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「双子の勇者、片方は敵にされた」  ──運命で分かたれた兄弟が、二つの世界を懸けて戦う。  作者: 妙原奇天


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第5話 鎮音の糸、界縫いの計画

 雪音の部屋は、質素という言葉をそのまま縫い目にしたみたいな空間だった。


 カーテンは薄い灰。床には毛足の短いラグが一枚。壁際に据えた小さな本棚には、マニュアルと規格書と、譜面に見えるけれど実は呪式の配線図が数冊。飾り気はない。けれど、道具は整っている。机の上には小さなバイス、細いピンセット、糸切り鋏、透明な樹脂ケースに収められた呪布の切れ端。整然と並んだそれらは、見ているだけで背筋が伸びる。


 そして、義手。


 雪音の左の袖口から覗くそれは、ただの補綴ではなかった。関節に沿って走る銀の管の間に、細く巻かれた糸巻きが組み込まれている。小指ほどの小さなボビンが連なるように配置され、滑車と小歯車が負荷を分散し、指を曲げたり伸ばしたりするたび、糸がふっと張り、次の瞬間にはたるむ。紡がれているのは布ではなく、鎮音呪。音を縫うための糸だ。


 「見惚れる時間は、十五秒まで」


 雪音が言う。いつもの調子だ。綾人は息を吐き、作業台の反対側に立った。机一面に地図が広がる。白昼の都市図。上に半透明のシートが二枚、重ねられていた。影夜の舞台配置を記したものと、雪灯祭の会場図だ。さらに別の透明シートには、観客の導線、警備の動線、消防の待機位置。矢印の色が違う。赤は危険。青は迂回。緑は逃がす。


 雪音はペンでステージ中央の支柱を指した。


 「台本は舞台から盗む。観客の目は、均衡のカメラだよ。世界が“見ている”場所は、舞台の中心と、その周囲の呼吸の波だ。そこに合わせなきゃ、どんな正論も届かない」


 「盗むと言い切るんですね」


 「正規ルートで間に合うなら、私がこんな糸巻きを腕に仕込む必要はなかった」


 言いながら、彼女は義手の内側を開く。小さな蓋がぱちりと音を立て、ボビンの列が現れる。銀色、鈍色、煤けた白。それぞれに符が刻まれていて、糸には微細な文字が織り込まれている。目を凝らさないと読めないほど小さな文字列。それでも意味はある。静けさ、遮断、密やかな共鳴。


 綾人は地図に目を落とした。影夜と白昼の舞台は、構造こそ似ているが、響き方が違う。白昼の音は人に届き、影夜の音は界に届く。二つを繋ぐのは、双詠の歌だけ。弟がいない今、その歌は半分しか鳴らないはずだ。だから準備する。擬似完成。弟不在の術式を補うための、界縫い糸。


 「合図は、太鼓に合わせます」


 綾人は言った。雪灯祭の終盤、幕間の前に毎年必ず鳴る太鼓。町内会の古い曲に、今年は学生のアレンジが入るという。拍は四の倍数。途中で三拍子を挟む悪い癖があるのが、この街のやり方だ。綾人は、その癖を利用するつもりだった。


 「打点の揺れを、観客の呼吸に変える。呼吸が揃えば、擬似的な“放”が呼び込める。界縫い糸は、そこに掛ける」


 雪音は頷く。ペン先が地図を滑る。観客の波が押す方向、引く方向。拍手が自然に起きる位置。照明の転換で目が細められる瞬間。鎮音で拾える“静けさ”の谷。どれも、呪式の構成要素になる。


 匿名世論は、相変わらず荒れていた。部屋の片隅で開いた端末の画面には、今も言葉が投げ込まれては消えていく。「兄は甘い」「双詠の片割れが市街戦に出るな」「祭のテロに加担」。知っている顔のアカウントが、冗談半分で事を煽るのも見えた。見なければ楽なのに、見てしまう。だが今は、その喧噪すらも拍に聞こえる。四つに割る。八に割る。半拍ずらす。文字の波が、太鼓の波と重なって、地図の上で薄く光る。


 通知が鳴る。紅葉真澄からの正式通達だ。雪音が開き、綾人にも画面を向ける。


 「雪灯祭の終曲“二界の伸ばし”を、影夜代表・霜月凛人が担当」


 含みはない。彼女はいつもそうだ。均衡は、台本を隠さない。隠すのは、選択の主体だけ。誰が選んだのか、どこで決まったのか。そこを曖昧にしたまま、世界は「さあ、続けて」と指揮を振る。


 「予定調和で来る」


 綾人がつぶやく。予定調和は強い。美しい。崩すには、ほんの小さなズレが要る。


 計画は危うかった。界縫い糸で擬似的な“放”を呼び込むには、祭の最高潮で、観客の呼吸をひとつに束ねる必要がある。失敗すれば、観客の感情がばらばらの刃になり、都市を裂く。拍手が悲鳴に変わる。ざわめきが奔流になる。そんな図は、地図上でも十分に恐ろしかった。


 「私の糸は、もともと“騒ぎを静める”ためのもの」


 雪音が義手の蓋を閉じる。静かな音だ。


 「今回は、“静けさを一度だけ破る”ために使う」


 「破るために、静める」


 「そう。破る位置を、私が決める。あなたは、そこで歌う」


 綾人は頷いた。頷くことでしか確かめられないものがある。自分がいま、どこを見ているのか。誰のために、何をするのか。


 ドアがノックされる。祈が顔を出した。髪を後ろでまとめ、ボランティアのエプロンを肩に引っかけている。片手に持ったクリアファイルには、ステージ裏の割振り表。休憩の時間、搬入口のロック、スタッフの配置。もう片方の手にはスマホ。画面には匿名掲示板のスレッドが開いていた。


 「裏から入る準備、整った。影夜側の監督“紅葉”の下にくっつく係、私が引き受ける。身分は“音響ボラ”。名札は偽物じゃなくて本物。もらった」


 「どうやって」


 「匿名で手伝い募集してた。悪意は拡散が速いけど、善意も手軽なら速い。逆利用する」


 祈は肩をすくめ、悪戯が成功した子どもの顔を一瞬だけ見せる。


 「タイムラインの火は、消さない。燃え方だけ合わせる。『何時に集合』『どこで声を上げる』『何を撮るべきか』——ここまで煽っておいて、ぎりぎりで『中止』を流す。人の足は動きの予告に合わせて動くから、その反動で空白ができる。そこに“呼吸”を入れる」


 「危ない橋だな」


 「橋を架けるのが仕事でしょ、うちら」


 祈は笑い、地図に目を落とした。彼女の視線はいつも早い。読み飛ばしているように見えて、肝心な箇所だけを正しく拾う。ステージ裏の通路に印を付け、搬入口の影の角度を確かめ、照明の回転のタイミングに小さく印を書き込む。


 「防衛線、どうする?」


 祈の問いに、綾人は訓練校の仲間の顔を思い浮かべた。強い二年、要領のいい同期、真面目な一年。最小限で囲う。巻き込まないための網を引く。雪音が「名簿」と言い、綾人は端末に指を走らせる。


 「三人。多くても五人。境で支えるだけ。前に出さない」


 「了解。私のほうでも“通報→拡散→撤回”の動線を作っとく。無辜を巻き込まないのは、私の仕事でもあるから」


 祈の言い方は軽いが、目は軽くない。軽くないものを軽く言うのは、強がりじゃなくて技術だ。綾人は心の中で礼を言い、声に出しても言う。


 「ありがとう」


 「お礼は、終わってから」


 祈は手を振り、部屋を出ていった。扉が閉まる音は静かだった。静けさは、準備の合図でもある。


 夜更け。


 学園の空気は、いつもより少しだけ乾いている。暖房の風が廊下の隅で渦になり、屋上へ続く階段は冷たく、上がるにつれて足音が軽く響く。綾人はひとり、屋上に立った。街の光が遠くで揺れ、雪は細かく、息は白く薄い。手袋を外す。指が冷える。冷たさには輪郭がある。輪郭のあるものは、扱いやすい。


 双詠の擬似完成。体の導線に、弟と同じ癖の呼吸を重ねる。喉に置いていた起点を、胸骨の前に移し、肋骨の弓を弦に見立てる。息を吸う。止める。吐く。止める。拍を刻む。太鼓の音を頭の中で鳴らし、打点の誤差を呼吸の揺れに溶かす。痛みが音になる。音が筋肉に馴染む。


 窓ガラスに映る自分の姿は、少しだけ弟に似ていた。輪郭ではなく、息の置き方が。目の奥の光ではなく、光が入る角度が。似ている、と思った瞬間、緊張が解ける。似ていなくてもいい。似せるのは役者の仕事だ。ここで必要なのは、歌の角度。


 端末が震えた。着信。差出人は——凛人。


 短い音声だ。強いノイズはない。風を切る音もない。まるで同じ屋上にいるみたいに、近い。


 「兄ちゃん、最後の伸ばし、任せた。俺は“最初の息”を盗む」


 それだけ。意味は、分からない。いや、分かるようで、分からない。最初の息。台本の初動。観客が「始まった」と思う、その直前の空白。そこを盗む? 均衡の早送りは、出だしに強い。最初の一歩に推進力を積む。そこを奪うというのか。


 綾人は息を吐き、空を見た。雪が舞う。舞う雪の粒がいくつも視界を横切り、街の光に入って消える。凛人はいつも、最初の一歩で全部を決めてきた。練習でも、試験でも、喧嘩でも。なら、最後は——兄の仕事だ。


 最後の伸ばしは、任された。


 綾人は両手を上げ、指を開く。鎮音の糸を思い描く。雪音の義手に巻かれた糸巻きの、微かな震え。祈の走らせる文字列の、一定の速さ。紅葉の通達に残る均衡の口調。匿名の声の、乱れた拍。全部をまとめて、四つに割り、八に割り、半拍ずらす。呼吸を一つに束ねるための、譜面を描く。


 「——やれる」


 声に出す。声に出すと、不思議と現実が追いついてくる。ひとりの夜は、声を吸う。吸った声は、明日のために残る。


 翌朝。


 通しのリハーサルが組まれた。観客は少数。匿名は入れない。ボランティアの腕章をつけた大人と、実地訓練に紛れた学生と、境衛局の監視。ステージには仮の幕。太鼓は本番の半分の音量。照明は回転を抑え、影夜の薄膜は静かに波打つ。


 雪音は舞台袖に立ち、鎮音の鈴を指にかける。義手の内側で糸巻きが小さく鳴り、ボビンが一度だけ軽く回る。祈は音響卓に張り付き、モニターに走る波形を目で追い、通路のアンカーをひとつ蹴って位置を直す。綾人は中央の支柱の手前に立ち、呼吸を整えた。


 太鼓が鳴る。拍は四。途中で三に崩れる。崩れた拍の端で、綾人は肩を落とす。観客の体が、わずかに一緒に落ちる。吸う。吐く。雪音の鈴が、その“落ち”を包む。包んだ静けさを、一度だけ破るために。


 ——ここ。


 綾人は歌った。声にならない声で。舞台の板が振動し、影夜の幕が薄くなる。擬似的な“放”が、界縫い糸に引かれて走る。糸は綺麗に張った。綺麗に張りすぎた。張りすぎた糸は、切れる。切れる前に、緩める。雪音の指がボビンを押さえ、祈の手がフェーダーを少し下げる。観客の呼吸は、まだ揃う。揃う前の揺れこそが、揃うための材料だ。


 最後の伸ばしの手前で、綾人は止めた。止めるというのは、止めるふりをすることでもある。止まったように見せて、内側で続ける。空白を空白のままにしない。そこに、誰かの息が入る席を残す。


 空気が、軽く変わる。雪の匂いが、甘くなる。蜂蜜の、あの残り香が、ほんの少し。


 リハーサルは成功でも失敗でもない。成功と呼ぶには粗が多く、失敗と呼ぶには筋が通りすぎている。だから、いい。粗は現場で直せる。筋は、折れにくい。


 夜。綾人は自室に戻り、机の上に紙を広げた。雪音から渡された白紙は、もう白ではなく、黒い線で埋まっている。観客の呼吸を束ねる位置、警備が壁になる時刻、祈が“中止”を流すタイミング、最初の息を盗む影の角度、最後の伸ばしを差し込む支柱の影の形。家族写真の二枚は、机の端に並んでいる。角度は合わせてある。空と雪の配分も決めた。あとは、歌うだけ。


 端末に、短いメッセージが入る。祈から。「大丈夫、いける」。雪音から。「糸は足りる」。そして、凛人から。本文は空白。添付だけ。影夜の空。薄い雲。その雲の端に、小さな光。


 見ている。向こうも、こちらを。


 綾人は深呼吸した。最初の息は、凛人が盗む。なら、最後の伸ばしは、綾人が返す。返すための刃を持つ。刃は歌。歌は刃。呼吸を束ね、静けさを破り、一度だけ世界のテンポに噛みつく。


 窓の外で、紙灯籠が揺れた。風の拍に合わせて、同じ速度で。街は準備を続け、匿名の声は相変わらず賛否を吐き、紅葉は通達を送る。均衡は早送りをかける。全部分かっている。分かったうえで、明日、舞台に立つ。


 綾人は、最後の譜面に一行足した。


 「最後の伸ばし——兄、担当」


 ペンを置く。椅子にもたれる。胸骨の前に手を当て、息の位置を確かめる。痛みは輪郭を持つ。輪郭は、扱える。扱えるものは、変えられる。


 変える。兄として。双詠の片割れとして。半分の歌で、半分の刃を携えて。


 雪は、静かに降っていた。明日のために。歌のために。最後の伸ばしの、少し手前まで。

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