冬眠除夜を覚えず
開幕 冬眠除夜を覚えず
十二月に入ってから二度目の朝。気温は三度。吐く息は白い。
布団の隙間から入ってくる冷気に目を覚ました銀架は、そんな情報を味気ないニューステロップのように思い浮かべた。活用幅の狭い特技だが、銀架は気温を肌で当てることができる。精度はプラマイ〇・五度。
起き上がると布団も一緒にずれて、隣でまだ寝ている鋭利が寒気に晒される。急に布団を剥がされた鋭利は身を捩り、夢と覚醒の狭間で寒さを訴える。毎朝のいつもの光景に銀架は微笑み、布団をかぶせ直し、そっとベッドを抜け出した。
冬の朝は寒いには寒いが、動き始めればそう気にならない。人の体温は偉大だ。銀架は寝室を出てから居間を通って洗面所に向かった。寝起きの用を済ませ、顔を洗ってから居間に戻ると、ソファに見知らぬ女性が横たわっていた。
「うわ、誰?」
ビクッと跳び跳ねる。眠気もすっかり吹っ飛ぶ。
誰かいるとは思っていなかったのも相乗して、完全に意表を突かれた。
「……ん~?」と唸り、女性はのっそりと顔を上げた。
まさか寝ていたというのか? この低気温の中、布団も掛けずに?
室内だから凍死する恐れはないだろうが、だからと言って長閑すぎる。
女はむしろ起きることの方が面倒そうに、のっそりとこちらを確認して、
「何だ、銀架ちゃんか~」
と言って、再び突っ伏して眠り始める。
「あっ、だから眠るな。あなたは誰ですか!」
慌てて女の肩を掴み、強く揺さぶった。それでも起きようとしない。
女は髪がぼさぼさだった。和服を着ていて、かなり着衣が乱れているが、下に見える防寒最優先の襦袢と股引きのせいで色気は全くない。中々の厚着だ。
いったいどこから迷い込んできて、と銀架はまず戸締りを疑った。
銀架の所属する《金族》は、ほとんどの族員が、頭がアレで利益より感情優先で色々なことが適当で、つまりは防犯なんか生まれてこの方一回も考えたことないってくらい無用心で無頼漢でド阿呆なのだが、昨日の戸締りはちゃんと銀架がしたのだから、族員以外ここには入ってこられないはずだ。
そもそもの話、さっきこの部屋を通った時には彼女はいなかったし、誰かが玄関から入ってきた物音もしなかった。それくらいは寝ぼけた頭でも気付ける。
となると、ますます彼女の正体が分からなくなる。
とりあえず屏風という変態野郎の変装を疑ったが、だとすれば銀架に何もしてこないのはおかしい。妙にそわそわするとか、妙に熱の篭った視線を向けてくるとかしないとなると少なくとも彼ではない。
もう一度、女の顔をまじまじと観察する。
「…………」
安らかな寝顔だ。放っておいたら何十時間でも寝ていそうな、でもやはり知らない顔。銀架だって物覚えの良い方ではないが、知っていると知らないとの判別は付く。これはしっかりと知らない。じゃあ自分の知らない族員だとか?
その可能性が一番高いし、それなら話は早い。寝室で眠っている鋭利を起こして尋ねればいい。もし仲間でなかったら三階の窓から突き落とそう。ここ最近は平和な日々が続いているのだ。よそ者に平和を掻き乱されるのは真っ平ゴメンだ。
丁度、ふわぁ~、と大きな欠伸をして毛布をかぶった鋭利が起きてきた。
「…………にゃむ。おはようー銀架。でも寒いからも少しだけベッドにいて~。大丈夫―、昨日は四時に寝たから昼前には起きるグぅー……」
「立ったまま寝ぼけてないで。ちょっとこっち来てください」
夢の世界にトリップし掛けた鋭利を現世に呼び戻して、手招きした。
鋭利はぼんやりと首を傾げ、ペンギンみたいにモソモソ歩いてくる。
「まだ七時前なのに元気だねえ。何か今日あったっけ……?」
「鋭利さん、この人知っていますか?」
ソファでのん気に眠りについているぼさぼさ女を指差す。鋭利は不思議そうに目をシパシパさせ、指の先にいる女を見つめて、声を上げた。
「ぅおおおおおおおおっ! こいつが起きている!」
「いや、がっつり寝ていますけど」
どうやら鋭利の知り合いのようだ。三階から突き落とさずに済みそうだ。
「ああーそっかー。もうそんな時期か。一年が経つのは早いなー」
「で、誰ですかこの人。気味が悪いから投げ捨てたいんですけど」
「ん? ああ。銀架は初めて見るのか。この状態を」
「え。私の知っている人なんですか? ……んん? あまりにダラしなさ過ぎるので記憶から消去したのでしょうか?」
「……あーい変わらず銀架ちゃんは酷いな~」
女の声がした。眠り女がパッチリと目を開けていた。
「私だよ~。銀架ちゃんの名付け親の~、稔珠お姉さんだって~」
と言われても、ピンと来ないものはピンと来ない。
「えっと、稔珠ってどなたでしたっけ?」
ガクッ、と謎の女の顔が落ち、前髪が柳のように垂れ下がる。
あらら、と鋭利は同情するように軽口し、答える。
「フルネームは更地稔珠。『錫』だよ、こいつ」
「……あ!」
その一言に銀架は再度女の顔を見た。枝垂れた黒髪の奥から、あはは~、と聞き覚えのある間延びした声と、グスグスに腐って緩みきった笑みが見えた。
それは間違いなく《金族》が誇る引き篭もり女、『錫』の笑い声だった。
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その後、興奮した鋭利は鋼鉄の義足で床ドンし、「『錫』が起きてるぞぉー!」と叫んで二階の男衆を起こした。下の階でドタドタと騒ぐ音がし始めた。
次に鋭利は「宴の準備だぜぇー!」と台所に飛び込んでいった。宴の準備は良いのだが鋭利さん料理できたっけ? と疑うが、よく分からないテンションに付いていけず、邪魔するのも躊躇われたので、しばし傍観することにした。
ソファにちょこんと座り、頬杖を突きつつ、ジッと『錫』の顔を見た。
何を考えているか定かではない、ぼんやりとした表情。銀架が見ていることに気付くと、ニヘラと笑い、眠そうな半目を返してくる。
あ、垂れ目だ。
「…………」
な、何か言って欲しい。沈黙は気まずいです。
ちょっと目を逸らした。彼女の顎や首元が目に入る。そういえば不摂生な生活を送っているはずなのに痩せていたり、太っていたりしてない。顔も平均的な顔つきだ。視線をさらに横に動かし、『錫』のズボラな胸倉を見る。
「……ッッッ!」
この世の不条理を見た。あまりのショックに生きる気力を失いかけた。
悪魔がいるよ……。魔王だよ……。
銀架が恐怖に慄いていたら、ドタドタと男衆三人が駆け込んできた。鼎と屏風はソファの『錫』を見て、鋭利と同じように歓声を挙げ、虚呂だけは冷静沈着そのものの態度で頷いた。かといって虚呂が冷静というわけではないと思う。
なぜなら。
「どうして虚呂さん、パジャマなんですか?」
「え? ……あ、着替えるのを忘れてた」
恥じるように顔を伏せて、虚呂はナイトキャップを外した。こんな子供みたいなうっかりする虚呂は初めてだ。平常心を気取っているが内実相当浮かれている。
鼎が車椅子をソファまで転がしてきて、寝転がる『錫』に挨拶した。
「おお! 久しぶりだな、稔珠。外の空気はどうだ」
「寒いし眩しいし痒いし臭いし寝づらいし~、やっぱし最悪~」
「はははっ、相変わらず根暗だな」
屏風が部屋を見回して、ここにいない存在に気付く。
「そういや鋭利は?」
「宴だって、キッチンにすっ飛んでいきました」
屏風は目を裏返した。
「な、何ぃ! やばい! あいつに調理器具いじらせたら、全部スクラップにされちまう! 頼む、まだ愛しの圧力鍋は溶かしてないでくれぇー!」
言ってキッチンに走っていき、すぐに彼の悲鳴が上がった。すでに遅かったようだ。
なるほど。鋭利さんが調理すると食材より器具の方が駄目になるのか。
「おい止めっ、だから、んなもん普通、人は食えねえんだよ! てめえと一緒にすんな馬鹿今すぐこっから出てけ! ああ、片付けもいい! おい食器をつまみ食いすんな! 俺が全部やるから、頼むからここにいないで下さいいいいい! って、俺のマイ包丁がスパイラル状にぃぃ! 待てや逃げんなクズ鉄!」
あちらの被害状況は深刻なようである。興味を稔珠に戻す。
すると彼女に金髪の男がしつこく話しかけていた。
「なあ、前に貸したゲームどこまで極めた? 幻のエンディングって奴は見られたか? いやさ話変えるけど、この前俺床ずれしちゃってさ、『白金』に叱られたんだよね。感覚がないって怖ぇよな。お前寝たきりなのにそんな話ないけど、大丈夫なんか? まあそんなこたぁ良いや。最近めっきり寒くなったようなぁ。お前の『亜空館』の中って空調はどうなっているんだっけ? 完全密閉できるんだったら、篭り場所として最適だな。羨ましいな。でさあ、最近できた知り合いで結構面白い女性がいてさ。メンヘラっていうか、お前と気が合いそうな。にしても髪長いな、切ってやろうか?」
「……あ~、うるさい~、マジで止めて~……」
稔珠は本気に煙たがっていた。いつもは好感触を与える鼎雲水の馴れ馴れしさが、今は露骨なウザさにランクアップ中である。哀れ稔珠さん、アーメン。
『錫』更地稔珠。次門系空間構築型『亜空館』の鬼形児。
彼女は自らの異能で造った次元の狭間に年がら年中引き篭もっている《金族》が誇るダメ人間だ。一日の大半を惰眠で過ごし、こちらとコミュニケーションを取る時にも髪の毛や足首から先などしか出さず、面倒臭がりで他人の都合を考えない。『亜空館』から出てきたところは一度も見たことがない。
そんな『錫』が表に出てきている。これだけでもう大事件だ。
でも、それより気になるのが、みんなの異様な陽気さ。『錫』が外の世界に出てきているのを見るなりまるで祭りのような騒ぎ。一体何があるのだろう?
やはり尋ねるならこの人か、と冷静沈着が売りの虚呂に詳細を求める。
一回戻ってセーターに着替え直してきた虚呂は、こう言った。
「宴会だよ。今からするのは」
「お祭り騒ぎですか。でも何の?」
「うん、何と言ったらいいか。冬眠準備の、かな?」
「冬眠?」とさらに聞きただそうとしたら、キッチンから「ああもうてめえは買出しにでも行ってこい!」と怒声と共に鋭利が叩き出された。
鋭利は買い物メモを片手に、釈然としないように頬を膨らませる。
「ったくもー、怒りっぽいんだから。仕方ねー。銀架行くぞ!」
いきなり手を引っ張られて、肩に担ぎ上げられて、腹が圧迫される。
「うっぷ、え、ちょっ、鋭利さん、急にどこへ」
鋭利は窓に駆け寄り、開錠し、全開にしてサッシに足を掛ける。
「うわ、っまさかあなたっ、待て待て待てぇ! コラ、離せぇ!」
肩の上で暴れても蹴っても動じず、鋭利は全く意に介さない。そして。
「んじゃ、お買い物行ってきまぁーす!」
宣言すると、鋭利は三階の高さから地上にダイブした。
「っっふっぎゃああああああ~! ペッッシャンコぉおおおおおおおお!」
まるで轢かれた猫のような叫びを上げながら、銀架はこの時思った。
自分がいつか死ぬとしたら、きっとこの人の悪ふざけのせいだろうな、と。
その後、すぐに寒気に音を上げて洟を垂らしながら三階まで戻った二人は、いそいそとコートやらジャケットを着込んでから、改めて買い物に出かけた。
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