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FORGOTTEN  作者: est
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NowHere(2)

 無気力に染まった親友の姿を今日も確認したロバートは、静かに煮え立つ苛立ちを腹に抱えたままカフェに車を停めた。

 店の中にそれほど客はいなかった。待ち合わせの相手はまだ来ていない。外からもよく見える窓際の席を選んでため息とともに腰を下ろす。

 オーダーを取りに来たウェイトレスにコーヒーだけを頼んで、煙草に火をつけ窓の外を眺めてみる。肺を満たした紫煙を緩やかに吐き出しつつ、思案を巡らせていく。

 ……既に手遅れかもしれない。

 それが親友に対するロバート・ジョーンズの印象だった。

 講義の合間、顔を出せる時であれば常に顔を出すようにしていた。それでも、テイラーの顔は変わらない。むしろ、日に日に悪化しているようにさえ見える。

 自分で自分のことを死体と言って薄く笑う。イージー・ライダーの真似をしてハーレーを乗り回し、学生生活スクールライフを満喫していたのがほんの七、八年前なのだという事実がとても信じられなかった。今の彼は車の音や人の笑い声といった日常にさえ戦場の記憶を蘇らせる状態にあり、それを緩和するためにヘロインに手を出している。

 ぎり、という音が歯を噛み締めた音だと、ロバートは少し遅れて気付いた。ただ扇動されるがままに平和を叫ぶ群衆に、彼らを何ら救おうともしない国家に、そして今も苦しんでいる親友を目の前にして何もできない自分の無力さに、腹の底から悔しさがこみ上げてくるのを、ロバートは感じていた。

 乾き始めた喉を潤したい一心で傾けたコーヒーは既に冷めていた。泥水のような味だ。実際に泥の中を這いずり回り戦ったテイラーは、どんな気持ちだったのうだろう?

「……クソッ」

 人目をはばからずに悪態をついたのは、これが初めてだったのかもしれない。そんなことを考える余裕もないほど、ロバートは憤っていた。何人かの視線が注がれていることさえ、どうだっていい。今も死にかけている友人に何もできない自分が、ただ、情けないだけだった。

 来客を知らせるベルが鳴って、足音が近付いてきた。顔を上げれば、一人の女が立っていた。美人と呼んで差し支えないレベルの、整った容姿をした若い女だった。

 ロレッタ・キングストン。子供のころからの付き合いで、派兵される直前にテイラーとは将来を誓い合った恋人だ。

「やっぱり、駄目だったの?」

「まだ諦めないさ。僕は昔っから諦めが悪くてね、それは君だって知っているだろ?」

 行き場のない怒りに拳を硬く握り締めながら、ロバートはロレッタに笑いかけた。困ったように、そして悲しそうな笑顔でロレッタは小さく首を横に振る。

「もういいのロバート。テイラーの言う通り、テイラー・ハリスはベトナムで死んだのよ」

 諦めであり、事実であったのかもしれない。そしてそれは、恐らくは唯一残された最も賢い判断なのだろう。たった一年半の戦闘は、それだけで一人の人間を廃人へと仕立て上げた。躍動感に満ちた青い瞳も今は死んだ魚のように濁って、焦点が定まっているのかさえわからなかった。

 目から熱い何かが溢れ出てくるのを誤魔化したい一心で、ロバートは目を伏せる。

 そして、見た。

 机の上に載せられたロレッタの左手――その薬指、まだ穏やかだった頃にテイラーが贈った誇らしげに輝いているはずの指輪が、消えていたのだ。

「……指輪、は?」

 声は震えていた。驚愕と、それを遙かに凌ぐ怒りによって。

 ロレッタがバッグから取り出したのは指輪のケースだった。そこにはロバートもよく目にしていたシンプルな婚約指輪がその役目を終え、納められていた。指輪だけは昔のまま、変わることなく輝いている。

 みるみる歪んでいくロバートの表情を目にしてもロレッタの笑顔は止まなかった。ただただ静かに首を横に振り、静かに告げた。

「明日、直接テイラーに返そうと思ってるの。このままの状態を続けていたら、きっともう戻れなくなってしまう。そうなる前に決断しなきゃ」

 言おうとしていることはわかっていた。諦めろと、親友を見捨てろと、さもなければ自分までもが同じ泥沼に引きずり込まれていくという忠告なのだ。

 賢明な判断だ。もし自分が第三者なら間違いなく聞き入れるだろう忠告だろう。だが、その選択は親友を見殺しにするという残酷な選択だ。

 出来るものか。そう、ロバートは思う。本来ならばその選択から一番遠かったはずのロレッタにそう決断させたこの現実に、沸き立つ怒りを押さえつける。

 ベトナム戦争。共産圏の東南アジア進出を防ぐために繰り広げられた東西諸国の代理戦争。莫大な特需によって軍需企業は多大な利益を得た代わりに、戦闘の長期化によってアメリカ国内は世論が分裂し、反戦運動の激化は社会運動にもなった。公民権運動の鎮静化とともに終戦を迎えたが、アメリカの威信は大きく失われた。

 アメリカの正義が、はるか東の小国に負けたのだ。共産諸国の後ろ盾があったといえ敗北は敗北であり、勝つことができなかった戦士と指揮官、そして政治家は文字通りの《戦犯》となった。

 ――もしも、ロバートが諦めたなら?

 想像してみてかぶりを振った。今ここで諦めることは、直接テイラーを殺すことに他ならないからだ。そんな判断を下せる冷静さを、ロバートは持っていない。たとえ持っていたとすれば投げ捨てていただろう。

 皮肉と罵声は喉元まで出かかっていた。それを吐き出す寸前、ロレッタが静かに言葉を発した。

「――理不尽よね、とても」

 理不尽。その一言で片付けられてしまうのだろうか。無数の不条理と矛盾が産んだこの状況を端的に表現したその言葉に、ロバートの怒りは更に煮え立っていく。

「あなたは正しい、間違ってなんかいないわロバート。けれどね、私はもう駄目。疲れてしまったの」

 決して絶えることのない笑顔。だが、その笑顔は悲しげだった。止むことは、ない。

「正しいことを貫き通せる人はほんの少ししかいない。私は貫き通せるほど強くなかったのよ」

「それで、指輪を渡してもう別れよう、それで終わりかい?」

「あなたは勘違いしているわ。これはもう、終わった話なのよ。誰がどれだけ望んだって、続くことなんかない。――明日、直接会って話すわ」

 それだけ言って、ロレッタはバッグを肩にかけ立ち上がった。要件は済ませたと言うように、だ。

 そのままカフェを出ていくロレッタを止めることもなく、ロバートは大きなため息をついた。

 もう終わった話なのだと、彼女は言った。だが、それは違う。結末に不満を思うなら違う結末を自分で書き込んでやればいい。昔のように、当り前な平穏に、幸せだったあの頃に戻れるというハッピーエンドを自分の手で書けばいいのだ。

 筆は遅々として進まない。だが、筆を投げ出せば結末はそのままだ。自分から可能性を投げ出してしまうほど愚かな選択はないだろう。

「……僕は諦めない」

 諦めてたまるものか。その思いだけを胸に、ロバートは冷めたコーヒーを飲み干した。






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