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トリガリング・マジック・ハヴォック  作者: 唯吹


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魔法を信じるか?

木刀と木刀が打ち交わされる乾いた音が、誰もいない道場に響き渡っていた。

ユウゴは最後の瞬間に体を翻す。目前をかすめて通り過ぎた相手の竹刀が、ほんの一瞬前まで頭があった空間を切り裂いた。崩れかけた姿勢を立て直す間もなく、彼は一歩踏み込んで正確かつコンパクトに、相手の肩へと竹刀を叩き込んだ――コントロールされた力加減で。

「面ッ!」

彼の声は引き締まっており、どこか機械的ですらあった。対戦相手の先輩が二歩よろめき下がり、一本を認める。

ユウゴは笑わなかった。ただ鼻から息を吐き出しながら、ほんの一瞬だけ構えを解く。流れた汗がこめかみを伝い、額に突き出した金髪を張り付かせていた。どうしても言うことを聞かない、あの頑固なアホゲが、荒い息に合わせてぴくぴくと揺れている。

彼はもう何年も剣道続けている。週末の趣味などではない。日課だ。高校の頃から、ほぼ毎日……自分がサボったりゲームに没頭したりする日を除けば。

動きはすでに身体にしみ込んでいた。重心を落とすべき瞬間、手首を返す瞬間、相手の体重をそのまま利用する瞬間を、筋肉が覚えている。それは天賦の才能などではない。反復だ。皮膚の下に刻まれた、見えない傷跡だった。

対戦相手である三年生の先輩が面を外し、前腕で額の汗を拭った。

「お前、また腕上げたな、ツルギ。さっきの踏み込み、えぐすぎんだろ」

ユウゴは息を荒げたまま、肩をすくめた。

「えぐい方が決まるんで」

「顧問の先生も言ってたっけな。『床に転がってる間に、綺麗な技なんて存在しねぇ』ってよ」

ユウゴは無言でうなずき、竹刀を片付けた。面、小手、胴を流れるような手際で外していく。防具の下の稽古着は汗でぐっしょりと濡れており、その下に着ていた学校の白いシャツも胸元に張り付いていた。

彼はまともに挨拶もせず、そのまま道場を後にした。『スピリット・オブ・レジェンド大学』の総合研究棟の廊下は、まだ比較的閑散としていた。授業が始まるには少し早すぎる時間帯だ。高い窓から差し込む朝の光が、濃紺のブレザーの胸元に縫い付けられた金色のエンブレムを照らし出していた――後ろ足で立ち上がり、翼を広げたペガサス。

古くから創立された名門大学であるこの学院では、いつの時代も才能が何より称揚されてきた。

ユウゴはきちんとした身なりをすることに無頓着だった。白いワイシャツの裾はズボンからはみ出し、ブレザーの袖はまくり上げられ、足元には指定の革靴ではなく、履き古したボロボロのスニーカーが収まっている。ポケットに両手を突っ込み、肩の力を抜いたまま歩くその姿は、今日という日が自分にとって価値のある一日かどうか、まだ測りかねている人間のそれだった。

その時、聞き慣れた声が響いた。

「おっ、生きてたのかよ」

タケルが階段のすぐそばの壁にもたれかかっていた。ブレザーをマントのように肩に引っ掛け、シャツの裾こそ同じように出していながら、彼が纏うとそれがだらしなさではなく、どこか洗練された余裕のように感じられた。背筋はピンと伸び、いつだって何かに面白がっているような、不敵な笑みを浮かべている。

「遅刻だぞ」タケルはユウゴの歩調に合わせて並び歩きながら言った。「一人で教室に行って、教授を相手に格闘する羽目になるところだった」

「あいつが気にするわけないだろ」ユウゴは答えた。「今日の稽古でもう十分殴られてきたし」

「そりゃあな。お前はいつも誰かを叩きのめしてるからな。そのうちその腕がもぎ取れるぞ」

二人は並んで階段を下りていった。廊下には徐々に学生たちの姿が増え始めていた。濃紺の制服、ひそやかな話し声、コーヒーとインクの混じった匂い。

タケルは、ユウゴが朝っぱらからのボディタッチを嫌うと知りながらも、馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。

「でさ」タケルは声を少し潜め、真面目なトーンに変えた。「――お前、本当に魔法なんて信じてるのか?」

ユウゴはすぐには答えず、前を見たまま歩き続けた。

「いいや」

「嘘つきめ」

「信じてはいない。だが、行くには行くさ」

タケルは低く笑った。

「楽しみだな、本物かどうか確かめるのがさ。マジで。もし成功したら――ウソだろってなる。失敗したら……地下室に引きこもってロウソクを灯してるだけの、ただの痛い集団だ」

「大体その通りだな」

「まるで英霊の召喚みたいじゃねぇか?」タケルは大げさに片手を振ってみせる。「高校の頃にやってたゲームみたいにな。まぁ、今度はガチのリアルだけどさ。オカルト研究会の会長のババ……おっと、お姉様はガチだと誓ってたが」

ユウゴは小さく息を吐いた。

「失敗したら、ただの道化の集団で終わりだな……だが、オカルト研究会ってのは、暇つぶしにはちょうどいい。どうせ何かしらの部活に入らなきゃいけない義務があるんだし」

「だが、オカルト研究会って本来そういうもんだろ?」タケルは口元を歪めて笑った。「古臭い本を読んで理論をこねくり回すだけなんて、腰抜けのやることだ。今日こそ、向こう側に何があるのか確かめてやるのさ……それとも、俺たちはただ暇を持て余した負け犬の集まりなのか、な」

「俺はオカルト研が結構気に入ってるぜ。暇つぶしのサボり場としては最高だ。どうせ部活強制だしな」

「……自分で言ってて顔が赤くならねぇのかよ?」

「お前だって同じだろ、このマヌケが!」

二人は廊下を曲がり、人文科学棟へと足を踏み入れた。

歴史学の講義室はすでにほぼ満席だった。ユウゴとタケルはいつも通り、一番後ろの席を陣取る。ユウゴはいい加減な姿勢で椅子に体を預け、腕と足を組んだ。一方のタケルは背筋を伸ばし、ブレザーを肩に掛けたまま、まるで今から極上のショーが始まるのを待つ観客のように微笑んでいた。

扉が開き、ユリウス・カエサルが入ってきた。

年齢は三十代前半といったところ。日焼けした肌に、黒髪を一つにまとめて肩に垂らしている。ひと目でそれとわかる真紅の瞳――人間のものではないかのような、強烈な輝きを放っていた。浮かべている笑みには、遊び心と底知れないカリスマ性が同居している。教授用のラフなスーツ姿のまま、両手をポケットに突っ込み、気だるげでありながらも自然な威圧感を漂わせていた。

ユリウスは黒板の前に立ち、教室全体を見渡してフッと笑った。

「――おはよう」

気だるげな合唱のような返事が教室に返ってきた。

彼は気にすることなく、手をポケットに入れたまま、机の列の間をゆっくりと歩き出した。

「さて、第二学期を始めようか……」

落ち着いた、だが教室の隅々まで響く声で彼は語りかける。

「君たちがこの学部を選んだのには、それぞれの理由があるはずだ。『なんとなく』とか『他に行くとこがなかったから』じゃない。君たちは、心の底で何かを証明したいからここにいる。自分自身に、社会に、あるいはすでにこの世にいない誰かに――理由はなんだっていい」

彼は教室の真ん中で足を止めた。

「今年、そしてこれからの大学生活で、君たちはいくつもの壁にぶち当たる。敗北も、勝利も、不条理な同盟も、そしてもっと不条理な裏切りも経験するだろう。すべては経験だ。なにせ、君たちが選んだ道なのだから」

何人かの学生が小さく笑った。別の者たちは真剣な顔つきになった。

ユリウスは両手を広げた。ステンドグラスを通した朝の光が、まるで即席の光輪のように彼の背中を照らし出している。

「言い換えれば……今年学ぶのは、ただ強くなることや知識を詰め込むことじゃない。自分の才能が、極限の壁に直面したとき、どこまで通用するのかを見極めることだ」

彼の笑みは微動だにしなかった。

「なぜなら、結局のところ――」

声を少し落とし、しかし重みを増して彼は言った。

「世界はいつだって、本当に『持っている』者たちのものだからだ」

一瞬、教室が重苦しい静寂に包まれた。誰も身じろぎしない。

次の瞬間、ユリウスはパンと手を叩き、その雰囲気を鮮やかに打ち破った。

「詩的な能書きはここまでだ。本題に入ろう」

彼は壇上に戻り、流れるような美しい文字で次々と名前を黒板に書き連ねていく。

――レオナルド・ダ・ヴィンチ。宮本武蔵。マリー・キュリー。ニコラ・テスラ。エイダ・ラヴレス。武田信玄。アレクサンドロス……。

各分野の天才たちの名前が、まるで彼自身の脳内に完璧にインプットされているかのように、何十人分も書き記されていく。芸術家、数学者、武人……。

その一言一言を発する彼の声には、まるで神仏に対するかのような畏敬の念が込められていた。

「才能だ。空虚な努力でもなければ、運でもない。才能だ。誰もが同じ世界を見ている中で、自分だけにしか見えない何かを見出すこと。あるいは、誰も成し遂げられないことを、その両手で具現化すること。それこそが歴史を動かしてきた。私めが、君たち一人ひとりに求めているものもそれだ」

彼は再び生徒たちに向き直り、その真紅の瞳をギラつかせた。

「君たち全員が、自分のリミットの『百十パーセント』を引き出している姿が見たいね。百じゃない、百十だ。この世界に必要なのは凡人じゃない。凡庸さがすべてを泥沼に引きずり込もうとしたとき、残りのすべてを背負って立ち上がれる人間だ」

ユリウスはさらに深く、不敵な笑みを浮かべた。

「もし、自分には才能などないと思い込んでいる奴がいるなら……今年の君たちの仕事は、私の見立てが間違っていたと証明することだ。あるいは、正しかったと証明してもいい。どちらでも構わない。ただ、立ち止まることだけは許さない」

彼は黒板を指の関節で軽く叩いた。

「さあ、教科書の四十七ページを開け。たった一人の男が抱いた馬鹿げた理想が、いかにして三百年のヨーロッパの地図を塗り替えたのか、その話をしようか」

教室の一番後ろの席で、ユウゴは腕を組んだまま座っていた。灰色の目が細められているが、その視線はしっかりと黒板に向けられている――本人が認めたくないほどには。

(ユリウス・カエサル……こいつが俺たちの歴史学の教授か。この巨大な大学で『人間開発学』なんて学科を選んだのは……将来は投資家か、それとも警察官か……まだはっきりとは決めていないが、いつだって正義のために戦いたいとは思ってきた。このおっさんの演説は、なぜか妙に……胸に響きやがる)

タケルが少しだけ身を乗り出し、悪戯っぽく笑ったまま耳打ちした。

「おい、この教授、まるでアニメの主人公みたいなセリフ吐くよな」

ユウゴは答えなかった。ただ、鼻から息を抜いた拍子に、頭頂部の頑固なアホゲがぴくりと揺れただけだった。

窓の外では、太陽がなおも昇り続けている。

――夜が訪れるには、まだ少し時間があった。

ユウゴとタケルは、他の生徒たちとなだれ込むようにして歴史学の講義室をあとにした。廊下は再び喧騒を取り戻している。雑談、歓声、肩に担ぎ直されるリュックサックの摩擦音。

食堂へと向かう道中、二人はあまり言葉を交わさなかった。その必要もなかったからだ。同じ大学に通い始めて一年近くが経ち、二人の間に流れる沈黙は心地よいものになっていた。

学園の食堂は、昼時を利用する生徒の数を考えても無駄に広すぎた。高い天井、ダークウッドの梁、長いオーク材のテーブル、そして斜めの黄金色の光を差し込む高窓。そこにある全てが、本校舎と同じ古風で庄厳な雰囲気を纏っている。数世紀の歴史を誇る古い建造物は、現代においてもなお歴史の砦として鎮座していた。

ユウゴはご飯、グリルドチキン、サラダというシンプルな定食を選んだ。タケルは相変わらず凝ったメニューをトレイに並べた挙句、今日のデザートが「微妙だ」と文句を言っている。ユリウスの講義や、あの教授が「カリスマと傲慢の境界線で綱渡りをしている」ことについてくだらない軽口を叩き合いながら、二人は比較的静かに昼食を済ませた。

食べ終えると、タケルが真っ先に立ち上がり、肩のブレザーを整えた。

「行こうぜ。遅刻したら、会長に実験台にされる」

ユウゴは無言でうなずき、その後に続いた。

『スピリット・オブ・レジェンド大学』は、決してありふれた大学ではなかった。数百年前に創立された本校舎群は、かつてのヨーロッパの伝統的な大学を模して意図的に建築されている。白い石造りの長い廊下、尖頭アーチ、騎士や学者たちの歴史を紡ぐステンドグラス、そして噴水と年季の入った木製ベンチが置かれた中庭。空気には常に古書と雨、そして刈り取られた芝生の匂いが仄かに漂っていた。

学園の象徴である「前足を持ち上げた金色のペガサス」は、至る所に刻まれている。掲揚台でたなびく旗、絨毯、制服のバックル、果ては中庭のマンホールの蓋にまで。創立者たちはこのペガサスに、スピード、飛翔、そして洗練されたある種の「気高き傲慢さ」を込めようとしたのだ。

部活棟は少し離れた区画にあり、本校舎とは屋根付きの石造りの廊下で繋がっていた。中心部から離れれば離れるほど、周囲は静けさを増していく。生徒たちの喧騒は遠ざかり、代わりに自分たちの足音が静かに響き渡る。

オカルト研究会の部室は、二階の狭い廊下の突き当たりにあった。重厚なダークウッドの扉には、中央に金色のペガサスが彫り込まれており、そのすぐ下には古びた金属プレートが掲げられている。

『オカルト研究会』

タケルはノックもせずに扉を押し開けた。

部屋の中は、誰も真面目に取り組んでいない部活にふさわしい光景であり……同時に、どこか異質でもあった。

天井が高く、裸の木製梁がむき出しになった広々とした室内の壁一面には高い本棚が並び、古い書籍や偽の魔導書、インテリアの髑髏、溶けたロウソク、そしてショッピングモールの怪しい雑貨屋で買ってきたような怪しい品々で溢れ返っていた。隅には使い込まれた大きなソファ、中央には紙くずと放置されたコーヒーカップで埋まるローテーブル、そして木製フローリングを覆う深い赤色の絨毯。

照明は主にアンティークのスタンドライトと、斜めの夕光を投げかける高い一ツ窓から採られていた。ホコリと木蝋、そしてかすかな甘い香水の匂い。部屋の天井には普通の蛍光灯が設置されているのだが、これは単に部長の個人的な「雰囲気づくり」のこだわりだった。

そして部屋の中央、胸の前で腕を組み、仁王立ちしていたのがフリードリヒ・リヒター(Frederica Richter)――いや、フレデリカだった。

彼女は二人と同い年の十八歳。肩から背中へと豊かにこぼれ落ちる、鮮やかな縦ロールの金髪。透き通るような白い肌に、周囲の価値を品定めするかのように常に細められた深い闇色の瞳。

そして、その制服……これを制服と呼んでいいものか迷う代物だった。

スピリット・オブ・レジェンド大学では、一定の範囲内での制服のカスタマイズが許可されている。金色のペガサスのエンブレムが視認でき、基調となる colors が守られていれば、アレンジは自由だ。フレデリカはその自由を極限まで行使していた。彼女が身に纏っているのは、フリルとリボン、そして動くたびに衣擦れの音を立てる布地の重なりが特徴的な、黒と白のゴシックロリータドレス。大きな胸元のリボンのすぐ上に、ペガサスのエンブレムが丁寧に刺繍されている。手には黒のショートグローブ、足元にはバックル付きのローヒール。

まるで、不気味なチェス盤からそのまま飛び出してきたかのような姿だった。

彼女の隣、ソファに全身の力を抜いて深々と腰掛けていたのが、マキシミリアン・シルヴァ(Maximilian Silva)だ。

長すぎず短すぎない、中途半端な長さの茶髪。至って平凡な顔立ち。ブレザーのボタンを半分だけ留め、シャツをきっちりインした標準的な学園の制服。彼には際立った特徴が何一つなかった。廊んですれ違っても、五分後にはその顔を忘れてしまうだろう。今も彼はソファの背もたれに腕を広げ、まるで世界の命運など他人事だと言わんばかりに天井を見上げていた。

二人が入ってきた瞬間、フレデリカは顔を向けた。その鋭い視線が彼らを射抜く。

「遅いわよ、二人とも」

タケルは大げさに両手を挙げて降参のポーズをとった。

「ほんのちょっとだろ。ユウゴのやつが話し込んじゃってさ……」

「……お前と話してたんだろ!」ユウゴは背後の扉を閉めながら毒づいた。

フレデリカは鼻を鳴らし、さらに強く腕を組んだ。ドレスの生地が擦れるかすかな音が響く。

「どうでもいいわ。鍵をかけて。今日は誰の邪魔も入れさせないから」

タケルは言われた通り、内側にある古風な鍵を回した。カチリという金属音が部屋に響く。

マキシミリアンは体勢を正そうともせず、天井を見つめたまま言った。

「お前ら二人も、今日のこのおままごとに付き合うのか? 俺はてっきり、ここは寝たり人生の愚痴を言ったりする場所だと思ってたんだけど」

フレデリカは髪の縦ロールを揺らし、疾風のような勢いで振り返った。

「何度も言わせないで、マキシミリアン! この部活で真面目にやってるのは私だけじゃない! あなたたち三人ときたら、ここはサボって寝たりスマホゲームをやるための口実にしてるだけじゃない!」

「スマホゲームはやってねぇよ」タケルは一人用のソファに深く腰掛けながら抗議した。「俺が読んでるのはマンガだ。立派な文化だろ」

「都合のいい言い換えをしたただのサボりよ」フレデリカは即座に言い返した。

ユウゴはドアの近くの壁に背をもたれかけ、両手をポケット突っ込んだ。

「俺たちはこうしてここに居る。他の大半の部活よりはマシだろ」

フレデリカは必要以上に長くユウゴを見つめたあと、言い返せないことに苛立ったようにぷいっと顔を背けた。

「今日は違うわ」フレデリカは声を少し落としたが、その語気には変わらぬ鋭さがあった。「特別なアイテムを手に入れたのよ。ついにね。何週間も探し回って……」

彼女は部屋の中央から離れ、本棚の上に置かれていた木箱を開けた。中から取り出したのは、古びた聖杯(カリス)だった。金でも銀でもない。縁に繊細なルーン文字が刻まれた、黒に近い不気味な暗黒 metal 製。その物体は周囲の空気すら重く狂わせるような、奇妙な存在感を放っていた。

タケルが eyebrows をひそめる。

「それ……モールの中にある怪しい雑貨屋で買ったようには見えないな」

「当たり前でしょ」フレデリカは彼を見ようともせずに答えた。「どこで手に入れたかは聞かないで……ただ、今日……今日なら本当に成功するかもしれないわ」

マキシミリアンがようやく動き、聖杯の方へ首を傾けた。

「今度はマジ言ってるのか?」

「私はいつだって本気よ。話を聞いていないのはあなたたちでしょ」

短い沈黙が流れた。ユウゴ、タケル、マキシミリアンは視線を交わし合う。誰一人として、本当に何かが起きるとは思っていなかった。しかし、フレデリカの頑固さにはどこか人を巻き込む鬱陶しい熱量があった。そして何より、三人の心の奥底にある好奇心が、それを拒絶することを許さなかった。

「分かったよ」タケルが立ち上がった。「やる気が失せる前にさっさとやろうぜ」

フレデリカは叫ばずに議論に勝てたことに満足したように、深くうなずいた。

「絨毯をどけて」

三人は指示に従った。重い赤い絨毯を部屋の隅へ引きずっていくと、粉塵が舞い上がった。下から現れたのは、長年の使用で傷ついた古い木製フローリングだった。

フレデリカは中央にひざまずき、白いチョークで陣を描き始めた。その陣は複雑を極めていた。単なる円ではない。内側には小さな象徴が配置され、交差する line、三角形、そして誰も解読できないであろう文字が刻まれていく。ユウゴは無言でその作業を見つめ、彼女の手がまったく震えていないことに気づいた。彼女はこの儀式を脳内で何十回、何百回と予行演習してきたのだ。

陣が完成すると、彼女はその真中央にあの聖杯を静かに置いた。

「ロウソクに火を」

魔法陣の周囲には十二本の黒いロウソクが配置されていた。タケルとマキシミリアンが一本ずつ火を点けていく。窓からはまだ夕光が差し込んでいたが、ゆらめくロウソクの炎は本棚に怪しい影を落とし、異様なコントラストを作り出した。

フレデリカは再びひざまずくと、一冊の古いノートを開き、低い声で詠唱を始めた。発せられる言葉はラテン語だ。読み込みによって暗記しているようだったが、残りの三人にとっては不気味な呪文にしか聞こえなかった。

秒針が重く刻まれる。

――何も起きない。

空気は変わらず、ロウソクは穏やかに燃え続け、聖杯は物言わぬままだ。

フレデリカは眉をひそめたが、詠唱を止めなかった。その声にわずかな焦りが混じり始める。

さらに数秒が経過した。

やはり、何も起きない。

ユウゴは胸の奥に、聞き慣れた落胆の重みが降りてくるのを感じた。タケルはすでに「ほらな」と言いたげな顔をしており、マキシミリアンはあくびを噛み殺している。

フレデリカの声が止まった。膝の上で固く握りしめられた彼女の手。噛み締められた奥歯。精巧に作られたゴスロリドレスの中で、一瞬だけ彼女が小さく儚い存在に見えた。

「……確かに、完璧だったはずなのに……」彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。

――その瞬間、床が跳ねた。

地震ではない。もっと局所的で、もっと深い場所からの衝撃。まるで木製フローリングの下で、何かが蠢いたかのような。

チョークで描かれた陣が発光した。

最初はラインをなぞる細い青白い光に過ぎなかった。しかし光は瞬く間に強まり、独自の鼓動を打つかのように明滅し始めた。部屋の中の空気は濃密かつ重苦しくなり、息が詰まる。ロウソクの炎が異様なほど高く引き伸ばされ、室温が急激に底をついた。

「な、なんだ……!?」タケルが声を上げる。

中央の聖杯が激しく振動を始めた。

黒い金属の表面にヒビが入る。その亀裂から濃密な黒煙が立ち上り、意志を持っているかのように空中でとぐろを巻いた。陣の輝きは増し、目を開けていられないほどの光量を放つ。

そして――触手が溢れ出した。

肉のものではない。影と歪んだ光によって構成された半透明の触手が、陣と同じ青白い光を放ちながら蠢いていた。木目の床をまるで水面であるかのように突き破り、多方向に伸びていく。

そのうちの一本が、他のどれよりも速く動いた。

ユウゴが反応する余裕はなかった。空間を置き去りにした触手が、彼の胸を正面から穿つ。物理的な衝撃ではない。侵入だ。冷たく古びた何かが皮膚を通り抜け、骨の髄まで広がっていくような感覚。

同時に、別の触手がフレデリカの肩を貫いた。彼女は驚愕と pain が混ざり合った短い悲鳴を上げる。

光が弾けた。

魔法陣が光の破片となって崩壊していく。閉じ込められていたエネルギーが一気に溢れ出し、決壊したダムのように押し寄せた。空気が咆哮を上げる。本棚の書物が激しく揺れ、すべてのロウソクが一瞬で吹き消された。

そして――部屋にいた全員の意識が途絶えた。

◇

学園の別の場所、教員棟にある静かな一室。

授業を終えたユリウス・カエサルは、椅子に深く腰掛けながら大きく背伸びをしていた。両手を頭の上に掲げ、ポニーテールを肩に垂らし、真紅の瞳を眠たげに細めている。

突然、彼の動きが止まった。

ゆっくりと腕が下りる。細められていた目が完全に開かれた。

一瞬だけ、いつもの笑みが彼の顔から消え去った。

空気の中の「何か」が変わった。

この場所には、この時間には、そしてこの規模では存在するはずのない「何か」が。

ユリウスは首を少しだけ傾げた。遠くでかすかに響く音を聞き逃さないように集中するかのように。

「……面白い」

彼はひとりごちた。

そして、再び笑みが戻った. しかし今度の笑みは、先ほどまでのものとは明らかに質が異なっていた。

◇

オカルト研究会の部室には、床に倒れ伏す四人の意識のない身体だけが残されていた。

チョークの陣は跡形もなく消え去り、黒い聖杯も消失していた。肌の毛羽立つような残留エネルギーだけが、重く部屋を満たしている。

彼らが呼び呼び寄せようとした存在は、もはやそこにはいなかった。

気絶した彼らを置き去りにしたまま、漂う空気だけが問うていた――果たしてこの儀式は、「成功」したのか、それとも「失敗」したのか?

最初にユウゴを襲ったのは、圧倒的な「闇」の感覚だった。

次いで、激痛。

痛みが……。

胸の中央から脈打つように広がる、鈍く重い痛み。まるで焼き切れた鉄の塊を直接皮膚の下へ押し込まれ、そのまま放置されているかのようだった。彼は重いまぶたを苦労して押し開ける。部室の天井が、いつもより低く、重苦しく感じられた。窓から差し込んでいた夕光は疾くに消え去り、キャンパスの街灯が投げかける、夜の冷たく青白い光が室内を満たしている。

「くそっ……」

声はかすれ、掠れていた。彼は身を起こそうとあがき、反射的に右手を胸元へやった。シャツは胸のあたりがズタズタに引き裂かれており、その下の皮膚が灼熱のような熱を帯びている。生地を引っぱって開くと、そこにあったのは――

漆黒の刻印。

ただの火傷ではなかった。まるで焼き付いた根が幾重にも絡み合い、触手が貫いた点を中心に広がっていく、黒い傷痕の刺青のようだった。周囲の皮膚は赤く腫れ上がり、触れると焦げるように熱い。

部屋の反対側から、低い呻き声が漏れた。

フレデリカが本棚に背を預け、床に座り込んでいた。ドレスの左肩が破れ落ち、同じ漆黒の刻印が彼女の白い肌を侵食している. 彼女の目は開かれていたが、焦点は定まっておらず、目の前の現実を理解しようと必死に足掻いているようだった。

「……成功、したのよ」

ユウgoが出会って以来、初めて耳にする、震える声だった。

「本当に……成功したんだわ……」

タケルはローテーブルの脇で膝をつき、顔を手で覆っていた。マキシミリアンは横たわったまま、世界がなぜこれほど面倒なことになったのか理解できないといった表情で天井を見つめている。

「……今、何時だ?」タケルが低く掠れた声で尋ねた。

ユウゴはポケットからスマホを取り出した。画面が光を放つ。

――23:17。

「嘘だろ……俺たち、五時間近くも気絶してたのかよ!?」タケルが叫んだ。

その後に訪れた沈黙は重苦しかった。誰も口を開こうとしない。室内には今なお、焦げたゴムのような不快な臭いが漂っていた。

「ずっと倒れてたってのに……誰も探しに来なかったな」マキシミリアンが呟いた。

「内側から鍵をかけておいたからよ」フレデリカが自分の刻印を見つめたまま答えた. 彼女の指先は、恐怖と魅惑が入り混じった複雑な感情で、黒ずんだ皮膚にそっと触れていた。「私……本当に成功するなんて思ってなかった……ううん、そう望んではいたけれど……こんな……」

ユウゴはふらつく足取りで立ち上がった. 膝がガクガクと震え、微熱が首筋を上っていくのを感じる。

「ここを出るぞ」彼は言った。「今すぐだ。こんな姿、誰かに見られるわけにはいかない」

全員が無言でうなずいた。

一行は慎重に一人ずつ部室を後にし、背後の鍵を確実に施錠した。廊下には人影ひとつない。夜の学園は昼間とは打って変わり、どこか荘厳ですらある静寂に包まれている. 街灯の光が石畳の小道の上に長い影を落としていた。

ユウゴとタケルは並んで男子寮へと向かった. 二人の部屋は居住棟の二階にあり、二台のベッドと学習机、そして中庭を見下ろす窓があるだけの狭い空間だ。

部屋に入るなり、タケルは鍵を閉めた。

「お前、大丈夫か?」ユウgoの胸元を気にしながら尋ねる。

「平気なわけないだろ。だが、今さらどうしようもない」

「医務室に行くか?」

「……保健医になんて説明するんだよ. 寝て、熱が下がるのを祈る方がマシだ」

ユウゴは靴も脱がずにベッドへ倒れ込んだ. 微熱はすでに高くなりつつあり、全身が痛み、胸の刻印が心拍に合わせてドクドクと脈打っていた. 彼は目を閉じ、数分も経たないうちに意識を失うように眠りについた。

タケルはしばらくの間、友人の様子を見つめていたが, やがて自分のベッドに横たわった. 服を着たままで。

二人とも、まともに眠ることはできなかった。

◇

翌朝は、タケルがユウゴの肩を必要 visivelmente 以上に強く揺さぶることから narrow 始まった。

「起きろって. 死体みたいな顔してるぞ」

ユウゴは目を開けた. 熱は少し下がっていたが、胸の痛みは引いていない. 漆黒の刻印は、シャツの下で確実にそこに存在していた。

二人は身支度を整えた. 制服、ブレザー、いつもの機械的なルーティン. しかし、二人の間に流れる空気は重く沈んでいた. 寮の廊下を進みながら、タケルが声を潜める。

「俺たち、昨日マジでやばいことしちゃったんじゃねぇか……?」

「……みたいだな」

「で、どうするんだ? 何もなかった顔してスルーか?」

「知るかよ……」

居住棟の外へ出ると、遠くからサイレンの音が響いてきた。

普段なら静かなはずの早朝のキャンパスが、部分的に封鎖されていた. 校舎にほど近いサイドガーデンの植え込み付近に黄色い規制線テープが張り巡らされ、生徒たちが安全な距離を保ちながら人垣を作り、ひそひそと囁き合っている。

ユウゴとタケルは、状況を確認するために近づいた.

芝生の上に、一人の女性が倒れていた. 教員の制服. 乱れた黒髪. そして――彼女の目は、完全に真っ白に染まっていた。

虹彩も、瞳孔もない. ただの、純白.

二人がさらに近づこうとする前に、黒いスーツを着た一人の男が歩み寄ってきた.

一見すると、どこにでもいる冴えない男に見えた. 無造作に伸びた短めの茶髪、襟足から跳ねた数本の毛束. 連日の勤務に疲れ切った顔立ち、剃り残しの髭、記憶に残らないほど平坦な顔立ち. 褐色がかった瞳には退屈しきった色が宿り、まるで世界全体が途方もない面倒くささに満ちていると言いたげだった. シワの寄った黒いスーツに、くしゃくしゃの白シャツ, ネクタイはゆるみ、首元で曲がっている. 落とされた肩、ポケットに突っ込まれた両手――そこにいること自体を拒絶しているかのような立ち姿。

男は気まずそうに首筋を掻きながら、口を開いた。

「君たち、生徒さんだよね?」声は気さくで、どこか親みやすかった。「あまり近づかない方がいいよ. 学生さんに見せるような光景じゃないからね」

タケルとユウゴは固唾をのんだ。

「……何があったんですか?」

男――スーツのポケットから下がったIDカードには『ジョン・ブッチャー(John Butcher)』と記されていた――はチラリと遺体に目をやり、再び二人へと視線を戻した. ほんの一瞬、その瞳の奥にあった退屈の色がひび割れ、奇妙で、どこか楽しげな光が覗いた気がした。

「どこかの学科の先生だよ. 今朝早くに見つかってね……目が真っ白だ. まるで魂をごっそり抜き取られたみたいにさ. こんなの僕も見たことがないよ. 解剖はこれからだが、遺体の状態が……あまりにも不気味すぎてね」

彼は緩んだネクタイを不器用に整えた。

「君たち、昨日の夜に何か怪しいものを見なかったかい? 誰かが歩いてたとか、妙な音がしたとか……何でもいいんだが」

ユウゴは表情を変えずに答えた。

「いいえ、何も. 僕たちは早く寝たので」

「俺もです」タケルが素早く付け加えた。

ジョン・ブッチャーは二人をもう一秒だけじっと見つめた. 口元に浮かんだ笑みは、丁寧で礼儀正しいものだった。

「そうか. なら授業へ行った方がいい. 汚い仕事は僕たちに任せてさ」

彼は両手を再びポケットに突っ込み、だるそうな posture に戻ると歩き去った. その途中、ユウゴのポケットの中でスマホが震えた. オカルト研究会のグループ通知だ。

フレデリカ:

『今すぐ部室へ来なさい. 授業には行かないで』

ユウゴは画面をタケルに見せた. 二人は視線を交わし、何も言わずに足翻して部室へと向かった。

到着すると、すでにフレデリカとマキシミリアンが待っていた. 扉は再び強固に施錠された. 漆黒の刻印は今もそこにあった――ユウgoがシャツをめくった胸元に、そしてフレデリカのドレスの生地に隠された肩の上に。

誰もまともに座ろうとしなかった.

「あの女性……」フレデリカが直球で切り出した。「見たわね」

「ああ」タケルが答える。「目が真っ白だった. 警察官が、魂を吸い取られたみたいだって言ってたぞ」

マキシミリアンは普段になく真剣な nitid 顔つきをしており、それが余計に事態の深刻さを物語っていた。

「俺たち、昨日『何か』を解き放っちまったんだ. あの……存在を. そして今、キャンパス内で同じ状態の死体が見つかった」

ユウゴは腕を組み、服の下で刻印がうずくのを感じていた。

「昨日儀式を行ったのは俺たちだけだ. マジで魔法が存在するって知ってるのも、俺たちしかいない」

重苦しい沈黙が落ちた.

フレデリカは自分の腕を強く抱きしめ、視線を床に落とした。

「……じゃあ、やっぱり……私たちが犯人なのね」

誰も否定しなかった. それが真実であることを恐れるように。

屋外では、いまもサイレンの音が学園に空しく響き渡っていた.

そして中庭では――ジョン・ブッチャーが、あの疲れた笑みを浮かべたままで教員の遺体を見つめていた. 彼は規制線テープの外へ出ると、一本のタバコに火をつけた。

「――やれやれ、ようやく退屈しのぎができそうだ」

その日の残りの時間は、あっという間に過ぎ去った。

朝の緊急ミーティングの後、ユウゴ、タケル、フレデリカ、マキシミリアンの四人はあまり言葉を交わさなかった。目に見えない重圧を肩に背負ったまま、各自がそれぞれの日常へと戻っていく。講義は滞りなく行われ、廊下には賑やかな声が響き渡り、夕暮れの光が何事もなかったかのように学園のステンドグラスを通り抜けて斜めに差し込んでいた。

だが、胸の騒ぎが消えることはなかった。

ユウgoは一日の大半を、無意識のうちに胸元を手で押さえたまま過ごしていた。服の下で漆黒の刻印が脈打っているのを感じる。痛みこそ和らいでいたが、その存在感は常にそこにあった。まるで何かを警告する足音のように。

夜、男子寮の自室でベッドに仰向けになり、スマホの画面を見つめていた時だった。バイブレーションが小さく震え、ローカルニュースの速報通知が届く。将来卒業した時に備え、こうした情報に慣れておこうと設定しておいた通知機能だった。

【第二の犠牲者発見。警察、同一犯による連続事件の agora 視野に捜査】

ユウゴは体を起こした。暗闇の中で画面の光が彼の顔を照らし出す。記事は短かったが、内容は残酷なほど明瞭だった。二人目の victim も女性。キャンパスから数キロ離れたアパートで発見。目が完全に真っ白な状態。争った形跡はなし。

そして記事の後半には、第一の犠牲者である本学園の女性教授の司法解剖結果(中間報告)が記されていた。

『被害者は死亡直前、脳活動の完全な停止および全感覚機能の消失状態にあったとみられる。死因については現在も捜査中』

彼はその一文を二度読み返した。

全感覚の消失――。

隣のベッドにいたタケルが、画面の明かりと気配に気づいて寝返りを打った。

「……どうした?」

ユウgoは何も言わずスマホを差し出した。タケルは無言で画面を目で追う。その顔が、徐々に強ばっていった。

「嘘だろ……」

「明日、もう一度集まろう」ユウゴは低い声で言った。「授業の後だ。18時、オカルト研の部室で」

タケルはスマホを返し、そのまま天井を見つめた。

「……分かった」

その夜、二人ともまともに眠ることはできなかった。

◇

翌日、講義の時間は苦痛なほど長く感じられた。

18時ちょうど、四人は再びオカルト研究会の部室に鍵をかけて閉じこもっていた。照明はアンティークのスタンドライトのみ。余計な疑いを招かないよう、フレデリカによって赤い絨毯は元通りの位置に敷き直され、チョークの魔法陣も綺麗に拭き取られていた。

ユウゴは開口一番、本題に入った。

「二人目の被害者が出た。昨日の夜だ。また女性で、目が真っ白……全く同じ状況だ」

ローテーブルの端に腰掛け、腕を組んでいたフレデリカが眉をひそめた。刻印のある肩に、縦ロールの金髪がこぼれ落ちている。

「私も解剖のニュースを見たわ。亡くなる前にすべての感覚を失っていたなんて……異常よ。普通の殺人鬼の手口じゃない」

「そして俺たちは二日前、何かを解き放っちまった」ソファに深く腰掛けたマキシミリアンが、いつもより低い声で付け加えた。「点と点を繋ぐのに天才的な頭脳なんていらないだろ」

数秒間、重苦しい静寂が部屋を支配した。

フレデリカは突然ユウゴを指差し、目を鋭くした。

「あなた……昨日から何か『違う』感じがしない? 痛み以外で……ううん、いいわ。とにかく私がやる通りにしなさい!」

彼女は指先で不思議なサインを描いてみせた。

ユウゴは一瞬躊躇したが、右手を前へと差し出し、手のひらを上に向けた。

自分でも何をしようとしているのか正確には分かっていなかった。ただ、胸の刻印から湧き上がる感覚と、フレデリカの指示に従っただけだ。指先をかすかに動かすと、手の上にかすかな円が描かれた。

――光が生まれた。

小さく、眩い光。コインほどの大きさのそれが、彼の掌のすぐ上に浮遊し、冷たい炎のようにゆらゆらと揺らめいている。

四人は息を呑み、完全な静寂が訪れた。

次にフレデリカが試みた。集中した no 固い facial expression で gesto を作ると、彼女の手の上にも同様の光が現れた――ユウゴのものより少し不安定だったが、間違いなく本物の光だった。

「ほら見なさい! 私、昨日うっかりこれを出せたのよ! 魔法よ……本当に魔法なのよ!」

タケルは目を丸くして自分も試してみたが、何も起きなかった。

マキシミリアンも試みたが、やはり何も起こらない。

「刻印(これ)ね……」フレデリカは自身の手の上の光を見つめながら呟いた。「今のところは……私たち二人だけみたい」

ユウゴが手を握り締めると、円が消え、光は瞬時にかき消えた。

その瞬間だけは、罪悪感も恐怖も霧散していた。代わりに彼らの心を満たしたのは、純粋な「好奇心」だった。彼らはまだ do young 18歳だ。そして今、魔法が実在すること、そして自分たちがそれを扱えるという事実に直面したのだ。

そこからの数十分間は、まるで夢のような時間だった。

ユウゴとフレデリカは何度も光を作り出す実験を重ねた。動かしてみたり、大きさを変えてみたり、点滅させてみたり。タケルとマキシミリアンは嫉妬と魅惑が入り混じった目でそれを見つめ、次々と質問を浴びせかけた. ほんの短い間だけ、彼らは古い本に囲まれた部室で不可思議 de impossivel な力で遊ぶ、ただの四人の高校生/大学生に戻っていた。

――現実に引き戻されるまでは。

彼らは夜遅くまで自分たちの可能性を確かめ合った。

◇

翌日、歴史学の講義の真っ最中だった。

ユウゴのポケットの中でスマホが震えた。彼はこっそり取り出し、ニュース画面に目を落とす。

壇上でユリウス教授が「個人の決断がいかに歴史の針を動かしてきたか」について熱弁を振るっていたまさにその時、ユウゴの異変に気づいた。

スマホの画面に躍る文字――

【第三の被害者発見。警察、同一犯によるシリアルキラーと断定。警戒を呼びかけ】

記事には現場のぼやけた写真と、メディアが早くも使い始めた恐ろしい異名が掲載されていた。

『ゴースト(亡霊)』

これまでの被害者はすべて女性。全員が目が真っ白で、死亡前に植物状態に陥っていた。そして今回の遺体発見現場は――地元の不良グループの縄張り内だった。

ユウゴがニュースに没頭しすぎていたため、その視線に気づくのが遅れた。

「――ツルギ・ユウゴ」

ユリウスの声が、刃物のように教室の空気を切り裂いた。

ユウゴは弾かれたように顔を上げた。八十人以上もの生徒がひしめく大講義室の中で、教授は真っ直ぐに自分を見つめていた。その真紅の瞳に怒りはない。ただ……恐ろしいほど鋭く「観察」されていた。

「私の講義よりも、外の世界で起きていることの方が興味深いようだね。差し支えなければ、クラス全員に共有してくれないか?」

周囲の生徒からクスクスと小さな笑い声が漏れた。

ユウゴは顔が熱くなるのを感じた。

「い、いえ……すみません。失礼しました」

ユリウスはもう一秒だけ彼をじっと見つめた後、あの独特の笑みを浮かべて再び黒板へと向き直った。

「気にしなくていい。集中しろ、諸君。君たちが講義を受けた後も、外の世界は変わらず存在し続けるのだからね」

ユウゴはスマホをポケットに押し込み、無理やり意識を講義に戻した。しかし動揺は消えなかった。これだけの大人数の中で、なぜ自分の一瞬の隙を見抜かれたのだろうか?

◇

18時、オカルト研究会の部室は再び施錠されていた。

部屋の中央に立つフレデリカのゴスロリドレスが、スタンドライトの低い光の中に浮かび上がっていた。

「三人目の遺体は、ギャングの縄張りで見つかったわ。私たちがこのまま指をくわえて見ていたら、四人目、五人目の犠牲者が出る。警察は自分たちが何と戦っているのかさえ分かっていないのよ」

彼女はユウゴを真っ直ぐに見つめた。

「私、現場を見に行きたいの」

タケルが目を剥いた。

「正気かよ!? 俺たちはただの学生だぞ、探偵じゃない! それに今度は本物のギャングまで絡んでるんだ!」

「お前、魔法を手に入れたからって自分をスタンド使いか何かと勘違いしてんじゃないのか!? 警察に任せときゃいいんだよ! 首突っ込んだら死ぬぞ!」

「私……『違って』感じるのよ」フレデリカは肩の刻印にそっと手を触れた。「強くなってる……魔法が現れてから。上手く説明できないけれど」

ユウゴもうなずいた。

「俺もだ。刻印はもう前みたいに痛まない。まるで……目覚めたみたいだ。俺も行くよ、フレデリカ」

ソファに座っていたマキシミリアンは、両手で顔を覆った。

「お前らバカだ。救いようのないドバカだぞ。ヤバいことになっても、俺は『警告したからな』って突っぱねるからな」

「あんたに頼んでなんかいないわよ、このモブキャラ!」フレデリカは即座に言い返し、すでに扉の方へと Dando as costas になっていた。

タケルはまだ葛藤している様子だったが, やがて大きなため息をついた。

「ハァ……分かったよ。お前ら、殺人鬼を追う調査チーム気取りってわけか? 吉良吉影でも追うみたいにさ」

「そうよ!」フレデリカが胸を張る。

「……たくッ、付き合ってやるよ。この魔法とやらが成長したら、一体何ができるようになるのか見ものだしな!」

四人は作戦を話し合い、やがて解散した。

◇

その夜遅く、学園の大部分が眠りについた頃、二つの影が『スピリット・オブ・レジェンド大学』の最も警備の gaze が do obscure な脇出口からこっそりと抜け出した。

ユウゴの手には、剣道場から「借用」してきた一本の木刀が握られていた。手に馴染むしっくりとした weighted feel。隣を歩くフレデリカは、部室で古い木箱を開けるのに使っていた錆びたバールを握りしめている。

夜の街は、昼間 por que em relação ao dia, より広く、そして敵意に満ちているように見えた。

二人は歩きながら、ほとんど trip to speech 言葉を交わさなかった。

ユウゴの胸の刻印は、昼間とは違うリズムでドクドクと脈打っていた。まるで、これから訪れる「何か」を予感して歓喜しているかのように。

そして、その先の暗闇の中で――ギャング『雷撃』の縄張りが彼らを待ち受けていた。

二人はほとんど足音を立てずに現地へと到着した。そこは古いレンガ造りの低層ビルと落書きだらけの塀に囲まれた、狭く薄暗い路地だった。警察の黄色い規制線テープがところどころに残っていたが、遺体がすでに搬出されたためか、一部はすでに引きちぎられている。時刻は夜の22時20分を回っていた。

ユウゴは数メートル手前で足を止めた。右手は木刀の柄を固く握りしめている。隣に立つフレデリカは、バールを肩に担ぐように構えていた。

「使って」彼女が耳元でささやいた。

何を使うべきか、ユウgoが尋ねるまでもなかった。二人は一瞬だけ目を閉じ、胸の刻印から溢れ出す感覚を強く引き寄せた。魔力はまるで皮膚の下を駆け巡る第二の血液のように脈打ち、応えてくれた。周囲の visual と音覚が、一気に鮮明さを増していく。異臭がそれぞれ分離して届き、空気の微小な揺らぎすら肌で感じ取ることができた。

二人は自分たちが知るわずかな魔力の応用で、五感の精度を限界まで引き上げていた。身体にかかる負担は小さくなかったが、いまのユウgoにとって、これはまだ「見習いレベル」の芸当に過ぎなかった。

現場の捜査を開始する。

足跡が幾重にも残されているのが目についたが、誰もが translated 通過する普通の路地である以上、特定は困難だった。嫌な臭いも漂ってきたが、それは単なる下水の悪臭に過ぎない。

結局、感覚を研ぎ澄ませたところで捜査は行き詰まりを見せた。

「ちくしょう……五感が良くなったところで、千里眼(せんりがん)が使えるわけじゃねぇしな」

彼らが気づいていないことがあった。屋根の上――。

闇に紛れた一人の男が、タバコをくゆらせながら見下ろしていた。

「……ようやく、退屈しのぎの玩具(おもちゃ)が見つかったか」

男は満足そうに口元を歪めていた。

◇

その時、横路地の陰から数人の男たちがぬっと姿を現した。夜間であるにもかかわらず全員がサングラスを着用し、厚手の革ジャンに重々しい首飾り、そして下品に歪んだ口元を浮かべている。

革ジャンの背中には、共通して『雷撃(Raigeki)』の文字が刺繍されていた。

先頭の男が地面に唾を吐き捨てた。

「おいおい。二匹のドブネズミが俺たちの縄張りを嗅ぎ回りに来やがったぞ」

もう一人の男が甲高い嫌な笑い声を上げた。

「お前らも次の『カモ』か? それとも、俺たちが中身を空っぽにしてやったあの女の死体でも返しに来たのかぁ?」

フレデリカがバールを握る手にぐっと力を込めた。

「……あん合たちが、あの女性たちを殺したの?」

リーダー格の男の笑みが、さらに下品に跳ね上がった。

「そうだよ、俺たちがやった。最高の気分だったぜ? 悲鳴一つ上げずにさ……ただ、切れた電球みたいにフッと消えやがった。雷撃(いかずち)みたいに脳みそを丸焼きにしてやったのさ、ハハハッ!」

ユウゴの胸の刻印が、怒りに呼応して激しく脈打った。

「貴様ら……本当にそんなことを……!」

「ああ、やったぜ。だからどうした? 俺たちにはそうする権利があるんだよ! ……で、知りたいか? 次はお前らの番だ!」

言い終わるやいなや、最初の男が殴りかかってきた。

鉄パイプが疾風の如く弧を描き、ユウゴの頭部を狙って襲いかかる。ユウゴは道場で叩き込まれた身体捌きそのままに体を翻し、木刀を半ばで交差させた。硬質な衝撃音が路地に響く。間髪入れず、彼は右足に魔力を集中させ、男の胸元へ容赦のないローキックを叩き込んだ。

ドスッという重い音とともに、男の巨体が数メートル吹き飛び、ゴミ箱を薙ぎ払いながら激しい金属音を立てて転がった。

(普通の木刀なら折れてたはずだ……魔法ってのは確かにすげぇが、この状況……俺たち、本当にこんな軽率に来る de costume べきだったのか?)

残る四人の男たちに躊躇はなかった。

――突如、彼らの身体から煙が噴き出し始めた。

ただの煙ではない。鼻から、口から、さらには全身の毛穴から、野焼きのような熱気を帯びた濃煙が立ち上る。周囲の空気は一瞬で濃密かつ視界を奪う熱気に包まれ、気温が跳ね上がった。焦げ臭い不快な臭いが充満する。

「気をつけろ!」フレデリカが叫んだ。

煙は意思を持っているかのように蠢いた。男の一人が手をかざすと、熱い煙が凝縮し、細くしなる薄刃の刃物となって二人に襲いかかる。ユウゴは木刀で二枚を空中で撃ち落としたが、手に残る衝撃で腕が痺れた。三枚目を間一髪で身を翻して回避する。

フレデリカは引かなかった。

彼女は熱煙を切り裂いて突進し、重厚なバールを旋風のごとく振り抜いた。金属が肉体にめり込む鈍い音が響き、男の悲鳴は口から漏れ出す煙によってかき消された。

しかし、フレデリカは激しい熱気を感じ、煙から抜け出た時には腕の皮膚が軽いやけどで赤く腫れ上がっていた。

(何なのよこの煙……! こいつらも魔法を使ってくるっていうの……!?)

ギャングのもう一人が、熱気で歪んだ声で嘲笑った。

「おいおい! お人形さんのコスプレ女が暴れてるぜ!」

彼の周囲の煙が、高熱で固められた細く鋭利な大鎌(サイス)へと姿を変えた。伸びた鎌が空気を鞭打つようにしなり、フレデリカの leg を絡め取ろうと迫る. 彼女は間一髪でバックステップを踏んだが, 鎌の先がドレスの裾をかすめ、生地を焼き切りながら太ももの皮膚を切り裂いた。

ユウゴの顔に熱風が吹きつける。強化魔法で五感こそ鋭くなってはいたが、圧倒的な実戦経験の不足が重くのしかかっていた。一挙手一投足に、自分を本気で殺そうとする者と戦ったことのない者の「迷い」が混じる。

男の一人が彼らの間に濃厚な煙の壁を作り出し、叫んだ。

「分断して仕留めろッ!」

ユウゴの方へ二人。フレデリカの方へ三人。

ユウゴは襲い来る鎖の打撃を木刀で受け流し、身体を捻った反動を利用して二人の膝裏を薙ぎ払った。男が崩れ落ちるが、その口から吐き出された煙が即座に曲刀へと姿を変え、ユウゴの肩をかすめた. ブレザーと下着が焼き切れ、皮膚が灼熱に晒される. 鋭い激痛。

彼は即座に突きを男の胸元へ打ち込み、衝撃とともに魔力を叩き込んだ。男の身体は背後の壁に激突し、古いレンガに亀裂が入った。

一方、フレデリカは技術のない暴風のように戦っていた。バールが力任せに振るわれる。煙が刃として固まるたび、彼女は圧倒的な打撃力でそれを砕いた。腕の毛穴から吐き出される熱気で絞め殺そうとしてきた男に対し、彼女は熱風を正面から突っ切り、充血した目でバールの先端を男の足甲に突き立てた。絶叫が路地にこだまする。

「ただの安っぽい手品使いの負け犬どもが……威張んじゃないわよッ!」彼女は吐き捨てた.

サングラスをかけたリーダー格の男が、歯を剥き出しにして笑った。

「安っぽい手品ぁ? 見せてやるよ!」

彼の周囲の煙がさらに巨大な形へと凝縮されていく――高熱の固形煙で形成された、捻れた長槍。彼はそれを容赦なく投擲した。

ユウゴは視界の端でそれを捉えた。叫んで知らせる余裕すらない. 彼は走った。

脚の筋肉の中で魔力が爆発する. 一瞬、世界がスローモーションに遅延した. 距離を跳び越えたユウゴの木刀が、飛来する煙の槍と激突する. 空気を揺らす熱の衝撃波が吹き荒れた. 槍は熱い煙となって霧散したが、その反動でユウゴの身体が数歩後退させられる。

フレデリカはその隙を見逃さなかった。バールが綺麗な円弧を描き、リーダーの側頭部を正確に捉えた。壊れたサングラスが夜空へと舞う。

敵は全員叩きのめされた. 二人が激しく息を乱す中で。

ユウゴは身を起こし、フレデリカの元へ駆け寄った。

「大丈夫か……!?」

「え、ええ……胸糞悪い奴ら……本当にこんなことを……」

「……正直、まだ現実感が沸かないよ. 本当に魔法が存在するなんてな. ……ところでフレデリカ、あの聖杯、本当はどこで手に入れたんだ?」

「人から買ったのよ……今はそれどころじゃないでしょ」

全員を倒したと思い込み、二人が安堵しかけたその時――壊れたサングラスの隙間から覗く男の目が、二人の視界に入った。

――真っ白だった. 虹彩も瞳孔もない. あの犠牲者たちと全く同じ、濁った乳白色。

「……なっ、なんだってんだ……!?」ユウgoが慄く。

二人が一瞬だけ硬直した. そのわずかな隙を突き、倒れていた最後のギャングが胸元から高熱の煙の爆発を引き起こした. まるで体内で何かが沸騰しているかのように. 押し寄せた熱波が二人を吹き飛ばす。

だが、勝敗はすでに決していた。

ユウゴとフレデリカは満身創痍で、服のあちこちが焦げ、傷ついていた。それでも二人は立ち上がっていた. そして、魔力は未だ衰えていなかった。

ユウゴは完璧な剣道の踏み込みで間合いを詰め、低い posture から木刀を正確に振り抜いた. 打撃が男の肩を捉え、関節を脱臼させる重い音が響く. 追撃するようにフレデリカが胸元へ蹴りを叩き込み、男の身体を地面へと沈めた。

『雷撃』の五人は、ついに全員が路地に倒れ伏した. 呻き声を上げる者、完全にピクリとも動かない者. 体内から漏れ出す煙は次第に細くなり、彼らを突き動かしていた魔力が底をついたことを物語っていた。

ユウゴは荒い息を吐いた. 木刀には数箇所にヒビが入っている. 肩のやけどが痛む. フレデリカも足に切り傷を tear 負い、ドレスは煤と mud で原形をとどめていなかった。

二人は視線を交わし、解散するようにその場から走り去った.

現場を細かく調査する余裕などなかった. 追撃の恐れから逃れるように路地を駆け抜け、低く低い塀を飛び越えて学園の敷地へと逃げ戻る. 胸の鼓動が、周囲の建物に響き渡るほど高く打ち鳴らされていた。

判明したのはただ一つ――『雷撃』というギャングが、一連の事件の実行犯であるということだけだった。

◇

路地を見下ろす屋上、給水塔の陰に隠れるようにして、一人の男が夜の街を見下ろしていた。

ジョン・ブッチャーだ。

指に挟まれたタバコは、すでにフィルターの直前まで焼き尽くされていた. そこから立ち上る煙は、先ほどギャングの男たちが操っていたものと、全く同じ質 confused 感を帯びていた。

彼は低く笑った. その声は、どこか愛おしそうな響きすら含んでいた。

「――ついに、か」

声はいつも通り、気さくで、だるそうで、礼儀正しかった。

「笑顔で罪を犯すってのは、いつだって最高だね……フフッ」

彼が最後に長く煙を吐き出すと、タバコの濃煙が彼自身の姿を包み込み、そのまま消し去っていった. 煙が霧散する一瞬の間、その奥で黒く蠢く触手の影が見えた気がした。

翌日、ユウゴはまるで大型トラックにでも跳ね飛ばされたかのような重苦しさとともに目を覚ました。

全身が痛む。応急処置をしたはずの肩の火傷は、ガーゼの下でヒリヒリと疼いていた。胸に刻まれた漆黒の刻印は、昨夜の激闘の名残を主張するかのように、不規則なリズムでドクドクと脈打っている。

同室のタケルはすでに起き出し、洗面台で歯を磨いていた。ベッドから起き上がったユウゴの姿を見るやいなや、彼は露骨に顔をしかめた。

「おい……お前、死人みたいな顔してんぞ」

ユウゴは顔をこすりながら、寝ぼけた頭を無理やり覚醒させた。

「昨日の夜……お前ら、いっつも夜中にこっそり消えて、明け方に戻って来るよな」

ユウゴは一瞬だけ言い淀んだが、鍵が閉まっているのを確認してから低い声で告げた。

「三人目の遺体があった現場に行ってきた。そこで『雷撃(ライゲキ)』とかいうギャングの連中に遭遇したんだ。奴らが自白した。一連の連続殺人犯は、間違いなくあの組織だ」

タケルは歯ブラシをくわえたまま動きを止めた。あごから白い泡が垂れ落ちる。

「……マジかよ?」

「五人いた。奴らも魔法を使ってきやがった。皮膚や口から熱い煙を噴き出しやがって……殺されかけたが、なんとか生きて戻ってきた」

タケルはしばらくの間、その言葉を脳内で反芻するように沈黙していた。やがて口をすすぎ、深くため息をつく。

「……にしても、なんであいつらがわざわざそんな殺人なんて暴露すんだ?」

「さあな……自分たちのシマのハッタリか? 他のギャングを威圧するためだろ」

タケルは首を振りながら言い放つ。

「その『雷撃』ってのも厄介だな……。まぁ、あいつらは基本的には政府の人間や悪徳企業しか狙わねぇはずだが、方針を変えたのかもな……って、そんなことより!」

タケルはシャツを羽織りながら続けた。

「おい……このままじゃ単位がヤバいだろ。サボってねえで、とりあえず授業に出るぞ。そのあとでフレデリカとマキシミリアンに合流して今後の話をしよう」

ユウゴは異議を唱えなかった。うなずきながら支度を整え始める。

「まったくその通りだな……だが認めたくはないが、お前、自分が魔法を使えないからって嫉妬してんだろ」

「はぁ!? なわけねぇだろ! いつから俺が魔法を信じてたみたいな言い方すんだよ!」

午前中の講義は、ユウゴにとって拷問のように長く感じられた。退屈な専門知識、単調な教授の声、際限なく送られてくるスライド資料。彼はいつも通り一番後ろの席に陣取り、肉体の痛みを堪えながら、昨夜の戦闘の断片を頭の中で反芻していた。熱煙の匂い、鉄パイプの衝撃、そしてサングラスの奥にあった、あの濁った乳白色の目――。

◇

その頃、街の反対側――学園から遠く離れたうらぶれた地区。

廃工場の薄暗い一角で、一人の男が木箱の山の上に腰掛けていた。背中を向けているため、わかるのは逆立った鮮やかな赤髪と、背中に大きく赤い糸で【雷撃】と刺繍された黒い特攻服ジャケットだけだった。彼が振り返ると、その全貌が露わになる。サングラスをかけ、ジャケットの下の鍛え上げられた上半身は裸で、腹筋は鋼のように引き締まり、ライダースーツのパンツとブーツを身に纏っている。全身から「ケンカの天才」というべき圧倒的な闘気が漂っていた。

ジャケットのポケットの中でスマホが震える。男は気だるげにそれを引き受けて耳にあてた。

受話器の向こうから、切羽詰まった部下の声が飛び込んでくる。

「ボス……! 昨夜、シマで見回りをしていた連中が何者かにボコボコにされました……! 二人がまだ意識不明で、一人は肩を脱臼、もう一人は血を吐いて止まらないんです……みんなボロボロで……!」

赤髪の男は無言のまま聞いていた。やがて、首をポキポキと鳴らす。

彼の首筋と、固く握りしめられた拳の間から、パチパチと小さな黄色の電気がスパークした。

「……そうか」

低く、かすれた、しかし冷徹な怒りを孕んだ声だった。

「誰が俺のシマを荒らしたのか……この手で直接、教育してやろう」

彼は電話を一方的に切ると、しばらく虚空を見つめた。サングラスのレンズが、彼の冷たい眼光を完全に隠していた。

◇

学園に戻ると、午後は歴史学の講義が待っていた。

この日のユウゴは、珍しく真剣に授業に聴き入っていた。ユリウスが「個人の小さな決断が、いかにして戦争の歴史を塗り替えてきたか」について語る言葉のすべてが、昨夜の修羅場をくぐり抜けてきた彼の胸に重く突き刺さっていた。

講義が終わり、学生たちがざわめきながら立ち上がり始めたその時、一人の影がユウゴの机の横でぴたりと足を止めた。

「――ツルギ君」

そこには、教員用制服のポケットに両手を突っ込み、いつもの涼やかな笑みを浮かべたユリウス・カエサルの姿があった。だが、その真紅の瞳だけは、いつも以上に鋭く据わっている。

「少し、話をしないか? 時間が許すなら、だがね」

ユウゴの胃の腑がヒュンと冷えた。混乱と焦燥に駆られながらも、彼はこわばった顔でうなずくしかなかった。

「は、はい……教授……」

教室内から学生がいなくなるのを待ち、ユリウスは静かなジェスチャーで彼を誘導した。二人はほとんど人のいない静まり返った廊下を抜け、教員棟の一室へと向かった。

ユリウスの個人研究室は、授業の荒々しさが嘘のように整然としていた。きれいに並べられた専門書、ダークウッドの重厚な机、そして午後の斜光を室内に投げかける高い窓。

カチリ、と静寂の中で扉が施錠される。

「そこに掛けていいよ」

ユウゴは促されるまま椅子に腰掛けた。ユリウスは自分の机の縁に腰を掛け、腕を組んだまま見下ろすように彼を見据えた。

首を少し傾げ、彼は言った。

「ユウゴ君……君は、魔法というものを信じるかい?」

その問いは、平穏な水面に投げ込まれた巨大な石のように、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。

ユウゴは必死に表情を取り繕い、もっともらしい無表情を作った。

「い、いいえ……教授。そんなのは古いお伽話か、オカルトか、あるいは頭の悪い人間が見る夢の類だと思ってますけど」

ユリウスはふっと笑った。講義で見せるような愛想笑いではない、心の底から楽しんでいるような、不気味なほど親密な笑みだった。

「興味深いね」

彼は机から離れ、ポケットに手を突っ込んだまま部屋の中をゆっくりと歩き出した。

「私は以前、君たちに『才能』について話したね。世界はいつだって、真に『持っている』者たちのものだと。誰もが同じ現実を見ている中で、自分だけにしか見えない裏口――誰も気づかない扉を見つけ出せる人間がいるという話をしたはずだ」

彼はユウゴの目の前でぴたりと立ち止まった。

「君は、その扉を開けてしまったようだね、ツルギ・ユウゴ。私と同じように」

ユウゴは反論しようと口を開いたが、声は出なかった。

ユリウスが、すっと右手を持ち上げたからだ。

彼の指先が、流れるような正確な軌道を描く。その空中に、瞬く間に複雑怪奇な青白い魔法陣が形作られた。手のひらのすぐ上に浮かび上がった純粋なエネルギーの球体が、冷たい光を放ちながらゆっくりと回転を始める。

室内の気圧が急激に高まった。

ユウゴの胸の奥で、あの漆黒の刻印が激痛を伴って熱く疼いた。まるで、目の前でうごめく現象の正体を本能が察知したかのように。

ユリウスは光の球体を掌の上で踊らせながら、穏やかな笑みを崩さずに告げた。

「さあ、本当の話をしようか。――君は、魔法を信じるかい?」

「ま、魔法を……使ったんですか?」

目の前に立つユリウスに向かって、ユウゴは掠れた声で問うた。

「ああ。そして、君にも使えるさ」

「ですが、なぜそれを……?」

ユウゴの問いかけに、ユリウスはふっと余裕の笑みを浮かべ、足を組み替えて椅子に深く腰掛けた。

「若きツルギ君。君は魔法というものの存在を、いつから知っていた? いや……魔法について、いったい何を知っているい?」

「大したことは……ほんの数日前に知ったばかりです」

(――なるほど、あのとき感じた微かな魔力の波長……学園で例の儀式をやらかしたのは、このツルギ・ユウゴだったか。状況証拠からして間違いないようだな)

「ふむ、ではほとんど何も知らないということだね。よろしい、私から親切に説明してあげよう」

ユウゴの内心の動揺など意に介さず、ユリウスは立ち上がると、室内に新しい空気を取り入れるために窓を押し開けた。

「君には刻印があるね? 私と同じものだ。私たちのように刻印を持つ者は、『刻印者(マルカート)』……あるいは平易に、『運命の子』と呼ばれる」

ユウゴは全身の神経を集中させ、混乱を押し殺しながら耳を傾けた。

「魔法は偏在している……厳密には、大気が存在する場所ならどこにでもある。空気と同じだ。地球上の至る所を満たしていながら、通常の人間にその姿は見えず、利用することもできない」

「ですが、どうして教授と俺にはそれが使えるんですか?」

「それこそが、私たちを『運命の子』たらしめている所以だよ。通常、人間が魔法を行使するためには何らかの『媒体(アイテム)』が必要になる。私たちはそれを総称して『杖(ワンド)』と呼ぶが、必ずしも魔法使いの木の杖である必要はない。剣であれ、魔導書であれ、建築物であれ、あるいは特定の生体であってもいい。人間単体では魔法の炉を回すことができないからこそ、そうした『杖』を介する必要があるのさ」

ユウゴの反応を確かめるように、ユウゴの解説は熱を帯びていく。狭い研究室の中を行ったり来たりしながら両手で豊かなジェスチャーを交え、彼はまるで大好きな秘密を親しい友人に打ち明けるかのように、心底楽しそうに語っていた。

「だが、我ら『運命の子』は、そうした媒体なしで魔法を扱えるだけでなく、我々固有の特別な魔術――《反転律(インペトゥス)》を有している。一部の者たちはそれを単に『衝動』とも呼ぶがね。すべての運命の子は、それぞれに割り当てられた『一つの言葉(ルール)』を持っている。私たちが日本語圏なら『無(む)』や『不(ふ)』を冠し、英語圏なら『Un-』や『In-』を用いるように、その言葉こそが、私たちに与えられた絶対の規則(ルール)なのだよ。例えば、英語の『Visible(視える)』を『Invisible(不視える)』へと反転させるようにね」

「俺にも……それが?」

「あるとも、だが同時にまだない。君の中ではまだ深く眠りこけている……だが、その刻印が完全に目覚めたとき、必ずや姿を現すさ」

ユウゴは息を呑んだ。

「魔法の本質はプログラミングに似ている。コンピュータを想像してほしい。コードを入力すれば、機械はあらゆる複雑な処理を実行できる。魔法陣とは、いわばその魔法のコードなのだ。『運命の子』は、媒体に頼らず環境の魔力を利用できるだけでなく、自らの内なる魔力を源とし、新たな術を学び取ることもできる。何より、彼らの身体そのものが唯一無二の『魔法陣』を内包しているのさ」

ユウゴは満足げに微笑んだ。

「実に胸が高鳴る話だと思わないか? 若きユウゴ君、君の才能をこうしてこうして目の当たりにできて、私は心から嬉しいよ。本当にね。さて……運命の子として覚醒した今、君はこれからどうするつもりかね?」

「いえ……わかりません。ユリウス先生は、いつも『才能』の重要性を説かれますが……どうしてそこまでこだわるんですか?」

「才能こそが、世界を動かす駆動因だからだ。もっとも、今すぐ私の思想を君に押し付けるつもりはないさ……こうした価値観に行き着くには、それなりの時間と経験が必要だからね。だが、私は確信している。才能の絶対的な優位性をね。なにしろ……才能なき者たちに、いったい何が提供できるというのかね?」

――一瞬、空気が張り詰めた。

「ですが……たとえ才能がなかろうと、人にだって提供できるものはたくさんあるはずです。才能がすべてだとは思いません。俺はいつだって正義の側に立ち、それに寄り添って生きたいと思ってきた。だから、たとえ今は力がなくても、人は努力次第で成長できるって――」

ユウゴの真っ直ぐな言葉に、ユウゴは少しだけ目を細めた。そして、歩み寄ると、そっとユウゴの肩に手を置いた。

「言ったはずだ、時間が必要だとね。君はいずれ、私の言葉の意味を心から理解する時が来る。だが、まずは当面の課題だ。自身の能力を少しずつ鍛えてみるのはどうかな? この世界は、無能な魔術師どものせいで魔法の存在を隠し続けているがね……まぁ、君にとってはここからが始まりだ」

ユウゴはくるりと背筋を伸ばして振り返り、自分のデスクの椅子に腰を下ろした。

「あいにく、私にも片付けるべき仕事があってね。だが、さらなる高みへ進みたいなら、いつでも私の力に頼るといい。君が必要とするなら、私はいつでもここにいる……」

ユウゴはふと壁掛け時計に目をやり、何かを気にかけるように眉をひそめた。

「おっと、そういえば……そろそろ出張の予定を組まなければならなかったな」

「わかりました、ありがとうございます。では、これで失礼して部活に向かいます」

「ああ、いってらっしゃい、若き友人よ」

ユウゴは静かに研究室を後にした。

(あの人の持つ圧倒的な気宇、底知れないカリスマ性……だが、あの思想の端々にはどうしようもない危うさを感じる……。俺は……特別な人間になったのか? 『運命の子』として……)

ユウゴはきゅっと拳を握りしめ、ふっと笑みをこぼした。

(――だが、悪くはない)

……そういえば、教授自身の《反転律(インペトゥス)》が何なのか聞き忘れていたな。まあ、それはまたの機会にするか……。

独りごちながら、ユウゴはいつものオカルト研究会の部室へと足を向けた。

ユウゴは、何事もなかったかのように講義や部活動へと戻っていった。

朝の光景はいつも通りだった。廊下のざわめき、食堂の匂い、小テストや講義に関する他愛のない雑談。彼は授業を受け、指名されれば答え、外見上はごく普通の学生にしか見えなかった。だが内側では、胸の刻印が時折ズキズキと疼き、世界が変質してしまったことを絶えず思い出させていた。

放課後になると、決まった足取りでその場所へ向かう。鶴城悠吾(ツルギ・ユウゴ)、フレデリカ・リヒター、佐村たける(サムラ・タケル)、そしてマキシミリアン・シルヴァの四人は、誰の目を盗むこともなく自由に話せる唯一の空間――オカルト研究会の部室に集まった。

その週の間、四人は毎日顔を合わせた。

【1日目】

ユウゴとフレデリカは自らの魔力を使って、手元に魔法陣を描き出す特訓を行った。最初は小さく歪んでいた陣も、時間を重ねるごとに構造を崩すことなく拡大させられるようになっていく。あの儀式以来、腕や胸を蝕んでいた黒い刻印の痛みが、初めて和らいだ。

タケルとマキシミリアンも魔法を使おうと試みたが、何の結果も得られなかった。

【2日目】

「魔法ってのは……空気中にもあるのかもしれない」ユウゴはユリウスの件は伏せながら言った。「つまり……俺たちの体内だけじゃなくてさ」

フレデリカは好奇心の視線を向けたが、それがどこから得た知識かなんて追及はしなかった。二人はエネルギーの分離と変換の訓練を開始した。それは開いた手で水をすくおうとするようなもので、ほとんどの魔力は指の間から逃げていった。それでも、少しずつ微小な魔力の流れをコントロールできるようになっていく。

タケルとマキシミリアンは、悔しそうにそれを眺めているしかなかった。

「くそっ、ずるいぞ! いつか絶対俺も魔法を使ってやるからな!」タケルが声を張り上げた。

【3日目】

ユウゴの仮説を本格的に検証した。魔法は自分の中だけでなく、周囲にも満ちているという感覚に集中すると、コントロールの精度が目に見えて向上した。魔法陣の光はより安定し、フレデリカは小さな光のオーブを数秒間も空中に浮遊させ続けることに成功した。

マキシミリアンが悔しさに任せて床を叩いた。

「不公平すぎんだろ……俺も魔法が使いたいんだけど」

「あなたたち、ほんと厚顔無恥ね!」フレデリカが不機嫌そうに言い放つ。「あれだけ私をバカにしておいて、今さら泣き言? 最初から信じていれば、あなたたちだって使えたかもしれないのに。フンッ」

部屋に重い沈黙が流れたが……誰もそれに反論はできなかった。

【4日目】

学校の掲示板に、一枚の簡素な張り紙が貼り出された。

『ユリウス教授は私用および出張のため、当面の間休講とします。再開の通知があるまで歴史学の講義は停止です』

部室では誰も深く言及せず、ただ黙々と訓練を続けた。

【5日目】

木刀やバールでしたように、他の物体に魔力を纏わせる実験を行った。ユウゴがノートの切れ端にエネルギーを集中させると、まるでよく研がれたナイフのように林檎を真っ二つに切り裂いた。フレデリカも洋梨で同じ偉業を繰り返した。紙の端は少し歪んでいたが、それでも――切れ味の鈍い刃物のようには――しっかりと物を断ち切ってみせた。

タケルも同じように挑戦したが、紙はただクシャッと折れ曲がっただけだった。

「ちくしょうッ!!」

【6日目】

ギャングとの戦いで本能的に行った身体強化を検証することにした。筋肉に魔力を流し込むと、肉体の出力が異常なまでに跳ね上がった。ユウゴとフレデリカは、トレーニングルームから「こっそり拝借してきた」一番重いダンベルを軽々と持ち上げてみせた。

まさにその時、部室の扉が勢いよく蹴破られた。

汗だくの、激怒したトレーニング部の部員三人が雪崩れ込んできた。

「お前ら、俺たちのダンベルをパクったな、この泥棒どもが……!!」

「「「あっ……!」」」

トレーニング部の面々は、フレデリカが30キロのダンベルを片手で軽々と持ち上げているのを見て、開いた口が塞がらなくなっていた。

その後の言い争いは気まずく、かつ滑稽だった。ユウゴとフレデリカは「物体の密度に関する実験です」と苦しい言い訳を捻り出し、タケルとマキシミリアンは笑いをこらえようと必死に震えていた。最終的にダンベルは返還され、「今度から無断で持ち出さない」と誓わされるハメになった。

【7日目】

フレデリカが少し遅れて、疲れ果てた表情で部室にやってきた。

「学校側から苦情が来たわ。日曜日にこの部屋を使うなって。『大学の部室はホテルじゃない』ってさ」

それでも、四人は変わらずそこに集まっていた。

そして、その日――歴史を揺るがすニュースが飛び込んできた。

訓練の最中、ユウゴのポケットの中でスマホが何度も激しく震えた。画面を開き、眉をひそめた彼は、その端末を仲間たちに向けた。

画面の見出しには、大文字でこう書かれていた。

『著名な音楽家デュオが変死体で発見。眼球は完全に白濁し、死亡前の脳活動および全感覚機能が完全に喪失していた状態を確認』

「……たった二週間のうちに、これで二人目だ」

ユウゴの胃の腑が激しく逆流した。

被害者は二人の男。才能に溢れた、あまりにも圧倒的な才能を持つ音楽家たちだった。

(こんなの……やっぱり俺たちのせいじゃないのか? あの日、あんな儀式さえしなければ……)

ユウゴは、ユリウス教授が旅行(出張)から戻ってきたという噂を聞きつけ、直接彼に話を聞きに行くことにした。

トントン――

「どうぞ、お入りなさい」

ユウゴがドアを開けて足を踏み入れる。

「おや、ユウゴ君じゃないか。私がいなくて寂しかったかい? なんてね、冗談さ。――で、私に何の用かな?」

ユウゴは部屋に入ると、背後で静かにドアを閉めた。

「ユリウス先生……魔法について、そして俺がどうやってそれを手に入れたのかについて話したいことがあります」

「ふむ、その話なら以前にもしたはずだがね。まぁ、それで君の気が晴れるというなら聞こう」

ユウゴはユリウスの机の前に置かれた椅子に腰掛けた。

「先週、俺と部活の仲間たちで……ある儀式をやったんです。魔法なんて本気で信じていなかったから、最初は半信半疑でした。でも、一緒に入った連中の一人がどうしてもって言うもので……彼女は昔からオカルトに執着していて、『本物のドラゴンを見たことがある』なんて言い出すような奴で……」

ユウゴの言葉に、ユリウスは片方の眉をぐっと跳ね上げ、内心で呟いた。

(――ドラゴン、だと? ほう、面白い……)

「それで、彼女が手に入れた古い聖杯を使って儀式をやってしまったんです。そしたら、何か得体の知れないものを解き放ってしまって……それから間もなく、街であの奇妙な変死体が次々と見つかるようになった。あの連続殺人鬼は、間違いなく俺たちがやった儀式と繋がっている……俺にも、この殺人の責任の一端があるんじゃないかって……」

ユウゴが続けようとするのを、ユリウスは静かに遮った。

「で? いつまでもそんなことでクヨクヨ悩んでいるつもりかい? 見たまえ、その儀式が君にどれほどの素晴らしい才能(ギフト)をもたらしたかを。もちろん、被害者たちにもそれぞれの才能があったのかもしれないがね、だからといって君が罪悪感を覚える必要はない。そんなに心が痛むというなら――いっそ、その連続殺人鬼を君の手で捕らえてみたらどうだ? 奴が法を超越した力で殺戮を繰り返すというなら、君もまた法を超越した力で奴を打ち破ればいい。忘れないでくれたまえ、君は今や『運命の子』なのだからね」

ユウゴは一度うつむいたが、ぐっと顔を上げた。

「――ただ、一つだけ忠告しておこう。『スズメバチの巣(ヴェスペイロ)』にはくれぐれも気をつけたまえ」

「スズメバチの巣……ですか?」ユウゴは怪訝そうな顔で教授を見返した。

「ああ。そこは、魔法を操る者たちが集まる溜まり場のようなものさ。いわゆる魔術師たちの隠れ家ビルのような場所だね。そうした場所では一切の暴力が厳禁とされており、非合法な取引や情報売買などが行われている。法を無視したアウトローな魔術師たちが集うのが『スズメバチの巣(ヴェスペイロ)』、そして法を遵守する者たちの集まりが『ミツバチの巣(コルメイア)』と呼ばれている。もっとも、君のように儀式という不確かな方法で覚醒した者は、どちらにも近づかないのが賢明だがね」

「……分かりました」

ユウゴは椅子から立ち上がった。

「ところで、ユリウス先生。ここ数日、先生はどちらへ行かれていたんですか?」

ユリウスはふっと笑みをこぼし、両腕を机につけて体重を預けた。

「ちょっとね……個人的な『出張』さ……」

――遡ること三日前、ある「出張」の最中。

夜空を切り裂く一機の名もなき飛行機が、チベットの山々の上空を飛翔していた。眼下では、冷たい雪原が砕けた銀の海のように月光を浴びて煌めいている。機内の座席には、厚手の冬用コートに身を包み、黒髪のポニーテールを肩に垂らしたユリウス・カエサルが腰掛けいていた。その真紅の瞳は、相変わらずの穏やかな笑みをたたえながら窓外の絶景を見つめている。

人里離れた雪原の臨時滑走路に機体が着陸すると、開け放たれたタラップから刃物のような冷気が容赦なく吹き込んできた。金属製の階段を降りたユウゴの師――ユリウスを待ち受けている者がいた。

「遅いぞ、ユリウス」

長く豊かな赤髪が乱雑に、だが不思議な気品を漂わせて結い上げられている。純白と深紅の厚手な冬用コートが、彼女の透き通るような肌と鮮やかなコントラストを描いていた。その瞳は鋭く、ほとんど傲慢とも言える自信に満ち溢れ、彼を見る微笑みには深い愛情と挑発の色が同居している。防寒着に身を包んでいながらも、誰の頭をも下げる必要のない、気高く引き締まった長身のシルエットが際立っていた。

「やぁ、エルーシャ!」ユリウスは楽しげに声を弾ませた。

「相変わらず到着が遅いわね、ユリウス」彼女の声は、凍てつく冷風の中でもよく通る。「いつまで経ってもその悪癖は直らないわけ?」

「おや」ユウルスは歩み寄りながら笑った。「こんな極寒の地でも、君の美しさは変わらないね。思わず感動して涙が出そうだ」

彼女は盛大にため息をついて目を白黒させたが、口元だけはかすかに緩んでいた。「冗談はそれくらいにして。あなた、本気で『新生(イルミナティ)』に新しい仲間を引き入れるつもり?」

「価値のある拾い得だからね」ユウウスは手袋の位置を直しながら答えた。「それに、君もいつものように僕の護衛についてきてくれた」

「――あなたが余計なでしゃばりをしないよう、見張ってあげるために来たのよ。またね」

二人は足元で雪を踏み締めながら歩き出した。遠くの峰々の間に吹き荒れる風は冷酷なまでに鋭い。その視線の先にそびえ立っていたのは、黒きコンクリートと鋼鉄で築き上げられた怪物のような建造物――巨大監獄だった。外見こそ山肌に食い込んだ陰惨な塊にすぎないが、その実態を知る者は誰もが震え上がる。

地上から、一万階。

数多の罪人が収容されているわけではない。収容されているのは、ただ「一人の存在」のみ。

二人は誰からの迎撃も受けずに正門を突破した。内部は金属製の通路が幾重にも交差する迷宮であり、冷たい誘導灯と、勝手に旋回する無人の監視カメラが張り巡らされている。空気にはオゾンと錆びた金属の臭いが鼻をついていた。

その時、排除部隊が姿を現した。

およそ八名の魔術師。漆黒の制服、戦術ヘルメット、そして銃床に輝くルーン文字が刻まれた魔導小銃。彼らはただの警備員ではない。不可能を封じ込めるために特化したプロの『処刑・狩猟部隊』だった。

「そこまでだ、動くな!」

冷徹な警告が飛ぶ。

ユリウスとエルーシャは、立ちふさがる警備員たちを落ち着いた足取りで見据えた。

「お前たちの目的はなんだ?」

ユリウスは穏やかに両手を掲げてみせた。

「落ち着きたまえ。私はただ、最下層の『囚人』に面会に来ただけだ。他愛のない用事さ」

「一般人がこのエリアに近づくことは禁じられている! 隠匿された聖域であるここに足を踏み入れた時点で、お前たちの処刑は確定しているんだ!」

「一斉射撃、構え――!」隊長の号令が響く。

戦闘の幕開けは、コンマ二秒の出来事だった。

最前列の魔術師が床に片手を突き、ユリウスたちの足元を液体金属の流砂へと変貌させた。同時に、三丁のライフルが光の弾丸を撃ち放ち、空中で何十本もの鋭利な光の針へと分裂して襲いかかる。

エルーシャは、ただ指先を軽く鳴らした。

――《無安定(Unstable)》。

液体金属の流砂が瞬時に沸騰し、頭上へ向かって炎を纏った破片の雨となって爆散した。飛来していた光の針も軌道を狂わされ、無意味な火花を散らして消滅する。彼女は流れるような身のこなしで体勢を回転させ、再び指を鳴らした。左側の魔術師が構えていたライフルが、その分子構造の均衡を完全に失い、手元で木端微塵に爆発四散した。男は吹き飛ばされ、通路の壁に叩きつけられる。

「あなたたち、少し声が大きすぎるわ」エルーシャは冷たく呟いた。

「囲め!」

さらに二人の魔術師が同時に踏み込む。一人が回転する円形の刃を纏った真空の風の障壁を展開し、もう一人が銃口から螺旋を描く火炎の蛇を撃ち出した。

ユウゴ……いや、ユリウスは最初から動こうともしなかった。ただポケットに手を突っ込んだまま、興味深そうにそれを観察している。

一方のエルーシャは、あざ笑うかのように口角を上げた。

彼女は素早い連続動作で、三度指を鳴らした。

風のサーベルは軸を失って制御不能の暴風と化し、その術者自身を切り刻んだ。火炎の蛇は不良品の線香花火のように次々と連鎖爆発を起こし、廊下全体に灼熱の熱波を逆流させる。魔術師たちは自らの放った熱に焼かれ、悲鳴を上げて地面に転がった。

さらに側面から四人の魔術師が突入してくる。彼らは連携魔法を発動させた。一人が牙のように噛み合う黒氷の柱を突き出し、もう一人が床を這う電撃の鎖を放ち、残りの二人が高密度のプラズマを集束させて回転する長槍を作り出す。

エルーシャは一歩だけ前に出た。

「ユウリウス。後ろに下がってなさい」

「僕も手伝おうか?」

「いいえ。あなたにはもっと重要なターゲットが残っているわ。体力を温存しなさい、私が片付けるから」

彼女は勢いよく指を鳴らした。

黒氷の柱は分子結合を剥ぎ取られて無数の微小な破片に変じ、全方位へ降り注ぐ。電撃の鎖は行き場を失って暴発し、周囲を麻痺させた。火炎の槍はただの熱球へと変質し、無駄に空中で弾けた。

残された魔術師の一人が決死の覚悟で自らに全魔力を集中させ、肉体を「生体鋼鉄の彫像」へと変えて超高速の突撃戦車と化した。

エルーシャはわずかに首を傾げ、四度目の指パッチンを放つ。

男の足元にあった床の分子安定が崩壊した。

床そのものが地雷原のように連鎖爆発を起こし、突進してきた鋼鉄の巨人と正面衝突する。男の身体は内部から引き裂かれ、溶けた金属と熱い破片の豪雨の中に放り出された。彼はもうもうと煙を上げる床に崩れ落ち、辛うじて息はあるものの、完全に戦闘不能に陥った。

最後の生き残りが恐怖に駆られて逃走を図ろうとするが、エルーシャはとどめの指パッチンを鳴らした。男が抱えていた銃器、軍靴、ベルト、さらには周囲の壁を固定していたボルトに至るまで――すべての構造的均衡が一斉に崩壊する。制御された破壊のオーケストラのような連続小爆発が廊下に響き渡り、煙が晴れたとき、男は瓦礫の山の中で気絶していた。

エルーシャは指をリズミカルに鳴らすマエストロのように、警備員たちの衣服、武器、周囲の足場をも次々と起爆させ、大小の爆発の連鎖によって残余を完全に灰へと還元していく。

彼女はコートの襟を整え、振り返った。

「終わり。さあ、下に降りましょうか」

ユリウスはくすくす低く笑った。

「相変わらず見事な手際だね、エルーシャ。だが、君のその『インペトゥス』の名前、もう少し何とかならなかったのかい? 『B.Y.O.B』なんて、あまりエレガントとは言えないな」

「うるさいわね。それに、いつも私に汚れ仕事を押し付けておきながらよく言うわ。あなただって人のこと言えないでしょう? 自分のインペトゥスにあんな名前をつけておいて……まったく、オリジナリティのかけらもないんだから。『Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディ)』だなんて」

「はは、じゃあ僕たちは似た者同士ということさね」

二人は重工業用の巨大エレベーターに乗り込んだ。操作パネルの数字が、常軌を逸したスピードで下降していく。

第1,000階……第3,000階……第6,000階……第9,000階……。

階層が深まるにつれて防衛システムや迎撃の魔術師たちが次々と現れたが、エルーシャはエレベーターの中から一歩も動くことなく、その圧倒的な《反転律(インペトゥス)》――*《無安定(Unstable / B.Y.O.B)》*の権能をもって、すべての敵を粉砕し尽くしていった。

最下層まであとわずかとなったとき、エルーシャはふと前を見据えたまま呟いた。

「――ねえ、本当にあの男が私たちの誘いに乗ると思う?」

ユリウスは穏やかな笑みを崩さずに答えた。

「最初から素直に従う必要はないさ。彼はただ、この外の世界がまだ自分のような男を必要としていると気づけばいい。それに……彼には、愛すべき『実の兄』に復讐する絶好の理由がある」

轟音とともに、エレベーターが最下層――第11,000階の扉を開いた。

そこにあったのは、途方もなく広大な漆黒のコンクリートホールだった。薄暗い赤色の警告灯が不気味に明滅している。ホールの中心には、何十本もの数千トン級の超重量級鎖に縛り付けられた、一人の「囚人」が鎮座していた。

ニドホッグ(Nidhogg)。

身長二メートルを優に超える筋骨隆々の巨躯。乱れた長髪の間から覗く白い髪。身に纏うのは、あちこ치が引き裂かれた色褪せた囚人服。だが、その下顎の大部分が完全に欠損しており、そこからは禍々しく黒い闇が剝き出しになっていた。左目は深く古い十字の傷跡で塞がれている。首筋や腕、露出した肌のあちこちに銀色の竜の鱗が浮き出ており、人間の肉体だけではその内なる異形を完全に抑えきれていないことを物語っていた。さらに、肉体の要所には魔力を封じる巨大な金属の杭が何本も打ち込まれている。

幾重もの鎖が彼を跪かせ、両腕を大きく広げさせ、その太い首は分厚い金属の頸木(くびき)に固定されていた。

それでもなお――ユリウスとエルーシャが足を踏み入れたとき、ニドホッグはゆっくりと顔を上げた。

そこに宿っていたのは、敗北者の怯えなどではない。何千もの命を屠ってきた『絶望の獣』の眼光だった。

ユリウスは笑みを絶やさぬまま、一歩前に進み出た。

「こんばんは、ニドホッグ君」

そして、静かに告げた。

「君に、最高に面白い『提案』をしにきたのさ」

ユリウスは一歩前に踏み出した。焦ることも、大げさな芝居がかることもなく。ただ右手の人差し指を伸ばし、ニドホッグの胸に打ち込まれていた一本の金属の杭へと触れた。その指先が一瞬だけ黄金色の光を放ち――封印が打ち砕かれる。

数千トンを誇る鎖が激しく震えた。いくつもの鎖が深い金属音を立てて引き千切られ、杭が一本、また一本と重い音を立てて床へと転がり落ちる。ニドホッグの首を縛っていた金属の頸木(くびき)が開き、音もなく転がっていった。

ニドホッグはゆっくりと上体を起こし、長年の間同じ姿勢で固まっていた肉体をほぐしていく。

先ほどまで跪いていたにもかかわらず、その存在感はホール全体を圧倒的な圧力で満たしていった。彼は左手を掲げ、短い身振りで空中に黒と銀の魔力を凝縮させる。彼の手に一つの金属製の顎(あご)が形作られ、彼はそれを迷わず自身の顔へと装着した。角張った、野蛮なまでに凶悪な、刃のように鋭い牙を持つ下顎。完璧に噛み合ったその金属片は、まだ微かに熱気を燻らせていた。

ユリウスは数秒間、黙ってそれを観察していた。そして、心底魅入られたように、本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。

「……気に入ったよ。心からね」

ニドホッグは残された片目を剥き出しにし、古えからの深い憎悪を宿した眼光を向けた。

「だと……!?」

「その下顎さ」ユリウスは首を傾げ、純粋な称賛の色を浮かべた。「昔から、鉄の下顎を持つキャラクターのデザインには目がないんでね。目を引くし……どこか野性的で……圧倒的な重みと威圧感を感じさせる……正直、君の魅力が一段と引き立ったよ」

ニドホッグは地面に唾を吐き掛けようとした(もっとも、金属の顎のせいでそれは奇妙な仕草になってしまったが)。

「貴様の趣味は、その腐った舌と同じくらい悪趣味だな、人間」

ユリウスは低く笑った。

「かもしれないね。だが、君はまだ僕を殺そうとはしていない。つまり、心のどこかでは、僕が君の貴重な時間を数秒割く価値くらいはあると認めている証拠だ」

ニドホッグは答えず、ただ彼を睨みつけた。

ユリウスはまるで、地下十一階の監獄の底ではなく、おしゃれなカフェで哲学でも語り合うかのように、穏やかで日常的なトーンで語り続けた。

「外の世界が嫌いでね、ニドホッグ。心底、吐き気がするほどに。根元から腐りきっている。臆病な官僚ども、恐怖を売り物にするメディア、正義を茶番劇に変える小賢しい弁護士たち、そして何より――『無能どもの遺産』に支えられている。何も生産せず、何も生み出さず、何のために戦うわけでもない……それでありながら、空間を我が物顔で陣取り、資源と敬意を要求する者たちだ」

彼は横へ一歩踏み出し、重いコートのポケットから両手を抜いた。

「改革など無駄だ。過去の者たちが試み、そして失敗してきた。唯一の解決策は、すべてを根こそぎ引き抜くことだ。今のシステムを灰燼(かいじん)に帰し、その灰の上から新しい世界を構築する」

ニドホッグは微動だにせず、その片目で彼を捉え続けた。

「その世界ではね……」ユリウスは言葉を継いだ。「才能がすべてを支配する。血筋や家柄だけで王座に居座るような愚王どもではなく、真に統治の才を持つ者だけが王座に就く。凡庸さを守るための法律など存在しない。人々は、他人に刷り込まれた空虚な理由や金のためではなく、己が心から信じるもののために戦い、そして死んでいく」

彼はニドホッグの目の前でピタリと立ち止まった。

「弱者や無能は淘汰される。才能ある者たちが、自由の翼で栄華を極める。私はステータスや外見、金などには興味がない。興味があるのは『才能』だけだ。車椅子に乗った天才詩人は、千人の凡庸な将軍よりも価値がある。だが、ただ消費するだけで何も生まない者たちに……呼吸をする資格すらない」

ニドホッグがようやく口を開いた。金属の下顎を通して響くその声は、地を這うように低く、しわがれていた。

「――竜は、決して頭(べべ)を垂れぬ」

ユリウスは思わずまばたきをした。

「いっ――いや、頭を垂れろなどと言っているわけじゃない!」ユリウスは即座に言い返した。その声には、彼にしては珍しい真摯な重みが宿っていた。「私が求めているのは、私の下に這いつくばる部下などではない。対等な『同志』だ。同じ滾る炎を宿した者たちさ。君は本物の竜だ。その力は計り知れない。そして――『実の兄』ファフニールに対する君の復讐心……私のもとへつけば、奴の首を君自身の爪で引き裂くチャンスを与えてやろう。私の隣に立て。私に屈するのではない」

ニドホッグは長き沈黙を守った。やがて、冷笑と誇りに満ちた、低く金属質な笑い声を漏らす。

「人間にしては、大層な口を叩く。だが結局のところ、貴様も竜の力を利用したいだけの輩にすぎん」

「違うね」ユリウスは首を振った。「私は、私が創り上げる世界に『竜の存在』が不可欠だと言っているんだ。竜だから欲しいわけじゃない――私の言ったことが聞こえなかったかい? 君の『才能』が欲しいのさ!」

ニドホッグが完全にその巨体を立ち上がらせた。残された鎖がすべて弾け飛ぶ。二メートルの巨体がうねり、赤く妖しく光る照明の下で銀色の鱗が輝いた。

「竜が、虫けらなぞと並び立つものか!」

ニドホッグの地を揺るがす咆哮の余韻を断ち切り、放たれたのは――一撃の拳だった。

その拳速は、大半の生物の知覚領域を完全に凌駕していた。空気が爆散する。ニドホッグの拳は、わずかコンマ一秒前までユリウスの頭部があった空間を穿った。

ユリウスは首をわずかに傾けるという最小限の動作でそれをかわす。

だが、拳の余波は止まらなかった。

ホール全体を突き抜け、厚いコンクリートの壁を粉砕し、果ては巨大な山脈の岩盤そのものを貫通した。何キロも先の前方に向かって、大地にはまるで神の爪痕のごとき深く真っ直ぐな亀裂が刻み込まれる。

粉塵と砕けた石の雨が降り注いだ。

ユリウスの傍らにいたエルーシャは、その圧倒的な気圧の奔流に耐え切れず床に膝をつき、大きく見開いた目でただ一つの事実を飲み込んでいた。

(――なんなの、この圧倒的な出力は……っ!)

だが、当のユリウスはその場に微動だにせず立ち尽くし、衝撃波でコートの裾をわずかに揺らしているだけだった。

「頼むから」相変わらずの穏やかな声で彼は告げる。「少し話を聴いてくれないか、私は本気で言っているんだ」

ニドホッグは咆哮した。その轟音は、まるで金属箱に閉じ込められた雷鳴の如くホールを震わせる。

「貴様の言葉など欲すまいよっ!」

「わかっているとも」ユリウスは、まるで愛しい我が子を諭すかのように小さく息を吐いた。「君が求めているのは言葉ではない。暴力だ。血だ。人間ごときが自分と対等に口を利くなど思い上がりだと思い知らせたいのだろう。……いいだろう、それなら君の望み通り、その暴力を以て君の頭をすっきりと冷やしてあげようか」

彼は右手を掲げた。

その背後に、圧倒的な黄金の輝きが顕現する。

――《天国への扉(Bohemian Rhapsody)》。

ユリウスの背中に、監獄の底を真昼のように照らし出す巨大な黄金の光輪(アウレオル)が形作られた。そこから生み出されたのは、三対の天使の翼――大きく、眩いまでに輝き、純金糸で織り上げられたかのような光の羽毛で構成された聖なる翼だった。その翼はゆっくりと広がっていき、背後の一帯をほとんど神聖不可侵な空間へと変貌させていく。

すべての《反転律(インペトゥス)》には、固有の『発現形態(エヴォーカー)』が存在する。

それは唯一無二であり、象徴的であり、紛れもない証。

運命の子の力が、この世界にその姿を現すための器。

その形態は固定された標準などではなく、それぞれの運命の子の魂によって千差万別へと変化する。

そして、ユリウス・カエサルのそれ――それはまさに、これだった。

世界に対して膝を屈するなどという意志は毛頭ないという、あまりにも鮮烈な視覚的宣戦布告。

彼は、世界を従えるためではなく――世界を根本から書き換えるために顕現する。

黄金の翼の合間から、ユリウスは不敵に笑みを浮かべた。

「さあ、始めようかニドホッグ君! 暴力をもって、君のその凝り固まった頭を存分にほぐしてあげよう!」

「――ケルビム!」

ユリウスは片手を掲げ、そう詠唱した。

エルーシャの周囲の重力が、荒々しく、かつ精密に反転した。彼女の身体は、見えない何者かに腰を掴まれたかのように突如として上方および後方へ引きずられ、ホールの壁に開いた亀裂の向こうへと放り出される。抗議する暇すら与えられず、彼女は外側廊下の暗闇へと消えていった。

ユリウスが腕を下ろす暇すらなかった。ニドホッグはすでに目の前に迫っていた。

人型を保った竜は、筋肉と憎悪の雪崩となって突進する。赤く妖しく光る照明の下で金属の下顎の拳が光り輝き、破壊的なアッパーカットが繰り出された。ユリウスは顔の前に前腕を交叉させ、直前で重力を操作して自身の密度を急激に高める。鋼鉄の箱の中で雷鳴が爆ぜたかのような重厚な衝撃音が響き渡った。

ユリウスの身体が数メートル滑るように後退し、その両足がコンクリートの床に深い亀裂の溝を刻むが、倒れることはない。重い冬用コートの肩口が引き裂かれていた。彼は笑みを浮かべた。

彼は冷え込むコートを脱ぎ捨て、その下からトレードマークの端正なスーツ姿を露わにする。

「どんな状況であれ、戦いにおいてエレガンスは不可欠だからね」

重厚なコートを無造作に床へと放り投げる。

「強い。実に強烈だ」腕を軽く振り払いながら彼は言った。「だが、まだまだ些か予測可能(プリディクタブル)だな」

ニドホッグは言葉で返さなかった。代わりに放たれたのは、さらなる一撃だった。

拳と拳の激突。肘打ち。膝蹴り。そして無数の打撃と蹴撃。ニドホッグは自然災害のように襲いかかり、一撃ごとにビルをも粉砕しかねない質量を載せ、周囲の環境に次々とクレーターと亀裂を穿っていく。対するユリウスは、武装こそないものの、ほとんど優雅なまでの流麗さで重力を微細かつ連続的に操り続けていた。攻撃の瞬間には重力を増して拳の威力を跳ね上げ、逆に敵の攻撃を受け止める必要のある時は自身の重量を減衰させて衝撃を吸収する。

ニドホッグの重い拳がユリウスの胸元を狙って繰り出された。ユリウスは胴体をひねり、重力で自身の肉体を強引に下方へ引き下ろすことでミリ単位で回避し、直前の瞬間で増幅されたアッパーカットで応戦した。その一撃がニドホッグの金属の下顎を直撃し、竜に半歩だけ後退を強いる――ユリウスが奴のスピードに完全についていけているという、初めての明確な証拠だった。

「面白いっ!」ユリウスは少しだけ呼吸を荒げながら声を弾ませた。「だが、その下顎の凹みは早めに直しておいた方がいい」

ニドホッグはさらに加速し、再び猛進した。短く重い連打の嵐がユリウスを後退へと追い込み、ブロックと回避を強要する。すべての衝撃が床を揺ルがし、黒いコンクリートの上に蜘蛛の巣状の亀裂が無限に広がっていく。

「人間にしては、よくやる」鉄の下顎を通して響くニドホッグの声は唸りを帯びていた。「だが、結局のところはその程度だ。高々、一人の人間にすぎん」

ユリウスは横蹴りを見切り、自身の密度変化によって生み出した重力制御の膝蹴りで反撃した。

――*《智天使(ケルビム)》*の密度増幅を乗せた膝が、竜の腹部に深くめり込む。その重撃に、ニドホッグの喉から低い苦悶の唸りが漏れた。

「そして君も、長年穴の底で鎖に繋がれていた割にはなかなかの健闘ぶりだよ」ユリウスは皮肉めいた、だが蔑みのないトーンで言った。「正直、感心させられる……だが、一つだけ理解しておきたまえ」

ユリウスはまるで何かを懇切丁寧に教え込むかのように、スッと人差し指を立てた。

「――人間であることは、決して欠点などではない」

ニドホッグの動きがコンマ一秒だけ硬直した。その片目が細められた瞬間、彼の周囲の空気が一変する。

全身へ急速に拡大していく銀色の鱗。強靭に発達していく肩幅。二メートル半へと膨れ上がる巨躯。顔面が伸長して獣のそれに変わり、下顎の金属パーツもその異形の変異に追従するように巨大な牙の形状へと拡張していく。わずか数秒のうちに、ニドホッグは完全な「竜人(ドラコニュート)」の姿へと変貌を遂げていた。

鋼鉄の下顎の隙間から、青白い焔が漏れ出し始める。

「――遊びは終わりだ」野獣の唸り声で彼は告げた。

ユリウスは片方の眉を跳ね上げ、背後の黄金の翼をゆるやかに羽ばたかせた。

「おや。いよいよ本気というわけか。なら、私も少し真面目に付き合うとしようかね?」

ニドホッグが大きく口を開き、凝縮された青き高熱のブレスを吐き放った。ユリウスは右手を掲げる。

ユリウスは不敵に微笑み、名を呼んだ。

――《熾天使(セラフィム)》!

彼の前方に、高密度でまばゆい黄金の光壁がそそり立つ。青き焔は光壁に激突して四散し、周囲の床や壁を溶かし尽くしていった。異様なほどの熱気が渦巻く中、光の障壁は微動だにせず原形を保ち続けている。

炎が完全に消え去るよりも早く、ニドホッグはすでにその懐へと踏み込んでいた。鱗と青き焔に覆われた拳が、処刑のハンマーの如く振り下ろされる。

ユリウスは身体を滑らせ、重力を利用して横方向へ弾丸のように加速し、増幅された回し蹴りで迎え撃った。衝撃がニドホッグの胸を捉え、銀の鱗をきらめかせながら二歩後退させる。

「貴様は本当に、大層な名前を付けるのが好きだな」ニドホッグの声は一段と野獣の響きを帯びて唸った。「セラフィムだのケルビムだの、聞き飽きたわ! ガキの戯言めいたネーミングセンスだな!」

ユリウスは光の翼に身体を浮かせ、空中でバランスを取りながら低く笑った。

「スタイルと呼んでほしいものだがね。まぁ、君がそこまで気にするなら……このまま続けさせてもらうとしよう」

ニドホッグが再び肉薄し、純粋な暴力と近距離の青き爆炎を組み合わせた連撃を浴びせかける。ユリウスは重力操作と光の障壁を途切れることなく切り替えざるを得なかった。竜が肉弾戦を挑めば重力で自身の拳を重くするか受ける衝撃を逃がし、青き焔が放たれば即座に光の防壁や収束ビームで迎撃する。

闘争は破壊し尽くされた監獄の奥底で果てしなく拡大し、無数のコンクリート片が宙を舞った。空気は溶けた岩石と焦げた金属の臭いで満たされている。ユリウスの黄金の翼がリズミカルに羽ばたき、対するニドホッグのプラチナの鱗が監獄の赤き警告灯を鏡のように反射させていた。

ユリウスは重力で強化された前腕でまた一つの強打を受け止め、歯の隙間から笑みをこぼす。

「――ようやく面白くなってきたじゃないか、ニドホッグ君」

竜は咆哮をもってそれに答え、一段と苛烈な青き焔の奔流を解き放ったのだった。

ユリウスは空中で身を翻して回避し、それから右手を掲げた。

その指先の間で黄金の稲妻がバチバチと音を立てて弾け、周囲の空気が強烈な静電気を帯びていく。背後でゆっくりと羽ばたく光の翼が、その輝きを一段と増した。

「――《主天使(ドミニオン)》!」

轟音とともに放たれた強力な一撃の雷光がニドホッグめがけて疾走した。竜は紙一重でそれを回避したが、着弾地点にはニドホッグの最初のパンチをも凌駕する巨大なクレーターがえぐり出された。

ニドホッグが超高速で肉薄してきたのを見て、ユリウスは再び右手を構える。

「今の雷をかわしたかい? おいおい、まさかマッハ1,000から2,000の領域で動いているって言うのかい? それなら――常識の論理をブチ折る雷を見せてあげよう!」

「――《熾天使(セラフィム)》よ、《主天使(ドミニオン)》よ! その翼を重ね合わせ、一つの神罰を下せ!」

「――『天罰のオーロラ(アウロラ・デ・アニキラサオン)』!!」

ユリウスの背負う翼が大きく広がり、まばゆい光と稲妻を一つの方向へと収束させ、ニドホッグを射抜かんとした――だが。

その攻撃が放たれることは、決してなかった。

刹那、ユリウスの身体はまるで目に見えない途方もない何かに激突したかのように、突如として真横へと吹き飛ばされた。

彼の肉体は破壊された壁面に激しく叩きつけられ、新たなクレーターを刻み込む。口の端から鮮血が一筋、ツーと流れ落ちた。

彼はよろめきながら頭を上げるが、ほんの一瞬前までそこにいたはずのニドホッグは、すでに何メートルも離れたホールの別の一点へと移動していた。

ユリウスはゆっくりと立ち上がり、手の甲で血を拭う。

彼の周囲では、重力・光・雷の三つの力が同時並行で顕現し、即座の連携迎撃態勢を構築しようとした。

その時、ユリウスの翼に異変が起きた。

羽毛の一枚一枚に、黄金の「目」が開き始めたのだ。

一つ……二つ……三つ……四つ……。

聖なる翼の羽にいくつもの黄金の眼球が形成され、まるで眠りから覚めるかのようにまばたきをする。その瞬間、膨大な情報が脳内へと直接流れ込んでくるのをユリウスは感じ取った。

(――そういうことか……奴は時間を止めているのか! 単なる超速度じゃない、時間の操作だ!)

ニドホッグはさらなる追撃の暇を与えなかった。

彼の肉体が狂暴なまでに膨れ上がり始める。プラチナの鱗が増殖し、四肢が伸長し、背中から巨大な二対の膜状の翼がバサリと展開された。数秒のうちに、竜人は全長三十二メートルの完全なる「古竜(エルダードラゴン)」へと変貌を遂げた。

ニドホッグが大きく口を開き、床全体を木端微塵に吹き飛ばすほどの凄まじい咆哮を放った。

あらゆる方向からマグマが噴出し、まるで地球の核そのものが開放されたかのような光景が広がる。黒いコンクリートは秒速で溶解し、青き焔の柱と沸き立つ溶岩が通路を這い上がり、すべてを飲み込んでいく。1万1千階の広大なホールは自重で崩壊を始め、あまりの熱量に空気がねじ曲がり、壁面そのものが液状化していった。

「――『チクシュルーブ・インパクト』!!」

溶岩は瞬く間に岩石や巨大な隕石へと変化し、発生した爆風によってさらなる混沌と破壊の領域が拡散されていく。壁面自体が隕石と化し、かつて監獄であった空間の内部をカタクリズムの如く破壊し尽くしていく。

そして――時が、本当の意味で停止した。

マグマが空中で凍りつき、宙を舞う溶岩のしずくが赤き宝石の輝きを放ったまま静止する。青き焔があり得ない形状で固まり、監獄のみならず世界そのものが、完全に硬直した。

――《ラプラスの竜(ドラグーン・オブ・ラプラス)》。それが、ニドホッグの有する権能の名だった。

完全なる竜の姿のまま、ニドホッグは停止した時間の中を完全に自由へと闊歩した。彼は黄金の翼を広げたまま身動き一つできない状態で宙に浮くユリウスへと近づき、その喉の奥に途方もない量の青き焔を凝縮させる。ユリウスを分子レベルで蒸発させるための直撃の爆発を準備して――。

だが、彼は足を止めた。

ニドホッグは違和感を覚えて鼻先をひそめる。彼はまだ、攻撃の動作すら起こしていなかったはずだった。

彼は、爆風で負傷したユリウスが宙を飛んでいる光景を目撃し、再び『ラプラスの竜』を発動させて新たな停止領域を作り出し、さらに破壊的な技を準備しようとした――。

『時空腐敗の青き業火(タイム・コラプト・ブルーフレア)』!!

周囲の青い焔が不自然にねじれ、自らの時間潮流を腐敗させながら、爆発寸前の恒星のように凝縮していく。だが、その攻撃を解き放つよりも前に……。

彼は気づいた。自分はまだ一度もその技を発動しておらず、時間が停止する直前の全く同じ場所に立ち尽くしていることに。

(――いったい、何が起きている……ッ!?)

気づいたときには、すでにユリウスの姿は消えていた。

ニドホッグが正気に戻ったとき、彼はもはや全長三十二メートルの竜の姿ではなく、元の身長二メートル半の竜人形態へと引き戻されていた。そして、抗いようのない不可避の何かが、彼の身体を破壊された床へと激しく押し付けていた。

それは――奇点(シンギュラリティ)だった。

竜人としての圧倒的な耐久力すらも文字通り圧潰しかねないほどの超高密度なミニチュア・ブラックホールが、ひび割れたコンクリートと未だ冷めぬマグマの合間で彼を地面へと縫い付けている。周囲の光や空気すら歪むほどの高重力。

――《智天使(ケルビム)――極限形態(クリティカル・フォーム)》!

ユリウスは数メートル離れた空中に漂っていた。黄金の翼はなおも開かれていたが、今はマグマの及ばない安全圏へとゆっくりと着地したところだった。端正なスーツはボロボロに引き裂かれ、煤けていたが、その立ち姿は相変わらず気高く気品に満ちていた。翼に宿った無数の黄金の目が、まだ情報を処理するかのようにゆっくりとまばたきをしている。

砕け散った床に押し潰され、全身傷だらけのニドホッグは、剥き出しの片目で濁りなき殺意をぎらつかせた。

「……どう、やって……?」

金属の下顎と凄まじい重圧に歪められた声が漏れる。

ユリウスはふっと軽く首を傾げた。

「――僕が、時間を巻き戻したのさ」

それから?

まぁ……その後で、時間を止めてあげたんだよ。

重苦しい沈黙が落ちた。崩壊しゆくホールに、ニドホッグの絶叫が響き渡る。

「――バカな、そんなことがあってたまるか! 時を統べる『ラプラスの竜』は、この俺だけのものだッ!」

ユリウスは、まるで礼儀正しい優等生のような薄笑いを浮かべた。

「実に素晴らしい名前だね。だが、これからは僕のレパートリーにも加えさせてもらうよ。だって……これこそが、僕の力、僕の『インペトゥス』なのだからね」

マグマの泡が弾ける爆発音にかき消され、その後に続いたユリウスの言葉を聞き取ることはできなかったが、読唇術で読み取るなら、ニドホッグは間違いなく恐怖の色を滲ませていた。

ユリウスはニドホッグに向けて右手を差し出し、竜がどうにか呼吸を取り戻せる程度まで重力奇点の密度を緩め、やがてそれを完全に消滅させた。

「私にはね、君のその傷を癒やせる知人がいるんだ。ここで君を殺すこともできたがね……だが、そんなことをすれば才能の無駄遣いというものだろう? 私は自分の掲げる理想にどこまでも忠実だ。最後まで、優れた才能を持つ者たちを私の側に集めると決めている」

ユリウスは右手を差し出したまま、背後の黄金の翼を優しく羽ばたかせる。

「さあ……どうする? この好機を受け入れるかい、それとも、ここで無様に立ち枯れる道を選ぶかね?」

場面は現代、学園の執務室へと戻る。

ユリウスはデスクの上で両腕を大きく伸ばし、骨をポキポキと鳴らした。

「ふぅ……今回の出張はなかなかに刺激的だったね。心から生きている実感が湧くよ」

ユリウスは立ち上がると、講義室へと向かった。学生たちが一歩、また一歩と席を埋めていく。

教室が満杯になり、何事もなかったかのように授業が再開される。

「先生、ここ数日どちらに行かれてたんですか?」

一人の生徒が手を挙げて尋ねた。

「私かい?」ユリウスはいつもの涼やかな笑みを学生に向け、こう答えた。「まぁね、ちょっとした出張さ。それだけだよ……っとね」

深夜、リヒター邸を静寂が包み込んでいた。

フレデリカはベッドの中で何度も寝返りを打っていた。不快感は明白だった。部屋は広く、黒と赤の重厚なベルベットのカーテンが垂れ下がり、暗いヴェールで覆われた天蓋付きベッドと、大多数の人間が伝説と見なす魔法や儀式、異形の存在に関する古書で埋め尽くされた本棚が並んでいる。部屋のあらゆる場所には、ぬいぐるみが所狭しと置かれていた。くまのぬいぐるみ、耳の長いウサギ、そして幼少期に幼い頃に大切なお世話係である執事から贈られ、肌身離さず持ち続けている青いドラゴンのぬいぐるみ。その空間は、ゴシック様式の気品と、彼女が人前では決して認めようとしない幼少期の愛らしさが同居していた。

彼女はもがき続けていたが、すでに深い眠りの中にあり、一つの夢を見ていた。

彼女は再び小さくなっていた。今よりもさらに明るい金髪に、泥と落ち葉で汚れたレースのドレス。邸宅の背後に広がる深い森を、一人で無邪気に笑いながら駆け抜けている。追いかけてくるのは己の想像力だけ。ふと足を止め、息を荒げながら見上げた。

――影が、その場のすべてを覆い尽くした。

樹木の上空を、あまりにも巨大な何かが通過していく。太陽を遮るほどの巨大な翼。長く、力強き筋骨の躯体。ほんの数秒間、彼女は本物のドラゴンが森の上空を飛翔しているのだと確信した。

フレデリカは心臓が跳ね上がるのを感じながら、家へと一目散に駆け戻った。

靴も脱がずに勝手口から飛び込むと、そこにはいつもと変わらぬ姿の執事がいた。何十年も変わらぬ精密さで、厨房でティーカップを並べている。

「ファフニール!!!!!!」

背が高く、圧倒的な存在感を放つ男。綺麗に整えられた白髪に、手入れの行き届いた髭。黒のベストに寸分の狂いもない白シャツ、そして手袋というクラシカルな執事服を身に纏っている。彼には左腕がなく、ジャケットの袖は折りたたまれて丁寧にとめられていた。その顔立ちには年老いた静謐さとどこか疲憬した色が漂っていたが、その瞳には未だ鋭い光が宿っている。

「フレデリカお嬢様」彼はすぐには振り返らずに言った。「まるで幽霊でもご覧になったかのようなお顔ですね」

「幽霊なんかじゃないわ!」彼女は笑みを抑えきれずに叫びそうになった。「ドラゴンよ! 本物の! 私の真上を飛んでいたの!」

ファフニールはゆっくりと振り返った。その表情には、控えめな楽しげな色が浮かんでいる。

「真面目なお話ですか、お嬢様? ドラゴン……ですか。ホッホ……私には少々信じがたいですがね」

「見たのよ! 本当に見たんだから! 翼がすごく大きくて、影で全部が真っ暗になったの!」

「では、お嬢様はそのような時間に、お一人で森で何をなさっていたのですか?」

「遊んでいたの!」フレデリカは憤慨したように腕を組んだ。「話題を逸らさないで! 私はドラゴンを見たのよ!」

ファフニールは少し腰を落とし、彼女の目線に合わせようとした。もっとも、二人の身長差を考えれば、それでもなお彼の方が見下ろす形にはなっていたが。

「なるほど、お嬢様はドラゴンをご覧になったのですね。結構なことです。して、その大変貴重な情報を手にされて、これからどうされるおつもりですか?」

「みんなに話すに決まってるじゃない!」

「ご慎重になさることをお勧めいたします。ドラゴンとは気難しい生き物でございますから。それに、世の大半の人間は彼らの存在を信じておりません」

「でも……私は見たのに……」

「お嬢様が『見た』と信じていらっしゃることは、私も信じておりますよ」ファフニールは穏やかに答えた。「今のところは、それで十分でございましょう」

フレデリカは口を尖らせたが、本気で腹を立てることはできなかった。この男の声には、彼女がどれほど興奮していても、不思議と心を落ち着かせる力があったのだ。

「……ねえ、いつかまた会えると思う?」

ファフニールは、必要以上に長い一瞬の間、沈黙を守った。

「……かもしれませんね、お嬢様。あるいは、ね」

◇

フレデリカは押し殺した悲鳴とともに目を覚ました。

左肩に奔った激痛があまりにも鋭く、彼女はベッドの上で身悶えしながら落っこちそうになった。右手でその場所を強く押さえるが、指先が激しく震える。呼吸は浅く荒い。一瞬、まだ夢の中にいるのかと思ったが、痛みはあまりにも現実的すぎた。彼女は千鳥足で立ち上がり、部屋の浴室へ向かって明かりをつけた。

鏡に映った自分の姿に、彼女は氷ついた。

あの儀式の日から刻まれていた黒い傷跡が、綺麗さっぱり消え去っていたのだ。

その代わりに、左肩から腕にかけて新しい刻印が広がり伸びていた。リボン――単純な図形ではない。まるで生きている黒インクで皮膚に直接刺繍されたかのような、緻密で複雑なリボンだった。上部は優美な結び目を形成し、『帯』の部分は肘のあたりまで複雑に編み込まれ、先端は鋸(のこぎり)の刃のように鋭く研ぎ澄まされた形状で終わっている。色は深く濃い漆黒で、光の加減によって固形化した影であるかのように妖しく揺らめいていた。

フレデリカは指先でその刻印に触れた。痛みはすでに引いていた。

「……一体全体、何なのよこれ?」

◇

翌日、オカルト研究会の部室はいつものように静まり返っていた。設立以来、この4人しか部員がいないのだから当然である。フレデリカがドアを必要以上の力で開けて入ってきた時、佐村たける(サムラ・タケル)はソファで寝そべっており、マキシミリアン・シルヴァはスマホをいじり、鶴城悠吾(ツルギ・ユウゴ)は窓際の椅子に座っていつも以上に疲れた顔をしていた。

「あなたたち、信じられないことが起きたわ」

彼女はドレスの袖をぐっと捲り上げ、肩から腕の一部を露わにした。

光の下で、漆黒のリボンがはっきりと浮かび上がっていた。

ユウゴは椅子がひっくり返りそうな勢いで立ち上がった。

「俺もだ!!!! じゃあ、お前も同じ目に遭ったのか!?」

予想以上に大きい声が出た。タケルはすぐさま体を起こし、マキシミリアンもスマホをポケットに収めた。

「は?」

ユウゴは一瞬だけ躊躇したが、シャツのボタンをいくつか外し、生地を脇へ寄せて胸元を晒した。

心臓のすぐ上に、新しい刻印が刻まれていた。赤と青の二本の極太な螺旋のラインが互いに絡み合い、中心で交差して深い紫へと混ざり合っている。

「昨日の夜、夢を見たんだ」ユウゴは説明した。「目が覚めたら胸が猛烈に痛んでさ。タケルの奴、俺が心臓麻痺でも起こしたかと思ったらしい」

タケルが両手を挙げた。

「当たり前だろ! お前が叫びながら悶絶してんだから、本気で死ぬかと思ったわ!」

フレデリカはユウゴの胸元を、必要以上に長い時間見つめていた。

そして、自分が何をしているかに気づいた。

彼女の顔が一瞬で真っ赤に染まった。激しい勢いで視線を逸らし、彼を指さした。

「今すぐそのシャツを閉じなさい、この変態! 誰もあんたの胸板なんて見たくないわよ!」

ユウゴはまばたきをし、苦笑いを浮かべながら慌てずにシャツのボタンを締め直した。

「悪い。重要なことだと思って見せたんだが」

「重要だけど!」フレデリカはまだ赤くなった顔のまま、腕を組んでぶつぶつと文句を言った。「グラビア雑誌みたいに見せびらかす必要はないでしょうが!」

マキシミリアンが二人を交互に見比べた。

「つまり……二人とも変な夢を見て、激痛に襲われて、唐突に新しい刺青(タトゥー)が生えてきたってわけか」

「まあ、大体そんなところだ」ユウgoはうなずいた。

タケルが身を乗り出し、ここ数日で初めて真剣な興味を示した。

「で、どういう意味なんだ? 二人とも強くなったのか? 何か変わったのか?」

フレデリカは指先で肩のリボンに触れた。

「まだわからないわ。でも……これを見ていると、何かがついに収まるべき場所に収まったような感覚があるの。まるで、魔法が……明確な形を得たみたいな」

ユウゴも深くうなずいた。

「俺も同じだ。痛みは消えた。それに変な感覚がある。内側から……何かを引き出せるような」

短い静寂が室内に落ちた。

最初にそれを破ったのはタケルだった。

「いや、でもマジな話さ。胸に螺旋(スパイラル)で、肩にリボンだろ? 二人とも、ちょっとデザインが……具体的すぎないか?」

「私が自分で選んだデザインじゃないわよ!」フレデリカが苛立ったように言い返した。「勝手に浮かび上がってきたの!」

「俺のもそうだ」ユウゴが付け加えた。「俺だって螺旋なんてそこまで好きじゃないしな……っていうか、誰がそんなに螺旋を好きなんだよ?」

「螺旋(スパイラル)か……。もしかしたら『回転(スピン)』でも使えるようになるんじゃないか?」

マキシミリアンがクスッと小さく鼻で笑った。

「……は?」ユウゴが首を傾げる。

「さあね。魔法ってやつは、案外とんでもなく悪趣味なユーモアセンスを持ってるのかもな」

マキシミリアンの言葉に、フレデリカは殺気立った視線を向けたが、反論はしなかった。代わりに再びユウゴへ意識を向けた。

「何かを引き出せるって言ってたけど……どういうこと?」

ユウゴは彼女の視線を受け止めた。一瞬、二人の間の空気の密度が増したような錯覚があった。

そして彼は不敵に口角を上げた。何かやらかす直前にしか見せない、自信に満ちた少し挑発的な笑みだ。

「よし、フレデリカ」

彼は一歩前へ踏み出した。胸元は雑に締め直したシャツのせいで、まだ少し肌が覗いていた。

「俺が何ができるようになったか……見せてやるよ!」

ユウゴは胸の前に右手を差し出した。

螺旋の刻印が一度だけ強く明滅し、彼の目の前の空中に濃紺と黄金色の光が凝縮していく。まるでそこで直接鍛造されているかのように激しく回転しながら、わずか数秒のうちにその輝きは確固たる形へと固まった。

鶴城悠吾の両手に、一振りの両手持ち長剣(ロングソード)が出現した。

柄頭から柄にかけては深い濃紺で覆われ、その表面には金細工の繊細な装飾が優美な模様を描いている。護拳(ガード)も同じく濃紺の色合いを持ち、金継ぎの技法を思わせる黄金のラインで飾られていた。刀身は純銀の如く長く、真っ直ぐに伸び、一切の曇りなく磨き上げられており、部室のランプの光をまるで生命が宿っているかのように反射している。単なる武器などではない。切断するための道具であると同時に、いつまでも眺めていたくなるほどの芸術品だった。

ユウゴは両手でそれをしっかりと握りしめ、バランスと重さを確かめる。その顔には、小さく、だが心底満足げな笑みが浮かんでいた。

「――ウッソだろ……っ!!」

タケルがソファから飛び上がるように立ち上がった。

「これ……マジのやつ? ガチでリアルなやつかよ!?」

普段は無関心を装っているマキシミリアンも、見開いた目をさらに限界まで大きくしていた。

「あいつ……自分の胸の中から、普通に取り出しやがったぞ……」

フレデリカは数秒間言葉を失い、その剣へと視線を釘付けにしていた。彼女の表情には、驚愕、嫉妬、そしてほとんど畏敬に近い感情が入り交じっている。

「……きれいね」普段より少し低い声で彼女は認めた。「バールみたいに美しいじゃない……じゃなくて、バカみたいに美しいじゃない……でも、まあ、大したことないわよ」

フレデリカは現実逃避するようにぷいと顔を背けた。

ユウゴは剣を空中で一度だけ軽く回転させ、その動きへの優れた応答性を確かめると、刃先をふわりとフレデリカの方へと向けた。

「次は、お前の番だ」

「は?」

「集中しろ。刻印を感じるんだ。俺がやったみたいに、中にある何かを引きずり出せ」

「どうやってよ?」

「さあな、お前のやり方でいいんだよ」

フレデリカは眉間を寄せたが、それ以上反論はしなかった。彼女は一瞬だけ目を閉じ、肩から肘にかけて伸びる漆黒のリボンに右手でそっと触れる。呼吸が規則正しく整えられていく。その瞬間、刻印が深紅と漆黒の怪しい光を放ち始めた。

彼女の腕の周囲の空気が激しく揺らぎ、腕を引き抜くように動かすと――そこにチェーンソーが形作られた。

それはありふれた無骨な道具などではなかった。本体のベースは黒と白で統一され、フレデリカの好みを体現するかのような洗練された美しいラインを描いている。鮮やかな赤いリボンが構造の一部として組み込まれ――柄の部分に一つ、モーターの近辺に一つ、そして武器のボディ全体にまるで精巧な装飾品のように幾重ものリボンテープが絡みついていた。だが、その先端に備わる刃はまごうことなき実用のチェーンソーであり、切断と破壊のために特化した金属の鋭利な歯が剥き出しになっていた。

フレデリカは目を見開き、両手でしっかりと把持したその武器を見下ろした。まだモーターは起動していないが、確かな質量と冷たい金属の質感が手に伝わってくる。鮮やかな赤いリボンは、微かな光を浴びてまるで生きているかのように艶めいていた。

「……できた! これって……チェーンソー?」

彼女の声は小さく、自分でも信じられないといった響きを帯びていた。

タケルが一歩踏み出し、まるで幽霊でも目撃したかのようにそのチェーンソーを指さした。

「おい……それ、チェーンソーだぞ。しかもリボン付きの。チェーンソーに赤リボンってなんだよ」

「見ればわかるわよ! いちいち繰り返さないで!」フレデリカは自分の武器を凝視しながら言い返し、その口元には誇らしげな笑みがわずかに浮かびかけていた。

マキシミリアンは片手で顔面を覆った。

「お前らの魔法、マジで頭おかしいだろ。一方は王道ファンタジーの聖剣を引き抜いて、もう一人は殺戮ファッション狂のチェーンソーだぜ」

「剣とチェーンソーの魔法かよ。だが、今のところ火の玉一つ飛んできやしねぇな」

「まあ、下手に火なんか出されるよりはマシか……この部屋で事故を起こすのはもう懲り懲りだしな……」

ユウゴは剣の切っ先を下ろし、笑みをたたえたままフレデリカを見た。

「似合ってるじゃねえか」

「似合ってるどころじゃないわよ」彼女は訂正するように鼻を鳴らし、チェーンソーを試すように軽く回してみせた。赤いリボンが優雅に舞う。「完璧よ」

タケルは腕を組み、あからさまに感嘆と羨望の入り混じった顔をした。

「いーよなー! お前ら二人だけ自分専用の魔導武器持ちやがってさ! 俺とマキシミリアンはどうなるんだよ? 俺たちだって一緒に儀式をやったんだぞ、なァ!」

ユウゴは剣を自然に構えたまま、肩をすくめた。

「そのうちわかるさ。だがその前に……」彼は再びフレデリカへと視線を戻し、表情を引き締めた。「俺たちがやるべきは、この武器が正確にどんな力を持っているのかを把握することだ」

「剣とチェーンソーだろ、何ができるって? 切るに決まってんだろ……」マキシミリアンが気だるげに呟いた。

「野暮なこと言わないでよ、魔法なんだから何か隠された機能があるに決まってるでしょ」

フレデリカはチェーンソーを軽く持ち上げ、その眼光を鋭く光らせた。

「だらだら喋ってないで、さっそく試してみるわよ」

ユウゴは手の中で剣を一度だけ回し、見慣れた、それでいて全く新しい重量感を感じ取った。柄と護拳を彩る金色の意匠は、卓上スタンドの光を受けて流動する金の筋のように輝いている――壊れた器を金で修復し、傷跡こそを美とする「金継ぎ」の器を思わせる質感だった。

「――自分で気づいたんだ」

誰とも目を合わせず、ユウゴはぽつりと言った。

「刻印が変わった後、魔法を使おうと色々と試してたら、偶然この剣が呼び出せた」

フレデリカは片眉を跳ね上げたが、追求はしなかった。タケルとマキシミリアンは食い入るように近づいてくる。

ユウゴは剣の切っ先を木の床へと降ろした。

「魔法ってのは……ただ『何かを出現させる』だけじゃない。どっちかというと……プログラミングに近い感覚だ。俺の解釈だけどな」

ユウゴの脳裏に、ユリウスとの会話がよぎる。

「俺たちの周りの空気は、魔法で満ちている。酸素と同じだ。だが大半の人間はそれを直接使えない。だから……触媒(カタリスト)が必要になる。杖、魔導具、武器……何でもいい、『魔法と対話できる物体』がな」

彼は再び剣を持ち上げた。

「俺とフレデリカは、それが必要ない。刻印がその役割を果たしてくれるから、身体そのものが触媒になる。だが……二人にはまだ外部の媒体が必要なんだ」

タケルが腕を組んだ。

「つまり、お前らはイージーモードで生まれて、俺たちはハードモードってことかよ」

「まあ……そんなところだ」ユウゴは認めた。「だが、使えないわけじゃない。やり方が違うだけだ」

「一人で気づいたにしては、随分と詳しいじゃない。最初は信じてなかったくせに」

フレデリカが鋭く突っ込む。ユウゴは疑念を逸らすため、あえてその言葉を無視した。

彼は剣を構え、深く考えずに空を斬った。動作が少々大振りになりすぎた。銀の刃が、部室のテーブルにあった古い卓上スタンドに掠れる。

カチッ――と、乾いた音が響いた。

次の瞬間、卓上スタンドの全体――ガラスのシェードも、金属の土台も、コードすらも――まるで呑み込まれるように剣の刃へと引き寄せられた。室内の明かりが一瞬明滅する。刃が黄金と濃紺の光を強く放ち、やがてその光が静かに定着した。

ユウgoは目を丸くし、己の武器を見つめた。

「……今のは意図的じゃない!」

フレデリカが一歩踏み出し、目を鋭くする。

「何をしたのよ!?」

ユウゴは意識を集中させた。刃の中に、確かにあの卓上スタンドの存在が融合しているのを感じる。彼は剣を掲げ、本能的に魔力を流し込んだ。

剣の形状がハイブリッドへと変質していく。基本のフォルムを保ちつつも、どこかあのスタンドの面影を残した装飾へと変化する。

やがて、刃の先端に柔らかく安定した光が灯った。消えたスタンドの明かりとまったく同じ光だった。

最初に口を開いたのはマキシミリアンだった。

「お前……剣でスタンド食っちまったぞ、ハハッ」

「みたいだな……一体どうなってんだ?」

タケルが刃の先端の光を指さした。

「じゃあ今、お前の剣はスタンド兼用ってことか?」

「……見たところ、そうらしい」

フレデリカは自分のチェーンソーを見下ろし、それから嫉妬と好奇心が混ざった視線をユウゴに向けた。

「理不尽すぎるわ……」

ユウゴが思考を切り替えると剣の光は消えた。だが集中が切れた瞬間、剣の能力が解かれ、融合していた卓上スタンドが分離して絨毯の上に落ちた。

「っと……壊れてなくてよかった」

ユウゴはスタンドを拾い上げ、小机の上に戻した。そして自分の剣を見つめながら思案する。

「……これ使えるかもしれない。二人にも、物体を通して魔力を流す感覚を教えられる。まずは基本からだ」

彼はタケルとマキシミリアンに歩み寄った。

「俺の剣を使ってみてくれ。最初に俺とフレデリカがやったみたいに……魔法陣を描くイメージだ。空気中の魔力を感じて、それを剣の中に『押し込む』んだ。力ずくじゃなく、道を開くイメージで」

タケルがユウゴの剣を受け取った。

それからの時間は、焦燥と小さな発見の連続だった。

ユウゴは二人の構えを修正し、時には自分の武器で手本を見せた。フレデリカはチェーンソーのエンジンを一瞬だけ始動させたが、爆音にマキシミリアンが飛び上がり、彼女自身も室内で高価な備品を壊すわけにはいかないと不満げに停止させた。

何度も試行錯誤を繰り返した末、タケルはユウゴの剣を使って、消えるまでの数秒間だけ小さな魔法陣を展開することに成功した。

「……感じた! 今、確かに感じたぞ!」

続いてマキシミリアンも剣を取り、苦戦しながらも同様に小さな魔法陣を描き出してみせた。

「マジか……俺もできた。ユウゴ、お前の理論は正しかったみたいだな」

ユウゴは心からの笑みを浮かべた。

「二人ともできるさ。あとは自分に合った本当の『触媒』を見つけるだけだ」

フレデリカはチェーンソーを肩に担ぎ、赤いリボンを揺らした。

「なら、次は本物の魔導具を探すことね」

「あるいは……自分たちで作るかだな」ユウゴが付け加えた。

その後も議論は続いた。部室はかつての怠惰な溜まり場から、本格的なオカルト実験室へと変貌を遂げていた。

時計の針が夜の十時を指そうとした頃、タケルが大きくあくびをした。

「そろそろ戻らないとヤバいぞ。管理人に見つかったら部室を凍結される」

全員が同意した。二人が集中すると剣とチェーンソーは光の粒子となって霧散した。静まり返った夜の廊下を抜け、寮への道すがら、ユウゴはタケルの隣まで歩調を緩めた。

「明日か明後日……本気でテストしてみたい」

「何をだ?」

「融合だ。スタンドじゃよく分からなかった。金属、木材、壊れたガラクタ……いろんな物がある場所で試したい」

タケルはポケットに手を突っ込み、考え込んだ。

「街の反対側にスクラップ場がある。事故車や壊れたエンジン、廃材が山積みだ。夜なら誰もいない」

「……決まりだな」

後ろでは、フレデリカとマキシミリアンがチェーンソーの「エレガンスさ」について押し問答を続けていた。やがて四人は別れ、フレデリカは屋敷へ、マキシミリアンは部屋へと向かった。

だが、ユウゴとタケルは足を緩めず、学園の門をくぐり抜けてスクラップ場へと走り出した。

通りを渡った先に、一台の黒い高級車が停車していた。車内の後部座席には、ユリウス・カエサルが静かに腰掛けていた。

(ほう……真に刻印を覚醒させたか。素晴らしいぞ、若きユウゴ君。君が私の隣に立つ日が待ち遠しい……だがその前に、真価を試させてもらうとしよう)

ユリウスは影の深みへと視線を向けた。そこにはもう一人の人物が静座していた。

「――行ってくれたまえ。彼を限界まで追い詰め、進化を促すんだ。ただし殺すなよ? 理想の世界には、彼ら二人(・・)が必要なのだから」

「ふん……任せときな。多少の怪我は覚悟してもらうがね……まぁ、ちょっとした『遊び』と行こうか」

鉄屑の山が広がる夜の廃棄物処理場――そこはまるで、金属の墓場だった。

積み重ねられた錆びた車体、剥き出しのエンジン、引き裂かれたタイヤ、ベコベコに凹んだ車のドア。それらが複雑に入り組み、足場の悪い不規則な通路を形作っている。漂うのは、古びたオイルと錆、そしてゴムが入り混じった特有の臭いだ。

ユウゴとタケルは、有刺鉄線のない裏手から高いコンクリートの壁を飛び越え、山積みにされた空き缶の山へと音もなく着地した。

「おいおい……この場所、記憶の何倍もヤバい雰囲気だぞ」

タケルが周囲を見回しながら、嫌そうに呟く。

すでにユウゴの右手には剣が握られていた。銀色の刀身が、遠くの街灯の微かな光を冷たく反射している。彼は手首を軽く一回返し、魔力が応える感触を確かめた。

「ここにいろ。すぐ戻る」

そう言い残すと、ユウゴは地面を蹴った。

魔力によって極限まで増幅されたスピード。次の瞬間には、彼は十メートル先のトラックの荷台の上へと跳躍していた。さらに一歩踏み込むやいなや、金属の通路を疾風の如く駆け抜け、剣が空気を鋭く切り裂く清らかな音が響く。

「見てろよ」

ユウゴの声が、鉄の山のあちこちにこだました。

彼は跳躍しながら剣を振り上げ、古びた乗用車の車体めがけて縦に一閃を叩き込む。銀の刃はルーフ、座席、そしてフロアに至るまで、まるで紙くずのように軽々と両断した。車体は金属音とともに真っ二つに裂け、左右へと崩れ落ちる。

タケルは思わず口笛を吹いた。

「マジかよ……おい、今のエグすぎだろ」

ユウゴは返事をせず、すでに次の思考に移っていた。彼はトラックのタイヤ――ホイールごと丸ごとのそれに剣を当て、引きずるように魔力を注ぎ込む。

黄金と濃紺の光が瞬き、融合が完了する。

剣の形状が変化した。柄と護拳の「金継ぎ」の意匠はそのままに、刀身にはタイヤの質感と重みが加わった。銀色の金属部に黒いゴムが複雑に絡み合い、より厚みを増した独特のブレード。ユウゴがそれを地面に向けて打ち下ろすと、ゴムの特性が衝撃を完全に吸収し、金属音が一切しないまま鈍いバウンドが生じた。

「なるほど……これじゃ斬撃には向かないが、衝撃を殺したり形状の応用は利くわけか」

納得すると、彼はすぐに融合を解除し、タイヤを元の状態に戻した。

再び俊敏な身のこなしに戻った彼は、タケルが目で追うのも困難なほどの速度で駆け抜け、今度はトラックの巨大なエンジンブロックを文字通り両断した。そして、そのエンジンブロックへと剣を突き刺す。

刀身がみるみるうちに肥大化する。重厚な金属片や剥き出しの歯車が銀の地に食い込み、剣そのものがまるでエンジンの持つ荒々しい暴力を飲み込んだかのように重量を増していく。柄のデザインも、エンジンの形状に合わせて武骨に変化した。

近くにあった車のドアの山に向けて一振り放つと、巻き起こった風圧だけでドアが数メートル先まで吹き飛び、剣の振動からは『ブオオオオッ』というエンジン音が微かに響き渡った。

タケルは一歩後退する。

「おい、お前の武器、どんどん重装備になっていってないか?」

「これでいいんだよ」息を荒げながらも、ユウゴの表情には歓喜の色が浮かんでいた。「重さが変われば、バランスも変わる。素材ごとに違う特性や、新しい機能を引き出せるんだ」

それから、彼は休むことなく実験を続けた。

サスペンションのコイルバネと融合させれば、刃は異様なまでの柔軟性と弾性を持ち、しなった反動で破壊力を倍加させた。

壊れたヘッドライトのパーツと融合させれば、魔力を通した瞬間、剣先から眩いほどの白色光が放たれた。

トラックのシャーシの一部と融合させたときは、あまりの密度と重量に、一撃で地面のコンクリートを粉砕してクレーターを穿った。

どの融合を経ても、ベースにあるエレガントな「剣」の形状は保たれつつも、その姿は刻一刻と変貌していく。

およそ三十分間、彼は休むことなく動き続けた。

金属の山を駆け抜け、斬り、融合させ、特性を試し、解除してはまた別のガラクタを試す。額からは汗が滝のように流れ、呼吸も荒くなっていたが、その瞳は見たことのないほどの強い光を帯びていた。

少し離れたバスの残骸の上から、タケルルが腕を組んでその様子を眺めていた。

「お前、めちゃくちゃ楽しそうだな」

バスの屋根の上に立つユウゴ――その手に握られた剣は、今はバンパーの残骸と融合し、幅広で先端がノコギリ状の形状になっていた――は、ふっと笑みをこぼした。

「ただ『斬る』だけじゃないんだ。適応する。その場にあるあらゆるものを取り込んで、俺が必要とする『何にでも化けられる』」

彼はバスの屋根から軽やかに跳躍し、タケルの目の前に着地したと同時に、最後の融合を解いた。

剣は瞬く間に元の姿、気品ある純銀の刀身と金継ぎの装飾が施された美しい両手剣へと戻る。

「……これ、まだほんの始まりに過ぎない気がする。もっと凄いものを、いつか取り込めるかもしれない」

「――馬鹿馬鹿しい!」

ユウゴが振り返るよりも早く、巨大な筆が虚空に出現した。ほぼ二メートルの長さを誇るその穂先は、眩く輝く紫色のインクにたっぷりと浸されている。筆は意思を持つかのように独りでに動き、ユウゴの目の前の空間に文字を書き殴った。

『50メートルを高速で飛べ』

ルールが瞬時に発動し、見えない手で腰を掴まれたかのような強烈な牽引力がユウゴの全身を襲った。彼の足が地面から浮き上がる。砲弾のように弾き飛ばされた彼は、凄まじい速度で廃品置き場の中を宙に舞い、一番奥のコンクリートの壁へと激突した。壁に亀裂が走り、肺からすべての空気が一気に絞り出される。口の端から鮮血が零れ落ち、彼はたまらず両手をついて地面に崩れ落ちた。

激しく咳き込みながら、彼は顔を上げる。

「なに……これ……?」

積み上げられたガラクタの山の上、そこに小さな影が立っていた。

身長はせいぜい160センチメートルほど。金髪に淡い青と紫のメッシュが混ざった乱雑な髪が、その顔にかかっている。瞳は混じりっ気のない紫色の純色で、その黒目の部分ははっきりと「五芒星(スター)」の形をしていた。その星こそが、彼の持つ《反転律(インペトゥス)》の証。着古したようなルーズな上着を羽織り、その顔には傲慢で、どこか楽しげな笑みが張り付いている。戦闘員というよりは、まるでゲームから飛び出してきたかのような少年だった。

「いきなり現れて、こんな廃品置き場で大声で魔法の練習なんてさ……」彼は首を傾げながら言った。「なんて無粋で、ルール違反で、おバカさんなんだろ!」

少年はふっと舌を出す。

彼は右手を軽く振る。空中に巨大な紫色のインクの手が形作られ、そこへ樽ほどの大きさのインク壺が引き寄せられた。同時に、もう一本の巨大な筆が宙に出現する。

吹き飛ばされたユウゴのそばで、何が起きたのか理解しようと身構えていたタケルが、一歩前に踏み出した。

「おい、テメェは誰だ……ッ!?」

筆が常軌を逸した速さで動く。タケルの胸元に直接、文字が書き殴られた。

『止まれ』

動きかけた瞬間、タケルの全身が凍りついた。見開かれた両目。石像のように硬直した肉体はそのまま横向きに倒れ込み、意識ははっきとしているにもかかわらず、指一本動かすことができなくなった。

「タケル!」

ユウゴは叫びながら、すでに剣を構えて立ち上がった。その双眸が鋭く敵を捉える。

小柄な少年は、満足げに微笑んだ。

「僕の名前は『遊(ゆう)』。君と同じ、運命の子さ。そして僕のインペトゥスは――まぁ、運命の子が自分の能力のタネをペラペラ他人に教えるわけないでしょ?」

彼は巨大な筆を指揮棒のように軽やかに回してみせた。

「ルールってのは守るためにあるんだ。そして僕は、ルールをこねくり回すのが大好きなのさ」

ユウゴは地面を蹴った。

遊は避ける気すらない。ただ筆を振るうと、紫色のインクの巨手がユウゴの胴体を強引に掴んで横へ放り投げた。さらに、ユウゴが着地する足元の地面へと筆が走る。

『地面は泥になる』

コンクリート、土、そしてスクラップが入り混じった足場が、一瞬にしてドロドロの沼へと変貌した。ユウゴの両足が沈み込む。抜け出すより早く、遊は空中に新たな文字を綴った。

『剣は重くなる』

手にした両手剣の質量が、鉛の塊のように跳ね上がった。支える腕の筋肉が悲鳴を上げ、血管が浮き出る。

遊は、インクで作られた二つの巨大な手の平を足場にし、まるで空を飛ぶように優雅に宙を滑っていた。彼は廃品と廃品の間をすり抜けながら、空間に、物に、そしてユウゴの衣服に次々とルールを書き殴っていく。

『動けない』

遊がユウゴの胸元に直接文字を刻もうと筆を突き出すが、間一髪で剣の刃がそれを横から切り裂いた。

インクの文字は紫色の水飛沫となって霧散する。

「おや? 防いだかい。面白いね」

遊は少しも焦る様子はなく、むしろアトラクションを楽しむかのように笑っていた。

「テメェ……一体何なんだよ! いきなり現れて襲いかかってきて、何のつもりだ!」

「決まってるでしょ。君がそこで大暴れして魔法を振り回していたからさ。魔法ってのは隠匿すべきものなんだよ? もし一般人に見られたらどうするのさ?」

「……お前、スズメバチの巣(ヴェスペイロ)の人間か?」

「はァん???」

(おかしい……ユリウスの話じゃ、法を犯すアウトローが『スズメバチの巣』で、法を守るのが『ミツバチの巣』のはずだ……だが、個人の思想や行動としては別の話なのか……?)

「そんなこと関係ない! 理由もなく突然襲っていいわけないだろ!」

「さあね、どうかなぁ、ひひっ!」

少年は宙に三つのインク壺を出現させると、それを足蹴にして正確に弾き飛ばした。壺は空中で破裂し、周囲の環境に触れた瞬間、新たなルールへと変換された。

すぐ傍にあった自動車の車体が 『爆発する』 のルールを受けて轟音とともに木端微塵に吹き飛ぶ。

ユウゴの右側の空気が 『風が刃になる』 の変化を受け、無数の見えない真空の刃が彼の衣服と皮膚を引き裂く。

遊自身の足元の空間に 『跳ねる』 のルールが付与され、彼はさらに高い高度へと跳ね上がり、絶対的な高所からの優位性を確保した。

ユウゴは圧倒的な手数と理不尽なルールの前に翻弄された。飛んでくる文字を剣で斬り払い、時には金属片を融合させてカウンターを狙うが、遊は常に一歩先を行いていた。わずかな隙を突こうとするたび、新たな文字が環境の条件を書き換え、ユウゴの攻撃を無力化していく。

頭上で浮遊しながら、遊の星型の瞳が冷たく、しかし楽しげに輝いていた。

「君は強い。それは認めてあげる。

だけどさ――ルール無用のただの暴力なんて、ただの『騒音』でしかないんだよ」

彼は二メートルの大筆を頭上に掲げた。穂先からポタポタと、毒々しい紫色のインクが滴り落ちる。

「さて……ここからは、本当の『お遊び』の時間にしようか」


ユウゴは土壇場で横へと身を翻した。虚空に走り書きされたルールの一節――『斬られる』――が彼の肩口のすぐ横を掠め、背後の車体を文字通り真っ二つに両断する。

(くそっ、完全に手玉に取られてやがる……。だいたい、こいつと戦う理由すらないってのに……それにタケルが……あいつは石像みたいに固めちまってるんだ、早く何とかしてやらないと……!)

間合いを詰めようとするたび、遊は次々と新たなルールを重ね掛けしていく。剣に何かを融合させようとすれば、その瞬間を狙って発動条件を書き換えられ、有利な状況をすべて相殺されてしまう。金髪の少年が奏でる圧倒的な絶対ルールの前では、戦場そのものが敵の掌の上で変幻自在に形を変えていくようだった。

ユウゴは荒い息を吐き出し、左膝から血を流しながらもボロボロのシャツの裾で顔を拭う。先ほどのルールのせいで、依然として剣の質量は異常なほど重く、容易に振り回せる状態ではない。

(考えろ……頭を回せ、コノヤロウ……!)

頭の片隅で、かつてユリウスが語った言葉がクリアに響き渡る。

――「すべての運命の子は、たった一つの『言葉』を背負っている。日本語の覚醒者であれば、往々にして否定の接頭辞……『無(Mu)』や『不(Fu)』といった性質を宿すことが多いね。まぁ、大まかな特性を示すラベルのようなものさ。自分の能力に自分でカッコいい固有の通り名を付けるのは自由だがね」

ユウゴは頭上から迫る紫色のインクの巨大な掌を泥まみれになりながらスライディングで回避し、放置された車のシャシーの下をくぐり抜けて一気に跳ね起きた。

(否定……不可避、不条理、不変……)

脳裏に浮かんだのは、ゲームにおける絶対無敵のステータスや、発動している間は絶対に貫通されないインチキじみたシステムだった。壊すことのできない絶対の理。どんな攻撃も通じない不文律。

(こいつが書くのは、絶対に破れないルール……。言い換えれば……)

遊は二本の筆を同時に宙へ走らせ、楽しげに歌うように告げる。

「考えすぎはよくないよ? 脳みそがパンクしちゃうでしょ」

歯をくいしばりながら、ユウゴは思考を加速させる。

(こいつのルールは折れない。何度斬り払っても、消えるのはまだ書き途中だったものだけだ。書き上がったあとのルールは絶対に残る。つまり、あいつの力は……)

閃光のような理解が脳を貫いた。

「――『不可侵(ふかしん)』……っ!」

思わず口走った言葉に、遊は動きをピタリと止めた。その星型の瞳が、わずかに細められる。

「はぁ?」

血を拭ったユウゴは、痛みに顔を歪めながらも不敵に笑ってみせた。

「お前の力だ。――不可侵。お前が書き記したルールは、完成した瞬間から誰にも破ることはできない。だからこそ、お前はそんなに余裕ぶっていられたんだろ」

遊は首をコテンと傾げ、先ほどまでのふざけた笑みの裏に、ほんのわずかな本物の興味の色を覗かせた。

「へぇ……なかなか勘がいいじゃないか。僕の能力の正体に気づいたところで、それがどうしたっていうのさ? ルールが絶対に変えられない不変のものなら、君がどうあがいたって詰んでることには変わりないでしょ?」

ユウゴは答えなかった。頭の中で、自分のインペトゥスの正体へと思考をダイブさせる。

(ふかしん、か……。まぁ、自分の能力名がそんな堅苦しい熟語だったらダサすぎるから、俺ならもっと別の名前を付けるけどね……例えば「子供の遊び(こどものあそび)」みたいなさ)

少年の挑発的な呟きを頭の片隅で聞き流しながら、ユウゴは自分の胸元にある刻印、そして目の前にある銀の剣に視線を落とした。

この剣は、物質の境界を曖昧にする。触れたあらゆる性質を取り込み、同化し、我が物として再構築する。自分と「対象」の間に明確な壁など存在しない。ただ「一つになる」だけだ。

(俺の力は……融合じゃない。もっと根本的な……)

ユウゴの脳裏に、一つの漢字が浮かんだ。

(――不二(ふじ)……?)

いや、違う。自分と他者の境界すらも曖昧にし、あらゆる概念を等しく混ざり合わせる。

(待てよ……もしかして、俺の本当の力は……)

遊が怪訝そうな顔で眉をひそめる。

「何だい、また黙り込んで。僕を打ち負かす奇策でも考えてるのかい? 無駄無駄、そんなの――」

ユウゴは一言も発さず、ただ両手で剣を構え直した。足元に漂う、遊が作り出した紫色のインクの塊――先ほどまで巨大な足場として使われていた魔力の残骸に向かって、彼は一切の迷いなくその切っ先を突き立てた。

『ガキィィン……ッ!』

金属音ではなく、まるで生きた肉体を抉るような奇妙な水音が響いた。

融合が発動する。紫色のインクが銀の刀身へと吸い込まれるように蛇行し、みるみるうちに飲み込まれていく。刀身全体が深く不気味な紫色に変色し、表面のあちこちに生き物のように脈打つ文様が浮かび上がった。金継ぎの黄金のラインが、闇色の刀身の中でひときわ眩い光を放ってせめぎ合う。

ユウゴは、地面に書き殴られたまま放置されていた、あの厄介なルール――*『地面は泥になる』*の文字へと迷わず歩み寄り、その刃を振り下ろした。

対象にしたのは、コンクリートでも泥でもない。

――その「ルールそのもの」だった。

『バチリッ……!』

紫色のインクで描かれた文字が、まるで実体を伴った物理的な繊維であるかのように、剣によって綺麗に断ち切られた。文字は一瞬で光の粒子へと分解され、霧散していく。

足元のドロドロとした沼のような地面が、刹那のうちに本来の硬いコンクリートと土の感触へと戻った。

遊の星型の瞳が、今度こそ完全に丸く見開かれた。

「……は……?」

ユウゴは黒く染まった剣を片手で軽く回転させ、疲労の色を滲ませながらも、冴え渡る眼光で少年を据えた。

「どうした? 自分のルールが消えちまって驚いたか」

「ちょっと待ってよ……! 僕の『不可侵』のルールを、どうやって……物理的に切り裂いたっていうのさ!?」

ユウゴは不敵な笑みを返し、漆黒の剣を正面の空中に向けた。

「忘れたのか? 俺も、お前と同じ『運命の子』だっていうことをさ」

そして彼は、その切っ先をまっすぐに遊へと突きつけた。

「――ここから先は、反撃の時間だ」


紫色のインクがまだ滴る刃を前にして、遊は、初めて本気で怒りに顔を歪めながら、常軌を逸したスピードで空中に文字を書き殴り始めた。

至る所に巨大な筆が出現する。インクの手が無数に増殖する。廃棄物処理場の空気は、まるで横殴りの嵐の如く降り注ぐ紫色の文字――ルールの大群で埋め尽くされた。

『燃えろ』

『動けない』

『剣が折れる』

『心臓が止まる』

『存在が薄れる』

ユウゴは一歩も引かなかった。インクの塗料を纏った剣を掲げ、大きな弧を描いて空気を両断する。刃がルールを横切るたび、その文字はまるで消しゴムで拭い去られたかのように霧散していく。降り注ぐルールの雨を次々と消し潰しながら、ユウゴは混沌の中を突き進んだ。

「タケル!」

彼はまだ地面に硬直したままの友人のもとへ駆け寄り、その胸元へと剣を直接滑らせた。

『止まれ』 の文字がパチンと音を立てて消え失せる。

タケルは大きく息を吸い込むと同時に激しくむせ返り、ゴロゴロと横へ転がりながら、積まれたスクラップの陰へと必死に這いずって身を隠した。

「行け……っ!」

振り返りもせず、ユウゴは叫んだ。

遊は数本のインクの手に支えられ、空中に浮遊していた。あの余裕に満ちた傲慢な笑みはすでに消え失せ、そこにあるのは剥き出しの苛立ちだけだった。

ユウゴは足場のインクプラットフォームを狙い、跳躍と同時に剣を振るう。

巨大な手が四散する。支えを失った遊が宙から落下する。その落下軌道に、ユウゴの姿はすでに待ち構えていたように存在していた。

銀の刃が金髪の少年の胸元を掠め、斜めに鮮烈な裂傷を描く。遊の赤い血が、紫色のインクと鮮やかなコントラストを描いて飛び散った。

遊はバランスを崩して地面に不格好に着地し、片手で傷口を押さえる。その星型の瞳には、これまでになかった感情が宿っていた――本物の殺意と憎悪だ。

(……ユリウスは、僕にただの「試練」だと言った!)

遊は地面に血を吐き捨てる。

(僕に成長を促せと……殺すなと……っ!)

彼は顔を上げた。そこに浮かんでいたのは、定石を、命令を、すべてブチ壊してでも相手を屠ると決意した者の狂気だった。

(でも、そんなのもう知るか……ッ!)

遊は狂乱したように、ブレーキの壊れた機関車のごとく空中に文字を乱舞させた。

「――殺してやる……ッ!!」

ありとあらゆる筆とペンが出現し、理不尽の限りを尽くしたルールが幾重にも重ねられていく。絶対死の空間を創り出そうと、文字が空間を埋め尽くした。

『重力が百倍になる』

『空気が毒になる』

『時間が逆流する』

『骨が砕ける』

『思考が停止する』

成立するはずのない不条理なルールが、折り重なるように空間を支配していく。

それでもユウゴは進んだ。一歩踏み出すごとに文字を消し、一振りごとにインクを消滅させる。剣はまるで肉体の一部であるかのようにしなやかに動き、ルールが完成するコンマ数秒前にそれを飲み込んでいく。文字と金属、インクと銀の閃光が乱れ飛ぶ、まさにカタクリズムの戦場だった。

ユウゴが遊の鼻先――わずか二メートルの間合いへと踏み込んだ瞬間だった。

遊が最後の一撃を書き込もうと筆を振り上げる。

その刹那、ユウゴはインクとの融合を自ら解除した。

刀身がわずか一瞬、純銀の輝きへと戻る。

その同じ勢いのまま、彼は刃先を遊の持つ巨大な筆の穂先へと突き刺し、一気に引き抜いた。

新たな融合が発動する。

いまや剣は、敵の武器そのものの本質を飲み込んでいた。刀身はより細く、より洗練され、その切っ先からは敵と同じ毒々しい紫色のインクがポタポタと滴り落ちる。それはもはや剣というより一本の巨大なペン(筆)のようだった。

ユウゴは手首を巧みに返し、目の前の空中に――敵の筆跡そのままの文字を、自らの手で書き殴った。

『お前は負けた』

遊の息が詰まった。

星型の瞳が限界まで見開かれる。全身の神経を何者かに一気に貫かれたかのように、少年の肉体が激しく痙攣した。

ユウゴはその隙を逃さない。一気に踏み込み、肩口から胸元にかけて綺麗に水平一閃の軌道を描く。十分な衝撃を乗せた一撃が遊を捉え、彼は数個のエンジンブロックの山へと吹き飛ばされた。

ガラクタの山に叩きつけられた遊は、血を流しながら両膝をつき、荒い息を吐き出す。

その片目が、焼けるような憎悪の色を宿してユウゴを睨みつけた。

「……『新世界(イルミナティ)』の連中は……これを忘れないからな……」

血を吐き、掠れた声で呟く。

「僕はいずれ戻る。そして今度こそ……お前を本当に殺してやる……」

彼は震える手で地面を這い、残されたインクを集め始めた。彼の身体の下で、紫色の泥濘のプールが形作られる。最後の力を振り絞り、少年は自分自身に向けてルールを書き込んだ。

『ここから消えろ』

ドロドロとしたインクの沼が遊の肉体を飲み込む。わずか一秒足らずの出来事だった。そこにあったのは、ただ焦げたインクの匂いと、冷たい血の跡だけだった。

静寂が、再びスクラップ場を支配する。

ユウゴは最後の融合を解除した。剣は元の気品ある姿に戻り、次の瞬間には光の粒子となって霧散した。

限界を迎えた彼の両足から力が抜け、その場に膝をつく。両手を地面につき、激しい過呼吸のなかで肩を大きく上下させた。全身が痛みに悲鳴を上げ、汗と血と埃がその顔を覆い尽くしている。

少し離れた場所から、タケルが這うようにして駆け寄り、荒い息のままユウゴの肩を支えて立たせた。

「おい……生きてるか、このバカ……生きてるよな……?」

ユウゴは苦笑に似た、掠れた笑い声を漏らす。

「……ギリギリ、な」

「一体なんだよ、今の化け物は……!」

「わからない……ただ、こんな場所で無茶苦茶に力を試した俺の自業自得だ……」

その時だった。

遊が消え去った地点のすぐ近くで、ガラクタの隙間から微かな光が漏れているのに二人は気づいた。

近づいてみると、そこにはコインほどの大きさの――五芒星の形をした小さな宝石が落ちていた。それは優しく、しかし鮮明な紫色の光を脈打たせるように放っている。

タケルがしゃがみ込み、それをそっと拾い上げた。指先から伝わる感触は冷たく、だが確かに生命の鼓動のような微弱な温もりを帯びている。

「これって……」

「魔導具、か……?」

ユウゴは友人に支えられながら呟いた。

息を整えつつ、ユウゴはふっと片方の口角を上げた。

「それ、お前にやるよ」

タケルは目を丸くした。

「は? マジでか?」

「ああ。お前もこれで、本格的に戦えるようになるはずだ。俺みたいに剣を出せるわけじゃないが……その石、魔力を感じるだろ?」

タケルは宝石をしっかりと握りしめ、信じられないものを見るような、それでいて心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。

「クソっ……ようやく俺にもターンが回ってきたか!」

ユウゴは友人の肩を軽く叩いた。

「……さっさとここを出るぞ。警察や管理人に来られたら言い訳できない」

二人はお互いに身体を支え合いながら、裏手のコンクリートの壁へと向かって歩き出した。肉体のあちこちが痛んだが、足を止める者はいない。

背後の廃棄物処理場は、激しい斬撃の跡と紫色のインク、そして一般人には決して理解し得ない死闘の匂いを残したまま、再び深い闇の中へと沈んでいった。

二人は壁を越え、暗い夜道を走り抜け、無事に学園の敷地へと姿を消したのだった。


スクラップ場から遠く離れた街の外れに、ユリウス・カエサルの屋敷は佇んでいた。世間の喧騒が一切届かないその広大な敷地には、見事に手入れされた芝生、白大理石の噴水、そして月夜に長い影を落とす古木が広がっている。エレガントな円柱に囲まれた中庭の奥、静まり返った人工池のすぐ傍らに、一台の黒い石造りのベンチが据えられていた。

ユリウスはそこに深く腰掛け、足を組み、深夜であるにもかかわらず微塵も乱れのない仕立ての良いスーツ姿でくつろいでいた。その隣には、まるで古い古いフィルム映画のモノクロ映像からそのまま抜け出してきたかのような男が、微動だにせず立っている。

――『スピルバーグ』。

年齢は三十代ほど。身長は185センチ。驚くべきことに、彼の肉体はすべて「黒、白、灰色」のモノクロの世界だけで構成されていた。周囲の色彩に一切馴染まず、テレビ画面の古いアーカイブ映像のように完全に色を失っている。仕立てのいい黒いフォーマルスーツに白いシャツ、頭には斜めに被った映画監督のベレー帽。首元にあるべきネクタイは、なぜか右の二の腕に固く巻き付けられていた。彼の両手には、一昔前のレトロな映画撮影用カメラが握られている。スピルバーグの持つ《反転律(インペトゥス)》の権能を介し、彼らはユウゴと遊の死闘のすべてをリアルタイムで「観賞」していたのだった。

そこへ、傷だらけで血と紫色のインクまみれの姿になった遊が転がり込んできた。その不規則な息づかいのなかで、星型の瞳が屈辱と憎悪の色にぎらついている。

ユリウスは腰を上げることすらなかった。

「負けたかい」

穏やかな、どこか慈愛に満ちた声で彼は告げる。

「だが……よく健闘したよ。君の才能は相変わらず素晴らしい。そのクリエイティビティを見せてくれたことには感謝するよ、遊」

ユリウスの人懐っこく、誰をも魅了するカリスマ的な笑み。

しかし遊は奥歯をギリッと鳴らした。

「あいつ……あのクソ野郎が……!」

「言ったはずだ」ユリウスは穏やかに立ち上がりながら、言葉を継ぐ。「テストしに行けとね。彼を成長の限界まで追い込めと。だが、殺せとは言っていない。私はね、私の創る世界に彼ら『両方』を必要としているんだ。どちらか一人ではなくね」

スピルバーグはカメラをスッと構え、一言も発することなく、そのモノクロの笑みをたたえながら撮影を続けている。

遊の体内で、怒りの炎が沸騰した。屈辱のあまり全身が震える。ユリウスの絶対的な命令が、いまや彼の自尊心を打ち砕く重石となっていた。

そして、少年のなかで何かが決定的にプツリと切れた。

(――こいつの言いなりになって、僕が殺されかけたってのに……っ!)

「ふざけるな……僕を殺させる気かよ……っ!」

「遊、君はただ――」

ユリウスが再び身動ぎしたその瞬間だった。

遊は反射的に巨大な筆を虚空に走らせ、ユリウスの背後めがけて即死のルールを叩き込もうとした。

インクが空気に触れた瞬間――。

時間そのものが、完全に停止した。

遊が放ったルールは書きかけのまま宙に凍りつき、紫色の文字はまるで琥珀に閉じ込められた虫のように静止する。

次の瞬間、時間が逆巻くように巻き戻った。文字は筆へと吸い戻され、筆そのものが霧散して消える。裏切りの意図は、まるで最初から存在しなかったかのように完璧に無かったことにされた。

ユリウスは、ただ振り返るように首をわずかに傾けただけだった。

彼の背後で、圧倒的なまでの黄金の輝きが爆発する。

――《ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)》。

巨大な光輪が顕現し、三対の聖なる天使の翼がパッと広がり、中庭全体を神々しいまでの光で照らし出す。

スピルバーグは熱心にカメラのピントを合わせ、そのファインダーの向こうで目を細めた。

「これだよ……」モノクロの男は、ハスキーでどこか楽しげな声を漏らす。「これこそ……ピーク・シネマだ」

ユリウスは一歩前へ踏み出し、翼を優しく羽ばたかせた。その声はまだ穏やかだったが、その奥底には氷よりも冷たい絶対零度の殺意が宿っていた。

「才能ある者たちが私の傍らに集うのは大歓迎だ。だがね……いくら才能があろうとも、裏切り者だけは――絶対に許容しない」

遊は絶叫し、持てるすべての力を解放して襲いかかった。

不条理の極みであるルール、巨大なインクの手、降り注ぐ毒の雨。中庭は紫色の文字と殺意の奔流で阿鼻叫喚の地獄へと変貌する。

しかしユリウスは完全に背筋を伸ばしたまま、ただ右手を軽く一瞥した。

遊のルールの周囲の時間が止まる。巻き戻る。再び止まる。すべての攻撃は完成するより前に完全に解体され、かつてニドホッグを翻弄した『ラプラスの竜』の理がそのまま再現されていく。

「なっ……どうして……そんな……っ!?」

遊の顔に、底知れぬ恐怖の色が広がり始めた。

ユリウスの背負う翼がさらに大きく広がる。その無数の羽毛に刻まれた黄金の「目」が、一斉にパチリと開いた。冷徹に、分析的に、すべてを捉えるその眼光。奴の技を観察し、理解し、そして――完全に複製する。

刹那、ユリウスは右手を掲げ、黄金の光をペン代わりに空中へ文字を走らせた。それは他ならぬ、遊自身の『インペトゥス』そのものだった。

「誰だ……お前は……いったい、どうやって……っ!」

遊は恐怖のあまり後ずさった。星型の瞳が怯えで限界まで見開かれている。

ユリウスは完全に振り返った。その顔にはいつもの、誰に対しても礼儀正しく魅惑的な笑みが戻っていたが、真紅の瞳には一片の温もりもなかった。

彼は右手を突き出し、黄金の光を一点に凝縮させる。

「――《無敵(ムテキ)》。それが、私のインペトゥス(反転律)の名だよ」

遊から奪い取ったばかりの力を用いて、ユリウスは黄金のインクで空間に最後の宣告を書き記した。

『己の罪を悔い改めよ』

遊の周囲の時間・空間・存在のすべてが完全な停止を迎えた。金髪の少年は、絶望に満ちた恐怖の表情を浮かべたまま、その場でピタリと石像のように硬直する。

ユリウスは、静かに人差し指を向けた。

神罰の如き圧倒的な黄金の光柱が天より降り注ぎ、遊の肉体を丸ごと呑み込んだ。悲鳴ですらない。抵抗の余地すら残されていない。ただ純粋な光の奔流がすべてを焼き払い、光が収まったとき――そこには、衣服の繊維一つ、インクの染み一つ、肉片の欠片すら残されていなかった。

スピルバーグはゆっくりとカメラを下げ、満足げに微笑んだ。

「カット! いい絵が撮れたよ。このシーンは……歴史に残るな」

ユリウスは翼を閉じ、光輪と天使の翼を霧散させた。彼はきっちりとしたスーツのネクタイを緩め、小さく息を吐く。

「やれやれ……こんな真似はしたくなかったのだがね。可哀想に、遊。だが、裏切り者を野放しにするわけにはいかない。私の名には、過去の苦いトラウマの歴史が刻まれているからね……まぁ、ともかく、若きユウゴ君の未来には明るい展望が待っていることだし、前を向くとしよう」

彼は自宅の扉へと歩き出す。

「さあ行こう、スピルバーグ。遊の冥福を祈りながら、何か美味いものでも作るとしようか。私たちは進み続けるのさ、真に才能ある者たちが輝く世界を創り上げるためにね」

「OK、マスター」

その頃――。

学園の寮へと戻ったユウゴとタケルは、それぞれのベッドにどっと倒れ込んでいた。

「いやぁ、今日一日はマジで濃すぎたわ……」

「何を言ってるんだ、まだ夜中の的一時だぞ」

二人して壁の掛け時計を見上げる。針は綺麗に「午前1時」を指していた。

「うわっ、マジかよ。明日の朝、絶対講義に寝坊するじゃん……」

「仕方ないさ……だが、オカルト研究会の連中に語って聞かせるネタは、これで十分すぎるほどできたな」

二人は顔を見合わせ、疲労の色を隠せないまま、力なく、だがどこか満ち足りた笑みを浮かべて――そのまま深い眠りへと落ちていったのだった。


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第2話は来月公開する予定です!ぜひ楽しみにしていてください!


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