28:寝不足
(まずい……全然眠れなかった……)
イールが隣の街サマルタへ向かってから11日目となる朝、エリィは一人自宅のベッドの上でぼうっとしていた。
イールは出かける前、長くて10日後には戻ると言っていた。
けれども昨日、彼は帰ってこなかった。
言っていた期日に戻ってこないとは何かあったのではと考え始めたら全く眠れなくなってしまったのだ。
今日は午前と夕方に一件ずつ案内人の仕事がある。
起き上がって支度をしなければならないがほとんど眠れていないので頭が働かない。
思考が停止しているものの何とかと言った形で体を動かし始めるがエリィの動きは散漫だ。
寝ていないからか朝食を体が受け付けない。
少しばかりパンをかじったものの消化できる感じがせず水だけ飲んで午前の仕事に向かった。
午前の客は女性の旅人だった。
街の迷路のような道を楽しみたいという要望だったためエリィのよく案内するいくつかのコースのうちの一つを案内した。
いつもなら軽々と案内できるはずが今日は体が重い。何度か階段で滑り落ちそうになったりもしながらなんとか午前の客の対応を終えた。
昼過ぎ一度自宅に戻ったもののイールが戻ってきた気配はない。
やはり何かあったのかと思うと気が気じゃなくなる。
明日は仕事の予定がない。
それ以降の予定を断り自分もサマルタへ向かった方がいいのではないかとすら思い始めていた。
一人でこの街を出たことないのにも関わらずそんな考えすら浮かぶくらいエリィの思考回路はおかしくなっていた。
昼食に朝食べられなかったパンと、残り少ないサレナの実をかじった後は夕方までぼうっとリビングの椅子に座っていた。
眠気の山はとうに通り越し、起きているのか寝ているのかわからない感覚にすらなっていた。
夕方になり客の対応へと宿へ向かった。
相手は以前も対応したことのあるオアシスの街から来た商売を始めたばかりの商人だ。
以前来た時と同じようにいくつかの商店の店主と話したいと言うことで案内をしていた。
途中久しぶりにダンジュと仲の良かったヘンスに会ったがエリィの顔色を見るなり何度も大丈夫か?と聞かれ、客の前なのでやめてほしいと小さな声で伝えると難しい顔をして頷き何処かへ行ってしまった。
夕方からの客が商店の店主と話し込んでしまったためエリィは帰るにも帰れず彼の話が終わるまで待った。
終わったのは随分と遅い時間だった。
流石に二日間も寝ずに過ごしたら体が壊れる。
今日は寝よう、そう決意しながら自宅へ戻ることにした。
***
頭に何かが張り付いたような感覚を持ちながら自宅に到着すると窓から灯が見える。
けれどもエリィのこんな状態だ。
灯を消し忘れたのかと思いながら玄関のドアを開けた。
ぼんやりとしながら家に入ると懐かしいような、優しい香りがする。
その香りにハッとしてキッチンを見ると昨日帰ってくるはずだったイールが立っていた。
「お帰り」
エリィに気づき振り返ってニッと笑うイールの姿はここを出かけていく前日のものと何ら変わらなかった。
「……夢……?」
思考がほぼ停止していたエリィはその姿が夢の中で見ているのか、現実としてみているのか理解するのに時間がかかった。
「何言ってるんだ?」
イールは一度首を傾げた後続けた。
「腹減って先食べさせてもらった。エリィ、全然食材買ってなかっただろ?ちゃんと食べてたのか?」
リビングのテーブルにイールが料理をよそった皿を運ぶ。
その動きを目では追いつつ、体の動きが停止したままのエリィはその場で立ち止まったままだ。
「エリィ?」
その様子に気づいてイールがエリィに近づく。
「どうした?顔色悪くないか?」
そう言ってイールがエリィの顔を覗き込む。
眉を顰めるイールの顔を見てやっとエリィの思考が動き出し、思わず不機嫌な顔をしイールの横を通り過ぎた。
「そんなことないです。早く話を聞かせてください」
そう言いながらキッチンに向かい、イールが淹れたのだろうお茶をポットからいつものカップに入れる。
リビングのテーブルにそのカップを置いたところで、忘れていたような眠気が一気にエリィを襲ってきた。
思わず大きなあくびをするとさらに眠気がやってくる。
目がしぱしぱする。
「なんか眠そうだな?」
イールの言葉に誰のせいだと強目の視線を当てる。
「……あなたが10日後にはって言ったのに帰ってこないから心配で眠れな……」
ほとんど言い終わってしまったようなものの、何を言っているんだとエリィは我に帰り口をつぐみ、用もないのにキッチンへとまた向かった。
「あーもう」
何故かイールの呆れたような声が背中に聞こえ何だと思いエリィは振り返った。
けれども振り返ったと思ったにも関わらず前が見えなかった。
「…………離してください」
「振り払えば良い。わけないだろう?」
気づいた時にはイールの腕の中にいたエリィはその言葉に黙り込んだ。
何をするんだと言う気持ちと、イールが何事もなく戻ってきたのだと言う安心感とが入り混じり何も言葉が出てこなかった。
それに、振り払うなんてことをしたいと何故か思わなかったし、寝ていないエリィにそんな気力もなかった。
少しするとイールはそっとエリィの体を離し左手をエリィの頭に乗せた。
「悪かった。色々あって予定より遅くなった。話は明日するから今日はさっさと食べて寝ろ。わかったか?」
顔を覗き込まれているのはわかっていたが目を合わせずにエリィは小さく頷いた。
「明日仕事は?」
エリィは首を横に振った。
「じゃあまた明日、午前からこっち来るから」
そう言ってイールは玄関に向かった。
その後ろ姿を何も言わずにエリィが見つめていると扉を出るところでまたイールが振り返った。
「エリィ、おやすみ。また明日」
柔らかに微笑んだイールにエリィはなんとかいつものように答えた。
「……はい」
その言葉に満足したようにイールはニッと笑って出て行った。
静かになった自宅の中、リビングのテーブルを見ると暖かそうなスープが置いてある。
何故かそれを見たらエリィの目からポロリと一粒の涙が溢れた。
朝からまともに食べていない。
急にお腹が空く感覚と今にでも眠ってしまいそうな眠気に襲われながら、一人用意されたスープを食べようとリビングの椅子に座った。
湯気のまだ立っているスープの香りは優しく温かくて、口に運ぶと体に沁み入るような感覚がした。
けれどおかしい、とエリィは思った。
いつもイールが作る料理より塩気が強い。
入れ間違えたのかと思いながらエリィはスープを頬張った。
それが自分の流した安堵の涙の味だったなんてこと、昨日不安で眠れなかったエリィが気づくはずもなかった。