愛鍵
午前0時、冬の寒さが肌を刺し街灯だけが僕を照らしていた
「最悪だ。」
思わず口から出た。今日は何度その言葉を口にしただろうか。
文字通り路頭に迷っている。家に帰り着く前に、鞄を盗まれた。
その中には、財布もパソコンも日雇いで稼いだ給料も全てが入っていたのに。
相手は自転車だった。警察にすぐ電話して現場で質問を受け、暗くて何も見えなかったと伝えると
犯人の特定は難しいと、申し訳なさそうに言われた。
何か分かり次第連絡するとだけ言われ、こうやって家の玄関まで
魂が抜けたようにさまよってきたわけである。
ポケットをまさぐりながら気づく
「最悪だ、家の鍵も鞄に入れたままだ。」
信じられないほど大きな声が出てしまった。アパートの住人に聞こえているだろう。
今日の疲れがいっぺんに吹き飛び、倍になって返ってきたように体が重い。
家の前まで歩いてきたのに鍵がなくては入れない。
いっそのこと隣の部屋の窓から緊急用の壁を蹴り破って強引に入ってやろうか。
角部屋なのでお隣さんは一人しかいない。
ベランダにまでカップルの笑い声が聞こえるあの部屋だ。
もしかしたらまだ起きているかもしれない。
「1回やってみたかったんだよなあれ。」
煙草をベランダで吸うときずっと見ていたあの壁。
少しひび割れているのに壊れないあの壁をずっと壊したかった。
そんなことを考えている矢先に気づいた。
「窓ガラスは割れないよな。」
大家さんに電話する手もあるが80歳くらいのおばあさんだ。
この時間に起こすのは申し訳ない。
もう一度ポケットに手を突っ込んだが空っぽだ。
分かっているのに何度も何度も確認した。
結果は変わらないと分かっているのに。
「ないよな。」
大きな白いため息が暗闇に飲み込まれていく。
このまま一連の不幸とともに消え去ってもらいたい。
何もかも上手くいかないんだ。2ヶ月前に会社をクビになった。
そしてつい先日には、彼女に振られている。
1年半も付き合っていたのにLINEで一言
「別れよう」
とだけ送られてきて
「いや、どうして?」
と返信してから既読無視されている。
きっと何か怒らせたのだろうが全く記憶にない。
というか、何もかもいつも通りだった。
彼女がスタバに行きたいと言ったら連れて行ったし
服を買いたいと言ったらついて行った。
実は彼女の誕生日が近く、プレゼントまで用意していたのだ。
なんかよく分からないブランドのよく分からないピアス。
ずっと彼女が欲しがっていた。
彼女が喜ぶ顔を想像しながら買ったのに、未来永劫その姿を見ることはないかもしれない。
部屋の前の手すりに手をかけて、ふと夜空を眺める。
そこには、星が輝いていた。
「こんなにきれいだったんだ。」
息をするようにつぶやく。いつも星は出ているはずのに気がつかなかった。
スマホを見て、パソコンを見て、落ち込んで下ばかり見ていた僕を励ますように
星々は輝いている。そこに一筋の流れ星が流れ、一瞬で消えていった。
今は人生のどん底かもしれないが、いつか報われる時が来る。
そう言い聞かせることしかできなかった。
欲を言えば、星に願って叶うのならば
「あの子とこんな綺麗な景色を共有したかったな。」
彼女の事を考えていたら、家に入れる方法を思い出した。
なんと合鍵を渡していたのである。
「そうだ、謝ればきっと許してくれるだろう。なんで別れたいのかちゃんと聞き出して
彼女が嫌がっているとこは直そう。思い返せば彼女がいなくなってひどいことばかりだ。」
僕は思いきって電話をかけた。彼女の住んでいる家はそう遠くはない。
歩いて行ける距離だ。下手すれば彼女の家にそのまま泊まれるかもしれない。
そんな期待を込めたワンコールはとてつもなく長く感じる。
おそらく最後の切り札。もう他には考えつかない。
ただ一つの合鍵。いや、君との愛鍵だ。
これで僕たちの関係は終わりなんてあんまりじゃないか。
頼むから電話に出てくれ。寝てはいないはずだろ。
彼女は電話に出ない。あれから20コールくらい経ったはずだ。
それでも僕には彼女しかいないんだ。もう一度かけ直す。
プルプルプルプル
「大切な話があるんだ」
つぶやきながらLINEのメッセージを送った。
プルプルプルプル
「お願いだ、話がしたい」
プルプルプルプルがブツっと切れて、彼女が出た。
「もしもし」
誰が聞いても恋する人に話す声ではない。
「えーと、あの、謝りたいことがあ」
そこまで言いかけた時に、気がついたんだ。
隣の部屋のドアが開いて誰かが耳にスマホを当てている。
似たようなコートを買ってあげた、見覚えのあるミディアムヘアーの女性。
こちらに気づいたようで、ひどく驚いた顔をしている。
部屋の明かりが彼女に差し込んで
耳についているピアスが光り輝いていた。
はじめての短編ですが、いかがでしたか。