13. 動物談義で
エン嬢が指摘したように、奏の文化には東西南北を象徴する動物がいるそうだ。東の青竜、西の白虎、南の朱雀、北の玄武。白虎を虎、朱雀を雀、玄武を亀に置き換えると、象隊商隊長の話はなるほど地図に見えてくる。
猫はどの方角を象徴するんでしょうね。失礼千万な干支みたいに、方角からも外されているなんてことはありませんよね?
「それにしても驚きました」
と言う割には平静顔のルキア嬢の心臓はきっと、厚い毛皮で覆われている。ペルシャやヒマラヤン級のみっしりふっさふさ。
「エンが傭兵養成所に入所してから一年と十一ヶ月三日のあいだ、エンからのコミュニケーションは最低限の単語による筆談だけでした」
「ビンには内緒そよー」
長い袖から覗く小さな手をぺちんと合わせて、エン嬢は祈りのポーズだ。
「エンが英語で話すのもー、アダマス人や男の人と話すのもー、叱られるそよー。お願いそよー」
内密にすると請け負ったルキア嬢に、エン嬢は礼儀正しく頭を下げた。
「多謝そよー」
「礼を述べるのはわたしです。ビンに背いてまでエンは何故、地図解読に協力を?」
「奏が消えたとき、エンはまだ四つかー、五つかー・・・・・・」
ほとんど覚えがないそよーとエン嬢は言う。
壊された家具。あちこちから上がる炎、叫び声。倒れている男は恐らく父。その背の刺繍は赤黒く染まり、荷が散乱している。男は動かない。壁の裏を荒く速い足音がいくつも行き過ぎる。近付く炎と流れてくる煙に焦っても、行くべき方向を知らない。
エン嬢の記憶はそんな場面から始まるのだという。
煙の中を少年が走って来た。暗色の簡素な衣服で、袖と膝下は白い布をぴったりと巻き、手には長い槍。親衛兵の装束のビン。よく見知った姿にほっとして、彼の手に手を委ねる。
右手に槍とかき集めた父の荷を持ち、左手で自分の手を引くビンの姿。それがエン嬢の一番古く、唯一の奏の記憶なのだそうだ。そのまま家を脱出し、奏を脱出して、ビンとエン嬢はアダマス帝国に住み着いた。
「ビンもー、家庭教師の先生もー、忠誠とか奏国女性の理想像とか教えてくれたけど、いけない子だって思うそよー、でもエンには実感がないそよ・・・・・・」
あなたが目も開かない子猫の時に、お世話になったボス猫さんなのよ。と母猫に説かれたところで、尊敬の念が湧かないのと同じだ。今お世話になっているボス猫さんがボスなのだ。
「エンは奏よりビンが心配そよー。ビンを護衛失格にしないで欲しいそよー」
情は目に映る。エン嬢のホワーンとしたタレ目はやはりホワーンとしているが、その黒い瞳の濃さが深くなっているようだった。オッドアイで見つめ返すルキア嬢は顎を引いて頷いた。
「安心してください。兄は実力主義です」
それって情報提供の見返りを一切約束してませんよね。
テントに戻ったルキア嬢は一行を集合させ、地図解読の協議を再開した。
「なるほど、奏じゃ動物が方角を象徴してんのか。気付いてたんなら言えよなー、ビン」
「ぐ」
うなって顔を背けることで、ビンは気付きもしなかったと自白する結果となった。フェリクスにとってビンの失態は美味なる餌だ。嬉々として食らいつく。
「おいおい。いくら兵士で武術バカでも、伝国璽とか方角なんて大事なとこで純アダマス人のルキアに負けてどーすんだよ自称奏国人。やっぱルキア先生は頼りになるね、よく気付いたよな!」
手放しの賛辞が居心地悪かったらしい。ルキア嬢のきりりとした眉がわずかに曇った。
「天啓です」
「は?」
「天のお導きです」
「いや、天啓の意味は分かってる」
情報提供者は秘密なのだから手柄は横取りすればいいものを、苦しい自己申告だ。エン嬢にビンの護衛試験結果を保証しなかったのも生真面目さゆえだろう。
「ふーん。天のお導き。排泄する天のお導きね。じゃ、動物=方角説に従って考えてみるか。『燕の巣に赤い宝。ある朝、雀が宝をくわえて飛び立った』。燕の巣からまず雀の方向、朱雀の方だな、南に・・・・・・何里だっけ?」
「十里です」
「四十キロか。で、次に」
「フェリクスは何のために日本人村へ行ったんですか?」
ぽかん、とフェリクスは間抜け面をさらした。
「数百年前の天変地異以前、東の大陸のさらに東に、日本と呼ばれた島国がありました。島は地殻変動で消滅しましたが、日本文化はこのボル・ヤバル島僻地の村で継承されているそうです。日本はかつて大陸から様々な優れた文化を輸入しました。里という単位もです」
大陸と日本で同じ単位を使っていたわけだ。
「ですが、日本で一里の長さは変遷しました。日本における一里は約四キロメートル。元来の大陸文化を伝承した奏における一里は五百メートルです」
「あー・・・・・・そうか」
ごん、ごん、ごん。フェリクスの拳が額を何度も自虐的に小突いている。珍しく素直に降参したようだ。
「そうなのか。だから俺が日本人村に行ったって分かったのか。こえー。すげえ。ルキアはアーケロン島にいながら、世界を知ってんだな」
こえーと口では言うが、目はひどく優しく笑っているのが矛盾だ。
「情けねーな。俺は足で歩き回っただけで、広い世界を知ってると勘違いしてた」
「フェリクスは知っています。わたしは聞いただけです。ボル・ヤバルが暑いと聞いていても、知らなかった。だから体調を崩しました」
小さな苦笑が交わされた。そこには一度ケンカして打ち解けあったような類の清々しさがあったのだが。
「で、さっきの質問だけど。日本人村は職人村とも呼ばれてるからね、弓師には勉強になったよ」
弓を学ぶために行ったのだ、とは言わない。フェリクス流の真実の隠し方だ。
「了解しました」
フェリクスが優秀だと自慢する目はとらえただろうか。顔は真面目に了解したと答えながら、ルキア嬢の指は動いたことを。言い逃れのしっぽをつかんだように握られたことを。
野盗、ガッテン、象隊商。彼らとフェリクスの舌戦が重ねられるうちに、ルキア嬢は気付いたのかもしれない。フェリクスの言葉がくせものであることに。
「話の腰を折ってすみませんでした。地図に戻ります。方角を象徴する動物は奏の文化ですから、一里の長さも奏方式の五百メートルを採用するのが妥当と考えます。これに従うと地図が示すのは燕の巣から南に五キロ、そこから西に十キロ、さらにそこから北に十五キロ地点になります」
「おー、行けそうじゃん! ルキア天才! 俺たち無敵! ・・・・・・で、スタート地点の燕の巣って、どこ?」
「不明です」
世界を聞いている人間、世界を知っている人間じゃなかったんですか?
「スタートがわかんなきゃ話にならな・・・・・・くもないけどね」
実際に困ってなさそうなのんびりした様子で、フェリクスは地図を取り出した。話にならないと思いますが、と視線で訴えているルキア嬢の前へ広げる。亀が勝つ話ではなく、紙に描かれた本物の方の地図だ。
「頭は柔らかくね。ヒントは行程。燕の巣から南に五キロ、次に西に十キロ、次に北へ十五キロ。不自然だろ? 一度南に行ってから、最後に北へ戻ってる。合算すりゃ西に十キロ、北に十キロで済む行程を遠回りする理由は? ハイわかった人は手を挙げてー」
律儀にルキア嬢の手が挙がった。
「何らかの地理的な障害物があって、それを迂回するため?」
「おー、いいね! 俺もそう思う。で、そのサイズの障害物になりそうな地形を地図で探してみるわけだ。んー・・・・・・この沼なんてどうだ。こっちの山も候補だな。お、この谷だとすると燕の巣にあたる地点にバニヤンツリーの巨木がある。怪しい」
「燕は人里に営巣すると聞きます。密林の巨木との関連性が乏しいように感じます。ビンとエンの意見も教えてください」
ルキア嬢はビンを説得した。地図が導くのが奏皇帝の財宝である場合は返却を兄に働きかける、と言われてビンは渋面のまま頷いた。諦めるのも無理ない。博識で天啓を授かるルキア嬢と悪賢いフェリクスがいれば、自称奏国人が協力拒否しても解読されるのは時間の問題に思える。
つまりビンは劣勢だ。焼け出され、袋小路に追い詰められたネズミだ。そして奏の秘宝が出てきたら窮鼠のごとく、ルキア嬢とフェリクスに牙を剥くつもりかもしれない。
「燕の巣に心当たりはありませんか」
「燕の巣など、無数にあるそよ」
素直に答えるビン。窮鼠説を取り下げます。従順でも役立たずなビンより、狩って遊べるネズミがずっと偉い。
「だよなー。あ、奏国人は燕の巣を食うって聞いたよ」
「ある種の燕が断崖絶壁に作る巣でしたね。採集地は比較的限定的ではありますが、地図の起点として用いるには広範囲すぎます」
「実は単純に燕の巣っていう地名があるとか? 地図には載ってないなー。通称とか知らないの、自称奏国人」
「知らぬそよ。軽蔑的な呼び方は不愉快そよ」
「頭回せ! 何でもいいから、奏で燕って言えば何を連想する?」
「ぐ・・・・・・燕、燕・・・・・・」
あふ。燕の話ばかりで飽きてきた。蝶でも通りかかってくれないものか。
「二千年ほど前の東の大陸に、燕という国があったそうです」
「飛躍しすぎだろー」
「大陸をルーツに持つ奏民族にとって、燕は一国の名に冠されたほど特別な鳥だと言えます」
「あの小鳥が? なんで?」
「燕は天の鳥そよ。女性の名に好まれるそよ」
「天の鳥? なんで? 鳳凰の方がずっと天の鳥っぽいのに」
「ぐ・・・・・・」
「知らないなら知らないって申告してもいいんだよ? 知らないことは罪ではない、知る機会を放棄するのが罪なのだって某大佐が言ってたよ」
的確な言葉だ。アダマス軍にも尊敬すべき知識人がいるようです。
「燕が天の鳥と言われるのは、地面に降りないからではないでしょうか」
「靴を持ってないだけだろ?」
「鳥類に靴は不要だと思います」
「大丈夫だ。ルキアの笑顔を引き出すためなら、俺はどんなボケ殺しにも耐えてみせる! うん、燕が地面にいるのって見たことないな」
小鳥を狩るとき、猫が燕より雀を選ぶのはそのためだ。降りてこない小心者など相手にしてやらないのだ。爪が届かないからとか、速すぎるからではないのだ。
「奏や日本など、東の大陸付近をルーツにする民族は、君主を天で呼びあらわす文化があります。天子、天帝、天皇。天の鳥である燕は、奏皇帝と何らかの関連性があるのではないでしょうか」
「天の鳥の巣。天子の巣。巣。ヒナ鳥を育てる巣。皇帝の子供を育てるところ・・・・・・」
フェリクスの人差し指が地図の一地点をぱちんと弾いた。
「後宮。宮殿か。宮殿が始点なら迂回を余儀なくされる地理的障害は、この高い岩山でサイズぴったり。 奏皇帝の秘宝の地図の始点が宮殿? 単純すぎてむしろ思いつかないって」
近付いてきたお宝の匂いにクルミ色の目が輝きだす。
「答えは奏の宮殿改め、我らがアダマス軍ボル・ヤバル駐屯基地か」
カネと好奇心。青年の本業が弓師でないのは恐らく、若い雄にありがちな長い寄り道だ。生真面目なルキア嬢は青年の寄り道の先にはいない。
本来の縄張りから離れて帰り道を見失えば放浪するしかなくなるのは、猫も同じだ。