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其の三

 暑くて目が覚めた。


 自分がいるのがどこなのか分からなくて一瞬混乱したが、すぐに実家の部屋だと思い出す。高校を出るまで僕が使っていた二階の一室。狭苦しいパイプベッドのマットレスは寝心地が悪かった。

 エアコンはなく、窓を開けていても今夜は風が入って来なかった。つけっぱなしの古い扇風機が必死に湿っぽい風を送っている。タオルケットは足元に跳ね飛ばされ、汗ばんだTシャツが気持ち悪かった。

 水でも飲んでこようと、僕は身を起こした。枕元の目覚まし時計を見ると、蛍光塗料の塗られた針が差すのは午前二時だった。


 ベッドから下りようとすると、素足に何かが触れた。短い毛に覆われたそれは、ラグにしてはやけに生温かい。そもそもこの部屋にラグなんか敷いてなかったはずだ。

 それはのそりと動いて、僕の足首に巻きつくように触った。


 暗闇の中、僕は目を凝らした。照明は完全に消していて、月も出ていないため、そこにあるモノは闇の濃淡でしか認知できない。板張りの床の上、僕の足先にひときわ濃い闇がわだかまっているのが見えた。

汗で湿った首筋から背中にかけての皮膚が引き攣り、体毛が逆立つ感触がした。

 カリカリと小さな音がする。短い爪が床を擦る音だ。


「ハヤト? おまえか……?」


 僕は呟いた。何度か目を瞬かせても、明瞭な姿は見えない。だか足先には短い毛並みの感触と体温が感じられて、それは規則的に呼吸をしているようですらあった。

 何とも言えない異臭が漂ってくる。死んだ魚が放つ腐敗臭に似た生臭さが、僕の鼻孔を気味悪く刺激していた。昼間座敷でハヤトを見かけた時とはまったく違う、不吉な存在感に胃が締めつけられた。


 照明を点けるためにはドア横のスイッチを押さなければならない。そうしているうちにそこにいるモノが逃げてしまう気がして、僕はそろそろと枕元に手を伸ばした。目覚まし時計の隣にスマホが置いてある。

 電源を入れると、ディスプレイは意外なほど明るく輝いた。闇に慣れた目が眩む。僕はそれを床に向けて足元を照らした。


 そこに何がいたか――。


「うわああっ」


 僕は叫び声を上げて立ち上がった。はずみでスマホが手から離れ、布団の上を滑ってゆく。無機質な光はあさっての方向に向いて、床は再び闇に沈んだ。

 その闇がぞろりと動き、そこにいるモノが身を起こす気配がした。異臭が強くなる。


 ここにいてはいけない、と僕は本能的に感じたが、どうしても身体が動かなかった。両足が鉛になったように固まってしまっている。真正面から吹きつけてくる凄まじい殺意のせいだ。

 そいつが飛び掛かってくる様を、僕はまざまざと想像できた。あと数秒後に現実となる光景のはずだった。

 しかし――。


「――その子じゃない!」


 低く叱咤する声が聞こえ、次の瞬間、そいつは身を翻した。開けっ放しにしていたドアに向かって勢いよく突進する。

 闇は、闇に消えていった。


 僕はしばらく動けなかった。心臓が早鐘のように打って、同じリズムで頭が痛んだ。寝汗とは違う種類の汗がどっと拭きだす。

 緊張が解けるまで数分かかった気がする。僕は崩れるようにベッドに座り込み、自分の両腕を擦った。夢だと断じるには、記憶も鼓動も汗もあまりにリアルだった。


 何だったんだ、今のは……あんなモノがどうしてここに……。

 呆けていた僕が、階下で就寝している母と祖母のことに思い至るまでしばらくかかった。あいつは二人を襲うかもしれない!


 その瞬間、階下から恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。

 獣の咆哮のような凶暴な叫び――人間の声には間違いなかったが、僕はこれほど壮絶な叫喚を聞いたのは初めてだった。

 それが誰の喉から発せられたものかはすぐに分かって、僕は部屋を飛び出して階段を駆け下りた。





 祖母の部屋の引き戸を開けると、エアコンで冷えた室内には臭気が満ちていた。ついさっき嗅いだばかりの悪臭だ。

 顔をしかめた僕の目に、弱々しい豆電球に照らされた光景が飛び込んでくる。薄いオレンジ色の光の下、介護ベッドの上に黒い塊がのしかかっていた。


「ば……ばあちゃん!」


 僕の声に反応して、そいつ――ついさっき二階で遭遇したモノはゆっくりと振り向いた。


 それは全身を黒い毛に覆われた獣だった。大きさはツキノワグマほどもあるが、太い尻尾を立てて前傾になった攻撃態勢は犬のものだった。

 しかし、そいつが巨大な犬でも動物園から脱走した熊でもないことは一目瞭然だった。

 こんな生物がこの世にいるわけがない――そいつには頭部がなかったのだ。

 厳つい肩から繋がる首は途中で途切れ、赤黒い切断面を見せている。鼻が曲がりそうな腐臭はそこから漂っているのだった。


 僕はとっさに戸口の脇にある照明のスイッチに手を伸ばした。ぱちりという音から一瞬遅れて、蛍光灯が光を放つ。暗闇に慣れた目が眩んだ。

 そいつはベッドから飛び降りて、首のない身体をバネのようにしならせ、こちらに向かってジャンプした。真っ黒い全身の中で、足先だけが白々としているのが見えた。

 思わず両腕で顔を覆った僕の脇を擦り抜けて、そいつは廊下へ飛び出した。がりがりと、硬い爪が床板を引っ掻く音が遠くなってゆく。

 後に残されたのは、ベッドから半分ずれ落ちた祖母の身体だった。


「ばあちゃん……?」


 恐る恐る近づくが、返事はなかった。

 無機質な照明の下、その姿を間近で見て僕は息を飲む。彼女が息絶えているのは一目瞭然であった。カッと両目を見開き、空気を求めるように歯の抜けた口を開いて、恐ろしい苦悶の表情を刻んでいる。よほど苦しんだのか肌布団はめちゃくちゃに乱れて床に落ち、パジャマのボタンはすべて引き千切られて肋骨の浮いた胸元が晒されていた。

 僕は心肺蘇生を試みようと、祖母を床に寝かせた。ふと視線を感じ、振り向いた先に――母が佇んでいた。


「母さん! 救急車を呼んで!」


 叩きつけるように叫んだが、戸口に立ち尽くす母は無言でこちらを眺めるだけだ。右手の指先が、パジャマの裾を強く握り締めているのが見えた。


「早く! 母さん!」


 再度怒鳴って、母はようやく肯いた。混乱のせいか、強張った顔に泣き笑いのような表情が浮かんでいた。





 その後、救急車が到着するまで僕は祖母の心臓マッサージを続けたが、結局祖母は息を吹き返さなかった。

 急な心不全――外傷も中毒症状もなかったため、後日死因はそう診断された。高齢者にはよくあることらしい。

 救急隊の手によって慌ただしく運ばれてゆく祖母を見送りながら、僕の足は自然と納戸へ向かった。

 低い唸り声が聞こえてくるのだ。さっきからずっと。けたたましい救急車のサイレンにも掻き消されることなく、僕の耳元で囁くように、ブーン、と。

 しばし躊躇したが、納戸に近づいて勢いよく引き戸を開けた。

 何が飛び出してくるかと身構えたものの、狭い納戸には変わった所はなかった。暗い部屋の奥で、無機質な冷凍庫が低いモーター音を立てている。

 僕はある予感をもって冷凍庫のドアを開けた。

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