破顔
女の子は笑顔の時が一番魅力的だ。
誰が言い出したのか知らないけれど、そんなフレーズを聞いたことがある。
僕は反対だ。
少なくとも彼女に限っては当てはまらない、僕はそう思ってる。
彼女は笑うと醜くなるんだ。
芳賀さんはいわゆる美少女だった。高嶺の花とまでは言わないけれど、クラスないし学年に一人いるかいないかの可愛い女の子で、事実、彼女はクラスのみんなから好かれていた。
芳賀さんは誰にでも別け隔てなく接する人で、普段女の子とろくに話もできないような冴えない男子が相手でも気にせず会話する。
おかげで、その手の男子どもは大抵、ひっそりと彼女に想いを寄せていたりする。
僕は彼女のことが好きだった。
幸運なことに僕の席は芳賀さんの斜め後ろで、彼女のことをよく観察することができる。
その日も僕はクラスの男友達と他愛のない話をしながら、彼女の様子をそれとなく眺めていた。
芳賀さんは本をよく読む人で、休み時間は窓際の席で静かに過ごしていることが多い。窓から日が差し込むと、本が傷むのを嫌がってか、避けるように体をひねってそのまま読み続けたりする。
カーテンを閉めれば済む話なのにそこに思い至らない彼女の姿を僕は微笑ましい気持ちで見守っているのだけれど、悲しいかな、至福の時間は往々にして無粋な第三者によって阻害されてしまう。
クラスの女子が芳賀さんに話しかける。
芳賀さんは育ちの良さを感じさせる柔らかな調子で、クラスの女子と笑顔でおしゃべりを始める。
この笑顔がいけない。
笑顔が彼女の美しさを全て奪ってしまう。
すっきりとした目元や、整った鼻筋や、艶やかな唇が、一瞬にして脆く崩れ去るさまはある種の恐怖体験だ。
目尻は細くしわくちゃに歪み、鼻は豚のように上を向き、口角はイヤらしく吊り上がる……。
もちろん彼女としては、笑顔こそが最上のコミュニケーションツールであるという一般論に則っているわけだから、それがまさかこれほどまで裏目に出ているとは思いもよらないのだろう。
しかし普段の彼女が魅力的であるために、それを愛する僕としては、この笑顔さえなければと思わずにいられない。
これほど器量の良い美少女でありながら、芳賀さんの色恋に関する噂が全くと言っていいほど流れないのは、やはりこの笑顔の醜さがネックになっているのだろう。
と、僕は思っている。思っていた。ところがびっくり。なんてこった。
「芳賀さんって、あの笑顔が可愛いよな」
僕と話をしていた友人が突然、彼女の方を見ながら小声でそんなことを言った。
僕は耳を疑ったのだが、いつの間にか周りに集まっていた他の男達もこの言葉に同調している様子だった。
なんということだろう。
驚くべきことに、こいつらは何もわかってないらしい。
彼女の魅力の本質はあの無表情の中に織り込まれた静的な造形美であって、笑顔はそれを妨げるだけの不純物なのに!
この時初めて僕は、彼女の美しさを正しく理解しているのは自分だけだということに気づいた。
それと同時に、僕はえも言われぬ不安に襲われた。
他の男どもが彼女の魅力を誤解しているとすると、彼らは今後も何も考えずに、芳賀さんの醜い笑顔を誘発するのだろうか。
もしもこの先芳賀さんに彼氏ができたとしたら、その男は彼女の幸せを願って、彼女のおぞましい笑顔を守るのだろうか。
それはなんてむごい話だろう。
あんなに可愛い子が、知らず知らずのうちにその魅力を奪われ、にも関わらず周りはそれを褒めそやすだなんて。
そんなことが許されてたまるか。
美しいものは美しいままであるべきじゃないか。
不安はやがて怒りに変わり、怒りは使命感に変わった。
そうだ。美は理解されてこその美じゃないか。
絵画や彫刻だって、その価値を認められてるからこそ相応の扱いをされるんだ。
その価値を理解しているからこそ、正しい取扱いができるんだ。
だったら僕がやるしかない。
唯一の理解者である僕が、彼女の美を守ってやるしか無いじゃないか。
彼女を笑えないようにしてやるしかないじゃないか。
「ホントに? ……嬉しい。うん、私も、その……好きだったの」
僕と芳賀さんは付き合うことになった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕が芳賀さんに告白してから、困ったことに、彼女は以前にも増してよく笑うようになってしまった。
年頃の女の子が彼氏の前で笑顔を振りまくというのは至極まっとうなことなのだろうけれど、僕にとっては好ましいことではなかった。
僕が彼女に求めていたのはあくまで物質的な美であったから、僕は彼女が笑わないで済むように試行錯誤しなければならなかった。
待ち合わせの時間に遅れてみたり、話を聞いてないふりをしたり、違う女の子の話題を振ってみたり。
彼女を遮って自分の話を始めると、わりと露骨にムッとした様子を見せてくれて、これが結構かわいい。
ただ、いろいろ試してわかったことは、効果があるのはその時だけで、時間が立つと彼女はそれまで以上に甘ったるい調子で媚びた笑顔を浮かべるだけだということだった。
はっきり断っておくけれど、女の子をいじめる趣味があるわけではない。僕はただ純粋に彼女の美しい姿を見たいだけだった。実際、意味が無いとわかった時点で同じ嫌がらせは繰り返さなかったし、何をやっても芳賀さんの笑顔を完全になくすことはできなかったから、僕はほとんど諦めかけていたんだ。
僕がこの難問の解法を発見したのはほんの偶然からだった。
その日僕たちは小さなファミレスの二人掛けの席で、向かい合って昼食を食べていた。僕が先に食べ終わって、彼女の食べる様子を眺めていたとき、近くに小さな蚊が飛んでいることに僕は気づいた。彼女の顔に虫刺されの跡でもできたら大変だから、もしも彼女の顔に蚊がとまったらすぐに叩いて潰さなきゃいけないと思った。顔を叩かれた彼女はどんな表情をするのだろう。僕は彼女を叩きたくてしょうがなくなった。早く蚊がとまるようにと願った。どうしてこんな考えに至ったのか今となってはわからない。もしかしたら僕がついさっきまで食べていたオムライスの真っ赤なケチャップが、あまりにも真っ赤だったのがよくなかったのかもしれない。とにかく僕は彼女を叩かないといけなくて、よしんば彼女の顔に蚊がとまらなかったとしても、とまったことにして叩いてしまえばいいと思った。
「どうしたの?」
蚊を殺すには十分すぎる勢いで、彼女の左頬をピシャリと打った。
彼女は驚きと、痛みと、少し遅れて困惑の表情でもって僕を見た。この時彼女は間違いなくこの世で一番美しかった。この美しさが失われる前に、少しでも多くの美しさが残っているうちに、僕は身を乗り出して彼女の顔を引き寄せ飲みかけのアイスコーヒーをぶっかけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
予定の合わない日が続いた。
個人的な用事が重なったり、僕が体調を崩したりしていたこともあって、二人でゆっくり会う時間が取れなかった。
僕と芳賀さんの関係をクラスの誰にも知らせてなかったということもあり、学校ではお互いそれらしい素振りを見せないことにしていた。
最近の女の子にしては珍しく芳賀さんは電話を好まなかったから、僕たちは主にメールやSNSでやり取りをしていた。ちょうど一ヶ月後くらいの土日に都合がつきそうだという話になり、なかなか会えなかった反動もあって、僕たちは一泊二日の旅行の計画を立てた。
一線を越える予感があった。年頃の男女が一つ屋根の下で過ごす約束をしているのだから、そこに青い夢想を抱くのは理解されてしかるべきと思う。ただし僕は即物的な予感だけに陶酔していたわけではない。僕はすでに、彼女の笑顔を取り去るために物理的手段が有効であることを知っている。さらに僕は、彼女が処女であることをそれとなく聞き出していた。そこには間違いなく苦痛が伴うはずであり、そこには間違いなく笑顔なんてものが入り込む余地は無いはずだ。頬を打たれただけであれほど扇情的な表情を見せてくれた彼女が、その汚れない肉体を無下に貫かれたとしたら、一体どれほど素敵なカオをしてくれるのだろう。
僕はそれを見ることができる。
ただの苦痛ではない。それは愛ゆえに施される行為であり、彼女が女であるがゆえに受けねばならない理不尽な痛みと屈辱なのである。
僕はそれを見ることができる。
僕は美の誕生に立ち会うことができる。
僕は唯一の目撃者として、彼女の一瞬の美の証人になることができる。
それを思うだけでもう僕の昂ぶりはとめどなく
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一ヶ月はすぐに過ぎた。この間に僕がやったことといえば、避妊具を買ったことと、前日に両手の爪を念入りに切ったことくらいだった。
その日、芳賀さんは朝から満面の醜かった。一ヶ月分の醜かったを溜め込んでいたかのようだった。僕は彼女の醜い醜かったの奥底に、今夜浮き彫りになるはずの美しさを探した。本来そこに確かにあるはずの美を求めて、躍起になって覗き込んだ。
「そんなに見つめないでよ……。恥ずかしいよ」
なんて愚かな子だろう。
愚かで醜くて、美しくて愛おしい。
僕は興奮を鎮めることができず、日中何度もトイレに行かなければならなかった。
日がすっかり落ちた頃、僕たちは温泉街として有名な観光地を訪れており、小さな旅館に部屋を取った。予算が限られていたので食事は外で済ませてあり、明日のチェックアウトも早い。
一日遊んで回った疲労と、いよいよ目前に迫った緊張とで僕は息が弾んでいた。
ペットボトルの麦茶を少し飲んで、自分の思考がまだ冴えていることを確認した。
実際この時僕は冷静だった。
敷いた布団の上にあぐらをかき、なんとなく付けていたテレビがCMに変わり、肩を寄せた二人の会話が途切れたとき、彼女がこの後の展開について既に心の準備を済ませているということを僕は見逃さなかった。
僕は勢いに任せて彼女を押し倒した。照明を消してほしいと頼んできたけれど黙殺した。僕には彼女の姿を見届ける義務があるから、明かりを消すわけにはいかなかった。
なるべく痛がってもらうために、僕は前準備も無しに服を脱がせて即刻ことを済ませようとした。ところが彼女は既に準備が整っており、これでは苦痛も半減かと思ったが、これは全くの杞憂だった。彼女は十分に痛がってくれた。
逃げられないように彼女に覆いかぶさり、僕はその顔を見た。
そこには悶え喘ぐ。美の誕生と腰を振ることの止まらない。期待を凌駕する一瞬の永遠。
僕はその神々しさすら感じる彼女の姿に思わず感謝の辞を述べようとしたのだけど言葉がうまく出てこなかった。
結局それはほんの僅かな時間だったのかもしれないけれど、やがて僕に白い点滅が訪れた。
僕は息を荒げながら、仰向けで胸を上下させる彼女を見下ろしていた。
今度こそ声をかけようと思ったけれど喉がガラガラだった。僕は残っていた麦茶を飲み干した。
その時、ぼんやりとこっちを見ていた芳賀さんが、突然はっきりした口調で言った。
「あなたのことは好きだけど、でも、その『声』だけが、どうしても苦手『だった』の」
心臓が激しく鳴り響き、喉が焼けるように痛かった。
彼女の夢見の表情が、醜い笑顔に変わっていった。
僕は言葉を失った。