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宗教で救われるのはどんな人だろうか、と考えた

作者: ぶらっと

 実はうち、実家のほうだけれど、新興宗教がよく勧誘に着た時期があった。

 それは、父が認知症で癌を併発して大変だった時。

 認知症も新種で専門医が数年、多分、記憶に間違いがなければ五年以上は誤診していたくらい珍しい症状だった。後で謝られたけれど、謝ってもらってもどの薬も効果がなくてどうしようもなかったので、新種の病気は先生の誤診と言えるようなものでもない、と家族で結論がでた。

 誰だって新しい病気なんかわからない。

 と言っても対策は必要で、こんな症状の時にはこういう対応をしたらおさまった、みたいなことは詳細に告げ、先生には学会で定期的に発表したいと言われて承諾していたので、本当に珍しく新しい症状だったのだろうと思う。

 その認知症の父は癌が見つかってから手術をして一度は回復したのだけれど、一年後に再発した。

 その時、外科の先生も認知症の先生も揃って「この人には二度目の手術も抗がん剤も耐えられない」と言われてようやく、母も諦めがついた。

 この一年前後で、よくよく宗教の勧誘が我が家に訪問してきた。

 私は基本、遠方に住んでいるので手術や入院と言った大きなことがなければ帰省はしない。

 と言ってもこの時期、よく実家に帰っていた。

 入院からリハビリまで付き添うのは年寄りだけでは無理。

 手術をして弱った父が歩きたくないというのを無理矢理病室から連れ出し、病院のフロアを歩かせていた。そうしないと寝たきりになるので。

 ボケているので自分の病室(個室)の前を通り過ぎても気づかない。それを良いことに「お父さんの病室はまだ先だよ」と言い含めてフロアの廊下を何周も歩かせていた。

 そのせいか、退院が決まった時の父は平気ですたすたと歩けるようになっていた。

 この間、私は病院で寝泊まりをしていたので、実家に宗教の勧誘が来ていることを知らなかった。

 認知症の人は家族が付き添わないと入院させられない、と言われたので、私が実家に帰っるのは昼の一時間ほどで、風呂飯仮眠、で終わり。それ以外は父の病室で寝泊まりしていた。

 父の退院が決まったとき、背がリクライニングするベッドをレンタルしたほうが良い、という話になり、実家に帰って介護用品のレンタル業者が来るのを待っていた時だった。

 時間は夕方で、冬だったので既に暗かった。

 チャイムが鳴ったので業者の人がきたのかと思って出て行った。

 すると、そこにいたのは知らない女の人。

 多分若い。二十代後半から三十代前半くらいの、どう見ても待っていた業者の人ではない人だった。

「どちらさまですか?」と尋ねたら「貴方のお父様が呪われていると聞いたので勧誘に着ました」みたいなことを言われた。

 正直、言われた言葉を正確に覚えてはいない。が、初対面で雑談すっ飛ばしていきなり呪われていると言われたのは確かで、なんだこいつ、とムカッとしていた。

 家に不幸が続くのは呪われているせい、貴女のお父さんも誰かの恨みをかっているために長患いをしている、私も同じだったがこの宗教で救われた。

 内容的にこんな感じのことを一生懸命喋っていた。

 恨みだ呪いだと言われて腹が立つ一方で、この人も同じだったということは、大変な状況にあったのだろう、とも思った。認めたくないけれど善意で勧誘しているのだろうな、と。話の端々から察するに、若くして夫を亡くした感じだった。

「あなたお子さんは?」と聞くと「家にいる」と言う。

「赤の他人を幸せにする前に、お子さんを幸せにしてあげたほうが良いですよ。帰って傍にいてあげたら?」と言ってドアを閉めた。

 レンタルベッドを家に搬入してから病院に行って母に告げると、最近よく似たような人が頻繁に来る、と言っていた。

「お父さんが良くなるのなら、話を聞いたほうが良いかしら」と言うので「お母さんが優先してしないといけないのは、お父さんが点滴抜いたらナースコールを押すことであって、お祈りすることじゃないわ」と言った。

「でも、呪われている言うし、少しでも楽になるのなら」

「あのね、病気の人は全員呪われているの? そんなわけないでしょ。生まれたばかりの子でも小さい子供でも、病気の人はたくさんいるんだよ。そんな子供が誰のどんな恨みと呪いを背負っているっていうの。それと一緒。恨みも呪いも人を殺せないわ」

「そうかな」

「そうだよ。次からはちゃんとお断りして」

 こんな感じで会話が終了した。

 その後も私不在の時に何度も知らない宗教の勧誘は来たそうだが、断れと言われている、と言って断ったそうだ。


 どこで人の不幸話を聞いてやってくるのか知らないが、宗教というのは弱っている時に誘いに来る。

 私も当時、夜中にたたき起こされては意味不明な罵倒を一時間ほど聞くようなことがある生活だったので、まともだったとは言い難い。

 認知症患者の言葉を否定してはいけない、と言われていたので黙って聞いて適当に嘘つきまくっていたけれど、精神的には結構きていたと思う。

 そして、宗教にふらつく人の気持ちがわからないわけでもない。

 何かに縋って助かるのなら、そっちのほうが楽だと思う。

 だが、どう考えても辻褄の合わない勧誘と誘い文句が解せなかった。

 呪いでも恨みでも、そんなもので人は殺せない。動物だって殺せない。聞いた瞬間、馬鹿なんじゃないか、と思った。そんなもので死ぬような生き物がいないだろう。

 その程度の判断力は残っていた。

 そして幸せになりたいのなら、身近にいる人から幸せにできないと、まったくもって意味がないとも思う。

 私は他人の幸せを家族の幸せより優先させるほどお人好しじゃない。

 やっていることが本末転倒でどうするんだ。

 そんな感じで終わった。

 放置していたら母は入信していたかもしれないが、止めることができた。

 今ではお互い普通に生活している。

 ちょっとでも間違ったら、どこかですれ違っていたら、今頃暢気にこんなエッセイは書けなかったかもしれない。

 ただ、自分は違う、大丈夫、なんて思うことのほうが過信だ。

 誰でも弱って何かに縋りたいときはある。

 隙間に入り込もうとする宗教が悪いのであって、弱っている人が悪いわけではない。

 大変な時ほど気を付けることが増える。

 病人を救ってくれるのは医療従事者であって、宗教ではない。

 病気は呪いで発症しない。

 こういう当たり前のことを忘れてしまいそうになる時ほど、基本を思い出さないといけない。

 ある意味で夢も希望も幻想も抱いていない人間だったせいか、そっちの方面の勧誘は一刀両断的にお帰り頂いた。

「救いにきたのに」と言われても「頼んでない」と言い放つくらいにどうでも良かった。

 精神が荒廃していて、善意には善意で返そう、という人間性が失われていたのかもしれない。

 でも、宗教的善意は要らんと今でも思う。

 あんな変な宗教でも、救われる人がいるんだな、と今更ながらに思う。

 他人事ではなく、誰にでも切欠があれば宗教というのはにじり寄ってくる。

 その時、正しく判断できるかできないかは、少しの差でしかないと思う。

 誰にでも妄信的になる可能性があり、なんか救われた気分になったときが一番危ないのだろう。

 なにもない時にはどうでもないことが、疲れているときには憑かれやすい、って感じだろうか。そう考えると悪霊みたいだな、と思う。

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