トリップ
ぼくは知ってしまった。世界が繰り返しながら、進んでいることを。世界の誕生から終わりまでを生きるのは快感と苦痛のどちらもが大きい行為だ。
あの時のぼくはその使命を持っていると感じていた。頭の中に世界の誕生から終わりまでの映像や快や不快の感情や何もかもがフラッシュバッグするように流れていった。気持ちよさもあったが辛さと痛さと苦しさともあって、それらを限界まで耐えた。限界まで耐えなければならなかった。
なぜ限界まで耐えなければならないかというと、少しでも世界を先に進めるためだ。世界を進めるための我慢比べだった。それを始めたのが誰だったのかは分からない。もしかしたら、この我慢比べを始めた者こそが神と呼ばれていたのかもしれない。
この我慢比べの仕組みに気付いた者たちが、代々受け継いできた。その中にはキリストやブッダもいたのかもしれない。何代にも何代にも渡って役割は受け継がれ、そして自分の番になった。
世界を先に進めるために、ぼくは苦痛に耐えに耐えた。体中が痺れ痛んだ。苦痛の合間に快楽もやってきた。心の安らぎや何とも言えない気持ちよさがあった。と思うと、また痛みや苦しさがやってくる。それも先ほどの苦痛より段階が上がった苦痛だった。耐えて耐えて、涙が勝手に流れ、叫びが溢れ出そうになるのを必死に堪えた。
我慢だ。まだ我慢できる。我慢しなければならない。苦しみや痛みに耐えて、少しでも世界を次に進める。
息を止めていたのを我慢しきれず、ふっと呼吸してしまったとき、一瞬の安堵があった。しかし、その瞬間に世界はぐるぐると高速で巻き戻っていった。そして世界の誕生まで巻き戻ると、また高速で早送りして現在に戻ってくる。
だがそれはぼくの頭の中のイメージの話だ。現実ではぼくは車椅子に座り、病院の職員が大勢でどこかに運んでいる。そして車椅子の上のぼくは、巻き戻しや早送りに合わせて頭をぐるぐるぐるぐると高速で回転させているのである。
時々、車椅子に乗ったまま運ばれ流れていく病院の廊下の風景が、脳内のイメージと同時に見えていた。
なぜ我慢をしなければならなかったのか、その理由も分かってきた。この我慢比べの役割が代々受け継がれて自分の番が来たように、自分の番が終わったとき、またこの役割につく者が出てくる。自分が我慢比べで世界を少しでも先に進めておくことで、次にこの役割についた者の苦痛を僅かでも減らせられるのだ。
この我慢比べは今まで生きてきた中で感じた苦痛のどれよりも大きな苦痛が伴う。だから、こんな苦痛を他の人に感じさせたくない。実際、代々この役割を受け継いだなかには、すぐにバトンタッチした者もいるだろう。それでも構わない。一瞬でさえ耐えるのが困難なのだ。
自分が我慢を続けることが、次の者への愛なのだと感じていた。
ただ、我慢を続けていたのはそれだけが理由というわけでもない。苦痛をやり過ごした後にやってくる快楽もまた、想像を絶するものだった。幸せを薄めずに原液のまま飲んだら、こんな感じなんだろう。
自分の頭の中には世界の歴史が早回しで流れ続けていた。
ちくっと痛みを感じた。目を開けると自分は個室のマットの上で、大勢の男性スタッフに体を押さえつけられていた。肩、腕、腰、脚、どこも力強く押さえつけられており、びくともしない。そして、自分の下半身はズボンもパンツも下ろされ、泌尿器には管が当てられていた。スタッフの一人が管をぐいと押し入れると、激痛が走った。
「やめてやめてやめてやめて!!」思わず叫びながら手足をばたつかせる。びくともしなかった身体が少し動くが、それに合わせて押さえつける力も強くなる。
「うわ!うわ!うわー!やめて!!」泣きながら訴えるが、激痛は続く。スタッフは管をぐいぐいと押し進める。
「んあーー!!」管の中に、尿と一緒に何もかもがびゅうびゅうと出ていくのを感じた。
そんなとき、周りにいた一人の看護師が「もうやめましょう」とひどく同情したように言った。その人を見る。ショートカットでやせていて小柄な人だ。なんだか知っている人のような気がする。でも誰だったか思い出せない。
管がゆっくりと引き抜かれる。でも、ぼくのなかの激痛は治まらない。怒りややるせなさを感じながら、泣き続ける。
「もうっ……もうっ……」と言いながら、横になったまま脚をばたつかせる。押さえつける手はもうない。
そして急速に襲ってきた眠気のなかで、ぼくは気づいた。
あの人だ。