9. 色で
「この状況は兄ににらまれちゃう」
後ろめたそうなルキア嬢の呟き。
「そう? 噂じゃラウーは奥さんに夢中みたいだよ。俺が誰に膝枕してたって、気にしてくれやしないだろ」
「・・・・・・三点の誤解がある」
えー、とフェリクスは驚いてみせている。演技派青年の伸ばした足の腿に頭を預け、ルキア嬢はため息を返した。
置き去りにした野盗たちから離れるため、一行はたいまつを掲げて象の道を歩き進めてきた。その強行がルキア嬢の体調不良を加速させたらしい。野営地を確保し簡素な食事を済ませる、三日目にして慣れたはずの作業の手際がもたついていた。
具合の悪いときは人肌だよ! と意味不明の根拠で膝枕を強要した青年だけが上機嫌だ。ルキア嬢に抗う元気も残っていないのは、作り直されたエン嬢特製ゴリゴリ汁を一気飲みして精根尽き果てたせいだと思われる。
大の男が耐えかねてゲロった地獄汁を飲み下すとは、なんと雄らしい。ルキア嬢は弱っていてもボスの風格ですっ!
「誤解その一、兄ににらまれるのはフェリクスじゃなくてわたし。その二、にらまれる理由は膝枕じゃなくて体調不良。その三、フェリクスは兄の親友。気にかけないわけない」
「ラウーが奥さんに夢中、ってのは誤解に含まれないわけだ」
「フェリクスにはショックな話でごめんね。誤解じゃないと思う」
「そこに誤解がある・・・・・・」
「兄は独身主義だったから」
野営地は野盗の追跡を逃れるため岩地の陰に設けてある。視線は遮断するが音は響く。ルキア嬢は息に近い潜めた声で話す。
「独身主義もわたしや母をアーケロン島に住まわせたのも、兄の敵対勢力に家族を人質に取られる可能性を低くするため。その兄が結婚した。わたしに妻の護衛を頼むくらい攻勢に転じた。義姉は兄が思想を変えるほどの人だってことだから」
「うん。言い方は悪いけどさ、今までのラウーは自分の懐に理想を抱えてるだけで、次の一手が分からずにいたんだよ。結婚してからのラウーの進撃はすごいね。守るために閉じ込めるんじゃなくて、守られた世界を作ろうとしてる。あいつはアダマスを変えるよ」
猫よりスパイ向きな動物はいない。平静を装う天性を持っているからだ。仕入れた情報がどれほど不都合であっても、だ。
悪の大王ラウー・スマラグダスの勢力拡大の野望に火をつける妻、トーカ夫人。デカ猫を所望するのがそんな悪女だとは。彼女のご機嫌ひとつに我が一族の存亡がかかっている。
「ミハイ、寒いの? 震えてる」
あのくさい野盗集団に手加減してやればよかった。彼らが先に象隊商を発見して幽霊キャラバンを幽霊にしてくれれば、この一行のデカ猫買い付けは失敗するのに。
しかしゴリゴリ汁耐性から考えると、何度やりあったところで野盗たちがルキア嬢に負けるのは明らかだ。嘆くべきか誇るべきか。
うーむ、考えるのはルキア嬢のナデナデを満喫してからにしましょう。腹オープン。存分にやってくれたまえ。
「フェリクスも兄の意図に気付いてる?」
ゴリゴリ汁強耐性なボスの発言は、質問の形をした確認に聞こえた。
「兄がわたしに今回の買い付けを頼んだ目的。護衛試験だけじゃないと思うの。島に閉じこもらずに出て来い、世界は広いと教えたいんじゃないかな」
「以心伝心の兄妹だからねー。ルキアがそう感じるならそうなんだろ」
フェリクスの声は穏やかだ。真実を話すときの穏やかさだ。
「だから分かってると思うけどさ。改善に向けてベストを尽くすなら、ラウーは体調不良を叱ったりしないよ。エン嬢特製汁を飲み切ったのは最大の努力に値すると俺が保証する」
悪の大王と生真面目なルキア嬢が以心伝心とは納得できない。似ても似つかないように思えるが。もしかしてラウー・スマラグダスは猫族が恐れるほど悪人ではないのだろうか。
「あいつは責任を取る覚悟のあるヤツに、自分の腸で首をつれとは言わない。にらんだとしても、にらむだけ。まーそのひとにらみで失禁する兵士もいるのは噂じゃないけどねー」
悪人ではないようです、極悪人です。
「うん。責任を取れない者に、言動の自由は許されるべきじゃない。兄はそう考えてる」
はは、と声量は控えめで満足に溢れた笑い声がした。
「ほんと通じ合ってるよな、衝撃的に」
「衝撃的?」
「俺も兄弟はいるけどさ。スマラグダス家とは全っ然違うんだよ。仲が悪いわけじゃないんだ。ただ、日常会話以上の意思疎通がない。あるのは血のつながりと同居の事実かな。その環境に疑問を持たずに育ってきた」
今夜は月が隠れていて、静かな岩場は闇に沈んでいる。
「スマラグダス兄妹に会って、衝撃だった。こういう兄弟がいいと思った。俺はそうありたかった。家に帰ってやってみたけど、べたべたすんなって言われた」
人間は猫より夜目が劣る。明るい声で語るフェリクスのまつ毛が諦めに満ちて伏せられているのは、誰にも見えていないだろう。
「それぞれ家族の色ってあるんだよね。俺の家族の色が悪いわけじゃないよ。俺の家族の色と、俺の望む色が違うだけの話。それに気付いて納得するまで、ちょっと時間かかった」
猫は育てば親からも兄弟からも離れて自立する。独りで狩りをし、独りで生きていけるのが一人前の証。人間は違うのか。フェリクスが違うのか。
「俺が望む色の家族は、具合が悪けりゃそばにいる。回復をそいつ任せにしたりしない。だからルキアに膝枕する。膝枕で足がしびれて、いざって時に戦闘不能で死んだって、俺の自由と責任ってわけ」
「スマラグダス家はフェリクスをいつでも迎えるから」
ルキア嬢の口調はさらりとしていた。何の気負いもない。心からそう思っていなければ出て来ない素直な言葉だ。
フェリクスはぎゅっと目をつぶって内なる衝動に耐えているようだった。理想が希望に変わってほほえみかけてくるとき、そこに圧倒的上位の慈悲深い介入を感じるのは、猫だけではないのだろう。
だからフェリクス、そういう穏やかで愛情に満ちた笑顔は相手が見ているときにしなければ無意味です。ご馳走をねだりたいときだけ腹を出すのが処世術というものですよ。
「一番簡便なのは養子縁組だから、フェリクスのご家族の了承が得られるなら」
「婿がいいなー」
「兄は離婚しないと思う」
「俺を日陰の愛人にしたいの?」
声に眠気の混じり始めたルキア嬢に、フェリクスはそれ以上語らずにおやすみを言った。問い詰めないでおくよ、という声無き声は猫だけが聞いていた。
問い詰めないでおくのは、婿の相手にルキア嬢という案についてなのか。それとも青年が恋するのがルキア嬢なのか、スマラグダス兄妹の絆なのかという疑問か。
人間とは簡単ではない生き物だ。おそらく言葉がいけない。あんな複雑なものを扱うから。それも人間の自由と責任なのだろう。
恐るべしエン嬢特製汁。
翌朝、ルキア嬢はいつもの柔軟体操をしてあちこちをポキポキ鳴らし、肩慣らしに数本の矢を木に射ってみて、よしと笑顔になった。輝き始めた朝陽も恥じ入りそうな晴れやかな笑顔だ。
不運にも上空を通過した鳥は食用に射落とされ、回収してみれば急所を貫かれてピクリともしなかった。狩られたことに気付く暇もなかったのではないだろうか。
汁の効能で加点一をもらったエン嬢はホワーンと頬を染めて喜んでいた。
空は爽快に澄み渡り、高い岩に登れば遠くの水場が眺められる。べったりと広がる濃い緑の森を割って蛇行する川は、朝陽を受けてきらきら瞬きながら光っていた。赤い泥の堆積した開けた川原には数多くの動物たちが集まり、互いに警戒しつつも水で喉を潤していた。
「おー、いい眺め。でも象はいないね」
頭上で同じ光景を確かめていたフェリクスが独り言を言う。一晩中、微動だにせず膝枕をキープした執念深さには正直ひく。ルキア嬢偏執歴十年、平均的な猫なら寿命が終わる。
「あいつらより先に幽霊キャラバンを捕まえないとな。さっさと配達を済ませて、弓師になる」
朝食を準備する仲間たちに聞こえない声を、青年は風に向かって呟いた。
「これが最後だ。隠し事を好まない色の家族を望むんだから」
眼下を見ているようで見ていないクルミ色の瞳は真剣だ。けれど、「何か見える?」とルキア嬢が声を投げてくると、フェリクスの瞳から硬い真剣さはたちまち追放されていなくなり、優しい明るさに塗り変わった。
「うん。俺が愛し抜いてるものが見えてる」
朝から暑苦しいのは気候だけで充分です。
「フェリクスがボル・ヤバル島をそんなに好きだなんて知らなかった」
「君の天然にはボル・ヤバルの大自然もびっくりだ」
「大自然が驚くという感情を持ち合わせているとは思えない」
「突っ込むのそこなのか」
人間は、ニャーとフーで意思疎通が可能な猫のコミュニケーション能力を見習うべきだ。
ルキア嬢はまるで白い鹿のように軽快に岩の上へ駆け登ってきた。大きな深呼吸は、空、森、川のひたすらにシンプルで雄大な景色を全身に染み渡らせようとしているみたいだった。
「ふう。すごい景色」
「俺の愛する島に感嘆してくれて嬉しいよ」
フェリクスの泣き笑い顔が非常に情けない。
「兄が言ってた。自然はただそのままに在るだけ。自然に対面して謙虚になる人間は自分のやましさに気付いてるって」
フェリクスの顔の情けなさが倍増した。弓師になる、とか謙虚に誓ってましたね。やましさ満点ですね。
「わたしはアダマス本土に渡って、義姉の護衛に応じなくちゃ」
吹き抜ける風になびく隙もないほど、ルキア嬢は金髪をきちりと結っている。髪型にふさわしく表情も姿勢もきちりと正している。
「他ならぬ兄の頼みを、自分の笑顔が不吉がられるからって逃げるなんて情けない」
「へえ。殊勝な心がけだけどさ、その理由じゃ行かせるわけにはいかないなー」
なぜ? と問い返されるより早く、フェリクスは言葉を継いだ。
「俺には自然より効く女の子がいるよ。矢を射ち返して『面白い矢ですね。作り手は誰?』って聞いてきたちっさい女の子に会ったのが俺の初心なもんで」
弓の才能がないと落ち込んでいたときに少女が現れ、自作の矢を面白いと言われて弓師を目指した・・・・・・。
単純すぎる。ほめられて大喜びして生涯やり続けるなんて、犬だってそこまで簡単じゃありません。
「初心ってのは純真だよね。都合だの利益だのに侵食させたくない。初心があるかないかは、分かれ道の選択決定に関わる。やましさの是非に関わる」
ルキア嬢のじっと聞き入る視線に気付いて、フェリクスはヘニャッと顔を緩ませた。
「だから初心はあるほうがいい。たぶんね」
「フェリクスは・・・・・・」
バン! と耳を震わす破裂音が質問を遮った。急いで岩の端へ駆け寄る。
眼下に広がる森の一角から鳥たちがわめき鳴きながら飛び立つ。後を追うように細い煙が空へ昇った。
「火薬?」
「象の道の分岐点あたりだ。昨日の野盗かもしれないな」
岩場を飛び降りるように駆け下りて、ルキア嬢は弓と矢筒をつかんだ。ビンはすでに武器である棒を担いでいる。エン嬢はもたもたと棒へ手を伸ばしているところだった。
「わたしとフェリクスが偵察に行きます。ビンとエンはここで待機を」
短く鋭い命令を発して、ルキア嬢の真っ白な後ろ姿がたちまち林間へ消える。
「護衛を偵察に放つのがセオリーだと言ってみるけど、あー聞く耳持たずってヤツかな。何気に血の気が多いよねルキアってば」
フェリクスは追って走りながら肩をすくめるという器用な芸当をした。
面倒を極力回避したい猫としては待機側に残りたい。が、ボスに従いますっ!
「ルキア、地雷の可能性がある。象の道に出たら木の根を踏むんだ」
「了解しました」
「火薬なんぞに足を食われるな。ルキアの足は俺のもんだ!」
「開戦が二度までも食事前とは、無粋な」
「君の食欲と聞く耳持たないタイミングが憎い・・・・・・!」
我らがボスはどこかズレている。