離れ合わさり三葉の幸 4
走るのが楽しいと感じた時、虚呂は敗北感と恐怖を感じた。
時間はまだ十分しか経ってない、はず。猶予はまだまだあるというのに、虚呂の心はすでに危うい。順応性の高さを恨む時がよもや来ようとは。
目と脳の痛みはすっかり引いた。見ることにはまだ躊躇いがあったが、アマンテを追うために致し方ないと、ぼやけた視力で彼女の背中を見つめる。
「ほらほら、そんなもんかね。あんたの根性は!」
「……暑苦しいのは、僕の担当じゃないんだけどなあ!」
とゆうか普通に速い。子供の足じゃ絶対に追いつけない。元の年齢でも自分は追いつけないだろう。
……何を考えているんだ、この人は!
虚呂に何を求めて、こんな茶番劇を演出しているのか。まともに実力を見るだけなら子供にしなくていいし、追いかけっこに興じる必要も無い。アマンテは先程から止まってこっちを待っていたり、後ろ向きで走ったりして本気で走っていない。
まるで少女の頃に戻って遊んでいるだけ。
「……そこの坊や~。女の子は一生女の子なんさね?」
と二十代後半に見える現役女子が目を尖らせる。
「あれ? 僕、口に出してたかい?」
「さっきから『オバさん』やら『ババア』やらって感情剥き出しになってたわよ」
「それはごめん。心にもないことを。本音じゃないんだよ、クソババア」
「……ほんと活きのいいクソ餓鬼さねえ。これだから子供って」
はあ、と吐き出し、仕方ない、と呟いて立ち止まる。
「あんたがそんなに頑張る理由は何だい? 子供に戻っても、そう気分の悪いことばかりじゃないさ。一日も経てば直るし、無邪気でいられるし」
「でも僕は負けてしまう。それじゃあ、納得が行かないんだ」
「納得? 何の納得だい、それは。子供たちへの同情? 悪への憤慨?」
「どっちも僕とは縁が無いものだ。知ってて言ってるね?」
「あたしが聞きたい答えを、誘導するためさね。坊やの本音を」
動かないアマンテに手の届く範囲まで近寄る。
「もう逃げないのかい?」
「どうせ、倒せないだろうからさ。耳を傾けてやろうとね」
舐められているね、と感じるが今の自分は子供だ。そんなものだろう。
「……僕の本音、か。それは、よく分かんないけど、ただ別の場所で二人が戦ってると思うと僕も止まってられないと思った」
「その二人がいなかったら、頑張んないのかい?」
「……きっと、そうだろうね」
なるほどねえ、と腕組みで想いを馳せるアマンテ。
「虚呂の坊やはその二人が大事なんだね」
「だい、じ? 大事……」
虚呂は使い慣れぬその言葉を口内でもう一度だけ、繰り返し、
「大事、に想えそうなんだ。僕にとっての宝物くらいに」
「それは自分が大事にしてもらったから、その感謝で勘違いしているだけじゃないんかね? 相手の真似をしているだけで、それは本物の感情じゃないだろ?」
「感謝とか恩返しも僕とは縁遠いもの、……って思ってたんだけどね……」
じゃあ? というような目線を送られる。まさに誘導尋問だ。
「――ああ、これはニセモノって呼ばれるものだ。コピーライト。僕の本音じゃなくてあの二人からの借り物だよ。名前はもらいもの。大事も勘違い。本当は今もどうでもいいと思ってるよ、全部」
でもさ、でもどうなのだろう。
「ニセモノだとしても、薄っぺらい物だとしても、ようやく手に入れたものを大事に思うことって、そんなにおかしいことかな……。たどたどしくたって見苦しくたって良いじゃないか。変わりたいって思うのは、そんなに悪いことかな……っ?」
僕は思いたくない。だから。
「それを罪だと言うんだったら、そいつは僕の敵だ……っ!」
顔を上げて、もう痛くないのに漏れそうな何かを抑えて、虚呂はアマンテの視界から消えた。彼女の視覚の一部を『ずらし』、自分を彼女の『盲点』にした。
彼女の後ろに回る。拳を構える。七歳の拳だ、何の意味も無い。首にだって届かない。転ばすのがやっとだ。
それでも、癇癪のままにアマンテの背中に、小さい拳を、
「え?」
小さい拳ではなかった。七歳の手が少年の手になって、青年の大きさになった。代わりに前に立っている女の体格が縮んでいって、童女と呼ばれるサイズにまで若返った。
虚呂の眼球は殴られるように機能停止した。背が入れ替わり、振るった拳が三角帽の横を空振りしたのを耳と腕の感触で理解する。
視力はないが自身のことは何となく分かる。今の自分の年齢は、背の高さや肩幅からして十七歳かそれ以上だろうか。線の細さは成長しても変わらずのようだ。
すぐ近くの十歳ほどの少女が、うふふと見上げてくる。
「あら、大人になったら結構イケメンじゃない。失敗したわさ。両目がキョンシーチックになってるけど、うんうん許容範囲さ!」
「貴女に褒められても何も嬉しくないけどね。歳を戻したってことは……」
「うんうん。見事倒したって、そゆことにしときなさい」
「また適当な……。鬼ごっこ途中で止めてるし」
あっははは、と笑いながらバシバシ叩かれる。幼くても性格はオバン臭い。
アマンテは虚呂の前に進み出て、正眼で向き合うと、笑った。
「聞かせてもらったよ、あんたの本音。変革を恐れない求道の意志。ああそうさね、あたしたちの思いが偽善から来るものでも、良くしようと動くことに、まっすぐ生きることに何を躊躇う必要があるだろうか。全く、勇気をもらったよ。その姿は、迷惑かけたお詫びとそのお礼だ。もう返してもらうがね」
虚呂の身体が少年に変化していく。腕や首元を締め付けていた衣服が余裕のあるピッタリサイズになった。それに合わせてアマンテもが成長する。
さあ、と虚呂より幾つか年上の姿になった魔女が指を鳴らした。
横の空間に澱みが生じ、黒い渦になった。異空間の扉だ。
「胸を張って盟主のとこに行きんさい。彼も待ち侘びてる」
「靴、脱ぎ捨てたのを取りに行きたいんだけど」
「腰を折りおって……。後で送ってやるから、とっとと行ってきんしゃい」
後ろから乱暴に蹴りつけられて、虚呂は闇に突き落とされた。
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「……他の二人は~、クリアしたみたいだよ~」
前振れなしに音無が明後日を眺めながら教えてくれた。
「鋭利と虚呂はもう脱出したか。流石あの二人だな」
「君も~急いで追わないとね~。だから~早く教えてくれない~? 君の正義で~私たちのチームと地区を~どう改善出来るか~。君らが瀬田組とどう違うか~」
「簡単に言いやがって……! 考えまとめてる最中だよっ」
「直感で良いのに~。考えれば考えるほど~分かんなくなって来るものだと思うけど~? ちゃんとした主義を持ってれば~即答出来るでしょ~」
「……くっ! 正論言わないでくれ。自信無くす……」
悶々と考えてしまうお年頃の雲水である。二日の眠りから目覚めて我ながら成長したかなあと思いきや、一人でいるとどうも腑抜けに戻ってしまう。
音無が出したのは、君の正義をアプローチしてみせろと、本当それだけの簡単な試練のはずだった。それを難解なものに変えてしまっているのは雲水の自業自得だ。音無は自滅するのを予想しといて、こんな問い掛けをしたのだろう。
義。自分の義は正しいのか。
改めて言われてやはりその自問に陥る。
ただ非道な真似が許せなくて、考え無しに奔走してきただけだ。それを己の正義ということは簡単だ。だがそこに正当性があるかと言われれば、自信がない。
正義に憧れて走り続けるのも良いが、それは偽善的な行為ではないのか。
いいや、難しく考えるな。単純に直観で行こう。
自分と瀬田組の違い。それは目的意識の違いだ。
「俺は、力の弱い者たちを食いものになんかしない。力のある者が横暴や不条理を弱い人たちに押し付けて、富を得るなんて大嫌いだ」
「へ~ん。じゃあどうする~? 地区で丸ごとビンボーに後戻り~? これまで積み上げてきたものを捨てて~、皆で不幸を分配する~? 辛抱強い人はそれでも良いけど~、でもそれって下の者に~負担押し付けるだけじゃない~?」
反論が流れるように出たということは、彼女たち自身もまた幾度ともなく繰り返してきた問答なのであろう。だからこそ彼女が雲水に求めているのは、こんな青臭い感情だけの意見じゃなくて、街を根本から変えるような革命。
「あ~いや~、別にそこまでしてくれなくても~。長年の問題がそんなあっさり解決するわけ無いし~、答えが出たら出たで悔しいし~」
「おっ、そうか。ん~、じゃあ何答えればいいんだ~?」
「さあ~? 自分で考えて~」
「っておい。そっちが振ってきた議題だろ」
頭までおねむちゃんじゃ困るんだが。大丈夫か、この人?
「……ああ、俺はそれでも良いと思っている。チームと地区に力がないのは事実なんだ。スラムを残したまま発展しようというのが、そもそも間違っている。いや、そこで孤児を『収穫』してたのなら、残しとくのは当然だよな。折角の畑だもんな」
「……きっついこと言ってくれるね~。まあその通りだったからね~。でも~スラムを消すなんて、できないよ~? どんなに発展してる地区にだって~、貧富の差はあるし~、孤児はいるし~。消せないものをどうにかしろって言われてもね~」
「むう。見た目にそぐわず見識広いなあんた……」
そんな真面目に諭されるとは思わなんだ。
「それでも、やっぱ変えていくには根元から変えていく必要があると思う。一番困難だろうが住人に不満に与えようが、それを飲み込んで改善していく」
「可愛い理想論だね~。そのために大多数を無視するって~? 本末転倒~」
「ああ。大勢を無視する」
「うん~そうだね、……ん? え。無視すんの?」
泰然自若としていた音無が、ここに来て目を白黒させた。
「ああ。よく勘違いされがちだが、俺は政治家でも大統領でもない。俺は自分が助けたいと思った人たちを助けたいだけだ。助けを必要としない恵まれた奴の面倒まで、見るつもりは毛頭ない! 自分らの手で自分救っとけ!」
「……わあ~い。無茶苦茶だこの子~」
激昂した雲水に冷静にコメントを寄せる音無。
「無茶苦茶、デタラメ何でも結構。自分が守りたい奴らは自分で決める。元より、大勢に支持されるために掲げた正義じゃない」
鋭利を見て、虚呂と話して、自分の行動を省みて、分かったことがある。
正義は他人のためにならず、自分の心しか満たしてくれない、と。
正しき義とは言うが、何をもって正しいとする。助けた数か? 求心力か? 人道か? それとも勇ましく悪に立ち向かうことか? 悪辣な環境を変えることか?
いいや。きっともっと純粋なことだ。正義と口にするのは、これが正しいことだと思っているからだ。俺の場合は、女性を傷付けない。弱者に押し付けない。
そのためなら、わがままと知りつつも傲慢と知りつつも、突き進む。
鋭利は自分を信じている。虚呂は俺たちを信じようとしている。
どうして正しい。世間が言うからか? 宗教家が言うからか? 神が言うから?
いいや、違う。自分がそうだと言うからだ。
正義は自分一人の支援だけで、誰からも支持されずとも、信じられるものだ。
「でも結局はそれって~、横暴じゃないの~? 自分一人の欲求で~町に迷惑かけるってどうなの~? 力に物を言わせて~好き勝手してるだけじゃないの~?」
「俺のやり方が間違ってれば、どこかの正義漢が奮起して、俺を断罪しに来るさ。罪を認めれば引くし、そいつが間違っていると思えば抵抗する」
「……う~ん? ん~、面倒くさい生き方だな~。人ってそんなポイポイ方針変えられないよ~。何回、説教されるって話~?」
「俺は情熱を燃やしてるだけだ。正論は聞きたくない。黙ってくれ」
閉口し、ショックを受けたように横倒れする音無。
「……こりゃ~、人選間違ったかな~?」
寝るなというのに全く。〈金糸〉で胴体を掴んで起こしてやった。
ああ、今だったら鋭利の言いたかったことが分かる。
俺はもっと他人や世界を信用すべきだったのだ。
正義を持っているのは俺一人じゃない。俺以外にも、正義を抱える奴が大勢いる。俺の手が届かない場所で不幸があっても、そこにいる誰かが動いてくれる。
世界をどうにかしたいと誰もが思っていて、動いている。
自分のことしか考えてない子悪党などケシ粒だ。無視すりゃいい。過ぎるようなら制裁を加えるまでだ。瀬田組を追放してこの辺りが寂れてしまっても、それを直そうとする者たちが必ずいる。現に、ここに三つのチームの意志がある。
音無は言った。俺ら三人がいなくても自分たちだけでやって見せると。長い間、組織を率いてきた者たちの言葉だ。雲水の何倍も当てになる。信じて平気だろう。
「だけど、折角変えられるんなら、正義を実行するのは俺でありたい。ジッとしてるのは性に合わない。これこそ、格好の付かないわがままだけどな」
頭の中にあるのは人身売買でしか未来がなかったスラムの孤児たち。
「俺はそいつらを助けてやりたい。頼む、俺に助けさせてくれ。俺を信頼してくれ。正しいと信じて、俺をボスに会わせてくれ」
「……途中までは~、結構信用してたんだけど~、予想外の場外乱闘でね~……。ここに監禁していた方が~世の中とボスのためになる気が~……」
と冷たいことを言われるが、そこを何とか! とゴリ押しして擦り寄って、ゴリ押ししてゴリ押しして、渋面し放しの音無に無理やり出口を開いてもらった。
雲水は凱旋の気分で門を潜った。
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