04話 捻れ
古い引き戸をガタガタと開ける。
温かい空気、いつもの匂い。
実家とは、こういう安心できる場所なのだろう。
色褪せ古ぼけた水着姿のポスターと目があった。
「いらっしゃい」
テレビを見ていた笠井ばあちゃんが振り向いた。
「あら、太郎ちゃんじゃないの。あけましておめでとう」
「笠井ばあちゃん、あけましておめでとうございます。今年もお世話になります」
「はいはい。今年もお腹いっぱい食べていってね」
僕は、入り口近くにひとりで座る男の人をチラリ見てから、振り向いた。
引き戸は開いている。
彼女は戸口に立ったままだ。
「どうしたの?」
そう声をかけて、彼女は首を横に振った。
僕が馬鹿だった。
もし、彼女の姿が祖母にも見えないとしたら。
親しい人に、自分を認識してもらえないことほど、辛いものはない。
しかも、彼女の事情を知っている唯一の肉親かもしれないのに。
「あ、あの」
「どうしたの?」
僕は、笠井ばあちゃんに声をかける。
「実はもうひとりいるんだけど」
「そうなの? 入ってもらいなさい。外は寒いんだから」
「う、うん」
僕は振り向いて、手招きする。
彼女は一瞬、ぴくりと震え、吐く息が聞こえた。
そして、ゆっくりと足を動かした。
「……お邪魔します」
店に入ってきた。
メガネが曇り、白くなる。
それなのに、彼女は拭くことも、外すこともしなかった。
「さあ、座って。あったかい蕎麦でいい? 年越し蕎麦が余ってて。食べていって」
そう言って厨房に入っていった。
僕は、彼女を導くように、テレビの前のテーブルに座らせた。
借りてきた猫のように大人しかった。
「見えてるんじゃないの?」
彼女は首を大きく横に振る。
「今の感じじゃ、分からない。……見えないのかも」
彼女の声は小さく震えていた。
「だ、大丈夫だよ」
そういう僕も、半信半疑だった。
まさか、「ねえ、彼女のこと見えてる」とは聞けない。
テレビでは、初詣の参拝客の中継をしていた。
誰もが、晴れやかで、新年を祝っている。
その対比が、痛い。
しばらくして、笠井ばあちゃんがトレーに載せた蕎麦を持ってきた。
湯気を上げる、二杯。
彼女の顔に笑顔が戻った瞬間だった。
「はい、お待たせ」
そう言って、僕と五十嵐淳子の前に蕎麦を置く。
「これから、初詣に行くの?」
「え、はい」
「せっかくなら、遠山神社に行くといいよ。あそこは縁結びの神様だから」
「え、ええ?」
「ははは、ゆっくりしていって」
笠井ばあちゃんは、また笑い、厨房に入っていった。
「よかったね」
僕がそう聞くと、大きく頷いた。
彼女は曇りっぱなしのメガネを外して、蕎麦をすする。
僕もすすった。
鼻に抜ける蕎麦の匂い。
幸福感と満たされるお腹に、無言で蕎麦を食べた。
「ごちそうさま」
明るさを取り戻した彼女が両手を合わせる。
遅れて僕も手を合わせた。
「一度家に帰ってみようと思うの」
「うん。わかった」
「それから、初詣に行きましょう」
「いいの?」
僕は少し戸惑った。
父と二人暮らしだった僕には縁遠い話だった。
年末年始は、いつも宿直で家にいない父をいいことに、ゴロゴロとしていたからだ。
「良いも悪いもないでしょ。日本人は、元旦は初詣って決まってるんだから」
「決まってるんだ」
「そう、決まってるの」
二重まぶたの瞳がくるりと笑う。
つられて、僕も笑顔になる。
「うん。わかった。あとで連絡ちょうだい」
「了解!」
席を立ち、勘定を払う。
割り勘。
彼女が支払ったあとだった。
「太郎ちゃんはいらないよ。役場から出てるから」
「え、ええ」
僕は戸惑った。いや、心臓が止まりそうだった。
これは、あの世界の話ではなかったのか。
「そうそう。彼女さん、年上だったわね。太郎ちゃんが寅年だから、彼女さんは丑でいいのかな」
再び、心臓が止まりかけた。
見えている、だが、笠井ばあちゃんは彼女さんと言った。
自分の孫を、そう呼ぶ人は少ない。
それに、彼女の干支は違っている。
手元に視線を落としていた笠井ばあちゃんは、
「あったあった。丑と寅の相性はいいよ。静と動のコンビだから」
「……はい」
五十嵐淳子は、黙って僕を通り越し店を出ていった。
役場は継承され、記憶は継承されなかった。
世界はいびつに曲がり、捻れていた。




