8. ゴリゴリ汁で
象の道は、人間の道よりはるかに神々しかった。
神という概念を持たない猫が神々しいと表現するのはおかしいかもしれないが、圧倒的上位の存在を感じ取ることは数知れずある。本能が頭を垂れろと命ずる種族。天変地異。思うようにならない生死。巨大化に翻弄される命。丸洗いを恐れない猫。
象は巨大化した種族ではないと聞く。なのに巨大だ。象は人間が道具を使って切り拓いた道より広く、高く、深く密林をくり抜く道を、ただ歩むだけで作ってしまうのだ。偉大だ。
自然のことわりに介入する人間でも、その偉大さを感じるらしい。一行はしばらく象の道に見とれ、人の道との交差点に立ちつくしていた。
林の高い場所まで枝を折り取られた象の道は輝かしい緑のトンネルだ。木漏れ日が幾条も差し込み、陽光に溢れている。日光を柔らかく透かす草木の優しい緑色、太陽の金色を抱く光が長い長い筒になって林の奥へ続いている。どこか幽玄な地へ繋がっていそうだ。
温かく風も抜けていくため、土が乾いている。勾配が緩やかなルートが選ばれていて歩きやすい。
人の道で感じた、森をこじ開けたいびつさがなかった。自然と共存する生き物が自然に生んだ道なのが良く分かる。
いくらか進んだところで、ふとフェリクスが歩みを止めた。足元の土の盛り上がりをブーツで崩している。
「これ、象のフンだけど」
丸まった猫ほどもある大きな、枯草が混じった土の塊がフンだったとは。なぜ早く言わないのですか! 程よい高低差を楽しんでしまった足裏が!
「古いね。幽霊キャラバンは最近ここを通ってない」
「どうして古いって分かるの?」
「象は消化の悪い動物らしくてさ。栄養の残ってるフンに集まる虫がいるんだ。甲虫類とかヤスデとかね。このフンにはもう虫がいない。ほら、象が丸飲みしてフンに出てきた果物の種が発芽してるだろ? 二週間は経ってるな」
見回せば、新しい芽は象の道のあちこちにあった。象はフンを使って種をまいているのだ。食べ歩くことで林の枝を折り、陽光を呼び込み、新しい生命を育て、子孫たちの餌を増やす。偉業だ。
なぜ魚は芽を出さないのですか。芽吹くなら、猫はフンを土へ埋めるから、食べた魚がやがて土から生えるのに。
きちりと結い上げた金髪の頭をかしげることで、ルキア嬢は疑問を表明する。
「フェリクスは、何度かボル・ヤバルに来てる?」
「うん」
「どうやって? アダマスの領地になった今でさえ、民間人の行き来は難しいのに」
にこっと笑うフェリクスは少年のような無邪気さと明るさを備えている。大地になじむ色のゆるい服を着て、矢じりや工具を大事なオモチャみたいに全身にまとって、遊びに夢中な少年がそのまま大きくなったような青年だ。
「世の中カネだよ、ルキアちゃん」
しかし発言はスレていた。
「俺が重宝されんのは、遠出してレアな材料取りに行く弓師が少ないからなんだよ。良質の素材、良質の樹脂を持てるだけ持って帰れば、カラスの運賃と行商人のガイド代を払ってもたっぷり儲かるよ」
「旅の土産が短い話だけなのは仕入先が企業秘密で、荷物がいっぱいだから? 弓師の仕事、がんばってるね」
スレた発言にもルキア嬢は目元を柔らかくしている。
「安心した。初めて会ったときのフェリクスは、弓の才能がないって落ち込んで矢を放り出してたのに」
「その矢を足先すれっすれに射ち返してきたちっさい女の子が今や、イノシシや怪物イカまで狩るようになっちゃって、たくましいなんてもんじゃないんだけど知ってる?」
「スマラグダス小姐、もしや先日のイカ料理は・・・・・・アイヤ」
この一行はフェリクスの本業が弓師ではないと知らないらしい。
弓師の毛皮をかぶった青年はべらべらとよくしゃべるが、べらべらと真実をごまかしもするようだ。純水も泥まみれの足で近付けば濁る。言葉を真に受けやすいルキア嬢を濁しはしないか。
象の道を歩き始めて三日目になった。
道が分岐するたびに、水場や旬の果樹の群落に近いほうを選ぶ。甲虫のいるフンが見つかるようになった。フェリクスは象の足跡の向きを見定めて行き先を決めていく。
もうすぐ幽霊キャラバンに会えるのでは、と一行は期待を募らせているようだ。阻止したい猫一匹が密かに焦る。
ここにきてフェリクスが要求する休憩が増えた。地図を確認させてくれ、水が飲みたい、素材を採りたいなど。ビンは、またそ? と嫌味満面で文句を申し立てるものの、反対はしなかった。最初は活躍した妨害役が役立たずになって焦る。
休憩中、ルキア嬢がふと上を仰いで素早く弓を手にした。バサバサと羽ばたきがして、梢の向こうを鳥の影が横切った。すかさず矢が放たれる。
三日が経つあいだ、食材にと射落とされた野鳥を藪から回収してくるのが我が仕事になっていた。「行け、ミハイ号!」とフェリクスの扱いがまるで猟犬なのが気に入らないが、狩りの欲求は満足する。
けれど徐々に弓の精度が落ちていた。射落とすが、射抜く場所が甘くて鳥が暴れる。牙で息の根を止めてやるので狩りの欲求はおおいに満足する。
そして今回、初めて矢は鳥を落とせなかった。尻を立てたダッシュ待ち体勢で構えていたミハイ号も不発に終わる。
ぴょんと飛び出したのは、ちょっと跳ねてみたかっただけです。うっかり一歩駆け出してしまったのではないのです、決して。猫がそんな失態を犯すわけがありません。
失態などしない優雅さを示すため、尻尾と首をぴんとさせてスタスタと軽やかに歩き回ってみせる。
「外した・・・・・・」
ちょっと矢が跳ねただけですと取りつくろえばいいのに、ルキア嬢は立ち尽くしている。その背後でフェリクスとビンが短い目配せをしたのを、我が目は見逃さなかった。
やはりそうなのだ。ルキア嬢は体調を崩している。
風が強く冷涼なアダマスの島で暮らしてきた体には、ボル・ヤバルの蒸し暑さがこたえるのだろう。本人は無言で不調に耐えていたが、フェリクスは気付いていて、理由をつけてはルキア嬢を休ませようとしていたのだ。
ですから、フォローを本人に気付かせまいと努力して何の得があるんですか。そこは取りつくろう場面じゃありませんよ。
外れた矢が消えた先をじっと見つめていたルキア嬢は弓師へ向き直ったが、そこにいつものキレはなかった。
「フェリクスの矢、浪費しちゃってごめんなさい」
「あのね、覚えといて。矢は消耗品だよ。ルキアの異常に高い回収率は儲けになんないから、たまには浪費しちゃって」
「儲けにならない客でごめんなさい」
「ああ違う! 違うんだルキアちゃん、ごめん! 俺の矢を大事に使ってくれて嬉しいよ、いやマジで! そうだミハイ号、さっきの矢を回収・・・・・・てめー人の足で爪とぐな!」
日が暮れてきたので象の道を外れ、小川沿いに野営地を確保する。
象の道は他の動物も利用する獣道になっている。スペースがあるからといって夜行性の動物たちが行き交う道で野営などしたら、襲ってくださいと腹を出すようなものだ。
今日もエン嬢が例の乳棒と乳鉢でゴリゴリしだした。慣れとはすごいもので、ゴリゴリ→食事のサイクルを繰り返すと、ゴリゴリを聞けば猛烈に腹が減ってくる。認めたくはないが、これが飼い慣らされるということなのか・・・・・・あっルキア嬢、ブラッシングは腹もお願いしますぐるにゃん。
エン嬢は鳥料理向けのゴリゴリを終えてビンに託したあと、背嚢の底を探って秘蔵らしき厳重な包みを出す。そしてゴリゴリゴリゴリ、様々なクサい塊をすり潰して布の袋に入れ、湯に投じてぐらぐらと煮始めた。
地獄の匂いが漂う。
「すごいね。目潰しに使えそう」
風上へ避難して咳をこらえるフェリクスに、風下のビンが涼やかな軽蔑の横目を浴びせながら胸を張る。
「奏国秘伝の調合そよ。調味と調合は奏の女性のたしなみゴホッゴホブヘッ」
エン嬢のタレ目がホワーンとルキア嬢を見上げている。特製ゴリゴリ汁を飲ませたいようだ。察したらしいルキア嬢の肩先が緊張する。
怪物イカや暴れイノシシも食材にする人さえ怯えさせるエン嬢特製汁の恐ろしさよ・・・・・・。
エン嬢の鍋の機能性にはフェリクスが感心していた。底には三本の長めの足があり、鍋を立たせた状態でその下に火をくべることができる。ふちに付いた取っ手に横木を通しても火にかけられる。カナエという鍋で奏の知恵だとビンがいばっていた。
が、問題は穴が開いていることだ。染み出た湯が鍋の足を伝わり、ポタポタと落ちる間隔が使うごとに短くなっていく。落ちた水滴は火にあぶられて湯気とにおいが立つ。鍋の中身が料理なら香ばしくてよかったが、地獄汁だと地獄が深まるだけだ。
だからガサガサと草をかき分けて現れた男たちは、地獄の使者かと思った。
くさい場所が地獄なら、彼らは地獄の使者と呼ぶにふさわしく、くさかった。汗と泥とむさ苦しさにまみれた七、八人の集団はすでに抜き身の武器を手にしていて、ギラギラした目で放つ敵意が鼻についた。
「象はいねえのかァ」
小汚い集団の一人が夕陽とたき火でオレンジ色に染まる川辺を見回し、つまらなそうに言い捨てる。
「象を探してんの?」
のんびりと答えていても、フェリクスの靴には例の刃が準備されている。ビンも棒を、ルキア嬢も弓を握って緩やかな警戒態勢に入っている。エン嬢は三秒ホワーンとしてからハッとして棒を準備しだした。
くさい集団の先頭は大男で、髪や肌の色から判断すれば白人だ。行商人にしては荷物が少なすぎる。フェリクスが猛獣と並んで注意すべき相手に挙げていた、反アダマスのゲリラかもしれない。
奏国を滅ぼしてこの島を十五年支配した独裁の女王。その残党が各地に潜んで、現政権を握るアダマス軍に反抗していると聞いた。ルキア嬢がアダマス空軍大佐の妹と知られたら、ゲリラにはいい標的なのではないだろうか。
イノシシも一撃で殴り殺せそうなデカいハンマーを担いだ大男は、我が一行をじろじろと眺め回した。
「おまえらァ、象に乗った商人を見てねえかァ」
「さあ。象に乗った商人がどうかしたのか」
「知らねえんだなァ?」
「会ったこともないねー」
肩をすくめるフェリクスはいかにも無防備で、答えは嘘ではないが、何も知らなさそうに見える。大男はそれ以上の質問を無意味と判断したらしい。口を閉じて横柄に見下ろしてきた。大男の無遠慮な視線はビンの金の首輪、ルキア嬢、エン嬢をめぐって首輪に戻る。
緊迫した無言の中で、地獄汁が火に落ちるジュワッという音とくささだけが漂った。
ケンカが始まりそうな気配に避難場所を探す。フェリクスの裏に回ったものの大男に近いと気付いてルキア嬢の背後に移動。しかし大男がルキア嬢を獲物にしたそうにしているので、ビンの裏に走る。ビンの首輪も獲物と思い返してエン嬢の背後へ。
「く、黒猫がァ」
集団の後方から若い男の声がした。
「黒猫が何度も横切ってるッスー。不吉ッスー」
失礼な! 黒は不吉、不浄、悪魔の色と吹き込んだ前女王の迷信を、女王がボスの座を追われても信じているとは!
「ギャ、威嚇してるッスよォ。人間の言葉が分かるんスよ、悪魔の手先ッスよォ!」
い、いえ実は毛が逆立ってるのは威嚇ではなく、とんでもない冷気が降ってきたからなのですが、こ、これは。
「ミハイを非科学的な不名誉でおとしめるつもりですか」
やはりルキア嬢でしたか。
川面を波立たせ、たき火を吹き揺らす冷気の渦に、くさい数人がヒッと息を飲んで下がった。
「親分、あの女、目の色が左右で違うッスー」
「魔女ッス、ヤバイッスー」
「俺の愛する兄妹を非科学的な不名誉でおとしめたね」
ゆったり笑うフェリクスからは黒い気配が。
「奥の二人も黒髪黒目ッスよォ。薄気味悪いッス、やつらは捨て置いて行きやせんかァ」
「エンに無礼そよ」
ビンからも鋭い殺気があふれ出す。
「フェリクス」
凛と響いたルキア嬢の声は空気を打ち払い、ざわめきを一掃して、高く聖剣を掲げた宣戦布告のようだった。
「浪費なしで儲けさせてあげます」
オッドアイに凍えた闘志が燃える。圧倒的上位を感じた。沈む行く夕陽さえ、彼女の的を照らすために留まりそうだ。
冷気とは違うものに肌を叩かれ、感覚は研ぎ澄まされて張り詰める。避けることしか考えなかった大男さえ、爪のひとかきで倒せると思える。四肢が、本能が奮い立って爪の先まで力がみなぎった。
「てめえらァ、ごちゃごちゃとォ!」
わめいた大男がハンマーを振り上げると、筋肉で出来た山がせり上がったような迫力だ。そこへ細身の影が飛びかかった。
「一刀入魂! 迷信斬り!」
大男はビンの金属球に殴られてよろけ、突きをくらい、蹴りを入れられた。その間にルキア嬢の矢が男たちの足を射止めて地に転がす。フェリクスは倒れた男の服を裂いては縛り上げて封じた。全ての動きがすさまじく速い。
もちろん我が活躍も外せない。集団の前を何度も小刻みに往復。若い男を「黒猫が横切りすぎッスー! ここで死ぬかもしれないッスー」と半泣きで怯えさせた。
地響きとともに大男が倒れ伏し、勝敗は決した。地獄の使者団は失神した大男と、足を矢に貫かれて転がる無様な男たちに成り果てた。
「矢は抜かないでおいてやるよ。失血死されても気分悪いしね」
矢を全て命中させ、それらを回収しなければ、浪費でなく消費で弓師から矢を補充することになる。浪費しないで儲けさせるという宣言を守ったルキア嬢に、弓師は誇らしげな笑顔だ。
「ルキアちゃんってば頼もしいな。惚れ直しちゃう」
「惚れ直す以前に、惚れたと言われた記憶がないけど」
「わあ頼もしい記憶力・・・・・・」
その後、フェリクスは大男に拷問をかけた。「しゃべりやすいように水を飲ませてやるから言ってみな、何が目的で象隊商を探してたのかなー?」と善人風に笑いながら、エン嬢特製熱湯地獄汁を喉に注ぐという方法だ。
「火傷で窒息死するか、鼻が曲がって死ぬか、汁が致死量に達するか、どれが先かなー?」
体調不良のルキア嬢のために作られた汁だから、もちろん毒ではないだろう。けれど体に悪いとしか思えないひどい匂いだ。
一行からは死角になっているが、フェリクスの靴先の刃が大男の首筋をヒタヒタしている。大男はあっさりと吐いた。
「オェェェゲホ、ガハッ、言う、言うからやめろォ! 襲うつもりだったァ。象隊商は女王の埋蔵金のありかを知ってやがるんだァ!」
カネにたくましい弓師のクルミ色の目がキラーンと輝いた。