17. 展望で
うあああ、と悲鳴に似た女性の声に思わずビクついたが、それがエン嬢のものだと思い当たったときには、ルキア嬢もフェリクスも奥の部屋へと飛び込んでいた。
びっくりなんてしてませんよー、と澄まし顔しても見てくれる人がいないので、仕方なく後に続く。尻尾を立てて余裕な足取りを装うのは忘れません。
部屋には大勢いた。床が抜けないか心配だ。膝をついて控える親衛兵たちの半円の中心でエン嬢が泣きながら、足元にひれ伏すビンの背をぺちぺちとはたいている。
ここでも処刑が行われていたようです。公開で。
ビンは微動だにせず、ただ黙ってささやかな処刑を受け入れていた。
「何が起きてんの」
フェリクスが手近な親衛兵をつかまえて身振り手振りで事情を聞きだした。無事に皇族の生存者と認められたエン嬢に、ビンは言葉と態度を改めて今までの非礼を詫びたようだ。ところがエン嬢は兄から一親衛兵へ戻った他人行儀なふるまいに納得がいかないらしい。
兄弟と思って育った猫に「今からあなたがボス猫です」と腹を出されたら喜ぶのですが、人間は違うようです。
ルキア嬢が動いた。つかつかと人の波を切り進んでエン嬢へ歩み寄っていく。居並ぶ親衛兵たちに走った警戒を、白髪頭の長が鋭く短い息で制した。
「ビン、シャオエン姫」
呼ばれてのろのろ顔を上げたエン嬢は三秒ホワーンとしてから、慌てて頬をかばう。
抑えてくださいボス! 腕振り抜いて平手打ちしたら、親衛兵の槍でイガ栗にされてしまいますよ。
幸い、ボケは読めないルキア嬢だが不穏な空気は読めたらしい。膝を折って、ややぎこちないながらも奏民族流の敬意を示す。
「護衛試験は無期延期です。ここで解散とします」
当然です。ビンはフェリクスに私情に偏った減点をされていたし、エン嬢は常に後手でケンカはできそうにない。ゴリゴリ汁が唯一の武器だったといってもいい。
「再試験に臨むならばスマラグダス家の者を訪ねてください。いつでも歓迎します。護衛候補としてでも、奏民族の姫としてでも、ただのエンとしてでも」
三秒経ってから、涙にぼやけていたエン嬢の瞳が焦点を結び始めるのが見て取れた。
猫だって狩りの仕方を教わったら母猫から離れるものだ。ルキア嬢が言いたいのはきっと自分で自分が何者であるのかを決めなさい、ということだ。いつもビンの後ろでホワーンとしていたエン嬢にも、自分の餌は自分で獲る日が来るのだ。
「スマラグダス小姐」
はいつくばったままのビンが低い声を絞り出す。
「ご恩は忘れぬそよ。いつか必ず報いる所存そよ」
「わたしではなく兄に。ビンの言葉は伝えておきます」
「多謝そよ」
高慢だったビンが額を床にすりつけている。そのようすにエン嬢の雰囲気が凪いだ。ビンの忠誠の深さが怒りを中和したらしい。
奥に突っ立っていたひげ皇族がしゃべり始め、ビンは通訳を申し出た。
「・・・・・・奏の姫と至宝の返還に謝意を表するとの仰せそよ。ならびに、なにゆえにスマラグダス小姐は奏民族に好意的なのかと」
「奏民族に好意的なわけではありません。人類はひとつですから」
翻訳されたルキア嬢の答えを聞いて、ひげ皇族は明らかに「はぁ?」の顔をした。
「伝国璽は奏民族の長い歴史と文化の象徴。覇権や帝位の象徴をお返ししたつもりはありません。わたしはアダマス軍の代表ではありませんが、アダマスは、国としての奏の復活を許すことはないでしょう」
やめてくださいボス! 親衛兵たちが槍を握りました! フェリクスが足先に刃を出しました!
「民族を守るのに、国境線は本当に必要でしょうか」
エン嬢が三秒迷って、ルキア嬢と親衛兵たちのあいだに立った。小さくても重い意味のある一歩だろう。ビンも硬い表情でエン嬢にならう。
「巨大鳥の普及や、船の大型化による移動手段と移動距離の増加。世界の面積は変わりません。でも、異民族だからと争っていられるほど、世界は広くなくなりました」
ルキア嬢は毅然と胸を張っていた。演技派の猫だからこそ、あれが虚勢でないと分かる。信じる理念を語っていると分かる。
「アダマスは多民族国家です。そこに奏民族が加わることを、わたしは不可能だとは思いませんし、望みます。兄もそうなのだと思います。奏の民族と文化を継続させていく。そのためにシャオエン姫と伝国璽をお返ししたんです」
ひげ皇族は唇を曲げて黙っている。
「国が奏からアダマスへ変わっても、またアダマスから別の何かに変わっても、ひとつの人類という枠は不変です。数百年前の天変地異で傷ついた人類の数と文化をこれ以上、わたしたちの手で削り合うことに利点はあるでしょうか。その手で助け合うことはできないでしょうか」
普段は縄張り争いに精を出す猫族が、人間による淘汰という危機を迎えて一致団結したように。
人間もまた、毛皮の色の違いを超え、餌やオモチャの好き嫌いを認め合い、過剰な縄張り争いをやめて、共に陽光を愛でることはできないのだろうか。
「まあ、ゴタゴタは起きるんだろうけどさ」
象の道まで案内してきた奏の親衛兵たちは、深々と一礼して道なき道を戻って行った。いつしか雲は晴れ、夕陽が草木のトンネルをオレンジ色に染めている。温められた土の匂いが鼻に心地いい。
野営地を探しながら、フェリクスとルキア嬢は象の道を歩き始めた。
「あの二人が奏とアダマスの架け橋になってくれたらいい。通訳も、心もさ」
ビンとエン嬢は奏の隠れ里に残った。エン嬢は不安そうなようすもあったが、ビンと共にいることを望んだようだ。
「宗旨変えしたの? 『並行する信条は議論して近くなることはあっても、交わらないことくらい知ってる』。ガッテンとにらみ合って言ってたのに」
「交わらないよ。でも、だからってケンカするのを選んだわけじゃないだろ?」
理想と現実なんて小難しい話をしている場合ではありません。
にゃうんと鳴いて注意を促した。
「おまえ、知らせてくれるのはいいがサービスが足りない。何が来るかまで教えろよ、半端だぞ」
のんびり呆れるフェリクスのブーツの先には刃が滑り出ている。
「猫は人の言葉を解さないと思う」
「いいやこいつは絶対分かってる。笑顔でバカ猫って言ったら襲ってくるに違いない」
「フェリクスが動物に愛される理由が納得できた」
「待て! 頭が動物レベルだって言われた気が・・・・・・あ、象隊商」
シャラシャラとたくさんの金属が揺れて奏でる、音にしては音楽に近すぎる音が耳をくすぐる。道の奥から唐突に極彩色が姿を現し、布や花で飾り立てられた象の集団がたちまち視界を埋めた。濃厚な香に頭が揺らされる。毛皮と空気の境目が溶けてしまうような気がした。
象たちがしずしずと譲った道を白象が悠然と歩いてくる。頭には草花と金鎖で編んだ冠を載せ、蝶や小鳥がたわむれている。荷台に張り巡らされた半透明の布には、夕陽を浴びて小柄な人影が映っていた。
ブーツの刃を収めたフェリクスが気軽に手を振る。
「よーう、隊長」
「奥歯が無傷でつまらんぞい、ヘリクス」
「俺のプライバシーは傷ついてるぞ」
荷台の布の隙間から、んふーんと楽しげな息が漏れ落ちてくる。言葉がほろほろと転がってくるような不思議な話し方は相変わらずだ。隊長は少しばかり苦手なので、ルキア嬢の背後にさりげなく潜ませていただく。
「質問があります」
凛とした声に惹かれたように、白象が巨体を揺らしてこちらを向いた。視界を覆いつくすほど巨体に迫られビクリとしてしまった。が、白象の長いまつげの奥にあるまなざしはとろりとして、とても優しい。
「兄のラウー・スマラグダスが宝の地図の暗号を作り、あなた方に預けたと聞きました。けれどおかしい点があります。兄が隠れ里を埋蔵金と偽ったのなら、ないはずの埋蔵金の存在を野盗たちが知っている理由の説明がつきません」
「森を荒らすものは森が食べる。ことわりじゃい」
ゆらゆらと左右に揺れる白象の鼻は、子猫をかまう母猫のけだるげな尻尾のよう。眺めていたら眠くなってきました・・・・・・。
「あー、そうか。つまり女王の埋蔵金がある、ありかを象隊商が知ってるなんて言いふらしてたのは、他でもない象隊商ってことか」
「森を金物くさい人間がうろつくのを、象は好まぬぞい。楽に餌にありついた虎が喜んでおったぞい、んふっふ」
「なんかグロい話になった。埋蔵金の話で釣っておびき寄せて食わせたのか」
「森に住まぬおぬしらの助けなんぞ、元よりいらぬぞい」
フギャッ!?
ほんわりとした眠気にたゆたっていたら白象の鼻が巻きついてきて、高い高ーいってブミャアアアア。
「だとすると、わたしたちは『埋蔵金を探し当てて象隊商の安全と森の平穏をはかり、代わりに巨大化猫を取引してもらう』という約束を果たせなかったということですね」
「退屈しのぎの、たわむれじゃい。カネなんぞのつまらん定めもたまにはよかろ。地図の保証金に預かった金、受けるぞい。大きな猫は港の友に託してあるぞい。鳥の背には乗りきらぬ、軍の船で運ぶがよかろ」
ほーれ右にぶーん、左にぶーん、ってミギャアアアア。
「よし、首も腸もつながったな。感謝するよ、隊長。また会おう」
「森が導くならな」
ぬーっと白象の鼻が伸びて、ルキア嬢らしき腕にぽてんと落とされた。どっちが上ですか。なぜ世界が回るのですか。
ぐるんぐるんと回る視界の中、象隊商はゆったりと反転して草木のトンネルへ消えていった。
象の荷台に吊るされた飾りがせせらぎのようにシャラシャラ鳴る柔らかい金属音も、やがて聞こえなくなった。