砕き混じりて三つ巴 1
第弐章 砕き混じりて三つ巴
温暖の風が吹き下ろす橋の上で、一人の鬼児は叫んでいた。
喉を嗄らしかねない怒りと嘆きの大声は、猛禽のように高く蒼天を昇り、少年の身体をビリビリと震わせると、雲水の覚悟を後押しした。
彼の運命が切り替わった瞬間は、この時以外の他に無かった。
雲水は陸橋の欄干に車椅子をぶつけるように走らせ、身を乗り出し、もう一度喉を突き破らん勢いで声を張り上げた。
プライドを捨て、惨めと自覚しながらも精魂絶叫する。
「っ助けてくれ! 鋭利! 虚呂! 俺を、助けてくれよおおおおおおおおおおッ!」
泣き叫ぶ、というものではなかったが、それは泣くよりも痛々しい様だった。
良識ある者だったら、誰しもが眉を顰めて、顔を背け、素通りしていくだろう。
あまりに惨めで、未練がましい姿であった。
誰もが生きるのに必死な、他人を蹴落とすことが当たり前の〈廃都〉でこのようなことを叫んだところで失笑され無視されるだけだというのに。
そんなことは雲水自身も百も承知だった。
しかし彼は叫ばずにはいられなかった。現実と己の無力を認めたくないがゆえに、ではなく一縷の望みがそこにあったから。無慈悲な世界に対し、絶望に対し、一筋の希望を捨てるなんてこと、雲水という青い少年には出来なかった。
彼が生きているこの地は、絶望と狂気に犯された都。本来ならいくら喚こうが、命や一生を懸けようが、愚かしい叫びが通るはずがなかった。
だが、その時近くにいた鬼は異例に位置する二人。
『正義』を謡う組織を抜け出してきた鋭すぎる鬼と、誰にも頼らず誰とも交わらずに生きてきた虚ろな鬼。
そして奇跡が、この二人の鬼の性格からして化学反応のように当然の現象であったが、雲水にとって、そうとしか思えないことが起こった。
ビュォウ、と電柱やビルの壁面を伝って、黒い疾風が駆け上ってきた。
黒衣の鬼は雲水の頭上を跳び越え、後ろに着地して、眉を上げた。
「ッッッッ、うっせええええええええええええええ! 人の名前をこんな目立つところで絶叫すんな! 『あいつら』に聞こえたらどうすんだ!」
「……鋭利! 戻ってきてくれたのか!」
ああもう、と鋭利は慌ててこっちの口を塞いだ。
「だから呼ぶな。ったくなんだよ、泣きやがって。何がそんな嬉しいんだ」
「だ、だって、俺一人だと思っちまって。急にどっか行ったから」
はあ? とこちらを見下ろす鋭利は半眼になる。
「女かテメエ。何だ助けてって。今度は腰が抜けて動けねえってか?」
「子供たちが攫われた。こいつらは陽動部隊だったんだ」
鋭利が再び、はあっ? と言う前に乾いた声が現れた。
「僕を呼び戻したってことは、僕のメリットが見つかったってことなのかな?」
認識の外から姿を現した虚呂を見て、雲水はそっと鋭利に目配せした。
「ん? ……ああ、そゆこと。りょーかい」
鬼は了承すると、暴風となってグラサンの少年にぶつかった。
ぐほぉッ! と予想外の不意打ちに虚呂は気絶する。
倒れた彼を肩に乗せ、実行犯は振り向いた。
「で。力尽くで黙らせたが、こっからどうすんだ、こいつ」
「救出に協力させる。もう一度言うが、子供たちが、俺が離れている間に奪われた。今頃街の外に向かっているはずだが、どの方面に逃げたか分からないし、俺の体力で追いつけるとは思えない。鋭利、何とかしてくれ」
「人任せだなぁ。何とかしてくれって、オレはランプの魔神じゃねえよ。……てか、ガキどもが攫われたって、こんな時だけ不安的中すんのかー」
鋭利の顔が、種を噛み潰したみたいに渋いものになる。
「目を離した俺のミスだ。頼む、手を貸してくれ」
「まー、オマエを責めていても仕方ねーし、時間の無駄だ。……この道沿いに進んで行けば外に出られるが、まあ、奴らもそんなに素直じゃねえだろ。途中で下道に降りて、迂回して、いいや、取引場所も変えているかも知れねえな」
「どうにか出来そうか、鋭利」
「さあな。まだ諦めたくないんだったら、ひとまず追ってみよう」
八重歯を見せながらのその提案は、是非もないことだった。
雲水と鋭利はクラッシュを起こしている車両の中から、奇跡的に走行可能な自動車を見つけ出し、急いで発車した。
運転席に鋭利。助手席に雲水。後部に気絶している虚呂と車椅子。
鬼子三人の、内一人は強制参加の、追撃が始まった。
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急発進と急カーブと急加速。その連続に舌を噛みそうになる。後ろでは虚呂がシートから落ちて、辺りにガッツンガッツンとぶつかっている。
雲水は両腕で体勢を支えつつ、運転手の顔を見た。
「さ、攫われた、って聞いても怒ったり、驚いたりしなっ、いんだな」
凹凸のある道路上をハイスピードで走っていく車内での質問である。言い切った自分を褒めてやりたいくらいだ。
一方揺れには慣れているのか、鋭利は一度も噛まずにすらすらと言った。
「んまあ、そういう輩のやり方は大体把握しているからねー。利害計算してくれるんだから読むのは簡単な方さ。何だ、叱って欲しかったのか?」
「そういう趣味はない。鋭利は瀬田組のこと、どれくらい知っている?」
鋭利は流暢に答えた。
「浅部の地区と繁華街を牛耳っている程度で、いい気になっているチンピラ集団。だが、そこからが流石、人間だ。麻薬と人身売買で資金を集めて、その一方で復興支援という名目で鬼形児を雇ったり、金と物資をばら撒いたりする仕方で多くのチームと同盟を組んでいる。第三地区や周辺地区にいるチームのほとんどは、瀬田組のバックアップを受けていると考えてもいい。第四地区の《天楼族》もな」
「……やっぱり、か。だから、売買を黙認していた」
予想はしていたが、いざ真相を聞くと、憤るのを禁じ得ない。
「曲がりなりにも市場を作れて、地区を治められているのは瀬田組のお陰だからねー。瀬田組様様ってわけ。こんな風に瀬田組は、純粋な暴力ではなく、餌をやることで主従関係を築き、見えない領地を拡大していった」
「戦いとなれば抵抗するが、優しい顔してれば、誰もが騙されるってか。金や物資が潤沢になければ使えない。なるほど、外と繋がっている、人間らしい手だ」
飢えた野良犬が餌をくれた恩人に忠義を誓うのは、極自然なことだ。もし雲水がチームの指導者であり、誰かに救われたなら自分も従属するに違いない。
「野犬の群れってのも、これがけっこう厄介でな。他のチームも迂闊に手出し出来ないし、群れの中でもお互いに牽制し合っているから、主人が噛み付かれることもない。しばらく瀬田組の天下は続くだろうさ」
「奴らの、金と物資による天下、か」
実際それで救われた者が沢山いるはずだ。雲水だって第三地区に住んでいたのだから、その恩恵を受けていた。笑顔が多いのは、そこが豊かな証拠だ。
しかし。だからと言って、弱者を踏みにじるなんて、と反感もあるが、問題は一辺倒ではないと知った雲水は、自分の正義に自信を無くしていた。
町の最底辺にいた頃の思い出は、お世辞にも何かの為になるとは思えない。孤児院に住んでいた時期もあったが、そこでの暮らしもどうしようもなく貧しいものだった。
当時はどうして自分がこんな最低で最悪な世界に生きているのか分からず、ひたすら自分以外の全てを恨んでいたが、今だったら分かる。人間らしい文化的な生活を味わい、それを失った今だったら分かる。
二年前のあそこが豊かじゃなかったからだ。昨日の街が豊かだったからだ。
この街での暴力とは、イコールで支配力だ。
力のあるチームが地区を支配し、弱者の上に立ち、甘い汁をすする。今でこそ減ったが争乱直後は欲望のままに暴れる組織ばかりであった。人を人を思わないのはどちらもだが、暴力に訴えてばかりの組織より、瀬田組の方がまだ許せるような気がする。
両者の違いは、救う人の数。きっとそれだけだ。
しかしそれで充分じゃないかと、雲水の心は揺り動かされる。
もし瀬田組の支配が弱者の犠牲の上に成り立っているのだとしても、より多くの者が貧困から救われ幸福に生きられるというのなら。
正義。雲水は自分の正義がいよいよ分からなくなってきた。
犠牲は見逃せない事実だが、瀬田組が無くなったらその下にいる多くの住人の裕福は崩れ、貧困に落ちる。すぐにではないだろうが、少しずつ確実に。
今、幸福の中に住んでいる、そしてこれから幸福になるやも知れない全員に、元の貧困に落ちろと言うのか。言っていいのか。それは正しいのか。
おい、と声がして、思考の深みに陥っていた雲水の額に刺激が走った。
鉄の指でのデコピンだった。
「……っ痛あっ! 痛いわボケカス! 何してくれとんねんこのアマ!」
「急に黙り込むな。一人で喋ってたオレが馬鹿みたいじゃね?」
「……ん。いや、何かな。色々考えちまって。奴らのやり方で助かってる奴らもいるんだよな、って」
前を見ていた鋭利は顔を傾け、隻眼でチラと一瞥して、
「考えすぎ。オマエは政治家か? ゆくゆくはこの街の大統領か? 偉い偉い」
と馬鹿にするように嘆息した。雲水は言い返す。
「そんなんじゃねえよ。何か、出来ねえかなって、思っただけだ」
そうかい、と鋭利は含み笑って、ペダルを踏み込み速度を上げた。
「オレも人のこと言えた口じゃないけど、あんま難しく考えるなよ。動けなくなるぞ。気楽に感情のまま考えて、行動しろ。無駄に背負うな」
「何だそりゃ。そいつが、お前の正義って奴か?」
「オレに向けてその言葉を口にするな」
鋭利の静かな声に含まれた、殺意にも似た怒気。車内の空気が一瞬で鉛となり、雲水の脊髄に幻の刀が差し込まれる。
「……人を攫っておいて、勝手に修羅場ってないでよ。ここは牢獄かい?」
後ろで軽い嘆声がした。鋭利の殺気が収められた。
「おんや、起きたか虚呂。冷血漢のオマエにも協力してもらいたいみたいだけど、この男も無茶言いよるよね。ま、犬に噛まれたと思って我慢しなー」
「犬は犬でも狂犬だろ? 全く。今日は厄日だ」
モゾリと動いて、床にはまっていた虚呂が座り直して愚痴る。
「逃げないのか? お前の能力だったら……」
睨まれた気がして、雲水は言葉を止めた。代わりに質問にする。
「……攫われたとこを見たって言うんなら、攫った奴らの特徴を教えてくれないか。車種とか台数とか、何人だったとか」
「あんな目に遭わされて、僕が答えるとでも?」
「まあ嫌だろうな。でも頼む。教えてくれ」
「ふぅん、頼むねえ。じゃあ、それ相応のもの見せて欲しいな」
運転手の眼帯娘が訝しげに雲水を見た。
「コイツから聞き出そうとしても無駄だって。煙に巻かれて遊ばれるだけだぜ」
「大丈夫。分かってる。それ相応のもの、だったな」
雲水は後ろに向き、まっすぐサングラスと目を合わせて言う。
「残念だが、俺は人にあげられる物は何も持ってない。謝罪しろと言うなら謝罪するが、だけど頼む。教えてくれ」
「……へえ? 取引する気ないね。もし僕が答えなかったら? このまま車から降ろさないつもり? ここで殺しちゃう? 僕と、ヤり合う?」
ほら面倒、と隣の女が辟易したように漏らす。
だが、覚悟を決めた今の雲水に、怖いものはなかった。
「……分かった。俺も男だ。俺の一番大事なものをやろう」
「そう。くれるっていうのなら貰ってあげるけど。で、それは何だい?」
おう、と頷き、雲水は目を閉じて、唇を突き出した。
「俺の、ファーストキッスだ!」
瞬間、車内の空気が凍りついた。
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