青の旅路
遠く魚を追って旅をする鯨たちがこの夜の最後の歌を優しく歌っているとき、“塔”に住まう詩人は深くまどろんでいた。高くそびえる羊歯のような姿をした細長い藍色の塔は、淡い朝の日の光を浴びて安らかに藤色に染まり、その線画のように細く、どこか幾何学的な意匠を絵の具のように空にぬっと這わしている。太陽の赤と、雲の白。あとは多彩な青でできた世界は、惑星の自転と共に夢から目覚めようとしていた。最後の星が空から静かに消え、輝いていた月も白く淀んでゆく。あとの空は目くるめく藍色。さあ、“天国”に朝が来た。
「天国……」
深く深く息をつく。景色にひたすらに圧倒されながら立ち上がる。一面の白い砂地、そこに佇む自分。足跡はない。波に運ばれた様でもない。そっと天からやさしく降ろされたかのように、自分がいままで横たわっていた砂地だけが、人の形にへこんでいた。そして視界の片隅には天に向かってその丸い羊歯を伸ばす塔。そして塔には詩人が住んでいる。なぜ自分はそんなことを知っているのだろう。どうしてここが天国だと思うのだろう。
「わからない……」
わからない。わからない。自分がどこから来たのかさえもわからない。それなのに、ここが天国で、塔には詩人が住まうことだけは知っている。この青と白にだけ彩られた世界で、なぜだか自分はそれだけを知っている。いやそれしか、知らない。そもそも自分は人なのだろうか? 人間と呼ばれる存在なのだろうか? それさえもまだわからないでいる。けれども視界に映る手や足は、確かに自分がよく知る人間のものだった。……。自分は以前どこにいたのだろう。何をしていたんだろう。どうしてここに運ばれてきたのだろう。どうして知識が与えられているのだろう。詩人と塔。それから魚を追う鯨たち。朝と夜のこと。日の巡りと月。言葉。それは与えられたもののようだし、以前から持っていたようにも思える。思考。それを働かせ、やがてそれを放棄した。足は歩けと言っていた。塔へ向かえと言っていた。
「歩きにくい……」
少し歩いて後悔する。けれど歩くしか道はなくて。歩くしか術はなくて。少し歩いても塔の姿は近づかず、果て無き道だと理解する。けれども腹は空かなくて、喉さえも渇かない。そうしてそれを不思議に思わない。ただひたすらに、塔を見上げ、歩き続ける。一歩踏み出す度に砂が足首まで埋まり、それをかき分けて歩く。とても歩きにくい。自分はきっとここを歩くようにはできてない。それでも。それでも。
「……」
やがて日は没し、藍色の夜が来た。星々は輝き、鯨たちはここまでは届かない歌を歌う。月が輝き始め、太陽に代わって空の王として君臨する。塔は闇へと溶け込んだ。自分も疲れた。たぶん、疲れた。休らおう。……安らおう。白い砂地に身を横にする。寒くはない。暑くもない。丁度良い具合だ。天国、だからだろうか。よくわからない。よくわからないけれど輝く星々の下で安らうのはとてもとてもいい気持ちだった。目を閉じた。多分眠った。そうしているうちにやがて静かに朝が来て、自分は再び、塔を目指して歩き出す。
それをくりかえす。本当に果て無き道だった。塔はさっぱり近づかす、景色はちっとも変わらない。それでも朝が来て夜が来る度に自分は塔に近づいていることを感じている。そしてそれから何百回か何千回、それとも何万回か何億回の昼と夜を越え、ようやく自分は羊歯の塔へと辿り着く。
「……」
扉はなく、遮るものもない。塔を昇り、最上階に辿り着く。そこに詩人が待っていた。眠る詩人が待っていた。詩人は目覚め、そうして言った。
「おはよう、さよなら、僕の夢」
詩人の姿はかき消えた。そうして自分が眠りに落ちる。鯨たちは届かない声で高らかに歌い、“天国”は新たな客人を迎える準備をする。