第三話 紅い瞳の侵入者・前編
ある夜に現れたのは闇を背負う来客。やっと第九部も本格始動です。
月の細い、なんとも薄暗い夜だった。星もどこか遠慮がちに瞬いているように見え、開け放った窓からの景色は、陰鬱な気持ちにさせる。
「後は明日に回すか」
どうも気分が乗らない。先延ばしにしていた書類にやっと手を付けたところだったのに、外がこんな風情では手も止まるというものだ。
やめたやめた。どうせ締切はまだ先だ。インク壺の蓋を固く締め、紙を横に押しのけて、手元を照らしていたランプを消す。
「ん?」
ふいに、夜の闇を切り裂くようにして何かが横切った気がした。鳥、じゃないよな? 羽音はしなかったし、虫にしては大きな影だった。
他に飛ぶものと言えば、魔術で生み出す生き物か。そう思って魔力感知の範囲を意識的に広げてみても、何の反応も返ってはこない。気のせいか?
それでも、もう一度よく見てみようと窓から身を乗り出した時だった。微かに衣擦れの音がしたかと思うと、上から何かがゆっくりと降りてきたのだ。トンと、黒い何かが細い手すりに触れて音を立てる。
「か、革靴っ?」
ぎょっとして見上げれば、目に飛び込んできたのは紫色のマントと、それとは対照的な眩しいばかりの銀の髪。そして夜闇の中で煌々と光る紅い瞳だった。
こちらが呆気にとられたままでいると、その銀髪男のゆっくりと開いた唇から言葉が紡がれる。
「よう、にーさん。オルトって人を呼んでくれないか?」
「へ……?」
何秒くらい固まっていただろうか。はっと我に返って数度瞬きをしても、世界は何一つ変わっちゃくれなかった。何が起きている? 俺の部屋のベランダの手すりに若い男が小器用に立っていて、「人を呼んでくれ」?
「お、お前っ、誰だっ!」
本当なら、侵入者を詰問・捕縛しなければならない場面だと、今更ながらに気付く。しかし、相手のあまりの唐突さと怪しさに、口から飛び出たのは陳腐なセリフ一つきりだった。
ここまで突き抜けていたら、冷静な対処を求められても困る! 男は一瞬目を丸くして、それから笑い声を漏らした。
「はは、そういやそうか。誰が訪ねてきたか分からないと、人を呼びようがないよな」
いやいや反省点違うし! ド天然かよ! 心の中で激しくツッコミを入れていると、そいつは本気か嘘か「俺はルーシュ」とあっさり名前を明らかにした。
こんな時間にこっそりやってきたくせに、身元を隠す気はないらしい。どこまでも珍妙な侵入者である。あぁ、そういや昔似たような不審者がいたな。今やその不審者に仕えているのだから、未来とは本当に分からない。
「で、オルトを呼んでくれるのか、くれないのか。どっちだ?」
「オルト……?」
口にしながら、どこかで聞いたことがある名だと思った。けれども、どこで聞いたかまでは記憶の淵から浮かんでこない。
「っていうか、あんた侵入者だろ。そのオルトって人を呼んで来たら、俺が怒られるっつの」
そもそもどこから入ってきたんだ? ここはれっきとした王城の一角で、入り口はもちろん、城内のあちこちで兵が見張りをしている。
唯一の例外である空にも、魔導師が編んだ結界が網の目のように張り巡らされているはずだ。なのに、騒ぎになっている様子はない。
いや、もし空からの侵入者だったら、それこそ「飛んで」きたことになってしまうのだが……。
もしや転送術か? あの術は、実は結界を素通りしてしまう。自分でも何度か体験済みだから確かだ。以前、師匠にセキュリティがなっていないと訴えてみたら、こう言われてしまった。
『並みの魔導師には転送術など扱えぬし、扱えるほどの術者相手には多少の結界など紙切れと同じじゃ。もし転送術を跳ね返すほどの結界を張るとなれば、王城の魔導師だけでは維持が追い付かぬ』
現実的ではないってわけだ。ついでに師匠はこうも続けた。
『そんなに言うなら、自分やココが強力な結界を張るか? 可能ではあろうが、お主の魔力はあらゆる魔術を会得し、行使するためにあるのじゃ。わしは許可などせぬぞ』
理屈が暴力的過ぎる。まぁ俺だってそんな面倒なことはしたくない。さて、ルーシュと名乗った銀髪の男はおかしなことでも言われたみたいに、またも軽く笑った。
「侵入者? 俺に人間の法なんて関係ないね」
「は? 『人間の法』……?」
変な言い方をする。まるで自分は人間の決まりごとの外にいるとでも言いたげだ。いや、まさか。逡巡していると、彼はしゅっと美しく伸びた眉毛を軽く歪めた。
「あまり時間はないんだ。じゃあ呼んでこなくていいから、居場所を教えてくれ」
「だから、そういう訳にはいかなくてだな」
目の前の怪しい侵入者を一体どうすれば良いのか、判断が付かなさ過ぎて両手をあげて降参したくなる。その時、コンコンと鳴るノックの音が、膠着しかかった思考を解いた。
「なにブツブツ独り言いってるのさ。寝言は寝て言わなきゃいけないんだよ?」
「こんなデカい寝言があるか!」
間髪入れずツッコんでいると、キーマは入って来るやいなや、状況に気付いて間抜け面になった。
「さすがヤルン。変わった知り合いが多いね」
「だから違ぇって。侵入者だよ、侵入者!」
「あぁ、そう。人、呼ぶ?」
「おっ、そっちのにーさんがオルトを呼んでくれるか?」
だからそうじゃなくてだな! なんなんだこの茶番は、終わらない喜劇は。誰かオチを付けてくれ!
「とにかく入れよ。見上げてると首が痛い」
俺は仕方なくその怪し過ぎる人物を部屋に招き入れることにした。押し問答をしている最中に誰かに見つけられても面倒だ。
「じゃ、失礼」
ルーシュは室内に闇が滑り込むかのように降りてきて、用意してやった丸椅子にすとんと腰かけた。身長は俺とキーマの間くらいか。
年齢は20代の前半程度に見える。けれど、白い細面は艶やかさを持つ一方で、物腰に老成を感じさせるせいではっきりとしない。
「それで、何しにきたんだよ」
「だから、用事はさっきから言ってる。オルトって術者に会いに来た。ここにいるはずだ」
オルトか。やはり耳にしたことがある気がするけれども、ピンとはこない。仕方なくキーマに目線で助けを求めたら、意外な反応が返ってきた。
「もしかして、オルティリト師のこと?」
「へっ、師匠? ……あーっ。そういや、オルトって名乗ってた!」
通りで今の今まで思い出せなかったはずだ。師匠をオルトと呼んだのは、確かファタリア王国のウィニア王女で、それも謁見のド緊張していた中でのことだったから、おぼろげな記憶でしかない。
「キーマ、お前よく覚えてたな」
「たまたまだって」
待てよ? ってことは、この人、師匠の客なのか?
「呼んだかのう」
『ぅわっ!?』
突然の声にキーマと二人そろって飛び退くと、扉のところに立っていたのは話題の人物だった。
「師匠、なんでここに?」
じいさんの自室は兵舎にあり、この騎士寮からはかなり離れた場所にある。呼び出しはしょっちゅうあっても、わざわざ自身が訪れることはないのだが。
「なぁに。面白いことが起きているんじゃないかと思ってのう」
要するに、地獄耳だか第六感だかの賜物ってわけだ。まさか俺の部屋を盗聴とかしてないだろうな? ……考えるのは止そう、マジであり得るから。
師匠は珍客に硬い靴音を鳴らしながら歩み寄り、問いかけた。
「この老いぼれになんのご用かの? わしをオルトと呼ぶ相手は数える程しかおらぬのじゃが、はて」
過去を探るように細められた瞳に、閃きは起こらない。師匠は良くボケたふりはするが、記憶力は抜群だ。どうしたのだろうと思っていると、ルーシュが椅子から立ち上がって、ははっと笑った。
「初対面だよ。なるほど、捜してもなかなか見つからないと思ったらオルトってのは愛称だったのか」
ルーシュだ、と改めて師匠に名乗りながら出された白い手を、師匠も握り返す。
「おお、やはり初対面か。お初にお目にかかる、オルティリトじゃ。その外見からすると、……夜のお方か?」
「あぁ。その呼び方も久しぶりに聞いたな」
夜のお方? 聞き覚えのない単語が出てきた。でも二人とも説明してくれそうにはない。会話を聞き続けていれば分かるかもしれないし、今は黙っているとするか。
「それで、わしに何用ですかな?」
師匠が言葉遣いを改めた? もしかして身分の高い人物なのだろうか。
「城の術のメンテナンスを頼みたい。長いこと昔のままだから、当主が気にかけていてね」
「城……。あぁ、確かにあれから随分と経ちますのう」
「本人に頼むのが確実だと思って、随分あっちこっち捜したぜ」
城? この人、どこかの国のお偉いさんとかか? 話が進めば分かるかと踏んでいたけれど、疑問は減るどころか増える一方だ。
「ふむ、承知しましたぞ。そちらのご都合は?」
「早い方が助かるな」
「では、すぐに。弟子にも勉強のために見せたいのじゃが、構いませんかのう?」
「大人数は遠慮してくれ」
「それで結構です。行くぞ、ヤルン」
「って、待てーい!」
とんとん拍子に進行してしまってタイミングを失っていたが、俺は多少強引にでも待ったをかけた。
「なんじゃ」
「『なんじゃ』じゃないっ! この人誰ッこれからどこ行くんだッなんでいつの間に俺まで行くことになってんだよッ!?」
一息に吐き出すと、顔をしかめた師匠に「囀るでない。来れば分かる」と言われてしまった。一切説明する気がないらしい。
こうなったじいさんは、幾らせっついても貝と同じである。ぐうう、抵抗しても無理矢理にでも連れていかれるだろうし、大人しくついていくしかないか……!
「分かった。せめて荷物をまとめる時間くらいはくれよな」
「お客人をあまり待たせるでないぞ」
ちょっくらそこまで、みたいなノリを決して信じてはならない。師匠の時間や距離の感覚は、常人とかけ離れているのだ。長期間帰れない可能性も多分にある。
俺が観念して荷物を大雑把にかき集め始めると、慌てたのはキーマだった。
「え、二人とも今から出かけるつもり?」
「おう、お前は残って事情説明を――」
「ついていくに決まってるよね? 良いですか?」
キーマが問い、師匠が目配せし、ルーシュが頷き、それを受けたキーマが自室に荷物を取りに走った。ったく、このお楽しみマニアめ。
どうせ沢山は持っていけないし、肩掛け袋に大事なものだけを適当に放り込んで準備は完了だ。あとは戻って来られるのを祈るしかないな。
はぁ、お姫様、怒るだろうなぁ。仕事の穴はココに埋めて貰うしかないか。その時、慌ただしい足音がして、キーマが戻ってきたのかと思ったら違った。見れば、肩で息をするココが立っている。
「せ、師匠、ヤルンさんも、私を置いていくなんて酷いです!」
「お前、どうして」
「魔力の気配で師匠がこちらにいらっしゃると気付いて、何かあるのではと……」
なるほどな。っていうかもう完全にサーチされてんな。一体どれくらい広範囲まで分かるのか、気になるところだ。
「一緒に行く気か? どこに行くかも、いつ帰れるかも分からないんだぞ?」
「行きます! 残ったら、永遠のお別れの可能性だってあり得ますよね? そんなの絶対に嫌です!」
そんなことは、あるかもな。結局、いつものメンバーに落ち着き、4人が揃っていなくなると騒ぎになるため、手紙を書き残していくことにした。
行き先も目的も分からなかったので、内容などないに等しいものだったけれど、仕方がない。
「これ読んだ人、絶対夜逃げしたと思うよね」
キーマの発言にツッコめる者は誰もいなかった。
ピンときた方もおられるかもしれませんが、ルーシュは私が書いている別のお話に出てくる人物です。
今後もそちらのキャラが絡んでくる予定ですが、こちらだけで読めるように描いていきますので、どうぞご安心を。
なお、ウィニア姫と師匠の会話が気になった方は「第五部 第二話 麗しの君」をご覧くださいませ。




