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真夜中の喫茶店《蒼いコイン》――古書店に灯る七晩の約束  作者: 乾為天女


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13/13

第13話 返事の前日

 七晩目の朝は、いつもより白かった。


 まだ雪は降っていない。けれど、港の向こう側にたまった雲が、海の色まで薄くしていた。石畳のすきまへ入り込む風も、昨日より湿って重い。店の表へ出て戸の隙間を掃いたワニャマは、箒の先で集まった細かな砂を見下ろしながら、今日は空の機嫌が長くはもたないと知った。


 背後で、戸の内側の鈴が小さく鳴る。


 「そのまま外を見ていると、また珈琲を冷やしますよ」


 振り返ると、キャンディが盆を抱えて立っていた。いつもより早い。髪をまとめる紐の位置も、前掛けの結び目も、皿の重なりも、きっちりしている。それなのに、目の下だけが少しだけ眠っていなかった。


 盆の上には、小さな皿が二枚。片方には試作中の焼き菓子、もう片方には紙片のように薄い糖衣がかかった菓子が載っていた。


 「朝から甘いものは重いかもしれませんが、味を見るだけです」

 「味を見るだけで済んだことがない」

 「今日は済ませてください。数が足りません」


 彼女はそう言って店の中へ戻る。言葉はいつもどおりなのに、声の置き方が少しだけ硬かった。


 ワニャマが戸を閉めて卓へ戻ると、皿の横に一通の封筒が置いてあった。白い紙ではなく、薄い灰色の封筒で、端がきっちりそろっている。差出人の名は、大都市にある菓子店だった。昨日の夕方届いたまま、まだ開き直された跡がない。


 見てしまったあとで、ワニャマはあわてて視線をそらした。


 キャンディは奥で泡立て器を動かしている。金属が鉢の縁に当たる音が、いつもより少し細かい。集中しているのか、落ち着かないのか、その両方なのか、ワニャマにはわからなかった。


 「返事、今日まででしたっけ」

 できるだけ平らな声で聞くと、キャンディは手を止めずに答えた。

 「明日の朝までです。朝いちばんの便に乗る人へ預けるので」

 「そうか」

 「はい」


 それで会話は終わった。


 終わってしまった、と思った。


 ワニャマは菓子を一つ口に入れる。砂糖は控えめで、その分だけ生地の香りがよくわかった。口の中でほどける寸前に、わずかな塩が舌へ残る。昨夜のモイシュテッターの薄焼きパンみたいに、甘さのあとを締める味だった。


 「これ、うまい」

 「そうですか」

 「そうですか、で終わる味じゃないだろ」

 「終わらせないと、次の作業に進めません」


 キャンディはようやく顔を上げた。

 「今日は考えることが多いので、味の感想を長く聞いている余裕がありません」


 その言い方に棘はなかった。ただ、忙しさと迷いで余白が減っているのがわかった。ワニャマはそれ以上、封筒のことを聞けなかった。


 昼前になると、通りの空気も落ち着かなくなってきた。魚屋の軒先では、桶の位置がいつもより店の奥へ寄せられ、乾物屋は干しかごへ布を掛けている。港で働く人たちは、風向きの変わり方で雪を読む。今日は昼過ぎから冷え込みが増す、夜は積もる、そんな話がどこからともなく広がっていた。


 星階堂にも、いつもの客と違う人たちが立ち寄った。


 「今夜は閉めといたほうがいいんじゃないか」

 帳場の前で、近所の文具屋の主人が言った。

 「表の通り、夜には滑るぞ。階段もあるし」

 「七晩目なんです」

 ワニャマが答えると、

 「七晩目?」

 「七晩だけ開けるって決めたので」

 と説明する。

 主人は事情を半分もわかっていない顔で、それでもうなずいた。

 「決めたなら止めないけどな。無理だけはするなよ」


 別の客は、保存申請のことを知っているらしかった。

 「こんな日に店を開けるのも、実績になるのかね」

 「どうでしょう」

 「町に必要なら残る。必要でなけりゃ消える。そういうもんだ」


 言われた言葉は荒くないのに、紙やすりみたいに胸へ残った。


 必要なら残る。


 それが簡単に決まるなら、誰も苦労しない、と言い返したくなった。けれど、必要を示せと言われている側なのは事実だった。腹を立てる資格より先に、示す手間のほうがこちらには残っている。


 ワニャマは昼の来客をさばきながら、棚の間を行き来した。古い料理本、港の民話集、船乗りの記録帳、旅先の地図。誰かが必要として、誰かがもう要らなくなり、それでも手放したあとも紙の中に残るもの。それを棚へ戻すたびに、この店は物の置き場ではなく、時間の置き場だったのだと思う。


 午後、トフィグが来た。襟元へ木くずをつけたまま、戸を開けるなり言う。

 「雪らしいぞ」

 「みんな同じこと言うな」

 「同じ天気見てるからな」

 彼は修理用の小箱をどん、と卓へ置いた。

 「今夜、暖房やばそうならこれ使え」

 「いや、お前、昨日『古い暖房は触ると機嫌を損ねる』って言ってただろ」

 「今日は機嫌を取る道具を持ってきた」

 「頼もしいんだか頼もしくないんだかわからない」


 トフィグは棚へ寄りかかり、店の奥を見た。

 キャンディが粉をふるっている。白い粉が細い雪みたいに光の中へ落ちていった。


 「返事する日なんだろ」

 唐突にそう言われ、ワニャマは小さく咳払いした。

 「知ってるのか」

 「町が狭いんだよ。あと、ラウリツの耳が広い」

 「ラウリツは耳じゃなくて記憶だろ」

 「どっちでもいい」


 トフィグは鼻をこすった。

 「引き留めるとか、立派に背中押すとか、そういうちょうどいいこと言おうとすんなよ」

 「別に」

 「顔に書いてある」

 「そんな顔する?」

 「する。うまく書けてない看板みたいな顔」


 言い返そうとしたが、できなかった。


 トフィグは続ける。

 「相手の行き先を尊重するのと、自分の気持ちを隠すのは別だぞ」

 「……今日は、そういう助言を配る日か」

 「違う。木箱届けに来ただけだ」

 「ついでが重いな」

 「俺はだいたい余計なもの付きだ」


 そう言って帰りかけ、また振り返った。

 「今夜、開けるなら呼べ。俺は雪の日の道具運びが好きだ」

 「変わった趣味だな」

 「好かれないよりいいだろ」


 夕方が近づくころ、ゴテリンドが現れた。今日はなぜか黒い外套に丸眼鏡、首元に深緑のスカーフという、文学青年のような格好である。帽子の角度まで気取っているのに、入口で盛大に敷居へつまずき、危うく正体以前に本人だとわかるところだった。


 「今日は何の役だ」

 ワニャマが聞く。

 「冬の夜にだけ現れる批評家」

 「足もと見えてなかったけど」

 「批評家は床を見ないものよ」

 「見たほうがいい」


 ゴテリンドは鼻を鳴らし、わざとらしく店内を見回した。

 「通りじゅうで、今夜は無茶だって言ってるわ」

 「知ってる」

 「そのうえで開けるの?」

 「開ける」

 「ふうん」


 ゴテリンドはその返事を聞いて、口元だけで笑った。

 「じゃあ、わたしも今夜は少し早く来る。雪で顔が流れる前に」


 「変装は流れないだろ」

 「あなた、わたしの化粧を甘く見てるわね」

 「そこじゃない」

 「それに、今夜は荷物が多いのよ」

 「何を持ってくる気だ」

 「夢と希望と、念のための毛布」

 「最後だけ本物っぽいな」

 「最後が本物なら、前二つも少しは本物になるの」


 彼女が去ったあと、店の中はまた静かになった。


 窓の外を見ると、空がさらに低くなっていた。海と雲の境目があいまいになり、通りの先の灯台も白くにじんでいる。ワニャマは表の戸の鍵を確かめ、窓枠のがたつきを直し、椅子の脚へ布を巻いた。雪で客が少ないなら少ないなりに、寒さへ勝てる形にしなければならない。


 準備をしているあいだ、キャンディはほとんど無駄口をきかなかった。


 焼き菓子を包む。

 小鍋で果物を煮る。

 皿を温める。

 カップを拭く。

 卓の砂糖壺の位置を二度直す。

 それから、封筒を一度だけ手に取り、また元の場所へ戻す。


 ワニャマは、それを見るたび、胸のどこかが乾いた音を立てるのを聞いた。


 日が沈むころ、空から最初のものが落ちてきた。


 雪というより、まだ細かな氷だった。戸口の明かりへふっと白いものが入り、すぐに消える。ワニャマが表へ出ると、石畳に落ちたそれは跡もなく溶けた。けれど、次の一つ、また次の一つと降りるたび、路地の色は少しずつ変わっていく。


 「来ましたね」

 背後でキャンディが言った。

 「ああ」

 「引き返しますか」

 振り向くと、彼女はいつもの前掛けの上へ厚手のカーディガンを重ねていた。頬は冷えのせいか少し赤い。

 「今なら、まだ引き返せます」

 「やめてほしいのか」

 ワニャマが聞くと、彼女は首を横に振った。

 「決めるのはあなたです」

 「ずるい言い方だな」

 「あなたが言ったんです。代わりに決めるのと、隣で考えるのは違うって」

 「それ、俺じゃなくてシロだろ」

 「でも、あなたも頷いていました」

 「よく見てるな」

 「見ています」


 言ってから、彼女は目を伏せた。


 店の奥の時計が、小さく時を打つ。

 ワニャマは一度だけ大きく息を吸った。冷えた空気が胸へ入って、頭の奥を少し静かにした。


 「開ける」

 彼は言った。

 「七晩だけって決めた。今日がその最後だ。客が一人も来なくても、雪で椅子しか温まらなくても、開ける」


 キャンディはすぐには返事をしなかった。

 それから、ほんの少しだけ、口元をやわらげる。

 「では、温まる椅子を用意します」


 彼女は卓布をきっちり引き、カップを並べた。ワニャマも珈琲豆を挽き直す。外の白さは増していくのに、店の中の動きはむしろ確かになった。


 夜の準備は、諦めるためではなく、迎えるための手つきになっていた。


 雪は静かに、しかし容赦なく、港町ルメラの石畳を白くし始めていた。



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