26,デート
日曜日の朝。八時ちょうど。
住宅街は静閑としていて、安眠を妨害するものはたまに響く車のエンジン音だけだった。
————ピピピッピピピッピピ——。
————ブゥゥゥゥッ、ブゥゥ——。
そこに、けたたましく時計と携帯が鳴り響く。電話のコールの合間に映る携帯の画面には、2件3件と溜まっていく通知があった。
「ん、んんぅ? ……すぅー……」
起きようとセットしたのは良いものの、つい二時間前に寝た彼に効き目は無かった。
土曜日は一日中パソコンを弄っていた。ゲームしたり、図書館で借りた本を半分まで進めたり。それはもう、妹に本気で部屋から引きずり出されるぐらい真剣に取り組んでいた。
よって、この騒音は意味もなく鳴り続ける——
————カチッ。
——はずだった。
「木下君、もう朝だよ?」
小柄な少女が部屋にいた。
普段は着ないスカートを着て、それなりの化粧もして、準備を完璧に整えて。それから、寝起きのラブコール……としたところ、電話に出ない彼を待ち遠しく思ってここまで来た。
案の定、彼は眠っていたが、顔を覗き込み、そのあどけない緩んだ表情に見惚れる。
「んー、今日…がっこー、じゃあ……すぅー…」
「デートの約束だっただろー、早く起きろー…起きてー」
少女がベッドで寝る男を揺らしても意味はない。
「そうだっ!」
何か良い作戦を思いついたのか、彼を起こさないよう腹に跨り、耳元で何かを呟き始めた。
呟いている内容は、本人のみにしか分からない。
ふわぁ…よく寝た。
…あれ? ここは僕の部屋…だけど、真っ暗で…ん? 体が動かない?
「君は僕のものだ。もう誰にも渡さない、渡してやるもんか」
耳に生温い吐息が当たり、背筋が震える。
ッ!? この声は先輩ッ!?
なんで? なんで動かないんだ!
耳元から聞こえる声に体を震わせながらも、必死に身を捩る。
だが、それに意味は無かった。いつかの金縛りのように指先まで何も動かない。
「逃がさないよ? せっかく再会したんだから、もう絶対に離さない」
再会? え? 先輩は何を言って……
「君は昔から何一つ変わってないね。外見は少しだけ変わったかもしれないけど、中身はどれだけ取り繕っても僕の知ってる、僕の好きな君だ。君の匂い、フェロモンって言うのかな? 僕はもう、それが堪らなく好きだ。この綺麗な手、程よくついた筋肉も。こうして気の抜けた子供っぽい顔も、全部が全部愛おしい」
手の血管の筋をねっとり触られる。それは腕に、そして首にまで及び、撫で上げられて体が震える。片方の手でも全身を弄られて体が熱くなってくる。触られた後には痺れた感覚が残り、唇を噛みしめて声を我慢するのが精一杯だった。
香水の、何か花の匂いが鼻腔をくすぐり、同時に髪が顔全体に垂れ下がって、シャンプーの良い匂いで包まれる。
ほんとっ、何してんですかッ!
引いて良いですかッ! 僕もう引きますよッ!
「君も僕が好きだよね? 愛してくれてるよね? 僕を突き返すのも照れ隠しなんだろ? …僕はもちろん君の全てが大好きだ。君にくっついて、君の体温を感じて、君を近くで見て、君の匂いを感じられて、本当に幸せ。あの子に盗られてもうできないかも、転校しちゃってもう会えないかもって思ってたから……こうやって君と触れることができるだけで夢みたいに思えてくるよ」
……う、うぅ、意識が……
「ねぇ、そろそろ、さ? あの子のせいで疑心暗鬼になるのは仕方ないけど、もう少し素直になってほしいな。僕は君が安心できるまで待つつもりだけど……できるだけ早く君と————」
「んっ、ぐぅっ………ん?」
夢? もしかして夢だった? でも……これは……
「——好ーきっ、だーい好きっ」
「ッ!?」
起きた瞬間、お腹にかかる重さに驚いた。目を開けると、見覚えのある黒髪が見えて……さっと目を閉じた。
布団の上から腕と体を挟み込むように跨られていて動けそうにない。
「あ、起きた? 起きたかな? 良い夢見れたかい?」
「……すぅー……すぅー……」
「頑張って愛を囁いてみたんだけど……ふむ」
え? えぇッ!? なんでここに先輩がいるんだ!?
夢(多分)を見たせいもあって、若干混乱している。
も、紅葉っ、まさか紅葉が先輩をッ!
「すぅー……すぅー……」
「……ふぅーっ」
「ひぅッ!?」
ちょっやめっ! 耳はやめて!
「絶対起きてるよね。……意地でも起きないんだ…ふぅーっ」
「ふッ……すぅーッ……ぅッ……」
「…このまま起きないんだったら、キス、しちゃおっかな」
「ッ!?」
「眠れる王子様を起こすのは、いつもキスだって決まっているし……じゅーう、きゅーう——」
「——嘘です起きてますからやめてください」
「…………」
体の上に乗っていた先輩が、両頬を手で挟み込んでくる。
「ひぇッ!? にゃにを!?」
「はーちっ、なーなっ、ろーくっ——」
「しぇんぱい! 僕っ、僕起きてましゅからぁッ!」
気を落としてリビングに向かった。
はぁ、朝から憂鬱だよ。起きなかった僕も悪いとは思うけどさ、家にまで来て、それから馬乗りされるなんて……ギャルゲーの幼馴染か。生憎と僕は幼馴染なんてキャラは大っ嫌いだ。
「もーみじー、おはよー」
「んー、おはよ」
紅葉はテレビを見ながらトーストを食べていた。休日ながら早い。
はっと思い出して、カレンダーを見た。
「今日は梓ちゃん家に遊びに行くんだっけ?」
「うん。夕方には帰ってくるよ」
「僕は遅くなるかもしれないから、寂しいだろうけど先にご飯食べといて」
「さ、寂しいとか大丈夫だしっ…ん? お兄ちゃんは何か用、事で…も、ある……え?」
紅葉がこっちを振り向くと、唖然として固まった。
話していたことも歯切れが悪くなって、聴き取れなくなる。
「…ん? どうしたの?」
「お、お兄ちゃんっ…なんで依木さんが家にいるの?」
「………え?」
「も、もし、もしかしてッ、昨日の夜からッ! 二人でッ!!」
「いやいやいやっ、違うッ! 違うよ! …え? 紅葉が先輩を家に入れたんだよね?」
紅葉が先輩を知ってないとおかしい。でないと、どうして先輩が家の中にいたか説明が……
「え? 私、さっき起きたばっかりだよ?」
『…………………ん?』
先輩はどうやって家に入ったんだ?
「あ、あはははー」
「…………」
「あ、もしもし、警察ですか? 家に知らない人が——」
「——紅葉待ってッ!?」
「次やったら不法侵入で通報しますよ?」
「ご、ごめんってば。もうしないから」
僕が以前やったように、水道管やらそういう管と、電気メーター、家と家の仕切りを使って登るという荒技でベランダに侵入。開いていた僕の部屋の窓から入ったらしい。
紅葉が警察に通報しようとしていて、必死になって止めた。
知り合いを警察沙汰にしたくない。
「これで分かっただろ? 戸締りはきちんとしないと、僕みたいに誰かが入ってくるかもしれないじゃないか。これからはちゃんと気をつけるんだよ?」
「……はいはい、今度は入れないようにちゃんと閉めときますよ」
どうして僕が注意されているんだろう。あのまま紅葉を止めない方が良かったかもしれない。そうすれば先輩も少しは反省して……くれるか分からんし、たられば話は止めよう。
「今日はどこに行くんですか?」
「考えてないよ。適当に歩こうか」
「…え? 買い物とか、公園とか行かないんですか?」
「うん、できるだけ長く君と一緒にいれたらなんでもいい。行きたいところがあるなら連れていってくれ」
「……あ、朝ご飯でも食べに行きましょうか」
「そうだね」
「手頃ですし、ファミレスに行きましょう……予定とかは本当に考えてないんですよね」
先輩のことだから、恋人らしいことをしようって言い出すと思ってた。
何も予定がないなら…モールの方に行けば何でもあるか。結局、デートって男子がエスコートする物らしい。……予定とか考えるの面倒だなぁ。そのままぶらぶらしていても先輩は許してくれるかもしれない。
「…じ、実は…その、カップル用の遊園地のチケットがあって」
「はぁ……あるならあるって言ってくださいよ。遊園地でご飯食べましょうか」
「え、い、良いの!? 君、前に恋人みたいなのはダメって」
「……今日のは先輩にデートしよう、って命令されたわけですから、しょうがなく行くだけです。使用期限ももうそろそろ切れそうで、行かなかったらもったいないですし。あ、あと遊園地も行ってみたいなって思って……だ、だから、早く行きましょう」
「あ、ああ…行こうか……んー……」
「先輩、早く行きますよ。電車が混んじゃいますから」
……今日は初っ端からミスってしまった。
本当は決めるのが面倒で、丁度良かっただけなのに。またそれか、という先輩の表情が予想できて、つい違う理由をでっち上げてしまった。
「結局、昼ご飯になっちゃいましたね」
「うん。こんなに混んでるなんて思いもしなかったよ」
遊園地前に着いたのは10時。
家族連れやカップルの大行列を目の当たりにして、早くも心が折れかけた。炎天下ではないにしろ、長時間立つのは避けたい。諦めて違う場所に行きたいという気持ちでいっぱいだったが、先輩のわくわくしたそうな笑顔を前にそういう気持ちは無くなった。
正直なところ、僕も楽しみではある。チケットを買う金があるならゲームを買う、という信条を持つ僕でも、初めて行く遊園地は先輩と同じように楽しみなんだろう。
そういう心で諦めを押し切って、昼前に入ることができた。
「それ、使ってみます?」
「うん。フードコートで使うと何が来るんだろうね」
「………はぁ」
——カップル用パスポート
入場口でチケットを渡すともらえた。ほとんどのアトラクション、施設で提示すると、無料で恋人らしいラブラブな何かを体験できるらしい。
渡してくれた人は、リア充爆発しろ、と怨念が溢れる表情だった。あれは忘れられない。
食事処で恋人らしいこと……二つぐらい簡単に思いついた。
「すいませーん」
「はい、ご注文はいかがされますか?」
「えっと…ホットドックのセットで。飲み物はオレンジジュースでお願いします」
「僕も同じもので……木下君っ、特大パフェだって! おまけにジュースもついてくるよ!」
「………本当に頼みます?」
「定員さんっ、このセットもください!」
「カップル用パスポートは…お持ちですね。では、この札を持って席でお待ちください」
店の前が丁度空いていて、やっとのこと座ることができた。
長時間立っていたことが辛く、つい机にべったりしてしまう。
「木下君っ、どこ行きたいかなっ!」
「どこでもいいですー…ちょっと休憩させてください」
二時間しか寝ていない体に限界が来た。まだ入場しかしていないのに目が限界だ。先輩の気分について行けそうにない。
きっと今は地図でも見てるんだ。今日は全部先輩におまかせで乗り切ろう。
「……お化け屋敷とかあるんだね。ご飯食べたら行ってみようか」
「先輩、それだけは勘弁してください。怖いのは苦手なんです」
「そうか……それじゃあ、ジェットコースターに行こうか。人が多そうだから早めに行っとかないとね」
「…ジェット…コースター……」
大丈夫かな? 僕死んだりしない?
もっとこう、動きの激しくない、怖くもない、子供向けのようなアトラクションをお願いします。
「——こちら、カップル専用のセットとホットドックのセットを二つお持ちしました」
「あ、はい。ここに……やっぱり」
「おー、おっきいね」
「パフェは…まぁ、そうですね、大きいですね」
「パフェは? ……あっ!」
先輩も気づいたらしい。パフェと一緒に運ばれてきた飲み物を。その飲み口を。
「す、ストロー、二本刺さってるね」
「…………」
それもそうだ。だって、カップル用なんだから。
ありきたりすぎて、もはや驚きもしない。
「これ、二人で一緒にっ、飲むんだよね?」
「………はい、そっすね」
「それじゃ…の、飲もうかっ」
「いや、その、周りの目が」
「今日は恋人として振舞ってくれると、デートしてくれると君は言ったはずだが」
「……やりますよ、やればいいんでしょ」
心を決めて、目を瞑ってストローに口を付けた。これなら大丈夫。先輩が前にいないって意識すれば……先輩が前に……
————むにっ。
「んッ!? せ、先輩っ、なんで頬っぺた触ってくるんですか!」
「だって、木下君が目を閉じるから」
「…目を開けながら飲めって言うんですか」
「その通り。木下君、早く飲もうか。一緒に吸わないと飲めないんだから早く」
「…………」
ち、近いっ。先輩は照れないのか! こんな近くでずっと見つめてきて…くっ、無理っ、こっちが照れてくる。
「んー、美味しかったね」
「…はい…そうですね」
全然味なんてしなかった。緊張で頭の中が真っ白になって、いつの間にか飲み切っていた。
「次は……あーん」
「…はぁ…はいはい」
パフェのクリームをすくったスプーンを差し出される。
ええいっ、こうなりゃやけだ。何でもやってやるっ!
過保護者「梓、勉強ずくめはなんだしさ、今日はちょっとデートしない?」
百合の花「で、デートッ!? な、なんでいきなりデートなの!?」
過保護者「お兄ちゃんが、たまには気を抜かないと壊れるぞ、って。だから梓、早く準備して」
百合の花「きゅ、急に言われても心の準備が……」
過保護者「え? 何か準備するものあるの? そのままの格好で大丈夫だと思うけど」
百合の花「う、うぅぅ……紅葉ちゃん! ちょっとっ、10分くらい待って! すぐに用意するから!」
過保護者「…分かった、早くしてね。……お兄ちゃん、今遊園地に入ったのかな? 早く行かないとあの人に何されるか……」




