第15話 朝はちゃんと来る
雪の翌朝、ワニャマは目覚ましが鳴る前に目を開けた。
少しのあいだ、自分でも何が起きたのかわからなかった。二階の天井はまだ薄青く、窓の向こうは一面の白だ。昨夜のことが夢なら、もう一度眠ればそのまま溶けてしまいそうなくらい静かだった。けれど胸の奥には、眠りへ戻すには熱すぎるものが残っている。
起きなければならない。
そう考えるより先に、体が布団を出ていた。
床は相変わらず冷たい。けれど今日は、その冷たさへ文句を言う気が起きなかった。上着を重ね、顔を洗い、階段を下りる。店へ降りる途中で、木のきしみがいつもより軽く聞こえたのは、自分の足が少しだけ急いでいたせいだろう。
表の戸を開けると、港町ルメラは別の町みたいになっていた。
石畳は白く縁取られ、屋根はふくらみ、看板の文字の上へやわらかな雪が乗っている。夜のあいだ吹きつけていた風は弱まり、空は嘘みたいに晴れていた。海は冬の銀色をしていて、光を跳ね返すたび眩しい。
ワニャマは雪を踏み、店先を掃いた。箒で押すたび、昨夜の足跡が凍って現れる。自分のもの、キャンディのもの、誰かが荷物を抱えて急いだ跡、モイシュテッターの大きな靴底、ゴテリンドが滑りかけてずれた痕。夜の騒ぎが、朝の白さの下へちゃんと残っていた。
掃いている途中で、向かいの文具屋の主人が戸を開けた。
「お、開けるのか」
「開けます」
「早いな」
「今日は早いです」
「顔が違うな」
「そうですか」
「いいほうに」
それだけ言って、主人は店先の雪かきを始めた。細かな応援が、通りのあちこちから返ってくる朝だった。
店へ戻ると、机の上に昨夜の書類を並べる。濡れていないか確かめ、端をそろえ、足りなかった控えを既存の束へ重ねる。保存申請に必要なものが、ようやく全部見える形になった。
紙の枚数は多い。
やることも多い。
役所へ行く順番も、町内会へ話す順も、きっと途中で何度もつまずく。
それでも、今日は「無理だ」と言う前に、まず並べる気になれた。
ベルが鳴る。
振り向くと、キャンディが立っていた。白い息を吐きながら、両腕に大きな籠を抱えている。中には粉袋、卵、果物、バター、そして見慣れた灰色の封筒が入っていた。
「おはようございます」
「早いな」
「朝の仕込みから上手にやるんでしょう」
「そうだった」
「忘れていたんですか」
「少しだけ」
「少しだけなら許します」
彼女は籠を卓へ置き、いつものように店内を見回した。椅子の位置、砂糖壺の向き、窓の曇り、布巾の畳み方。ひととおり確認してから、こちらを見る。
「返事、出しました」
ワニャマの喉がわずかに鳴る。
「……そうか」
「大都市のお店には、今回は伺わないと書きました」
「今回は」
「はい。いつか学びに行くかもしれません。でも今は、ここでしか作れない味と時間を、先に育てたいです」
言葉の最後に、彼女は少しだけ照れたように眉を寄せた。
「それに、途中で投げるみたいなのは嫌なので」
「誰が投げる」
「あなたです」
「俺か」
「あなた一人に任せると、珈琲は二回に一回いれ直しです」
「厳しい評価だな」
「正確な評価です」
ワニャマは笑ってしまった。笑いながら、胸の奥の何かがゆっくりほどけていくのを感じた。嬉しいと同時に、責任の形もはっきりする。彼女が残るなら、そのぶんだけ自分はちゃんと動かなければならない。
「じゃあ、まず何する」
「小鍋を出してください。あと、昨日のうちに干しておいた布巾を取って」
「了解」
「それから」
「まだある?」
「珈琲、今日は一回で成功させてください」
「それが一番難しそうだな」
「では練習しましょう」
朝の店が動き始める。
粉をふるう音。
水の落ちる音。
豆を挽く音。
棚を拭く布の音。
その全部が、昨日までとは少し違う意味を持っていた。七晩だけの試しではなく、今日から続く店の音だ。
昼前には、昨夜の面々が次々顔を出した。
トフィグは工具袋ではなく、書類を入れるための木箱を持ってきた。
「役所に運ぶなら、濡れないほうがいい」
「作ったのか」
「朝いちで」
「寝てないのか」
「少し寝た」
「それで朝いち?」
「俺の少しは、だいたい短い」
木箱の蓋には、小さな焼き印が押してあった。蒼いコインの窓の印を、彼なりに真似したらしい。線は少し歪んでいたが、まっすぐな歪みだった。
ラウリツは帳面を抱えて現れた。
「客名簿の控え、昔の分まで拾ってきた。地域貢献とか営業実績とか、そういうのに使えるかもしれない」
「そんなものまで覚えてたのか」
「場所をね。覚えてるのは得意」
「助かる」
「助かるついでに、あとで菓子を二つ」
「現金だな」
「記憶力の維持には糖分がいる」
マルジャーナは、自分で書いた異動願いの控えを見せながら笑った。
「出しました。ちゃんと、自分の言葉で」
「えらいな」
「誰かに言われたからじゃなくて、自分で決めて出したので、今日は自分で自分を褒めます」
「それがいい」
「でも、ちょっとだけ褒めてもらえるともっといいです」
「だいぶいいな」
彼女はくすぐったそうに肩をすくめた。
キミイロキッチは、見習いみたいな顔で立っていた。
「僕、ここで働いてもいいですか。皿洗いでも、仕込みでも」
キャンディが腕を組む。
「焦げを隠さないなら」
「隠しません」
「味見で食べすぎないなら」
「努力します」
「努力止まりなんですね」
「そこは成長途中で」
「では、成長途中込みで採用です」
彼は嬉しさを隠そうとして失敗し、顔中でそれを表していた。
トリエネットは昼の便で一度町を出ると言いに来た。小さな鞄を肩へ掛け、でも昨夜より顔は晴れている。
「旅先から手紙、出します」
「返事、必要か」
ワニャマが聞く。
「必要です。戻る席を失いたくないので」
「じゃあ、返す」
「その席、窓際でお願いします」
キャンディがすかさず言う。
「日焼けしにくいので」
「旅芸人に対する配慮が独特だな」
「大事なことです」
シロは昼下がり、静かにやって来て、棚の前でしばらく立ち止まった。
「今日の空気、昨日より吸いやすいです」
「そうか」
「はい。昨日、ここで皆が言葉を置いていったからだと思います」
彼女はそう言ってから、ふっと微笑んだ。
「店は、人の言葉の置き方で温度が変わりますね」
「勉強になる」
「本屋さんなのに、喫茶店になってからのほうが勉強してませんか」
「たしかに」
「では、良い変化です」
モイシュテッターは夕方、役所へ向かう書類の箱を背負って現れた。
「運ぶ」
「まだ出す前だぞ」
「重さを確認」
「仕事が早いな」
「重い」
「それは知ってる」
「でも、運べる」
昨夜と同じことを言う。けれど今日は、その言葉が昨日より少し明るく聞こえた。
保存申請の手続きは、その日のうちに全部済んだわけではない。役所の担当者は細かな確認を求め、町内会の証言も必要で、建物の写真も撮り直さなければならない。書類を揃えたからといって、すぐにすべてが守られるわけではない。
それでも、動き始めた。
それが大きかった。
夕方、昼の営業をいったん閉じるころには、店の中へ新しい約束がいくつも増えていた。
キミイロキッチは週に三日、仕込みの見習いに来ること。
マルジャーナは職場の時間が変わる日だけ、夜に薬湯の差し入れを持ってくること。
ラウリツは古い客の記録を洗い出すこと。
トフィグは暖房の完全修理を引き受けること。
ゴテリンドは、変装道具の一部を倉へ移すこと。もっとも、最後の約束について本人は最後まで不服そうだった。
そして、星階堂は、昼は古書店、夜は喫茶店《蒼いコイン》として開けていくこと。
正式な看板は、まだない。
メニューも定まっていない。
金の計算も、仕込みの手順も、これから整えなければならないことだらけだ。
だが、足りないことが多いのは、もう恥ではなかった。足りないなら足していけばいいと、ようやく思えたからだ。
日が落ちる前、ワニャマは奥の棚を片づけていた。昨夜の手紙は引き出しへしまい、蒼いコインは会計皿の横へ置いてある。母の字と祖父の字を、これから何度も見返すのだろうと思った。
そのとき、新しく買い取った古本の束の上から、一冊の薄い随筆集が落ちた。
拾い上げると、頁のあいだから何かがひらりと滑る。
小さな紙切れだった。
ワニャマは、思わず笑ってしまった。まるで、向こうがこちらの準備を見ていたみたいだ。
紙を開く。
そこには、見覚えのある丸い字で、たった一行。
「大切なものをあなたに」
今度は、その下に続きはなかった。
誰かがこれから続きを受け取るための、余白だけがある。
ワニャマは会計皿の蒼いコインを一枚取り上げた。祖父がそうしたように、母が願ったように、受け取って終わりにしないために。
紙切れへそっと添え、本のあいだへ戻す。
棚へ収まった薄い本は、何でもない顔をしていた。けれど、次にそれを開く誰かの夜が、少しだけ変わるかもしれない。
店の戸の向こうで、キャンディが呼ぶ。
「珈琲、今のうちに練習しますよ」
「今行く」
「逃げないでください」
「逃げてない」
「昨日までの前科があります」
「前科扱いか」
「改善の余地がある人、という意味です」
「言い方は優しいな」
「中身は厳しいです」
ワニャマは笑い、棚へ最後の視線を送ってから、店の表へ戻った。
朝はちゃんと来る。
夜も、また来る。
寒い日も、うまくいかない日も、迷う日もきっとある。
それでも、灯りをともす理由は、もう見失わない気がした。
真夜中の喫茶店《蒼いコイン》は、七晩で終わらなかった。
七晩を通って、ようやく始まったのだった。




