19:餌付け
その日は一日、夕方まで仕事だった。
落ち着きこそ取り戻してはきていたがまだ繁忙期だ。
ほどほどに重くなった体を動かしながら帰宅すると家の中には良い香りが漂っていた。
「お帰り」
「……だからあなたの家じゃありませんからね。あまり態度が大きくなるようなら追い出しますって前も……」
「追い出したらこれ食べられなくなるぞ?」
イールがキッチンで何かを作っている。
言葉を遮られたことにはイラッとしたがその香りに誘われて思わずキッチンに吸い寄せられてしまった。
「なんですか、これ?」
蓋が閉められたままの鍋がある。
そこから香りは漂っているようだ。
思わず蓋を開けようと手を伸ばすとイールに制される。
「蒸らしてるからまだダメだ」
「中身は?」
「まぁあと少ししたらわかるからちょっと待て」
そうイールが得意げに言うので思わず薄い目をしてしまう。
「あと、これもある」
そう言って見せてきたのは甘い香りのする、薄いパイだった。上に何か果実をのせ焼かれている。
「何のパイですか?」
「サレナの実。今日外に出たら乾燥されてないのがあって作ってみた」
思わずエリィは唾を飲み込んだ。
早く食べたい、エリィの頭はそれだけになった。
「あ、サレナの実以外の材料はこの家のもの使ったからな」
その言葉に一瞬で頭の中から「早く食べたい」という言葉が消え去る。
作ってはくれても食材費は全てエリィ持ちだ。
「穀潰し……」
「いや、作ってるから潰してるだけじゃないだろ?」
そうイールが笑う。
「……それにしてもパイまで焼けるなんてどこで教わったんですか?」
「母親。小さい頃から自分で全部できるようにって料理も何でもやらされた。教えてもらえなかったのは文字だけ。母親は読み書きが苦手だったから。あの頃は面倒だったけど役に立ってるな。気分転換にもなる」
イールがニッと笑った後、先ほどまだ開けるなと言っていた鍋の蓋に手をかける。
エリィはそれを横から覗き込んでいた。
蓋を開けるとお腹の空く香りの湯気がふわっと上がる。
口の中に涎が溢れる。
鍋の中には干し肉や野菜、木の実、スパイスなどを一緒に炊き込んだ米が入っていた。
米なんてこの家にあったかと思いつつ、きっとあったのだろう。
「美味そうだろう?」
「……はい」
悔しいがそう答えるしかない香りだ。
しかも仕事を終えてのこの香りだ。
食べ終えるまでもしかしたらいつもの嫌味の一つも言えないかもしれない。
とりあえず早く食べたいのでちゃちゃっと皿の準備をしイールによそってもらい、エリィはそそくさとテーブルについた。
「……いただきます」
一口食べた。
思考が止まった。
もう一口食べた。
何も考えられない。
もう一口食べた。
どうやら美味しいと言う言葉はこれのために存在するらしいという考えだけが浮かんだ。
モグモグとスプーンをすすめるエリィを見てイールは面白いものを見るように笑う。
「そんなに焦って食べるな。まだあるんだから」
「……はい。……美味しいです」
「そりゃ良かった」
フッと笑いながらイールも食事を始めた。
その後もエリィは夢中になって食べた。
けれど食後にパイもあるのだ。その分のお腹は開けておかなければならない。
贅沢な悩みだ。そう思いながら食べ進めているとイールが話しかけてくる。
「前に行動する前は言えって約束させられたから言うんだが」
何だと思い首を傾げる。
「隣の街の商人のところに行こうと思ってる」
その言葉にエリィの持っていたスプーンがとまる。
「確認しようと思って。ダンジュさんに何故会いにきたのか……それにレンさんと何があったのか」
「……気持ちはわかりますが、父を殺した人間と繋がってる人ですよ?そんなこと確認しに行ったら……」
「わかってる。うまくやるつもりだ」
そうは言っても、はいそうですかなんてエリィは言えない。
最後の一口になる料理を口にそっと運びながら考えるが答えが出ない。それにせっかくの料理の味が変わってしまった気すらした。
「そんなに心配するな。大丈夫だから」
そうイールがなんてことない風に言う。
「……心配してるわけじゃないです。何かあったら私の寝覚が悪くなるからそれが嫌なんです」
空っぽになった皿に目を向けながら言うとイールが立ち上がりキッチンに向かう。
お湯を沸かしてくれているようだ。
「なら大丈夫だろう?それに都合良いことに俺は商人と面識があるから会うまでが大変とかそういう面倒な手間もない。情報収集もできる。やらない手はないだろ?」
「わかりますけど……」
思わず黙り込んでしまう。
しばらく何も言わずにいると目の前に見慣れたカップが置かれる。いつもエリィが使っているものだ。
ついでに今日はサレナの実をつかったパイも添えられた。
「寝覚なんて美味いもん食べたら良くなるだろ?」
目の前に差し出されたパイにゆっくりとフォークを入れ口に運ぶ。
甘酸っぱい味が頬の裏を溶かしていく。
「美味いか?」
コクンと頷くとイールは満足した顔をして、彼もそれを口に運んだ。
「……私はあなたを巻き込んでしまったのでしょうか?」
エリィの口から言葉が滑り出るが、ハッとして言い繕う。
「なんでもないです」
エリィがもっとちゃんとダンジュから『青の回廊』のことや父親のことを聞いておけばそもそもこんなことにならなかったはずだ。
そうだったらイールもそんな危ない橋を渡ろうなんて思わずに父との約束をただただ夢追うように果たすだけだったのかもしれない。
そんな考えがエリィの中にふと浮かんだのだ。
自分がもっと、と。
「エリィ、俺は自分のためにやってるだけだ。巻き込まれてるなんて思ってないから安心しろ」
そうイールが微笑んで言う。
「でもひとつ頼みがある」
「……何個目のひとつですか?」
目を伏せたまま問いかけるとハハッと笑ってイールが続ける。
「『青の回廊』の扉の前まで、やっぱり連れて行って欲しい」
「……もしやそのための今日の食事ですか?」
思わず薄い目でイールを見てしまう。
「それとこれは別だ。で、連れて行ってくれないか?」
「……私もそのことは考えていました」
廟でイールに連れて行ってくれと言われた時はどうしたら良いかわからなかったが、落ち着いて考えていくと、確かにダンジュには人を近づけるなとは言われたもののそれが何故かわからない。
その理由を知るためには一度エリィはその場に行かなければならないのではと思っていた。
ただエリィにとってそこは一人で行ける気がしない場所だった。
場所も、道もよくわかる。
けれどもその先で父が殺されたのだと思うと、一人で行けるとは思えなかった。
「ダンジュさんには叱られてしまうのかもしれないですが……扉の前にまでならお連れします」
「いいのか?」
「……正直一度私も行きたいものの一人で行ける気がしないので……」
その言葉にイールは何かを察したようだった。
そして綺麗になくなってしまっていたエリィの皿の上を見て聞いた。
「もう一個食べるか?」
「……小さめの…」
そうエリィが答えると、イールは程々のサイズに切り分けられたパイをエリィの皿に取り分けた。
「エリィが行ける日に連れてってくれ。俺はいつでも大丈夫だから」
「……暇人ですね」
そうエリィがパイのかけらを口に運びながら言うとイールはいつもの様に笑った。