16. スマイルで
「象隊商もグルね」
「協力者と言ってあげようよ。暗号の地図を預かってもらっただけだし」
「わたしにとっては共犯」
「だよね」
フェリクスは腕をさすって鳥肌をなだめている。鳥肌の元凶であるルキア嬢は、虎もスライディングで腹を出しそうな猛烈な怒気を噴出させている。浴びてしまわぬように机の下へ潜り込んで首だけ出した。
机といっても家屋と同様、下手な者がどうにか板を合わせたような不安定な台だ。床は少し傾いているし、壁の隙間から太陽が覗けてしまう。棚の柱は弱々しくて、高低差を楽しみたい猫でも飛び乗るのを試す気にはなれなかった。
奏の皇族と親衛兵が命からがら落ち延びた村なら、家屋や家具が行き届かないのも仕方がないのだろう。日常の世話を他人任せにして育った者と、武術が専門の男たち。慣れない大工仕事が十五年の月日をかけ、このバランスの悪い家々を作り上げてきたと思われた。
ビンとエン嬢は別室で詳しい事情を聞かれている。彼らが部屋を出た直後、ルキア嬢のご機嫌が暴風と化したのだった。
暴風の尋問によれば巨大化猫の買い付けも護衛試験も名目で、旅の真の目的はエン嬢を奏の隠れ里に送り届けることだったらしい。ビン・エン兄妹にさえ内緒で。
そういえば昼寝しに潜り込んだ箱ごと巨大カラスに積まれてしまったとき、フェリクスの同乗者がそんなことを言ってましたね。
『生き物の配達を依頼したいそうです』
配達して欲しい生き物はデカ猫だと思い込んでいました。エン嬢だったとは。
「『赤い宝』は皇族の血だったのね。世襲君主制では皇帝の血縁は財宝に等しいから」
固く腕を組み、高く足を組んで、ルキア嬢は暴風をなるべく体内に留めようとしているようだった。それでも吹きすさぶ冷たい風にフェリクスは腕をさすり続けている。
「だね。ちなみにルキアは、エンが奏皇族の生き残りってどこで気づいた?」
「奏の記憶を話してくれたとき。父親の背の刺繍が赤く染まっていたと言ったから。エンが代々親衛兵の家系なら、父親もあの質素で地味な装束だったはず。国が滅亡に瀕している非常時に刺繍の服を着ていられる人は限られてる」
猫も毛皮のツヤで住環境の良し悪しが知れるものだ。
「刺繍の男が父親ではない、または父親という記憶は正しくて富裕層の出身、どっちかになる。ビンのエンに対する過保護で後者だと思った。ビンが言ったのは『我が一族は代々皇族をお守り申し上げる血筋』で、『我々兄妹の』じゃなかった。『エンに無礼だ』って怒ったこともあった」
護衛試験だというのに、一応武装しているエンを、ビンは戦わせようとはしませんでしたね。
きっとこういうことだ。ビンは親衛兵として戦火の宮殿から皇族のエン嬢を救出した。身元がバレて危険にさらされることのないよう、幼いエン嬢に自分を兄だと思い込ませた。だからエン嬢は宮殿からの脱出を、兄のビンが迎えに来てくれたと誤解して記憶している。
「妙にわざとらしいフェリクスの言動で、この旅に裏があるって気づいた。エンの死んだ父親が国璽尚書。親衛兵のビンは国璽尚書が遺した荷を娘である幼いエンに渡した。それが伝国璽。だけど二人とも知らずに乳棒に転用してしまった。そう考えると当てはまる」
武術バカと幼さゆえの無知が引き起こした事態だったと。
「兄はビンから事情を聞いてたの?」
「どれだけ困窮してようと、奏だーい好きなビンがアダマス人に秘密をしゃべるわけないよ。ラウー式武装解除法って知ってる?」
「手順一、全裸に剥く。二、全て剃毛する。三、暗器を仕込んでいないか、あらゆる穴を」
「詳しい解説しないで怖いから。アレの目的、武装解除だけじゃないから。ラウーがビンに会ったのは強盗事件の被害者の取調べとしてだからな、二番はやれなかった」
毛皮が水に濡れてヘタるだけでも気分が悪いのに、剃り上げるとは。ラウー・スマラグダス悪魔の所業です。
「ラウーはビンに睡眠薬ブッ刺・・・・・・良くお休みのところ失礼して身体検査をやった。で、ビンの首輪の裏に奏語が彫ってあるのを発見した。エンが小燕姫、小さい燕でシャオエンね、奏皇帝の血縁だと命を懸けて宣誓する内容なんだってさ」
「小燕姫! 皇帝の実弟の孫。聞いたことが・・・・・・暗号の地図の『燕の巣』は小燕姫とその住居? ううん、これはもっと単純な話で」
ルキア嬢の拳が空気を何度か、くやしそうに握った。
「燕が奏語でエンという発音だってことは知ってたし、せっかくビンが燕は女性の名に使われるって教えてくれたのに。燕=エンに気づけば、その時点でエンと宝の関連性を考えてみたはず。わたしが答えにたどり着けなかったから、フェリクスは天の鳥にこじつけて『後宮』って答えをバラした?」
「あの時は苦しまぎれだった。強引だったかと気が気じゃなかったねー」
ニヤニヤした思い出し笑いを向けられて、ルキア嬢はため息混じりだ。
「だからビンは忠誠の証に首を斬れと・・・・・・首輪の彫り物が見つかれば、エンを小燕姫として託すことを命と引き換えに嘆願できるから」
「バカだよなあ。そんなことしたらエンが壊れるぞ」
言葉は悪かったが、フェリクスの口調は穏やかだった。
「で、ラウーは所持品検査もして、あの乳棒を見て疑ったらしいよ。ラウーは奏語を話せるからな、それまで何百人もシメ・・・・・・仲良くお話して伝国璽のことも知ってたんだろ。たまたま俺が弓の調整であいつのとこにいてね。さっきみたいにやってみせたわけ」
フェリクスは親衛兵たちの前で乳棒を解体したのだ。湯を用意させて乳棒を浸し、割れた部分を継いだニカワという接着剤を柔らかくして、ゆっくりとはがした。乳棒は二つに分かれた。底面に文字が彫られた長い部分と、文字面を守るようなフタ状に作られた短い部分。
親衛兵たちは迷っていたが、やがて一人のひげ男を呼んできた。道を譲って膝をつく兵たちのあいだをボス猫の風格で歩いてきた男の服は色あせてはいるものの、細かい刺繍で覆われていた。きっと落ち延びた皇族なのだろう。
偉そうなひげ男が乳棒を受け取り、面に刻まれた文字を読み上げる。その声と手がとたんに震え始めた。男は乳棒を高く捧げもち、ひざまずき、額が床に着くほど深く深く頭を垂れて号泣した。息を詰めて見守っていた親衛兵たちも、ビンも一斉に平伏した。
「刻印は『受命於天既寿永昌』だと・・・・・・スマラグダス小姐、正真正銘の伝国璽との仰せそよ」
男たちは泣きに泣いて、異様な有様だった。
「伝国璽がすり減ってる理由を聞かれたビンは面白かった。冷や汗ダラダラで倒れそうだったな。国璽尚書だっけ? 要職の皇族が敵軍に見られないようニカワで封じて、戦火をくぐって持ち出そうとした国宝を乳棒として使わせちゃったんだもんな」
「ゴリゴリですり減ったのがせめてフタの部分でよかった」
「伝国璽の粉末入りスパイスを食ったのなんて、奏の祖先を二千年さかのぼっても俺たちだけじゃないか? 燕の巣よりよっぽど珍味だ」
「親衛兵たちに露見したら首をはねられそう」
うんうん、とそこだけは協調して隠蔽をはかる二人。
若い二人が心を合わせる目的が、死刑回避でいいんですか?
「俺もラウーに全部教わってたわけじゃないよ? ニカワで封印し直してやったのに、ヒスイで作られた文化遺産だとしか説明されてない。身の安全を守る必要があったからエンが皇族ってのは知らされてたけど」
「ふうん。割れているとか材質はとかこそこそヒント出してたのに、あの乳棒が二千年ものあいだ武将たちが覇権の象徴として奪い合った奏の伝国璽だとは、フェリクスは知らなかったと」
「ラウーの画策を暴こうしたって無駄だろ? 俺らはつい弓の腕ばかりに気を取られるけど、ラウーはアダマス軍の誇る参謀だし。あいつ、伝国璽のヒントを出す役は象隊商に割り当ててたんだな。他にもまだ隠されてることがありそうな予感がしまくるぞ」
うんうん、と同調して頷きあう二人。
若い二人が心を合わせる目的が、身内への疑惑でいいんですか?
「他に、兄から匂わせるように指示されたヒントはないの?」
「ある。エンの鍋。形状、模様、材質、そのへんに注意を向けさせるようにって指示だった。何なんだ? ビンは受け継いだものだって言ったから、国璽尚書の父親の荷物に入ってたんだろうな。鍋持って逃げるとか、妙なとこ家庭的な親父だ」
「女王軍に捕らわれる危険を見越して、伝国璽を乳棒に誤解させるための小道具だったのかもしれない。あの鍋の特徴は底に三本の長い足があって、立たせた状態で火にかけられること。カナエって分類の鍋だってビンが教えてくれた。模様・・・・・・模様なんて炭で判別できなかった」
「修理するときに見た感じでは動物っぽかったよ。写実的じゃなくて単純化されてて、角や牙は太くぐにょっと強調させてあった。あれは牛なのか虎なのか」
フェリクスはポケットから炭の棒のようなものを出し、床板にざりざりと絵を描いてみせた。
魅惑的な動きに棒の先を前足でちょいちょい押さえたら、即座に額をぐりぐりされた。顔が引っ張られる懐かしい気持ち良さは、毛づくろいしてくれた母猫の舌を思い出すからでしょうか。
「・・・・・・それ、トウテツ文?」
「先生、専門用語で聞かれてもさっぱりなんだ」
「怪物の模様。古代の東の大陸で青銅製祭器の装飾に使われてた。祭器って大陸の西では武器類、東では杯や壺の食器類が多いの。初代の青銅器製伝国璽はカナエなんだけど・・・・・・まさかね、だってエンの鍋って青銅色じゃなかった。普通に金属の色だった」
「あー、ルキア誤解してる。アダマスじゃ金属が採れないから仕方ないか。青銅は銅とスズの合金。金に近い銅色。銅も青銅も酸化すると表面に緑青が出るけど、手間かけて精錬した銅製品を緑青まみれにしとくことが少ないだけ。緑青まみれの銅の色を青銅色だと思ってるだろ」
そこで何かに思い当たったらしく、フェリクスの茶色い頭が「ん?」と傾く。
「エンの鍋って不純物多そうな色してたけど、不純物っていうかスズだったのか? 国璽尚書が持ち出そうとしたのは料理鍋じゃなくて・・・・・・」
「失われたと言い伝えられてる初代の青銅器製伝国璽だってこと?」
「・・・・・・俺たち、四千年モノの遺産でメシ食ったの?」
「穴が開いて修理が必要になるほど、火にかけたね」
ひそひそと確認したあと黙り込む二人。
若い二人が黙って見つめあう理由が、文化遺産破壊発覚でいいんですか?
「まあ・・・・・・すり減ってても焦げて穴が開いてても、帝位の象徴が戻ってきただけで奏民族は大喜びなんじゃないか? うん、きっとそうだ、そうであって欲しい」
「フェリクス・・・・・・『鼎の軽重を問う』って奏のことわざ知ってる?」
「むしろルキアが奏語を話せないのに何でことわざを知ってるのか問い返したい」
「アーケロン島に来た奏出身の傭兵候補たちにアダマスの言葉で語らせてるうち、自然と」
「うん、逃避だから真面目に答えてくれなくていいんだけどさ・・・・・・要するに俺たちが首をもがれそうな話はもうしないでくれってことなんだ!」
たぶん大丈夫、と請け合ったルキア嬢の話はこんな感じだ。
初代の青銅器製伝国璽がまだ失われていなかった時代、東の大陸に周という国があった。
そこへ楚という国の荘王というのが大軍を率いてやって来て、『周には帝位の証のカナエが伝わってるって噂だけど、どのくらいの重さなのー? それ持ってる資格があんたらにあるのー?』的なことを聞いた。
重さを聞いたということは持ち帰る気満々ということで、周を滅ぼしちゃおうかなーと言っているも同然。ここから『カナエの軽重を問う』は帝位を狙う、下心がある、相手の実力を軽視するといった意味に使われるようになった。
「この故事は青銅器製伝国璽が簡単に持ち帰れないほど物質的にも重いものだった、ってことを示唆してると思うの」
「家庭の料理鍋サイズじゃないってことだな?」
「エンの鍋は青銅器製伝国璽の単なるミニチュアの複製かもしれない」
「そうだ。それ採用。そうしよう。ルキア天才。これはラウーの悪い冗談だ。よく言ってくれた、握手しよう」
「兄は冗談を言わな・・・・・・フェリクス、痛い」
若い雄が熱烈に雌の手を握るのが、現実逃避で・・・・・・もういいです。
エン嬢が何者で乳棒が何かなんて、猫族には動かなくなったイモ虫くらいどうでもいいことです。
オモチャ探索でもしようかと首をめぐらせていると、それで、とルキア嬢の強い口調が降ってきた。
「隠れ里を発見したのは誰? アダマス軍とは思えない。即座に制圧して捕虜にするだろうから。行商人も踏み込まないような密林の奥地まで入って、兄に隠れ里発見を内密に報告した人って」
「ルキアちゃん。手を握り返してくれるのは嬉しいけど、渾身の力をこめてくれなくてもいいんだよ」
奥歯より先に手が粉砕されるのでしょうか。
「フェリクスが遭難死を恐れたとき、わたしに会ってから来ればよかったと思うのは・・・・・・兄と同じ顔だからじゃなくて、兄には頻繁に会ってるからじゃないの?」
「う。会ってるけど、違う。そこから導き出さないで欲しかった」
「兄には頻繁に会って、今回みたいな工作を頼まれて、弓の素材収集なんて嘘つきながら活動して隠れ里見つけたりして、だから旅のお土産がモノじゃないことが多いの? 土産話まで嘘?」
淡々と迫る口調の中にも揺れるものがある。姿勢を正した青年の革ベルトにある工具たちが不協和音で騒いだ。
「アーケロン島の傭兵たちとの会話は単純だった。能力の向上に人生をかけてきた彼らの多くは、対人関係に時間や知恵を回さない。嘘より沈黙を選ぶの。わたしはそれにすっかり慣れて、相手の言葉を文字通りに受け取るばかりになってた。嘘もつくのが普通なのにね。忘れてた」
「ああ・・・・・・そっか。俺の嘘のせいで人間不信にならないで欲しい。ごめん、俺がマズかった」
ごめんと重ねられ、ルキア嬢は迷ってから小さく頷く。
「ちゃんと話すよ。察しの通り、ラウーの依頼であちこち行って色々やった。さすがに全部の詳細は言えない、言ったら首に腸を三周巻いて吊っても死なせてもらえない」
魔王流首吊りにそんな上級編があったとは・・・・・・。
「なんか俺、うまく立ち回れちゃうんだよね。いや、ルキアに対しては失敗したばかりで信憑性ないけどさ。小細工が器用なのは手先だけじゃないみたいでさ」
口先も、というわけですね。
「ラウーは文明の番人だからな。消えた奏皇族の行方をずっと探してた。アダマス軍が先に見つけ出せば、ルキアの言った通りになる。即座に武力で捕虜にしようとする。そうなれば、ビンみたいなあのプライドの高い親衛兵たちが全滅するまで抵抗してくるだろ。皇族も自決しかねない」
「奏の民族も、文化までも・・・・・・皇族という中核を失って、奏は真の意味で滅びてしまうかも。兄がそんな事態を許容するわけない」
おや? 魔王が政敵を保護するという奇怪な話になっています。
「そうだ。軍幹部は奏の生き残りなんてむしろ一掃したい。使える駒だけ捕虜に残してね。ラウーの思惑は軍と衝突する。だから俺みたいな、軍と無関係なヤツで奏皇族の潜伏先を密かに探索させてきたんだ。そんなときにビンとエンが飛び込んできたんで、うまいこと釣って保護した」
これは猫族に朗報です! ラウー・スマラグダスの弱みを握りました。軍に背いていると軍のボスに密告すれば、縄張り追放間違いありません。この弱みを交換条件に猫族の安全を取引できます。
長ひげの議長さん。軍艦乗りのマリン。怯える同胞たち。もう心配無用、猫族の勝利です! 人間の生活の隅々まで諜報ネットワークを張り巡らせ、月夜の集会を繰り返してきた知性による栄光です! さあ、尾頭なしの肥えた魚とマタタビ酒で祝杯です!
・・・・・・はて、交渉する際、人間とのコミュニケーション手段はいったい?
「弓師がんばってると思って嬉しかったのに。フェリクスが弓師で嬉しかった」
言語問題はそのうち考えるとして、耳と集中を二人に戻した。
「傭兵も研究者もどんどんアーケロン島から出て行って、島どころかこの世に帰って来なかった人だってたくさんいる。でもフェリクスだけは訪ねてきてくれた」
「うん・・・・・・」
熱を帯びたクルミ色の瞳は、ルキアがいるからだよ、と語っているようだ。けれど今のルキア嬢にフェリクスの熱は伝わっていそうになかった。
アーケロン島に渡る朝、念入りに無精ひげを剃り落としてシャツを整え、あげるのはあれとこれと、と背嚢を引っかき回していた青年の姿を見せてやりたい。
船頭に行き先を告げたときの弾んだ姿を。ルキア嬢に再会した瞬間の晴れやかな瞳を。寝顔を眺めた安らかな笑顔を。ミントを用意して待ちながらそわそわ揺れていた膝を。
スマラグダス兄妹の絆への憧れや、家族という家への思慕。そういった話を聞いたせいで惑わされてしまった。フェリクスは自身が持て余すほど、ルキア嬢への愛情を抱えている。
きっと受け取る嘘と愛情は同じ臓器に貯まる。嘘が増えると愛情が入れなくなってしまうのだ。
「だからフェリクスが嘘をついてるって気づいて怒ってたけど・・・・・・」
細い指がそっと離れる。大きな手は焦ったように追いかけてつかまえた。
「怒っていい。殴りたかったら殴っていいよ」
首を横に振るルキア嬢へと、フェリクスは慌てて椅子ごと詰め寄った。
「もう嘘は言わない、誓う。こんな風にだまして連れ出したりもしないから」
「ううん。分かってる。兄もフェリクスも、わたしが島の外に興味を持つように仕組んでくれたことだって。感謝してる。自分に知識の蓄積があるって知るのは新鮮だったし、知識が現実に適用できるのは面白くて誇らしかったし、知識を広めるのが社会貢献だって思えたの」
社会貢献・・・・・・我らが猫族には縁遠い言葉です。
「義姉は出身一族の知恵を惜しげなくアダマスに提供してるって聞いた。義姉の護衛を務めることは社会貢献につながると思うし、知識面でも手伝えたら嬉しい。笑顔が怖がられるのなんてどうでもいい」
言い切る言葉には力があった。背筋をしゃんと伸ばしてほほえむルキア嬢は、太陽を背負ったように晴れやかだ。
「わたし、アダマス本土に行く。これがフェリクスの言ってた『初心を持つ』なんでしょ?」
「ルキア・・・・・・」
まぶしそうに呟くフェリクス内で史上最高幸福が大幅更新されているのは明白だ。
さあ、背中を襲って子孫繁栄に貢献してしまいなさい!
「・・・・・・って理解してるし二人に感謝してるけど、未熟でごめんなさい。怒りも残ってる」
太陽は一瞬にして雷雲に飲み込まれた。遠のく子孫繁栄。フェリクスの瞳からも頬からも陽だまりのような熱が消え、ぽつりと落ちた最初の雨粒みたいに冷や汗が額を伝った。
「ごめん。いくらでも殴ってよ、奥歯の覚悟はできてる!」
「やめとく。怒りにまかせてフェリクスを傷つけたくない。殴るだけじゃおさまらない」
「さっき『殴っていいよ』に首を振ったの、そういう意味か・・・・・・」
フェリクスの額の雨粒が増えた。
「けど、このままじゃ俺もおさまらない。心でも体でも思いっきりやっちゃって、頼むから」
垂れ込める見えない雲の重さに耐えかねたのか、青年は椅子から床に滑り降りて膝をつき、斬首刑を待つ罪人の格好で頭を垂れた。
「そう・・・・・・」
執行人がゆらりと前に立つ。利き足を軽く揺らしたのは準備運動ですか? 足なんですか?
「フェリクス。心は、脳と心臓どっちにあると思う? あると思うほうの受身を取って」
「それどっちも急所だと思うんだ・・・・・・うーん、心ってのは肉体から離れた魂みたいなとこにあるんじゃないかな!」
「じゃあまず肉体から魂を抜く処理をする」
「戻す処理もできるなら・・・・・・」
言葉が魂ごと消え入りそうです。
処刑の準備運動を終えて、ルキア嬢は足を肩幅に開いた。すうっと息を吸い込む音にフェリクスの背が緊張を帯びる。
「養子縁組や結婚の話がどこまで嘘で、今回の任務にどう関連しているのか分からない」
フェリクスが弾かれたように顔を仰ぐ。いつもの余裕はどこにもなかった。
「わたしがスマラグダス家に歓迎する男性は義兄にしても、義父にしても、夫にしても、フェリクス以外に想像できない。でも冷静に判断できるようになるまでは、怒ったまま嫌だと答えちゃうと思う。ごめんなさい」
重刑を青年はよくこらえたと評価したい。痛んだ表情を見せなかった。真面目にあごを引く。
「分かった。・・・・・・正直、怒ってくれてほっとしてるんだ。ラウーの理念のための活動だからって俺の嘘をすんなり許されちゃったら、ビンと扱いが変わらないもんな」
そういえば奏のために嘘で塗り固めてたビンはとがめられもせず放置でした。
「任務とは無関係。スマラグダス兄妹と家族になりたいのは誓って本当。ただ訂正を入れさせてもらいたい。俺、義兄になりたいとは言ってない。ちなみに義父もない、義父だけはない」
フェリクスはルキア嬢の手をすくい取る。顔をまっすぐ仰ぎ、しっかりと心の乗った声で言った。
「弓師になったら正式に頼みに行こうと決めてる」
青年は親指の腹で、恋するお嬢さんのまっさらな左の薬指の根元を何度も大事そうにさすった。
「ここ空けて待ってて欲しい。これからは、俺とルキアの人生をなるべく重ね合わせておきたいんだ」
「・・・・・・ラウー・スマラグダスの妹だから?」
ボスが珍しく自信なさげだ。不意に象隊商隊長の言葉が蘇った。
『己が己である必要を問うておる、おまえがルヒアじゃい』
「あ、気になる? 俺の奥さんになる人にだけ教える。聞きたいよね?」
さっきのしおらしさはどこへ置いてきたのか、帰ってきたご主人さまに飛びつく犬の勢いで立ち上がって喜色満面なフェリクス。顔を舐められそうな近さで覗き込まれたルキア嬢だったがそこはボス、冷静に見返した。
「わたしがフェリクスを歓迎するのが、兄の友人だからかもって思わないの?」
心の受身を取っておけ、という注意を忘れていたようだ。フェリクスの口から魂が抜けかけました。どうにかごくりと飲み下して正気を取り戻す。
「何でもいいからOK欲しいと思う自分が情けねーな・・・・・・とにかくまず初心に返って出直してくる。それまでは嫌だって言い続けてくれていいよ。嘘ついた俺の気も晴れるからさ」
ルキア嬢の耳がわずかに赤くなったのは、正式に頼むまでもなく返事をしているようなものだ。青年は気づいたのか気づかないのか、やんわり優しく目を細めた。
マタタビ酒はないけれど、にゃうんと鳴いて祝砲を。