01話 はじまり
本編をより深くお楽しみいただくために、ぜひ第一部『爪切りの継承』からお読みください。
ポケットの中の冷たい真鍮の爪切りは健在だった。
隣を歩く後輩に見られても、ただの爪切りだ。
でも、ひとたび爪を切れば……。
「先輩、さっきから何言ってるんですか?」
「え、あ、うん。ごめん」
ちょっと考え事、と言った途端、彼女がスッと歩幅を詰めた。
彼女のパーソナルスペースは、少しだけ近い。
後ろで両手を組んだまま、グイッと顔を僕に寄せてきた。
逃げ場を塞ぐように。
上目遣いになった大きな瞳が、真っ直ぐ僕を捉える。
「ねえ、この後、どっか行きません?」
僕は、咳払いをして彼女を追い越す。
背後で、文句を言う彼女に、僕は触れずにいた。
2027年5月10日 晴れ。
退屈なゴールデンウィークが終わり、世間では休みボケの真っ只中だ。
「先輩、今年の文化祭。ちょっと酷くありません?」
帰宅早々、ソファに背を預けていた僕に、やぶから棒に言ってくる。
「あ、うん」
「しかも、『積乱雲の切れ間から差す光線』って、私の得意は人物画だっていうのに」
彼女の手には、2027年文化祭に出展するイラストの詳細が書かれていた。
重く垂れ込めた雲の隙間から、海面に向かって幾筋もの光が突き刺さる「天使の梯子」。
よくある構図だが、実際作れと言われれば、困難極まるだろう。
「天使の梯子、か」
「そうですよ。白のキャンパスにスポットライトって。無茶振りです」
「まあ、時間はあるからゆっくり考えよう」
そう言って、僕はテレビのリモコンのスイッチを入れた。
元は、何もない四角い箱のダイニングだった。
あれから、家具を買い揃えた。
今座っている、ソファもテーブルも、そしてモノクロのカーテンも。
「先輩の部屋って、落ち着きますよね。モノトーンって私好きです。カッコイイし」
「ありがとう」
僕の趣味じゃなけど。
引っ越ししようかな、という彼女の呟きは無視した。
「でも、先輩。アレ、どうにかなりません? この部屋に合わないです」
「そっか。僕は好きだけど」
廊下に吊るされた、爪切り暖簾。
もう一年が経つ。
そして、爪切りが一つ、増えていた。
両端が均等に並び、不揃いが解消されて、僕はホッとしていた。
奇数が偶数になり、ムズムズせずにすんでいた。
「ところで、大須賀さん。いつまで居るつもり? もう帰ったほうがいいよ」
「えー、先輩って冷たいです」
大須賀乃愛。
美術部の後輩。
名前は六文字。偶数。
奇数は落ち着かない。
ふとそんなことを考えていると、肘が当たる距離まで詰めてきた。
「ねえ、先輩」
「なに?」
「そろそろ、先輩の」
僕は慌てて立ち上がると、彼女を捕まえて押していく。
「ちょっと先輩。何するんですか」
「今日はもう帰りなさい」
「えー、でも」
いいからいいから、と繰り返しなんとか追い出した。
ドアの向こうで、「明日、また来ます」と声が聞こえたが、僕はふっと息を吐くだけだった。
ダイニングに戻ると、リビングの奥からモノクロのフリルが少し動いた。




