12:旅人の評判
イールがエリィの持っている部屋を使い始めてから10日ほどが経っていた。
やはり旅人が増えて案内人の仕事が急に忙しくなってきた。
定期的に行っている廟の手入れにでも行きたいがその時間を取る暇もなく毎日を過ごしていた。
そんな日々が当たり前になってきたくらいの頃、もう一つ当たり前のようになってきたことがあった。
玄関をノックする音が聞こえる。
そんな時間かと思いながらポットのお茶をカップに注ぎながらどうぞとエリィにしては大き目の声で答える。
「おはよう。今日も悪いな」
そう言って中に入ってきたのはイールだ。
毎朝朝食を持って行っていたのだが、いそがしくて面倒になり取りに来てくれないかと頼んだらここで食べてはいけないかと聞かれたのだ。
最初こそ渋ったものの、そちらのほうが合理的で片付けも楽だ。
渋々OKをして以来、数日前から毎朝のようにイールと二人で朝食をとっている。
もはや彼は旅人じゃなくて穀潰しだ。
「今日も仕事か?」
「えぇ、お金にならないお客様がいるので稼がないと」
カップを彼の前のテーブルに置きながら言う。
「まぁそう言うなって。1日か?」
「今日は午前だけです」
「珍しいな」
今日は午後の仕事を断っていた。本当なら受けたいが良い加減、廟の手入れをしに行きたい。
以前ならダンジュにお願いしてしまっていたこともあったけれど今は一人だ。エリィがやらなければ誰もやってくれない。
「少し別用があって」
廟に行くなどと言ったら確実にイールはついてくる。
そんなことをされたらたまったものではないので何とは言わなかった。
「あなたはいつも何をされてるんですか?」
嫌味も込めてエリィはわざと尋ねた。
「この街の散策だ。他の場所にもあるんだろう、あの廟みたいなものが。教えてもらえないのなら自分の足で探すしかないからな」
「大変ですね」
そう他人事として言い放った。
その言葉にイールは笑う。何故嫌味を言うと笑われるのかがわからない。
空になったカップに気づきお茶のお代わりを注ぐ。ふとイールのカップを見ると彼のものももうあと少しだ。
そのままの流れでお代わりを注いでやるとイールはありがとうと一言言った後続けた。
「エリィは本当、気は効くな」
「『気は』ってなんですか?」
「愛想はない」
思わず強い視線を彼に当てた後、一口お茶を飲む。いつものスモーキーな味のものだ。
「愛想良くする必要のある方にならしてますよ。あなたには必要ないかと思っているだけです」
そう言うとまたイールは笑う。
面倒だと思い、食べ終えた食器の片付けを始めようと立ち上がる。
「本は親代わりの方のものか?」
突然聞かれ何のことかと思い振り返ってイールを見ると、昨晩読んでそのままテーブルの脇の棚に置いたダンジュの部屋から拝借した本を彼が持っていた。
「えぇ。たくさん本を持っていらして。何か手掛かりに……」
そこまで言った後に自分が口にしかけた言葉を飲み込んだ。
何故ダンジュが『青い回廊』に人を近づけるなと言ったのか、そしてあの場所の扉の開き方、その手掛かりを探そうとしているなんて言ってしまえば目の前にいる男は何を言い出すかわからない。
「手掛かり?」
「いえ、なんでもないです」
そう言って片付けを続けた。
その後イールは何も聞いてこなかったのでエリィは内心はほっとしていた。
***
その日の午前の客はハズレだった。
その男性客はエリィと顔を合わせるなり値踏みするかのようにエリィのことをジロジロと見て、昼食の同席をと言われたので所用があると丁重にお断りした。
午前だけの客で良かったとエリィは胸をなでおろしていた。
午後は予定していた通り廟の手入れへと向かった。
イールを案内した場所は一番自宅に近い場所だ。
そこには最後に行こうと決め、他にある4つの廟へと先に足を運んだ。
建物は人が入らないと朽ちてしまう。
どの廟も随分と古いものだ。
こんな迷路のように入り組んだ街でなく目につくような場所にあるものであれば古いからと言う理由だけで壊されていてもおかしくない建物ばかりだ。
中に入り一つずつ変わりがないかを確認しながら祭壇のような場所を拭き上げていく。
目に見えて綺麗になるわけではないが、やれていないというここ最近頭の片隅にずっとあったひっかかりが晴れていくようで随分と気分が良い。
滞りなく4つの廟の手入れを終え、最後の一つに向かうことにした。
その場所に到着し、まさかイールはいないよなと思いながら扉を開けるとそこにあったのは静寂だけだ。
奥の部屋、祭壇のある部屋も確認したが誰もいなかった。
良かったと思いながら手入れをして行った。
一通りのやりたかったことを終え、その廟のベンチのようになっている場所へ腰をおろして休憩をしていた。
この街の建物の窓は基本的に小さいがこの廟の窓は多少大きい。
何故なのだろうと思いつつもその窓から覗く空は晴れ渡って綺麗で、その色に目を奪われぼんやりと時間を過ごした。
久しぶりにそんな時間を過ごした気分だ。
朝はイールがやって来るし、その後は基本的に仕事、夜帰宅してからはダンジュの本を読んで床につく。
そんな毎日をしていたのでふと間延びした昼下がりのこの時間が随分と贅沢に感じられた。
気分が良くなったところでその廟を後にし帰路へとついた。
その後、ちょうど宿の近くを通りかかった時だ。
午前の客とばったりと出会してしまった。
面倒だなと思いながらも無視をしては流石にいけないかと思い軽く会釈すると彼が話しかけてきた。
「この後予定は?もう少し案内してもらいたい場所があって」
「申し訳ないですが今日は」
そう言って足早にその場を去ろうとした時だ。
その客がエリィの腕を掴み早歩きで歩き始めた。
ゾワリと嫌な感覚が体全体に広がる。
「離してください」
そう言うがその男は何も言わずにエリィを連れ人目のつかない道へと足を進めて行く。
誰か人はいないかと思い辺りを見回すが運悪く誰もいない。
男はさらに人気のないような場所にエリィを連れて行く。
(逃げなきゃ……)
そうは思うものの強く握られている腕を振り払えそうもない。
この街の作りがこういう時は仇となり人気がなく人目につかない場所となると、運が良くない限り別の誰かに気づいてもらうことは困難だ。
追い詰める様に男はエリィの背を建物に当てる様にした後、スッと短刀をエリィの首元に近づけてきた。
「騒ぐなよ」
そう言われなくても恐怖で声が出ない。
旅人に無駄に絡まれる、程度のことだったら何度かあった。けれどここまでのことは流石に初めてだった。
嫌な汗が背中を伝い呼吸が浅くなる。
足が震えている感覚はあったが、体が自分のものではないと思えるくらい冷たく感覚がなくなっていた。
「そんなに怖がるな」
ニヤリと嫌な笑みを浮かべ男が言う。
折角廟の手入れをしてスッキリしていた気分がどん底に突き落とされるようなものになってしまった。
もう嫌だ、何でこんな目に遭わなければならないのだと思うがどうにもできない。
恐怖でもう何も見ていたくないと思い、ぎゅっと目を瞑ったエリィの服に男が手をかけた時だった。
「旅人の評判落とされると迷惑なんだ。手離せ」
聞き覚えのある声だった。
恐る恐る目を開くと彼がいた。イールだ。
目の前にいた男は声をかけられたことに怯んだのか、すぐにエリィから手を離した。
「…んだよ、邪魔しやがって」
そう言って男は短刀をしまいその場を後にしようとした。
けれどもその時だった。
急に男が転ぶ。
その転んだ男に先ほどエリィに当てられていた短刀をイールが握り、男の首元に近づけている。
目の前で何が起きたのか分からず目を瞬いているとイールが聞いてくる。
「エリィどうするこいつ?宿に返すか?それとも街から出ていってもらうか?」
その質問に答えようとするがまだ恐怖からか声が出ない。
その様子に気づいたのかイールは小さく笑ってエリィを見た。
「ま、普通に考えたら追い出すだろうな。ということで、今すぐにこの街から出てってくれよ?もし残っているようなことがあったら……わかってるよな?」
そうイールが男の耳元で冷め切った声を出す。知り合って日は浅いものの、イールがこんな声を出せるのかと思えるものだった。
男は首元に当てられた短刀に身を固めながら口を開く。
「わ、わかった、わかった。すぐに出ていくから、な?兄さん、頼むよ?」
そう言って走って何処かへと言ってしまった。
何が起きたのかわからなかった。
けれど助かった、それだけは理解できた。
そう思ったら安心したのかその場にエリィは座り込んでしまった。
「大丈夫か?」
聴き慣れた声にもどったイールの言葉にとりあえず頷いては見た。
実際大丈夫なのかどうかは全く分からなかった。
「立てるか?」
「……ちょっと、今は無理です……」
やっと言葉が出てきたが腰が抜けたのか立ち上がれない。
イールはそうかと言ってエリィの横に並ぶようにして地べたへ座った。
「……よくあることか?」
「……ここまでは初めてです」
「だろうな……にしても『ここまでは』って」
イールは独り言のように吐き捨てて言った後、横から顔を覗き込むようにエリィに向かって話し始めた。
「あの廟に行こうとしたらちょうどエリィを見かけて。行こうとしたのバレたら流石に次は怒られる程度じゃ済まないなと思って大人しく後ろついて帰ってきたところで良かった」
「……行こうとしたんですね?」
「でも行ってない」
その言葉にムスッとした顔になる。
でもそれと同時に何かの糸が切れたかのようにエリィは涙が止まらなくなった。
自分でも何に泣いているのかわからないくらい泣いていた。
恐怖なのか安堵なのか何なのか、よくわからないまま泣いているとポンと頭に何かが乗る感覚がした。
「無事で良かった。帰ろう」
頭に乗ったのはイールの掌だった。
その感覚が父が昔撫でてくれた感覚に何処か似ていて余計に涙が出てきた。
「……帰るってあなたの家じゃないです」
そう震える声で言うとイールはハハッと白い歯を見せて笑っていた。