゃぐちゃ。ただ書き殴っただけの文字。自分が楽しければ、それでいい。そう思って書いていたというのに。

ただ、それをそうは思わずに、姉は私のパーソナルスペースを思いっきり踏み散らかしていく。いい意味でも、悪い意味でも。

そんな無神経な姉から返ってきた言葉は、私が予想だにしていないものだった。

「これ、むっちゃおもろかったわ。あんた才能あるで」

「ええっ、」

驚いた。そんなことを言われるなんて。

「すごいやん、あんた、こんなにいっぱい書いとるって。好きじゃないとできへん。すごいなあ」

これからも書けよ。

やめたらあかんで。

続き読むの、楽しみにしとるから。

そう言って私の夢を後押ししてくれるのは、後にも先にも、姉一人だけだった。


五つ上の姉に、彼氏ができたらしい。私が中学二年生の時である。

姉は大学一年生、十九歳。同じ四大の、二つ上の先輩だと聞いた。保育系の大学だった。

「保育士なんて今はどこも引く手あまたやからなぁ。レイちゃんは多分、卒業しても安泰やなぁ」

レイちゃん、というのは五つ上の方の姉である。三つ上の姉はルイ、私はユイ。

「彼氏さんもええ人なんやろ。この前家に来たって聞いたで」

「あんた、そんなんどっから聞いたん。地獄耳すぎるわ」

母は近所の仲のいいおばさん二人を家に招いて、よく世間話をする。私は人見知りだからあまり知らないし、挨拶くらいしかしたことがない。多分、田中さんと長谷川さんという人だったと思う。

「レイちゃんはええとして、ルイちゃんはどうなん」

「ルイはなぁ、美大行きたい言うてんねん」

「えーっ、美大。就職とかあるん」

「よう知らんねん。ちゃんと就職見つかるんかなぁ」

「美大は良くないってよう聞くけど」

凝り固まった偏見。おばさんたち特有のキンキン声は、隣の私の部屋までよく通って聞こえる。同時に、湿っぽい嫌な気分が頭をもたげた。

「ユイなんかなぁ、小学生の頃ずーっと、小説家なりたい言うててんで」

「ええっ、またそれはでっかく出たなぁ」

「やろ。最近は図書館の司書さん言うてるけど。まだ小説家よりは現実的になったわ」

「司書資格とか、ユイちゃん頭いいから取れるやろ」

美大を目指す姉、ルイと、小説家になりたい私、ユイは、どうやら世間一般で見ると奇っ怪な人間に見えるらしい。私から見たら、おかしいのはどう考えても人の夢を土足で勝手に悪意なく踏みにじるお前らの方なのに。

湿っぽい嫌な気分が晴れることはなく、その後も母たちの雑談は続いた。私はまだ夕方なのに、自分の布団に潜り込んで聞こえないふりをしていた。


「あんた、これおもろいから読んで」

差し出されたのは一冊の小説。ルイ姉ちゃんはあまり本に興味がない。それなのに、今私にオススメだ、と言いながら本を差し出しているのは紛れもなくルイ姉ちゃんだ。

「どうしたん、姉ちゃん本なんか読まんのに」

珍しいこともあるものだ、と手渡された本を手に取る。帯を見るに、百万部のベストセラーらしい。姉は、私が大衆向けの本をあまり読まないことを知っていてオススメしてきたようだ。

「あんたが小説書いとんの見てさあ、うちもなんか気になってもて。本屋寄ったらそれ、売れてるって書かれとるから気になって買ってん。おもろかったで」

「ふうん。めずらし」

ルイ姉ちゃんは私のルーズリーフを発掘してからというもの、毎月一回は絶対に「なあ、続き書いてる?」と私の部屋に聞きに来るようになった。だいたい毎回月半ば、二週目が終わって三週目に差し掛かる頃だ。その度に私は「なんでこんなん読みたいん」なんて恥ずかしさで悪態をつきながらルーズリーフの束を渡す。

実は毎月読んでくれる読者の存在が嬉しくて、毎回「書いてる?」なんて聞かれなくてもちゃんと書き進めてるよ、とは恥ずかしくて言えそうにもない。

ルーズリーフを渡すと姉はありがとう!と元気に言い残して自分の部屋に戻る。読み終わったら勝手に私の机の引き出しに戻しておくスタイルが主流らしい。

「あんたの小説おもろいし、あんた本めっちゃ好きやから。うちも本これから読もうと思って」

姉がこうやって直々に私にオススメだと本を持ってきたのも、どうやら私の功績のようだ。私は嬉しさと恥ずかしさと興奮が混ざりあった早口で、「いいやん」とだけ返した。

そんなことが続いた、ある日のことだった。

もっと、姉と蛍を見に行っておけばいいと後悔した。

私が中学生になってからは、部活で疲れていることを言い訳に、だんだん河原へと足を伸ばすことも減っていた。おじいちゃんも、少し寂しそうな顔をしていたような気がする。

後悔するのが、遅すぎた。

中学三年生の、蒸し暑い日々がこれから幕を開ける、そんな季節だった。

「残念ですが…」

真っ白な壁と床。私はひんやりとした空間の中で、上の空になりながら、耳から入ってくる言葉を必死に飲み込もうとしていた。


五時間目が終わるか終わらないかくらいの時間、緊急の電話が入った、と職員室に呼び出された。

母からの電話だった。今すぐ帰ってこい、と泣きそうになりながら話していた。なんとなく、悪い予感がする。当たって欲しくなかった。詳しいことは聞いていないのに、必死に自転車を飛ばして家に帰る私の頬は、初夏の暑さでしたり落ちる汗と、よく分からない涙で濡れていた。

家に帰ってすぐに母の車に乗り込んで、市内の一番大きい病院へ向かった。私と母親以外は職場から既に病院に向かっているようだった。二人とも口をつぐんで、重い空気が流れる。軽口など叩ける雰囲気ではないことを、私は察していた。手汗が止まらない。暑いはずなのに体の芯は冷えきっていた。いつもは元気が取り柄ではつらつとした母は、弱々しくたった一言だけ、

「お姉ちゃんが、事故で…」

と、呟いた。

病院の先生は、悲しそうな顔をしていた。父と母と、おじいちゃんおばあちゃん、レイ姉ちゃんは、その顔を見て堰を切ったように泣いていた。私は、喉元まで嫌な感じが出かかって、泣きたいのに泣けなくて、代わりにやけに冷たくなった汗が頬を伝っていくのを感じた。ふと、廊下にある鏡を見た。私の顔は真っ白だった。

トラックに跳ねられた。外傷はあまりない。打ちどころが悪かった。病院の先生の長い説明をようやく噛み砕いて、やっと理解できたのはそれだけだった。私の一番の理解者だったはずのその人は、冷たくなってベットに横たわっていた。

目の前に広がる光景を見ても、到底現実だとは思わなかった。実はこれは冗談で、起き上がって今日の晩御飯を聞いてくるのではないか。今すぐに家に帰ったら、もう既に家にいて明るくおかえりと言ってくれるのではないか。そんな考えばかりが頭を巡った。

ベッドの傍らに突っ立って動けないままの私を母が見兼ねて、母は私に、最期だからと姉の冷たくなった手をとらせた。

ベッドからすくい上げられた手は、私の思っている五倍は重くて、氷のように冷たかった。その重みは全て私に預けられていて、ぴくりともしなかった。まるで、つくりもののようだった。

私はそこで、初めて泣いた。


そんなことがあったというのに、私の受験勉強は打って変わって何事も問題なく進んだ。姉のルイが亡くなって両親も意気消沈、むざむざとつらい毎日を送っていただろうが、一番下の娘が受験に支障をきたさなかったのは救いだっただろう。それもそうだ。私は日々の辛さと悲しさから逃れるため、現実逃避のために以前よりも勉強に打ち込んだ。家に帰りたくなかったから、放課後は教室に残って勉強をして、もう遅いから帰りなさいと教室から追い出された後は、遅くまで開いている塾へ転がり込んでひたすら教科書と向き合った。テストでは常に学年順位五位以内をキープしたし、進学先の第一希望は、家から自転車で通える地元では一番偏差値の高い進学校だった。

私はあの日から、「想像する」ということをやめてしまった。

やめてしまった、というか、できなくなってしまった。

目を閉じても、やって来るのはだだっ広い暗闇だけ。あの頃のように、光溢れることも、安らぎに満ちることもない。

何もかも、なくなってしまった。

今までに書き溜めた大量のルーズリーフは、勉強机のキャスターの一番下、鍵のかかる引き出しにしまい込んで、鍵をかけた。開けることはなくなった。読むのが辛くなってしまったから。

ルーズリーフを嬉しそうに持って、「めちゃくちゃおもろいやん」と笑ってくれたあの顔が、どうしても脳裏によぎる。その度に、私はこらえきれなくなって泣いた。試しになにか書いた方がいいのかも、とルーズリーフを引っ張り出してシャーペンを握っても、手が震えて文字は書けずに紙は私の涙でぐしゃぐしゃになった。

苦しい。

私は、姉の死と向き合うことから、逃げたのだ。


三回の夏が過ぎた。本に触れなくなって、この世界は随分とちっぽけでつまらないことに気づいた。高校でできた友達はみんな、「彼氏がどう」とか、「流行りのテレビ番組がどう」とかいう、昨日今日の話しかしない。もしも過去の私の中にあったぶっ飛んだ世界の話をしたとして、それはきっと通用しないのだろう。みんな何の話をしているんだろう、とぼうっとした頭で思いながらも、適当に相槌を打っていれば友達はやけにはしゃいで話を続ける。私は大して面白いとも思わずに、それに合わせて笑う。滑稽だった。


「ユイって頭いいよなぁ」

やたら間延びした声でそう言うのは、高校に入ってできた友人である。特段親友というわけでもないが、なんとなく集まって昼休みには一緒に弁当を食べるくらいの仲だ。

「頭いい人羨ましいんよなぁ、うちそろそろ補習呼ばれそうでやばい」

「テスト期間にカラオケ行っとるからやろ」

「それはそう」

常々、頭がいい人イコール元から勉強ができる、という偏見がこの世にはある。それは、私が中学生の頃に聞いた「将来の夢が小説家なんて」とか、「美大生になっても就職が」とかいう偏見を思い出させた。

「ユイはいつ勉強してるん」

「家帰ってもすることないし、学校終わったらずっと」

「え、気持ち悪」

さすがランク高い大学視野に入れてるだけあるねぇ、とこれまた間延びした声でからかわれたが、そんな話は生憎右耳から左耳へ抜け落ちる。

将来のこと。夢。偏見。気持ち悪いという言葉。

全てにおいて居心地が悪い。

私はしかめっ面で、弁当箱に残された冷凍食品の春巻きを飲み込んだ。


つまらない日々は、予想以上の早さで巡った。気づけば季節が二転三転している。私は高校三年生になってしまった。

夏が近づく。じわじわと暑さと湿っぽさが迫ってきているような季節だ。担任の先生に「面談の日程を決めるから、親御さんに予定を聞いてきてね」と告げられた。教室の中では「面談嫌だ」「まだ高校生がいい」とか、ざわめいた会話がそこかしこで飛び交う。私は静かに机の中から進路希望調査のプリントを取り出した。第一希望に書かれているのは、国公立、四年制の文系大学である。

「ユイちゃん頭いいから安心やね」

「模試もいい感じやし」

「これやったら大丈夫そうやな」

先生も、親も、祖父も祖母も、姉も、勝手なことを言う。その度に私はへらへら笑ってはいそうですねと返す。

私は、どうしたらいいのだろうか。


これからも書けよ。

やめたらあかんで。

続き読むの、楽しみにしとるから。

頭の中に、その言葉がこびりついて離れない。


暗くなっても蒸し暑い熱気の中、私は汗を飛ばしながら自転車を走らせている。

二十一時。街灯のほぼない田舎では暗闇が幕を降ろしているが、塾通いの高校生には珍しい時間でもない。今の私は言うなれば勉強の虫である。

毎日学校が終わると、授業で分からないことがある時には足しげく職員室へ通い、そこそこに先生との絆を深めつつ、学内に設けられた自習室で自販機のカフェオレをお供にして二時間は苦手な教科の勉強。十八時に閉まる自習室を後に通っている塾へ自転車で向かい、塾では先生とマンツーマンで小論文と模試の対策を一時間半ずつ。計三時間。気づけば夜は更けている。あとは帰って冷蔵庫に入った冷えきった晩御飯を一人でつついて風呂に入って、次の日の小テストに出るであろう内容を復習するだけである。毎日その繰り返しだ。

決して涼しくはない夜の道を走る。田舎の夜は車通りが少なくて、自転車乗りにはありがたい。いつも使っている裏道をくぐり抜けると、少し広い道路に出た。

私は自転車を止める。目の前に、朝には無かった看板が立ちはだかっていたからだ。工事中ですの文字の横に、ヘルメットと作業着を身につけたキャラクターが丁寧にお辞儀をしている看板。工事が始まるとは聞いていたが、まさか今日からだったとは。私は自転車をぐるりと元来た方向へ向けた。ここからは帰れないから、別の道を探すしかない。

私は自転車のペダルに足をかけ、颯爽と夜の土手へ向かった。田舎の土手には街灯が無い。危ないからあんまり使うなよ、と言ったいつかの母親が脳裏をよぎったが、今はしょうがないとため息をつく。唐突に空腹を感じて、スピードを上げた。

土手を走るのは何年ぶりだろうか。蛍を見に行かなくなってからはせいぜい車で通るぐらいしかしていなかったから、それを除けば三年か、四年ぶりくらいになるのかもしれない。

静かな夜だ。

私は、忘れていた。

初夏の風が、鼻をくすぐった。

ふと、ペダルを漕いでいた脚が止まる。何故だろう、理由は分からないけれど、何故か私は止まってしまった。止まらなければいけない、と思った。

私は、目を見張った。

街頭ひとつない夜の闇。土手のそばを流れるせせらぎ。少しだけぬるい、初夏の風。―そして、明滅する光。まさしく、あの時の光景が、そこにはある。

頬が濡れている。私は泣いていた。あるがままに。素直に。赤裸々に。

どのくらいそうしていたか分からない。ただ自転車を降りて突っ立っていた。そんなことをしていたら、人を怖がるはずの蛍が、いつの間にか私の自転車のカゴにとまっていた。二度三度、ぼんやりと光って、また川べりにするりと飛んで行く。まるで、私になにか伝えようとしているみたいだった。

書きたいと思った。今この手で、この情景を。この美しい景色を。私が見た世界を。私の言葉で。書かなければいけない。文字に、物語にしなければいけない。私は、諦めることができない。


とにかく漕いだ。私は全速力で漕いで、今までに見たことがないくらいの速さで家に帰った。いつものただいまも言わず、冷蔵庫も開けず、晩御飯を食べなければとも思わず、明日の小テストの予習のことも考えず、二階にある自分の部屋へ駆け上がった。途中で母親にご飯はどうだとか言われたような気もするが、そんなことどうだっていい。

勉強机のキャスターの一番下の引き出し。姉が亡くなってから一度も開いたことがなかったそれ。はやる気持ちで、本棚に隠していた鍵を手に取った。手は緊張でじっとりと汗ばんで、思わず滑り落としそうになるし、鍵穴に上手く刺さらずに鍵の先と穴がぶつかる。やっとのことで、キャスターが開いた。

不意に、音がした。紙の擦れ合う音。自分の書いた大量のルーズリーフかと思ったけれど、それにしては引き出すキャスターが重い気がする。

音の正体は、白い封筒だった。それもひとつではない。積み重ねあげたルーズリーフの奥に、十通か、二十通か。はたまたそれ以上あるかもしれない。こんなもの、私は入れた覚えがない。

ひとつひとつ綺麗に封をされた封筒を引っ張り出す。氏名も宛先も何も書いていない、真白い封筒だ。涙に濡れた頬を擦って、私は封を開けた。

『あんたの書いた『ホタル王国の冒険』読んだで!最後の、横暴な王様が追放されるのスカッとしたわ…』

右斜めにつり上がった文字は、紛れもなくルイ姉ちゃんのものだ。知らなかった。こんな風に感想をくれていたことも、この中に忍ばせてあることも。

『あんたやったら、作家になれる!絶対!というか、なりたいんやったら諦めたらあかんでー!私も絵描きなりたいねん。一緒に頑張ろうな!』


これからも書けよ。

やめたらあかんで。

続き読むの、楽しみにしとるから。


耳の奥で、あの日の言葉が反響する。新品のルーズリーフと、シャープペンを取り出した。私はあの日の言葉に答えるように、そっと目を閉じる。

もう、暗闇だけではない。私の目の前にあるのは、暗闇の先に広がる、淡く明滅する光だった。

課題で書いたものを持ってきました。時間をかけて書いたのですがなかなか楽しかったです。

同じものをNoveleeさんの方にも上げています。

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