第六話
あやかしとは、人の世のことわりから外れたもの。
百年生きた狐。尻尾の割れた猫。人語を介するようになった猿。
ふとした切っ掛けで人知を超える力をもってしまった動物たちの、成れの果てだ。
「あれは、成欠だな」
「なりかけ?」
宵に引っ着いて行った先で明が見たのは、どす黒い瘴気を放つ鹿だった。
村では山の実りも減って、農民だけでなく猟師連中も困窮している。山の恵みが減れば、それを頼りにしていた動物達も減る。必然的に、獲れる獲物も減った。
そんな昨今ではお目に掛かるのが珍しいほどの、立派な角を持った牡鹿。それが、人である明の目にも見てわかるほどおぞましい気を放ち、木々の間からこちらを見ている。
「あやかしに成りかけているものだ。百年以上生きた獣や、なにかの切っ掛けで強い感情を得たものが成る。吾とアケルの晴れ姿が見たくて来てしまったかな?」
「姫様、悠長に冗談を言うておる場合じゃありませぬぞ。我らの力に吸い寄せられているのですじゃ」
「ウメやモモの時と違って、五百年ぶりの正式な嫁入りだからな、山中のあやかしを集めてしまった。すまぬばあや、張り切りすぎた」
「んも~~~!」
姫神は、ばあや、じいやと冗談めかしながら牡鹿へ近づいていく。あんなに禍々しいのに、彼らはさすがは神と言うべきか、臆する様子もない。
来るなと制されたが、明も後へ着く。
「強い感情……ってのは?」
「あれは憎悪だな。見ろ、手負いだ」
細い指が差した箇所を見れば、牡鹿の後ろの腿には折れた矢が刺さっていた。埋まった矢じりの部分から、血に似た黒い液体がどろどろと零れている。
「ああいうナリカケは、あやかしに成ったら一番思いの強いところへ行く。今回は集まった吾らに引き寄せられてしまったが、本来なら、あの手傷を負わせた相手。このあたりの人里ならお前の村だろうな、アケル」
「え……っ」
「主様、どういたしますじゃ?あれは此方へ留めておくわけには……」
「そうだな。あやかしに成ればこちらへ引き入れてやれるが、あの状態ではまだ暴れそうだ。先に恨みを晴らさせてやった方が良いだろう」
「では、よしなに」
鬼灯は軽く頭を下げると、雛罌粟と他の小さなあやかしを伴って牡鹿へ近づいていった。
牡鹿は未だ、こちらへ刺すような視線を送っている。赤く染まった目は、明を、人間すべてを殺そうとしているのだ。
「待ってくれ!それって、村に行かせるってことか!?」
「そうだ。鬼灯たちがうまく誘導してくれる。あの様子なら、傷を負わせた相手がいなくても、人と見れば殺して回るだろう。喜べアケル、お前を虐げた奴らは、皆あやつが殺してくれるぞ」
明を振り返って少女は、笑った。
風もないのに銀糸の髪が広がる。
紅の端、八重歯のように見えていたものは、鋭い牙だった。
「そんなの、だめだ……」
「何故だ?お前を虐げた村だろう?」
「でも、村の人を、皆を、殺すなんて……」
皆殺してくれるぞ、と言われた時、あの者達がいなくなるのだと思った時。
本当は、心の端がすくような思いがあった。
けれど、村にはまだ生まれたばかりの赤子もいた。明を虐げていた者とは関係のない子供もいた。
黒くなりそうになる感情を振り払うように、明は頭を左右に振る。
それを宵は強く掴んで、無理矢理に目を合わさせた。
「アケル、その体の傷は誰につけられた?小さなお前が虐げられていると知っていながら、見殺しにしたのは誰だ?」
覗き込んではいけない金色は、こわいくらいの光を携えている。月のない夜のようで、恐怖はあるけれどどこか安堵もある。
明はその両手の上に、そ、と自分の手を重ねた。
あたたかな娘の手。人間と同じだ。
「それでも、あそこは……俺達の育った村だ。あの子が救おうとした村なんだ」
異母兄や義母の目を盗んで、少女と遊んだ小さな沢。夕焼けの空に流れた大きな雲。捨てられてしまった椛の葉。あの子に贈った花冠。
辛い思い出だけではなかった。
綺麗なものと、痛みを伴うものと、楽しいものと、思い出すと苦しくなるものと。全部があった。
「……娘が言ったのか?最期に」
見透かすような瞳に、明は深く頷いた。
あの子の最後の言葉を、伝えなければ。そのためにここへ来たのだから。
これは、明だけが知っていること。
あの子は、生贄の花嫁になる晩に、池に身を投げる直前に祈りを捧げた。村を救ってほしいと。
『山神様へこの命を捧げます。けれど、せめてこの身体は、大切な村に沈めさせてください』
そこまで聞いて、宵の細い手が離れた。
「彼女は本当は逃げ出したんじゃない。最後まで祈って身を投げた。俺は、その祈りを、皆に伝えるべきだったのに」
あの子は本当は怖くて悲しくて、生贄になるのなんて嫌だった。
けれど自分が逃げれば、誰かが替わりにされる。そんなこと、出来ない。
幼馴染にもその心の内を告げず、一人泣きながら、せめて死ぬのなら自身の尊厳だけは守りたいと、決意した。
明は目の当たりにした少女の死と祈りの気高さに、ただ恐怖して逃げ出すことしかできなかった。
もとより、村で無いものとして扱われていた明が彼女の死の理由を伝えたところで、どのくらい説得力があったかはわからない。
その後に明ができたのは、失われた彼女の身代わりになることだけだった。
「幻滅しただろう?俺は、花嫁になれる崇高な器じゃない」
あの子が魂を捧げたのなら、一緒に行けなかった明にできるのは、この肉体を捧げることだけだ。
見上げる宵の瞳が、ふ、と陰った。
悲しそうな顔は、あの子が笑った顔に似ていた。
「……吾には理解できぬ。どちらも。贄など、意味のないものなのに……」
「神々にはそうだろう。けれど人間には、生贄が必要なんだ。俺のような」
「いらない!勝手だ!人間はいつも!」
ぶわ、と大きく姫神の尾が揺れた。
彼女の髪と同じ銀のそれは、風を起こして怒りの感情を伝えてくる。
「吾は……お前やその娘のような子らが健やかに暮らせるよう祈りを絶やさずにいたのに、少し天が荒れただけで勝手なことをする!誰が贄を寄越せと言った!」
駄々をこねる幼女のように、尻尾を揺らしたまま宵は明に縋りついた。背は、もともと少年である明の方が幾分か高い。
あんなに大きく見えていた彼女が、急にただの少女のようになってしまった。
何を言っても冗談のように交わしていた山神が、本気で怒っている。
「姫様、いけません!成欠が!!」
姫神の声に引き寄せられたのか、里へ下りかけていた鹿が、脚を向ける方向を変えた。まっすぐにこちらへ駆けてくる。
片脚を怪我しているとは思えない速さで、小さなあやかしたちを蹴散らして。
その淀んだ目に写っているのは、宵闇に輝く月に似た、銀の乙女だけだ。光を見失った牡鹿には、縋りたいほど眩しいだろう。
「案ずるな、アケル。吾ら神はな、お前たち人間をひとしく愛しているだけなのだ」
明の着物を掴む少女のちいさな手に、力が籠った。
草地を踏む音が止まる。
体が弾かれ、少女の身が明の腕の中から飛び出た。
無防備な胴に、牡鹿の鋭い角が深々と刺さる。
息をしようとした口からは代わりに鮮血が流れて、宵の白い衣装を汚した。