見なかった
夜に、部屋を出る。
道は明るい。街灯が照らしてくれるから迷うことはない。
私にこの習慣がついたのは、眠ってから2時間くらいで目が覚めるようになったある日のことだった。
初めは虫の羽音が、耳元で鳴っているような。
そんな煩わしさを覚えて、尿意も催していたから、トイレに向かった。
そうすると、廊下からまたしても羽音が聞こえてくる。トイレを通り過ぎてもなお、その囁きに似た奇妙な韻律は、私を玄関まで招いた。
鍵は開いていた。
いつも閉めているはずなのに、そんな懸念すら脳裏をかすめることもなく、私は外に出ていた。
裸足で踏みしめるアスファルトは存外に心地良く、数歩進んだところで、前方にうずくまる白い物体に気がついた。
うさぎを飼ったことのある人なら分かると思うが、それは丸まったフォルムがまるでそっくりで、うっとりとした私は、殆ど躊躇わずに手を伸ばしていた。
「痛ッ」
慌てて引っ込めた手の甲には、不規則な歯型が放射状についていて、しばらくするとポタポタと鮮血がこぼれ落ちた。
アスファルトが吸い尽くす前に、白い物体はもぞもぞと這い回り、私の中にあった、まだ温度のある血液を尖った舌で舐め取っている。
不思議と怖くはない。
むしろ火照った身体から溢れた私の体液が失われることで、爽やかな涼しさが訪れる気配さえあった。
それから1週間に一度のペースで、この白い物体に私は血液を与えることにした。
注意深く観察すると、白い物体には特徴があった。
一つは、会う度に玄関から少しずつ離れていくこと。
電信柱が並ぶ路地から、商店街のアーケード、そしてお寺の側を通り過ぎて、やがて川沿いのサイクリングロードまで移動している。
もう一つは、今夜会って確かめねばならない。
私は七時にお風呂に入り、ドライヤーで髪を乾かしたら、すぐにベッドに横たわった。
電気をつけたまま眠りに落ちるのだが、虫の羽音で寝覚めると、いつも部屋は暗くなっている。
ぼんやりとした頭を軽く左右に振って、勉強机の引き出しから、巻き尺を取り出した。
それをパジャマのポケットに入れて、いつものように玄関を出てサイクリングロードへ向かった。
白い物体は私に噛み付いてから、血を十分に舐め取ると、少しだけピクリとも動かなくなるときがある。
その隙に、私は巻き尺でその直径を測定することにした。
前回は30センチだったのに、今回は50センチになっている。
なおも不思議なことに、白い物体の大きくなるのに併せて、私が夜中に目覚める頻度も1週間から3日に一度のペースに加速していた。
もはや噛みつかれても痛みを感じなくなってきた私は、傷口が深く大きくなっていくのを、怖いような、愉快であるような、どちらともつかない心持ちで、この習慣から抜け出せないでいた。
ところがある日の夕方、突然の訪問者があった。
私が学校から帰宅すると、キッチンで物音がした。
「ママ?」
ガサゴソという物音は、私の声に即座に反応し、張りつめた空気とともにピタリと止んだ。
そこからどれだけの時間が経過しただろうか、スリッパに足を通すことすら忘れて、私はゆっくりと慎重にリビングへと向かう。
ドアを開けると、カーテンが風になびいていて、蒸れた空気が鼻の奥に渦を巻いて流れ込んできた。
頭がチカチカして、フローリングに前のめりに倒れてしまった。
背中にはずっしりと得体の知れない重みがのしかかっており、カーテンの下にはキラキラと砕け散ったガラスの粒が星のように煌めいていた。
半分しか開かない目をしばたたかせて、私は懸命に息を吸い込もうとするが、平たくなった胸が凍りついたみたいに動かない。とても苦しいが、どうすることもできない。
朦朧とする意識の中、耳元で羽音が鳴った。
ブブ、ブブブ。
スマホが振動したことに気を取られたのだろうか、背中が少し軽くなった。
私は残された力でキッチンに駆け込む。
黒い影が刹那に追いかけてくる。
しかしもう押し潰されることはなかった。
黒い影はキッチンからよろよろと後退りして、やがてソファにひっくり返った。
段々黒かったものは、灰色がかって色褪せていき、やがて真っ白になった。
萎んだクッションのようなそれは、軽く蹴飛ばすと、ぱっくりと2つに割れて、中から透明な液体が止めどなく飛沫をあげている。
私はテーマパークにでも来た気分で、ただじっと眺めている。
恐らく今夜、あの白い物体が現れることはないに違いない。




