10:父のこと
(何のいたずらなんだろう)
少し伸びていた髪を鏡で確認しながら切っていく。
幼い頃、父がこの髪は母親譲りだと言って撫でてくれた髪。
その時の嬉しそうな父親の顔をぼんやりと覚えている。だからエリィは自分でも気に入っていた。
ダンジュはこの髪を見てエリィと自分は家族じゃないと呆れて言っていたがそれはそれで彼らしくて好きだった。
イールの話が本当ならば記憶がないほど幼い頃、彼に会っていたことになる。何も覚えていないので今となっては確かめようがない。
けれどあの万年筆に刻まれていた名前は間違いなく父のものだった。
それに父はよく物を書いていた。だから万年筆、というもの自体が父のものだと言っているかのように思えた。
(お父さん、どんな風に話したんだろう)
状況が状況なだけに心の底から歓迎はしづらいと思いつつ、自分の覚えていない、自分の知らない父の様子を知っているイールのことを少しだけ羨ましく思ったのも事実だった。
(あ、ちょっと切りすぎたか?)
鏡に映る髪の長さを見るといつもより僅かに短い気がした。
(まぁまたすぐ伸びるか)
そう思って丁寧に櫛で髪を梳かしていった。
それにしても、とエリィは思う。
隣の街の商人の話が出てくるなどとは思ってもいなかった。
父親を殺したのはその商人の関係だと言うことまでは調べてわかっていたが、商人が直接関わっていたのかどうかまではわからない。
けれどもイールを通じてこの街を調べろと言っていたのならば何かしら関わっているのだろう。
仇を、なんてことは全く考えていない。けれども何故父が殺されなければならなかったのか、理由は知りたかった。
恐らくこの街の何かを知った父の口封じとは思うが、それならダンジュもエリィも消されなければならない。
それとも父のように外から知る立場と、ダンジュとエリィのように護る立場の人間とは扱いが違うのか。
はたまたダンジュとエリィが知っていると言うことを知らないのか。
考えても答えは出ない。
髪を梳かし終わりエリィはリビングのテーブルに商売道具の地図を広げた。
いつものように撫でるようにその地図の上に手を滑らし青い印の場所でふと止める。
そこは父が死んだ場所だ。
あの日以来、行ったことはない。
少し待っていなさいと柱の窪みにエリィを残し、あまりにも迎えに来ないことを不思議に思ってその場から真っ直ぐ歩いたあの場所のことは今でもはっきりと頭に残っている。
高い天井、壁、床。全てに細やかな幾何学模様や花を模した模様、そして流れるような線が織りなす文様が青を基調に白、水色のタイルを混じえてあしらわれ、その空間は真っ直ぐとしばらく続いていた。
中心と思われる場所の天井はドームのようになっていてそこにはさらに美しい模様が同じように青を基調として施されていた。
けれどもその青く美しい世界の中、真っ赤な血を流した父親は倒れていたのだ。
ぼんやりとしながら父親の側によって声をかけたが、彼はもう答えることはなかった。
仕方がなく来た道を戻って行ったらダンジュに会った。
彼に会った時、泣きもせずに父親が死んでいたと言うことを伝えた。
ダンジュは目を見開き急いでエリィを連れて父の元に向かってくれたことはよく覚えている。
(お父さん、冷たかったなぁ)
その時触れた父親の感覚を覚えていた。
タイルに使われていた青はラピスラズリのような色だった。
父親に最後に触れた感覚はその青が表すような冷たい感覚と同じだった。
(ダンジュさんならこういう時どうするんだろう)
最近いなくなってしまった人のことを思い出す。
あの場所には人を近づけるな、というのがダンジュの教えだ。廟に近づけることは止められなかったがあの青い場所には近付けるな、と。
その理由は最後まで教えてもらえなかった。
そもそも父が殺された場所に人を近づけるようなことはしたくないからエリィはそれを守っていた。
それに場所は知っているがその扉は閉ざされている。
父がどうやって開けたのかは分からないし、あの綺麗な空間以外そこに何があるのかも知らない。
ダンジュも教えてくれなかった、というか知らなかったのかもしれない。
けれどもあの、『青い回廊』を護ることがダンジュ、そしてエリィの役目だということだけはダンジュから聞かされていた。
(少し勉強しないとかな)
そう思いダンジュが亡くなった日から入っていなかった彼の部屋の扉を開けた。
中にはお世辞にも綺麗に並べられた、とは言えない本がたくさんある。
何から読めば良いかもわからないし、読んでわかるものでもないのかもしれない。
けれどやらねばならない。
あの場所を護るのはもうエリィの役目なのだから。
そう思って一番手に取りやすい場所に積み重ねられた本を一つ取って読み始めた。