前世持ちだからって、断罪回避できるとは限りません!
なろう初投稿です。よくある悪役令嬢転生モノだと思います。よろしくお願いいたします。
この光景は、何度も夢に見た。
「みんな、聞いてほしいことがある!」
兄と婚約者の卒業パーティー。そのシーンは、王太子である愛しの婚約者様が可愛らしい女生徒と共に壇上に立ち、さわやかで優しげだが威厳のある声でホール内でパーティーを楽しむ生徒たちに声をかけるところから始まるのだ。
「レイチェル・シャーリンガム公爵令嬢。貴女は王太子である私と親しいというだけの理由で、このアリシア・リックストン伯爵令嬢に数々の嫌がらせをし、仕舞には暗殺者を差し向けた!」
大丈夫、大丈夫、今までずっと、これを回避するために頑張ってきたのだから。レイチェルはざわざわと波打つ心を努めて沈めながら、ごくりと一つ唾を飲み込むと、一歩前に出る。
「恐れながら殿下、わたくしは断じてそのようなことは……」
「言い訳は無用! こちらには証人もそろっているのだ! そのような卑劣な手段をとる罪人は国母として相応しくない! よって今晩限りでレイチェル・シャーリンガム公爵令嬢との婚約は破棄、そして貴族の暗殺を計画した罪で、国外追放とする!」
王太子はサッと後ろに控えていた数人の、レイチェルにとっては見覚えのある顔ぶれの令嬢を示す。扇子で口元を隠してこちらを伺う彼女らに、レイチェルはギリッと奥歯を噛む。
「お言葉ですが殿下、数人の令嬢の証言のみでは証拠には……」
「黙れ! まだ自分の罪を認めぬか! お前のような卑しい女の言い分など聞かぬ! 衛兵、連れていけ!」
しかし、言いかけた言葉を怒気をはらんだ鋭い声に遮られ、どこから出てきたのか真新しいの鎧をつけた大勢の兵士が現れる。ホールには大きなざわめきが起きるも、兵士たちはさも当然のようにレイチェルの腕を拘束した。抵抗する気も起きずに呆然としていると、横にいた同級生が困惑したように口を開く。
「で、殿下、何かの間違いで……」
「そして! 私、王太子アルフォンソ・エルネリア・ハウニアは今ここに、アリシア・リックストン伯爵令嬢との婚約を宣言する! 皆、私とアリシアの真実の愛の証人となってくれ!」
しかし弁明しようとした彼の言葉が聞こえなかったかのように、王太子は高らかに言い放つ。あたりは一瞬しん、と静まり返ったが、やがて王太子の後ろにいた、レイチェルの罪の証人だという令嬢たちから拍手が沸き起こり、それからその他の生徒たちもそれに合わせて手をたたき出す。その拍手喝采の中、レイチェルは兵士によってホールから手荒に引きずり出された。
ホールの外のエントランスでは、兄と乳兄弟がなんの騒ぎだと二階の小ホールから下りてきているところだった。彼らに声をかけようとするも、兵士に無理やり口をふさがれる。そしてそのまま建物から出されると、用意されていた質素な馬車に乗せられ、外から鍵をかけられた。
訳の分からない状況というわけではないが、どうしてこうなったのかがわからない。体の震えが止まらず、窓の外を見て呆然と考える。何故、何故。
(悪役令嬢転生モノって、ハッピーエンドが相場じゃありませんの!?)
レイチェル・シャーリンガム公爵令嬢が前世の記憶を得たのは、自身の10歳の誕生日パーティーの日だった。
侍女に完璧に身支度をされた後、部屋に届いたバースデーカードに書いてある自身の名を眺めていた時、突如頭痛に襲われたレイチェルは、自身の頭の中に妙な映像が流れてくるのを感じた。
見覚えのない大きな建物、落ちそうになる子供を扶けようと自身の手を伸ばしたところでひっくりかえる視界。新品のスーツ、感染症、マスク、受験、制服、スマホ、アスファルト……突如として次々に頭の中に現れる全く知らない自身の記憶にレイチェルは混乱した。
しかしながらその日は王太子がパーティーに参加するとのことで、王太子妃候補であるレイチェルに休むという選択肢はなく、頭痛に苛まれながらも主役としてバースデーパーティーに参加した。そんな状態で臨んだパーティーについては、もちろん正直なところ何も覚えていない。
袴、振袖、制服、ランドセル。一人の女の一生分の記憶を見終えたとき、どうやらパーティーの途中で倒れたらしく自室のベッドでパチリと目覚めたレイチェルは、完全に「前世で現代日本の成人女性だった自分が、死んだ後にレイチェル・シャーリンガム公爵令嬢という自分に転生した」ということを理解していた。
鏡の前に立ってみれば、金髪にキリッと気の強そうな釣り目の美少女がこちらを見ている。前世の記憶の中でも見覚えがあったその姿に、彼女は愕然とした。
レイチェル・シャーリンガム公爵令嬢というのは、彼女が前世で死ぬ直前、少しだけプレイしたことのある『運命の選択~失われたフェアリーリング~』という恋愛ゲームに出てくる、悪役令嬢だったのだ。
恋愛ゲーム『運命の選択』シリーズは、竜や魔法や伝説の剣といったものが普通に存在するファンタジー世界、ミリグランド大陸を舞台にイケメンな攻略対象たちと恋をしたり冒険をしたりという王道恋愛ゲームである。その記念すべき第一作『失われたフェアリーリング』は、建国500年の古い歴史を持ち大陸の中で最も栄えたハウニア王国を舞台に、平民育ちのヒロインが貴族たちの通う魔法学院で恋に落ちる、という話だった。
その物語は、孤児院で暮らすヒロインが町で暴漢に襲われている男性を助け、その時自身に膨大な魔力が眠っていることを知るところから始まる。庶民でそこまで大きな魔力を持っていることを訝しんだその男性、ハウニア王国の王太子が調べたところ、リックストン伯爵という貴族の隠し子であることが判明し引き取られる。そしてその後、王太子が直々に恩人であり強い魔力の持ち主であるとして王立魔法学院へヒロインの推薦状を出したことで、魔法学院での忘れられない3年間が始まる……というまあよくあるシナリオだった。
その物語の中でのレイチェル・シャーリンガム公爵令嬢は、ヒロインの同級生であり、ゲームパッケージのセンターを飾っている笑顔が素敵で次代の名君と名高い完璧プリンス王太子の幼い頃からの婚約者であり、そして更には他の攻略対象、オレ様第二王子の乳兄弟であり、堅物宰相息子の妹であり、年下天才研究者新興貴族の出資元であり、年上騎士団長息子の可愛い妹分なのである。
とまあおわかりであろうが、彼女はヒロインと攻略対象の前に最初に立ちはだかる障壁なのである。そしてその役柄は爽やかな恋敵などではなく、ヒロインに陰湿ないじめをする卑劣な令嬢であった。彼女は攻略対象たちの好感度いかんにかかわらず物語の中盤、ヒロインより一歳年上の王太子と宰相息子の卒業パーティーのときにそれまでの罪を責められる、いわゆる「断罪イベント」が起きて、ルートによって刑罰は異なるものの王太子ルートは処刑、軽い第二王子ルートでも生家に幽閉後暗殺など、悲惨な最期を遂げる役どころだ。
彼女は前世で王太子ルートと第二王子ルートまでしか攻略できなかったが、二次創作やSNSでのファンの口ぶりではどのルートでも国外追放後行方知れずなど碌な目に遭っていないらしい。それに加え、ヒロインが自身の卒業式の日に攻略対象と共に世界の危機を救った後のエンディングでは、ヒロインを殺そうとした悪の魔女として語り継がれていく描写があった。
そんな記憶を取り戻す、否、得てしまった彼女が愕然とし、突然泣き出してしまったのも無理はないだろう。確かに彼女は前世では成人してから死んだ女性だったかもしれないが、今世ではまだ10年も生きていない子供だったのだから。
しかし、そんなことでいちいちずっと落ち込んでいるような精神ではないのが流石は悪役令嬢と言ったところか。突然大泣きし始めたレイチェルに驚いた侍女や、執事や父母まで動員して慰められたのち、彼女は決意した。
絶対に断罪エンドを回避してやる。死んでなんかやるものか。前世の記憶の中には確か、悪役令嬢に転生しても自分から婚約破棄するとか、真面目に勉強するとかの回避行動をとって幸せになっている小説があったじゃないか。確かに王太子妃になって人々に傅かれたかったし、そのためにこれまでいろんな子を蹴落としてきたし、贅沢はしたいし勉強は嫌いだしちやほやされたいけれども! 死んでしまっては! おしまいなのである!
そう決意したレイチェルは早速父親に王太子の婚約者候補を辞退したい旨を伝えた。しかしながら、もう既に内定しているため無理であると言われてしまった。というか数人いた筆頭候補を全員、記憶を取り戻す前のレイチェルが虐めて辞退させた時点で、もう彼女の辞退は許されない状況になっていたらしい。
初っ端出ばなをくじかれ一瞬放心したが、しかしレイチェルはあきらめない。こうなったらプランBだ。品行方正な婚約者を演じ、なるべくヒロインには近づかないようにする。あと、周りに味方をつける!
そう思ったレイチェルは、王妃教育を真面目に取り組んだ。ゲーム本編での悪役令嬢は、王妃教育をいつもほっぽり出して乳兄弟の第二王子と遊んでばかりだったという設定だったが、レイチェルはいつも遊びに誘ってくる彼も巻き込んで一緒に勉強した。それから慈善事業に参加したり、それまで顎で使っていた使用人に優しくなったりした。皆一体どうしたのだと最初は目を剥いていたものの、やがて王太子の婚約者としての責任感が芽生えたのだ、と好意的に接してくれるようになった。
また苦手で嫌いだった勉強もたくさんやっているうちにだんだんわかるようになってきたし、それに加えて国民の声を聞きながら政策を立てたり、さらに調査をしたりということの面白さややりがいも、まあ少しは理解できるようになった。
前世の記憶を得たとはいえ、それはあくまでそれは前世の自分の人生を垣間見たに過ぎず、彼女の本質は悪辣な令嬢だ。しかし、本人は自覚していないのだろうが、それなりの苦労を経験した女の人生の記憶を得たことで、少しだけ、ほんの少しだけ、見知らぬ子供を庇って死ぬようなお人好し女の性格に寄ってしまったのは確かであった。
そして16歳になる年、ついにゲーム本編の舞台である王立魔法学院に入学したが、同級生には案の定ヒロインであるリックストン伯爵令嬢がいた。公爵令嬢であり王太子の婚約者という肩書に寄ってきた取り巻きの一人が、入学式の時にアリシア・リックストンと王太子が親し気にしていたとわざわざ知らせてきたのだ。
ゲームでのシャーリンガム公爵令嬢なら「下賤の生まれの女が殿下に近寄らないでくださる?」と言いに行くところなのだが、レイチェルはそんなことはせずになるべく彼女を避けた。とりあえずその辺にいる他の令嬢たちと同じように扱ったし、気にしないようにして過ごした。というより、こちらから近づいていかなければクラスも違うので関わり合いになることがなかったのだ。
そうして平穏に過ぎていった学院生活。アリシアと王太子が仲睦まじくしている姿を見かけても、まあ予定調和であるし処刑されなければいいか、と放っておいたし、アリシアが王太子の一声で生徒会に入ったときもまあヒロインは優秀だそうだし、と何も言わなかった。
取り巻きさんたちは文句を言っていたが、気にしない何もしないレイチェルにやがて何も言わなくなったし、それが気に食わない者は離れていった。
レイチェルは確信していた。自分はゲームの悪役令嬢のようにアリシアをいじめたことは一度もないし、婚約者を変えたいというのであれば喜んで応じる。まあ今までの勉強が無駄になるのはもったいないがとりあえず安寧に暮らすことが出来るなら万々歳! と、安心して断罪イベントが行われるはずだった王太子の卒業パーティーに参加した、のだが。
鉄格子のつけられた窓の向こうで次々に流れていく景色を視界に入れながら、レイチェルはぼんやりと考えていた。
(これが、ゲームの強制力というものでしょうか……)
あれだけ頑張って回避に努めたというのに、断罪イベントは起こってしまった。言い渡されたのは処刑ではなく国外追放と一段下がった処遇だったが、一言も抗議することもできず、問答無用で拘束された昨夜の出来事は前世の記憶にあった王太子ルートの断罪イベントそのものだった。
ガタガタという衝撃が直接体に響くのは身体に応える。これまでは生家の公爵家や王家の馬車に乗る機会しかなかったレイチェルの身体ではなおさらだ。レイチェルは護送馬車の向かいの椅子に、自身とは違い拘束具をつけずに座っている侍女に声をかける。
「いいかげん泣き止んで頂戴メアリー。わたくしだって泣いていないのだから貴女がそんなに泣く必要はないでしょう」
「でも、だって、お嬢様……」
レイチェルは内心少しうんざりしながら、腕につけられた枷の鎖をジャラリと鳴らしながらその肩に手を置き、さめざめと涙を流し続ける侍女メアリーを宥める。
王太子の卒業パーティーで国外追放を言い渡された後、とりあえず生家のシャーリンガム侯爵家で謹慎を命じられたレイチェルだったが、翌朝日が昇る前には、公爵邸の前に罪人用の格子がついた馬車が迎えに来た。
刑罰を言い渡された後、こんな急に執行されることなど前代未聞であり、また昨夜の突然の婚約破棄に王宮へ直訴しに行こうとしていた父公爵は、そんな無礼に重ねて愛娘を罪人扱いだなどと、と抗議した。しかし昨夜と同じく真新しい鎧に身を包んだ兵士は、王太子の命である、の一点張りで取り付く島もなかった。かろうじて小さな荷物をまとめ、また見送りに使用人を一人つけることを許されたが、レイチェルは無理やり拘束具をつけられ、半ば引きずられる形で馬車に押し込まれた。そして家族とまともな別れをすることも許されず生家を後にしたのである。
国外という長旅だというのに、迷わず真っ先に見送りをすると言って馬車に乗ったくれた侍女メアリーは、幼い頃から面倒を見てくれた姉のような存在であり、馬車に乗ってからずっと泣いている。ありがたい話だが、悪徳令嬢レイチェルからすると正直うっとうしいのである。
「大丈夫よ、あてはあるの。教会を頼れば悪いようにはならないわ」
そう、レイチェルがあまり悲観していないのは、これまでの慈善事業で築き上げた信頼関係があるからだ。大陸正教会はハウニア王国の国教ではなかったが、国を跨いで広がる無視できない宗教権力であり、各国で慈善事業を展開していた。
妃教育の一環として国内で民のための慈善事業をしていたレイチェルとはある程度協力関係を結んでいたこともあり、入信すれば快く受け入れてくれるだろうことは想像に難くない。そう、レイチェルはこのような最悪の事態になったときのことを考えて、慈善事業なんていうしちめんどうくさいことにも着手したのだ。
「それでも、あんなに頑張って勉強なさったお嬢様が、こんな仕打ちにあうなんて……それにあの王子が、お嬢様なしでやっていけるなんて思えません! あんな顔だけ令嬢選んで! この国はもう終わりです! お嬢様がどれだけ教会を通じて他国と信頼関係を気付いてきたか!」
レイチェルの努力をどう思っているのか相当悔しがっているメアリーに、レイチェルは苦笑いをした。確かに少し悔しさもあるし、アリシアに王妃が務まるのかという点は疑問であるが、まあゲームの中の王太子は体調の優れない王に代わり学業と両立しながら政務をこなしているという設定であったし、ヒロインはそんな彼の重圧や孤独を癒して結ばれていたのでまあ国は何とかなるだろう。
それにこれだけ回避行動とっても結局断罪された自分がいるわけだし、2人がどんなボンクラだったとしても、そこはゲームの強制力でいい国王と王妃になるのではないかと思っている。
(まあ、一年後の大厄災を防いで世界の英雄になられるわけですしね)
そう、ゲームストーリーのラスト、ヒロインと攻略対象は共に世界を救う。そうなれば恐らく教会も周辺諸国もハウニア王国に対し敬意を示すはずだ。
(そのシナリオのためには……悪役令嬢はきれいさっぱり退場しなければならない、ということね)
大きくため息をつきながらも、とりあえずあの二人であれば国を悪いようにはしない、というかできないだろうと脱力する。あとはまあ、そんな祖国が栄える様子を、自分は外から穏やかに眺めていられればそれで十分だ。
しかしながら、太陽が沈むのを二度ほど見送り国境を超え、さらにもう一度沈むのを見たあたりで、レイチェルは少し焦り出した。馬車はいつになったら自分を下ろすのだろうか、と。国境はとうに超え、もう自分の足だけでハウニア王国に戻るのは難しい距離まで来ているはずで、このあたりでいいだろうと思うのだが、目的地はまだまだ先らしい。
やがて更に数度太陽が沈むのを見たところで、いくつめかの国境を越えた。そのあたりで突如ガタガタと道が悪くなり、さすがにレイチェルは青ざめてメアリーと顔を見合わせた。
そしてそこから数時間経ったところで、馬車が停まった。休憩かと思ったが、馬車の扉を乱暴に開けた兵士は、レイチェルの手に嵌められていた枷を外し、荷物と共に外に放り出す。
「お、お嬢様!」
「動くな。これ以降罪人との接触は反逆罪とする」
「な、何を……」
地面に打ち付けられたレイチェルにメアリーが駆け寄ろうとするも、兵士がメアリーの前に腕を出して制止する。
「そんな、ここは……どうして、どうしてお嬢様がこんな〝世界の果て〟なんかに! 王太子殿下は……」
「メアリー」
兵士に言い募ろうとしたメアリーに、レイチェルはスッと立ち上がると静かに声をかけた。とっさに受け身を取ったものの息が詰まったし背中が痛いが、これ以上言ったらメアリーまで罰せられてしまう。
「平気よ。ここまでありがとう、元気でね」
「お嬢様、そんな、そんな……」
涙を浮かべたメアリーの前で扉が閉まる。今度は鍵はかけられなかったが、すぐに馬車が動き出し方向を変える。
「彼女はきちんと無事に公爵家に送り返しなさい。でなければ父が何をするかわかりませんよ」
「はっ、大口をたたいていいのか元公爵令嬢さんよ。あんたはもうただの罪人だ。ハウニア兵士の俺たちにそんな口をきいていい立場じゃないんだぜ。まあ二度と会うことはねえだろうがな!」
御者の兵士に声をかけるが、男は嫌な笑みを浮かべて鼻で笑ってそう吐き捨てると、馬に鞭を打った。馬の嘶きと共に大きな土ぼこりを立てて、馬車は出発した。
「お嬢様! どうか、どうかご無事で! いつか必ず、助けに参りますから!」
メアリーの声が聞こえ、レイチェルは微笑みながら手を振った。悪役令嬢らしくワガママだった頃から見捨てずにいてくれた彼女だ。どうにか心配せず過ごして、幸せになってほしい。
馬車が見えなくなるまで見送った後、否、見えなくなるまで呆然と立ち尽くした後、レイチェルは乱暴に放り出された荷物を拾い上げあたりを見渡す。
地割れのある乾いた地面が続くかと思えば、少し向こうには鬱蒼とした森、更に向こうには砂丘なども見える。魔物が闊歩し、気候や環境も全てが理の外。
およそ人の住む場所ではないと見放されたミリグランドの最西端、通称〝世界の果て〟。そしてレイチェルは、そんな荒野の真ん中にどっしりとたたずむ城郭都市へ目をやると、ぽつりとつぶやいた。
「まさか、教会の威光も届かない場所に連れてこられるとは……」
どうやら王太子は心底レイチェルが嫌いらしい。しかしこうしていても仕方ないし、本来王太子ルートなら問答無用で処刑だというのに今でも生きているなら儲けものだ。レイチェルは大きくため息をつくと歩き出す。どこの国にも属さず、人の世の理から外れた者たちの楽園と名高い、最果ての町・ダンザルへと。
「ですから、お金ならありますのよ。相場の倍は出していると思いますけれど」
「悪いねえお嬢さん、それだけじゃ泊めてやれねえんだよ」
頑丈な防壁に囲まれた城郭都市、ダンザルへ入ったレイチェルだったが、いきなり危機に陥っていた。なんと、どこの宿も店も、レイチェルのことを中に入れてくれないのだ。
街の入り口での身元確認は、流石は荒れくれものの町と言ったところで非常に軽く、ハウニアの罪人だというレイチェルのこともすぐに中へ入れてくれた。これなら、トランクの二重底の下に隠し入れた金貨と宝石でなんとか食いつなげるだろうと思っていたのに、大誤算である。
「こちらはハウニア金貨です。それにこちらは純金の時計。これで足りないとは言わせませんよ」
ハウニア王国は大陸の中でも最も栄えている国であるため、現地通貨よりも価値が高いことも多々ある話だ。しかし宿の主人は一瞬目を見開いたものの、すぐに首を振った。
「そういう話じゃねぇんだ。これは町の決まりでね。お前さんそれなりに地位のある人間だろう? 面白半分で観光に来たんだか知らねえが、今から馬で引き返せば夕方までにはスエージ国まで戻れる。悪いことは言わねえからそっちで宿取って帰んな」
しっし、というように手を振って追い返す店主に、レイチェルはグッとこぶしを握った。馬で引き返せば、ということは歩けば何日もかかると言うことだし、そもそもハウニアの罪人であるレイチェルは簡単には他国に入れないだろう。
それから町の宿屋には片っ端から入るも全て断られ、更に一息つこうと料理屋に入ろうとするも断られた。仕方がないので適当に屋台で食べ物を買って食べながら、レイチェルは途方に暮れた。こんなに大きな町なのに、泊まれる場所が一つもないだなんて。
城壁の上に繋がるらしい、町の端にある階段に座ってぼんやりしていると、身体の奥からメラメラと今更やり場のない怒りが湧いてくる。
自分が一体何をしたって言うんだ。むしろ何もしていなかったでしょうが。ありもしないことをでっちあげて、証人って何だ証人って。王太子の後ろにいた令嬢たちは、皆元々レイチェルの周りにいた令嬢たちだ。いつリックストン伯爵令嬢に寝返ったんだ。
なんであんなでたらめを信じるんだあのポンコツ王太子め、ゲームでは完璧プリンスだったのにコロッと騙されて、実際はただの甘ったれ坊ちゃんだったじゃないか。
なんで信じてくれなかったんだ。みんなみんな、どうして無実を証明してくれなかったんだ。どうしてあんな王太子の言うことばかり、いつもいつもどうして。
ほろりと涙が流れ、しかし決して泣くものかと嗚咽を抑えながらじっとしていた。しばらくずっとそうしているうちに相当な時間が経っていたらしく、涙が収まる頃にはすっかり日も暮れていた。
やがてレイチェルは、星が瞬く空を見上げて大きく息をつくと、スクッと立ち上がった。どうにかして泊まる場所を探さなくては。先ほど親切に忠告してくれた宿屋の主人に、下働きでもさせてもらえないか聞きに行ってみようか、と鞄を持ち上げた。その時。
「……何!? 離しなさっ……んんんー!」
階段の傍に隠れていたのか、大柄な二人組の男がグイッとレイチェルの腕を掴むと、そのまま羽交い絞めにして建物の間の小さな路地に引きずり込んだ。
「おおっと叫ぶなよ。女がこんな時間に独り歩きなんざ感心しねえなあ」
叫ぼうにも口が塞がれて声は出ないどころか息もしづらいのだが、男たちは下卑た笑いを浮かべてそう言いながらレイチェルを地面に押さえつける。
「やっぱりな。こいつ、〝石〟を持ってないぜ」
「そうかそうか、こんなところでこんな根なしの上玉が転がってるとはなあ。荷物の方はどうだ」
そう言うと一人がレイチェルが持っていた荷物に手をかける。しかし中を見た男はがっかりとした声を上げた。
「襤褸しか入ってねえよ、しけてんなあ」
男は二重底には気づかなかったらしく、中に入った質素な服を出して見せる。しかしもう一人は眉を上げた。
「馬鹿野郎、確かに古いが物は貴族が着るような上物だ。それにこの白い肌、なんでお貴族様が護衛もつけずこんなところいるのかは知らねえが、コイツは高く売れるぞ」
ニタリと笑いながら言う男に、レイチェルは身が竦み上がり暴れる。体に擦れる石は痛いし、更に男の抑える力が強くなったが、それでもレイチェルはもがいた。
なんで、自分がこんな目に遭わなきゃならないんだ。頑張ったでしょう、嫌いな勉強も頑張った、いろんな人に優しくしたし感謝した、贅沢も控えた、子供を守った、民の暮らしをよくしようと思っていろいろやったりもしたのに。そんなの、全部全部奪われて、こんなところで売られるために頑張ったんじゃない!
「このクソアマ……」
男が腕を上げるのが見え、予期される衝撃に反射的にギュッと目を瞑る。しかし男の拳が飛んでくることはなく、代わりにゴフッと言う呻きと共に突如息がしやすくなった。驚いて目を開ければ、レイチェルを抑えていた男が宙に浮いているのが見えた。
かと思えば次の瞬間男の身体が地面に落ちる。男は何が起きたのかわからず目を白黒させていた。
「っ……な、何しやがる!?」
突然吹っ飛んだ相方に、荷物を漁っていた男が慌てて声を上げる。その視線の先、路地の入口には細身の人物が目を爛々と光らせて立っていた。長剣と短剣を腰に佩いた、騎士のような容貌のその人は、レイチェルをちらりと見てから再び男たちを見据える。
「退け。その方はセレスト様が貰い受けることとなっている」
「なっ……セレストだと!?」
声音からどうやら女性らしい騎士が静かな声でそう言うと、男たちはサアッと青ざめる。すると、路地の外からカツカツというヒールが石畳を打ち付けるような音が響いてきた。
わざとらしいくらい大きなその音に何事かと眉を顰めると、不意に女騎士がスッと身を引く。するとその背後から、シンプルなデザインながらド派手な赤色のドレスを身に纏った女が、肩で風を切りながら姿を現した。
「オーッホッホッホ。お久しぶりですわねレイチェル様。王太子の婚約者まで上り詰めたあなたがこーんなところで這いつくばっているだなんて、無様だこと!」
女は男たちには目もくれず、レイチェルを見下ろすと口角を吊り上げてそう言った。レイチェルはわけがわからずその女をじっと見つめたが、やがて女の宝石のように美しい瑠璃色の瞳と目が合ったとき、遠い記憶の中でそれらしき人物に思い当たりハッとした。
「あ、貴女は、まさか」
「おいっ! そいつは〝石〟を持っていないだろう!」
しかしレイチェルの言葉を遮るように、先ほど吹っ飛ばされた男が女たちに噛みつく。すると女騎士が前に出て短剣に手をかけた。
「持っていようがいまいが、この方はセレスト様のご友人だ。これ以上危害を加えるようであれば容赦はしない」
「わたくしがこのお方の友人だなんて烏滸がましいわ。未来の国母様ですもの……ああ、王太子殿下との婚約は破棄されてしまったのでしたわね、失礼いたしましたわ!」
静かに言った女騎士に、セレスト、と呼ばれた女はわざとらしい芝居がかった口調でそう応えると、途端に高笑いをし始める。展開についていけずレイチェルがぽかんとしていると、背後の男たちはチッと舌打ちをしてから立ち上がった。
「ちくしょうっ、紛らわしいことすんなよな……!」
男たちはそう吐き捨てると、荷物に手を付けることもなくそのまま路地を出て行った。そんな男たちを見送った後、月を背に立つ赤いドレスの女に向かって、レイチェルは恐る恐る口を開いた。
「貴女、セレスト・バート侯爵令嬢……?」
幼き日、前世の記憶を得るよりももっと前の記憶。銀色の長髪に透き通るような白い肌、誰もが美しいと賛美した、柔らかい光を宿す瑠璃色の瞳。そして、その瞳が悲し気に涙を流すその様を、レイチェルはよく知っていた。
「ええ。王太子の婚約者候補筆頭であったにもかかわらず、貴女の嫌がらせに耐え兼ねて蹴落とされたセレスト・バートでございます。そして、貴女の命運を握る者でもありますのよ!」
心底おかしいというような様子でそう言った彼女は、確かに幼き日に王太子の婚約者の座をかけて争ったセレスト・バート侯爵令嬢だった。しかし、レイチェルは目の前の女があの侯爵令嬢であると言うことが到底信じられなかった、というよりも、信じたくなかった。
セレスト・バート侯爵令嬢は、まだ10にも満たない子供であったというのに、その美貌もさることながら立ち振る舞いや教養にも優れ、更には使用人などにも丁寧に接する心優しい令嬢であると称賛されていた。幼い頃のレイチェルはそんな彼女に嫉妬して少し、ほんの少しだけ嫌がらせをすることもあったが、そんな時にも彼女はやり返すことも言い返すこともなかった。そういうところが気に食わなかったのだけれど。
しかし目の前の彼女は、儚げで美しかった記憶の中のセレストとは打って変わって、腰まであった長髪は令嬢らしからぬ顎のあたりまでの長さに切りそろえられ、透き通るように白かった肌はこんがりとはいわないものの少しの日焼けがあり。瑠璃色の美しい瞳はそのままだったが、その瞳に宿る光は記憶の中のものより鋭い。
そして何よりその表情。いつも優しく微笑み、淑女の鏡と言われ嫉妬しながらも若干の憧れがあったセレスト・バート侯爵令嬢が、こんな大口を開けて高笑いするだなんて。彼女はレイチェルの一歳年下だが、そういえば王立魔法学院で見かけたことはなかった。どうしてこんなところにいるのだろうか。
「ど、どういうこと……?」
軽くショックを受けながら戸惑ってそう言えば、セレストは少しかがんでレイチェルに顔を近づけると、にんまりと悪い笑みを浮かべる。女騎士が固い表情で一歩前に出た。
「シャーリンガム公爵様からあなたの身柄を保護するよう依頼されました。以前から内密にお願いしていたことを引き受ける代わりに、身分をはく奪され国外追放される貴女の身元引受人になってほしいと。いかがです? 過去散々痛めつけた相手に囲われる気分は!」
嫌味が止まらないセレストに、女騎士が少し呆れたような様子でセレストの肩に手を置く。
「セレスト様、もうそのあたりで……」
「別に謝る気はないわ。あれはあれで貴族の戦いだったもの。わたくしだってやられることはあったし、耐え切れなかった当時の貴女が弱かったというだけのことでしょう」
しかし騎士が言葉を言い終える前に、レイチェルはセレストの目をじっと見据えきっぱりと言った。セレストは虚を突かれたような顔をしたが、すぐに片眉を上げるとニヤリと笑った。
「ええ、私ももう子供ではありませんから、あなたに酷い仕打ちは致しません。ですが一つ。貴女の保護をするにあたり条件があります」
「条件?」
「ええ、簡単なことです。これから私の命令には絶対服従すること」
簡単なこと、と言いながらあんまりな条件を提示するセレストに、レイチェルが絶句する。そんな様子を面白そうに見ていたセレストだったが、スッと、レイチェルの以前の記憶に近い真面目な表情に戻った。
「難しい命令は致しません。わたくしは今とある目的のために動いておりまして、貴女にはそのために協力していただきたいというだけですわ。了承いただければ貴女を保護して差し上げましょう。嫌ならばそうですね、今夜はこの裏路地でお眠りくださいな。いかがなさいます?」
そう言って小首をかしげるセレスト。レイチェルは一つ大きくため息をつくと、セレストの瞳から視線を逸らした。
「……選択肢、ないではありませんか」
「三年前、私に神託が下り、大厄災が予言されました」
書斎のソファに座って紅茶を淹れながら、セレストは話し始めた。湯気の立つお湯をポットに注げば、茶葉の香りがあたりに漂う。
路地での衝撃の再開の後、レイチェルはセレストに案内され、町の反対側にある大きな屋敷に案内された。セレストの持ち物だというその建物にどうしてか裏口から入れば、なるべく静かに、と指示されながら二階の一番奥の部屋に通された。
中は書斎になっており、執務机の上には沢山の本が積まれていた。道中レイチェルの身体を支えてくれた女騎士は、彼女をソファに座らせた後、セレストに言われティーセットを持ってきてから席を外したため、部屋の中は二人きりだ。
「神託、というと……バート侯爵家は教会と深い縁がおありですものね」
「ご存知でしたか。まあ王太子の婚約者としては当然の知識ですけれどね。そう、その神託です。内容は〝近いうちに、地上で最も悪しき竜が復活する〟と、それだけ」
神託、というのはこの世の危機を知らせる予言で、大陸正教会では人の世を憂う神の言葉であるとして尊重されており、その時代に最も信心深い乙女に下されると言われていた。バート侯爵家はハウニア貴族の中でも最も教会と懇意にしている家であり、歴代の娘の中でも何人か神託の乙女が出ている、というのは転生して妃教育を受けてから知ったことだ。
しかし今しがたセレストが話した神託の内容は、前世でプレイしたゲーム本編で綴られていたものと同じだ。ゲームでは王太子がその予言の報告を受けた後、内密に調査を始める。そしてその調査の途中でヒロインと出会い、最後にはそのヒロインが邪竜を封印することができる聖女であると発覚し、共に大厄災を鎮めるのだ。
しかし、何も知らされていないはずのレイチェルが予言のことを知っていると訝しまれる。彼女は小首をかしげると眉を顰めてセレストを見た。
「地上で最も悪しき竜、というとあの伝説にある竜のことでしょうか」
「そう。伝承にある太古の邪竜ですわ。ハウニア王国の始祖と初代聖女が、王都の墓場に封印したといわれる……かの竜が目覚めれば、500年前の建国の戦い以来の大厄災になるでしょう」
ハウニア王国の歴史では、500年前、現在の王家の始祖である羊飼いだったサー・ハウニアが、地上を混沌の渦に巻き込んだ太古の邪竜を、その時代で最も聖なる魔力を持って生まれた女性、聖女と共にとある大きな丘に封印したといわれている。そしてその後、再び邪竜が目覚めたときに子孫たちがすぐに対処できるように、とその丘の上に城を建て、国を作ったというのはハウニア王国のみならずミリグランド大陸の国であるならどこでも語り継がれていることである。
「ですがその戦いは、王家の血を持つ方と聖女の力で封印することが出来るのでしょう? 王家の方にお伝えしたほうがいいのではないですか」
というよりも、この世界が『運命の選択』シリーズの世界であるのなら、もう既に王太子は調査に着手しているし、もうすぐリックストン伯爵令嬢が聖女であることが判明するはずだ。しかしセレストは片眉を上げるとフンっと鼻を鳴らした。
「そんなことは神託が下ったその日に致しました。ですが王室は、あろうことか神託を否定したのです」
「……はい?」
突然の理解できない話にレイチェルは思わず聞き返してしまう。セレストは思い出して腹が立ったというように顔を顰めて首を振る。
「王室、とは言ってもあの場にいたのは王太子殿下だけでしたが。国王陛下はお体の具合がよろしくないということと、第二王子殿下はどこにおられるかわからなかったそうで。そして殿下は、そんな古い風習にとらわれるなど愚の骨頂、今後そのことを一言でも口にすれば国家転覆の疑いをもって投獄するとまで仰いました」
「そんな、まさか……王太子殿下がそんなことを言うはずがありません!」
話が違う。確かにゲームでも予言の話を聞いたのは王太子一人だったが、病床の王と相談して王太子は、本編では名前の出ない予言の乙女と共に内密に調査をすることを決めたのだ。そしてついでに言えば、ヒロインが他の攻略対象と結ばれるルートではその予言の乙女と結婚していたはずだ。そこでレイチェルは、未来の王妃がセレストだったかもしれないということに思い至り思わずまじまじと彼女を見た。
「信じられなくともこれが事実ですわ。でなければ教会の威光も届かないこの場所に私財を投げうって屋敷を買う理由がありません」
確かにそれはその通りである。そもそもハウニア王国から遠く離れているうえに治安も悪い場所だ。何かよほど重大な目的がないとそんな思い切ったことはしないだろう。
「王太子殿下にはそう言われましたが、流石に神託が下りた身としては放置しておくわけにもいかず、その後侯爵家の伝手で独自に調査を進めました。その結果、近年500年前の大厄災の前と同じような現象が、各地で起こっていることがわかりましたの。こちらをご覧ください」
セレストはそう言うと、ソファから立ち上がり机から何やら紙や本をいくつか手に取った。その中の一枚を差し出してくるのでレイチェルが受け取ると、それは大陸の地図だった。
「例えば数年前から続く大豊作。気候条件はそれまでと同じにもかかわらず質のいい作物が大量に獲れていますわよね。それから各地での鉱山の出現も」
セレストに示された印を見れば、なるほど確かにここ20年の間で多くの新しい鉱山が発見されているようだ。しかしレイチェルは首をかしげた。
「ええ、確かに……それが前兆? ただの慶事ではなくて?」
確かに、ここのところどこの国でも不作の話は聞かないし、また鉱山が栄えたおかげで、その発掘された鉱石によって魔法道具の研究が進み始めた。それだけ見れば生活が豊かになっているのだけなのだが、セレストは首を振る。
「いいことだけではありません。このダンザルの町の外では数年で大幅に地形が変わり、魔物の数が増えました。たしかにこの地は世の理の外、気候も変動し一般的な理屈は通じませんが、一夜にして広大な砂漠ができるなど、それにしても変化が大きすぎます。魔物にしても、個体数が増えすぎて縄張り争いに敗れたものがスエージ国の国境付近にまで現れる始末です。また、各地の獣人族が都市部に移動してきたのも魔物の増加が原因だそうですわ」
獣人族、とレイチェルは固い声で一つ呟いた。そんな様子にセレストは感情の見えない瞳でちらりと彼女を見るが、すぐに手に取った本を慎重にめくる。
「……シャーリンガム公爵令嬢でしたら思うところがおありでしょうが、今はお控えを。これらの慶事も凶事も、500年前の大厄災の前に起こっていたことと同じでした」
開いたまま差し出してくるその本をそっと受け取れば、紙の焼け方とその脆さからとてつもなく古いものだとわかる。目を落とせば、随分と古い文体で文章がつらつらと書かれている。必死で古字の読み方を頭の奥底から引っ張り出しある程度読めば、確かに太古の邪竜は、豊かになった地上に突如目覚めた、と記してある。
「こんな本、どこで……」
「王宮の古い書庫から。何年も誰も使っておられないようでしたから拝借いたしましたわ」
なんでもないことのように言うセレストだったが、バレたらそれこそ捕まるのではないだろうか。レイチェルはそんなことを思ったが、セレストはレイチェルの手から本を取るとそのまま閉じて壁際の本棚に仕舞った。
「この本を見つけて神託が本物であると確信し、来たるべき日に備えてなるべく早く戦力を集めるために、私はこの〝最果ての町〟ダンザルを拠点に私兵団を設立しました。大厄災の具体的な日時は神はお伝えになりませんでしたから。そして王家の協力なしでも邪竜を封印できる方法を探していたのですが、そちらの方はなかなかうまくいかず……ですが、そんな折に貴女が国外追放されるという話をシャーリンガム公爵様が早馬で知らせてくださいましたの!」
「は、はあ。それは先ほどお聞きしましたけど……」
くるりと振り返り、満面の笑みでレイチェルをまっすぐ見つめるセレスト。雰囲気の一変した彼女に顔を引きつらせると、セレストはソファに座るレイチェルの隣に腰を下ろすとズイッと身を乗り出す。レイチェルは思わず身を引いた。
「何をとぼけてらっしゃるのです。先々代のシャーリンガム公爵夫人は先代国王の妹君。つまり貴女には直系ではないながらも王家の血が流れておられるでしょう。ですから、貴女が聖女と共に邪竜の封印をすればいいのです!」
「……はぁ!?」
突然降って湧いたあり得ない話にレイチェルは思わず淑女のマナーも忘れて大きい声が出た。しかしセレストはそんな彼女を咎めるでもなくうんうん、と頷く。レイチェルは顎を引いて小刻みに首を振った。
「お……お待ちになって。貴女、何を言ってらっしゃいますの? わ、わたくしが、太古の邪竜を、封印?」
とんでもない提案に頭痛がしてくるような心地がして、レイチェルは眉間に指をあてながら思わず笑ってしまう。しかしセレストはギラギラ光る瞳でレイチェルを見つめたまま更に身を乗り出す。レイチェルは更に身を引いた。
「ええ。それにシャーリンガム公爵家はそれ以前にも王家から降嫁されている例がいくつもあります。貴女が正真正銘公爵様の御子であるのなら、邪竜の封印もきっと可能なはずですわ」
「いや、いやいやいやいや無理ですわそんなこと! というより、きっと王太子殿下が対処されるはずです。口ではそう言っていても、あの方のことですから何かしらの調査を……」
近い近い、と思いながらセレストの身体を押し戻そうとしていたレイチェルだったが、そう言った途端にセレストの顔から笑みが消えた。
「貴女がそれを仰いますか?」
「え?」
突然白けたような様子になるセレストに、レイチェルは戸惑って目じりを下げる。すると、セレストはスッと身を引いてきちんと座りなおすと、今度は一つ大きく息をついて口をへの字に曲げた。
「私、貴女のことは本当に忌々しい存在だと思っておりますが、街道整備計画のことは評価しておりますのよ」
その言葉を聞いた途端、レイチェルは固まり表情を消した。何故そのことを、この娘が知っているのだ。
「……どうしてそれを」
セレストの言う街道整備計画とは、レイチェルが魔法学院に入学する直前に始まった、その名の通り街道を整備し貿易や流通を増やそうという計画である。
王太子の名で発布されたその命令は新しい魔法道具を駆使したため効率がよく、周辺諸国と連携して現在でも大陸で進められている大きな計画だ。魔法道具の開発から地形の調査など、本来ならば膨大な年月がかかるような計画なのだが、大陸正教会という大陸最大の組織を巻き込んで行ったおかげで五年という短い準備期間で行われ、計画の中心人物と言われたハウニア王国王太子の評価が絶対的なものになるきっかけになった政策である。
「いくら王太子殿下の名で下された命とはいえ、各国と真に連携を取った方がどなたであったかなど、教会に縁ある我が侯爵家が知らぬわけがございません」
レイチェルが何も言わずに俯いていると、セレストはすくっと立ち上がり、瑠璃色の瞳を鋭く輝かせて彼女を見下ろした。
「私は、大厄災で人々が死ぬ様を黙って見過ごすことはできません。世界の危機を防ぐための協力者として相応しいと思うからこそ、個人的な感情を捨て、憎っくき貴女をここへお連れしたのです。そうでないなら貴女など、荒野で魔物の餌にでもなればいいと思っておりますわ」
レイチェルは顔を上げるも、少しの間唇を引き結んでセレストの顔を見上げていた。
正直、セレストの話がどこまで本当であるのか、そんなことはわからない。大厄災は王太子とリックストン伯爵令嬢が収めるはずだし、周りを巻き込んだ盛大な勘違いの可能性はある。
それに、単純にめんどうくさい。ついでに竜退治なんて華々しいことは直系男子の王太子の方が似合うと思うし、加えて聖女であるリックストン伯爵令嬢と共に事に当たらなければならないないわけで、自分を陥れた女と協力して竜に立ち向かうとか正直勘弁してほしいし無理だろう。レイチェルには、邪竜に立ち向かえるような力も技量も気概もなければ、王太子のことを説得する人望も、リックストン伯爵令嬢と協力できるような度量の広さも何もないのだ。
しかし、今こうして話しているセレストが嘘偽りなく心の内をさらけ出していることは明らかだった。聖女がリックストン伯爵令嬢であることは知らないだろうが、どうにかして聖女と協力してレイチェルが竜を封印する、そんなとんでもないシナリオを本気で描いているのだ。
そんなセレストの美しい瞳を見た時、レイチェルは胸がきゅっと締め付けられるような心地がした。誰も信じてくれずに、悪として断罪された自分の可能性を、セレストは信じてくれているのだ。そう思ったとき、レイチェルの心が少しだけ、動いた。
「……わかりました。正直あまり期待はしないでいただきたいですが、わたくしにできることがあるのなら、精一杯力を尽くしましょう」
セレストの元には私兵団もいるというし、あの女騎士だって恐らく相当な手練れだろうし、まあ封印の儀式をするだけなら付き合ってやってもいいだろう。そう思いレイチェルがふっと微笑んでそう言うと、セレストは一瞬ほっとしたような年相応な少女の顔になったが、すぐににやりと笑みを戻す。
「では明日、私の配下の者たちに貴方を紹介します。そして明後日からはダンザルの外で魔物の駆除に参加してください」
「……え? 魔物の駆除!?」
突然の命令にレイチェルは顔色を変えて声を上げる。しかしセレストはそんな真っ青になっているレイチェルに顔を近づけるとにっこり笑った。
「当たり前でしょう。レイチェル様には伝説の再現をしていただかなければならないのですよ。少しでも戦えるようになっていただかかねばなりません。できることがあるなら精一杯、と仰いましたよね? できることはこれから増やしていけばよいのです」
絶句するレイチェルに満足したように立ち上がり執務机に戻ったセレストだったが、不意にそういえば、と思い出したようにくるりと振り返る。
「ああ、うちには凄腕の冒険者たちがたくさんいますから、死なない程度には守って差し上げますわ! 王家の血筋は大事にしなくては、ね」
あくまでも王家の血筋、と強調してにやりと笑うセレストに、身体がわなわなと震えだすレイチェル。
「そ、そんな、そんなのってあんまりですーーー!」
そう叫んだ彼女の声は、向かいの建物まで響いていたそうな。
こうして、悪役令嬢レイチェル・シャーリンガムとして生まれた彼女は、前世の記憶を得て自身の身の破滅を予期したにもかかわらず断罪回避に失敗し、昔自分が虐めていた令嬢に絶対服従するという屈辱的な状況に身を置くことになった。
しかしそれは悲しい末路なんかではなく、歴史に残る新たな伝説の幕開けであることは言うまでもないだろう。
つよつよ女が大好きで自家生産したいと思っています。
気が向いたら連載にしようと思っています。
よろしくお願いいたします。