第2話 半分の歌、半分の刃
雪が溶けるより早く、戦いは終わった。
交差した剣が放つ音だけが、まだ世界に残っている。
綾人は息を吸い、呼吸を落とした。
凛人の紅紋が微かにちらつき、霧のように弱まっていく。
雪音が鎮音符を投げた。
符が空気を割り、界層の回線を潰す。
紅紋の増幅が途切れ、世界が一拍だけ静かになる。
綾人は追わなかった。
追えば斬り伏せられたかもしれない。だがそれは、違うとわかっていた。
わずか数十秒の交戦。剣の重さ、足の置き方、視線の揺れ。
凛人は本気で殺しに来ていない。
むしろ——何かを、見せに来た。
「撤退する」
雪音の声に、綾人は頷く。
凛人の姿は影の向こうに消えた。
赤い光だけが、ゆっくりと空へ溶けていく。
境衛局、第二聴取室。
蛍光灯の白が目に刺さる。
綾人は机に向かい、報告書のフォームを埋めていた。
ペン先が紙を擦る音が、妙に大きく響く。
【敵指定個体との遭遇。紅紋発動確認。交戦時間一分未満。】
そこまで書いて、手が止まった。
「敵」「指定」——その二文字を並べるたび、胸の奥に砂が溜まる。
雪音が隣でモニターを操作していた。
無駄口は叩かない。ただ、彼女の指がときどき震えている。
机の隅に置いた端末が震えた。
画面には匿名掲示板のスレッドが流れている。
《霜月兄、敵を逃がす》《甘すぎ》《身内贔屓乙》《訓練生のくせに》
綾人はスクロールを止めない。
読むたび、胸の奥で何かが削られていく。
雪音が小さく息をついた。
「見なくていい」
「見てるほうが、まだ楽です」
「……痛みに慣れる練習?」
「そういうの、下手ですけどね」
雪音はペンを置いた。
「情報戦は放っておくと芯まで腐る。切り分けな。
あんたの戦場は、あそこじゃない」
綾人は静かに頷く。
切れないのは刃じゃない。
心の方が、錆びついていた。
夜、寮の明かりが薄く漏れる時間。
端末が再び震えた。非公式チャネル。差出人:紅葉真澄。
『霜月訓練生、報告受領。少し話がしたい』
淡々とした音声。背筋に冷たい風が流れるような声。
綾人は通信を受けた。
『均衡の儀式は、善でも悪でもない。
痛みの総量を最小化するための設計です』
「……合理的ですね」
『そうです。人の判断を挟めば、歪みが出る。だから世界が決める』
「でも、その設計に、俺たちの歌は入ってるんですか」
一瞬、沈黙。
紅葉の息が、通信の向こうでかすかに震えた。
『双詠は、本来均衡側の術式。
けれど“感情”が混ざると誤差が拡大する。
あなたたちは、強すぎる』
通信が切れる。
綾人は天井を見上げた。
痛みの総量。最小化。
それで誰かを敵にして、弟を切り捨てる。
その合理は、どこまでが正義なのだろう。
深夜。
学園の屋上は、昼間より静かだった。
街灯が雪を照らし、影が長く伸びている。
綾人は術符を並べ、構えを取った。
双詠の「纏」。
弟がいなければ成立しない術式を、どうにか折り畳んで擬似的に形にする。
右手を前に、左手を胸に。
呼吸を合わせ、回路を描く。
指先から光が走り、身体の内側に導線が織り込まれる。
痛みが走る。
手首、肘、肩、胸骨。
電流のような痛み。
それでも止めなかった。
痛みには輪郭がある。
輪郭があるものは、作り替えられる。
綾人は、かすかに笑った。
「……ここまでは、行ける」
そのときだった。
フェンスに何かが挟まっている。
近づくと、それは雨雪に耐える特殊紙だった。
訓練局でも使う高耐性素材。
紙には、見覚えのある筆跡。
凛人の字。
幼いころ、兄弟で作った符丁で書かれている。
『兄ちゃん。“出口”は歌の最後の伸ばし。
俺はまだそこで息を吸ってる』
綾人は無意識に拳を握った。
息を吸う。吐く。
それだけで、世界が少し動いた気がした。
——凛人は、生きている。
——敵指定のままで、息を残している。
綾人は端末を開いた。
影夜側の地図を呼び出す。
供物庫。敵指定が最初に出た地点。
祈が言っていた“糸”の場所。
夕方、学園の中庭で祈が声をかけてきた。
風紀委員の腕章を巻きながら、少しふてくされた笑み。
「兄貴、また炎上してるよ。コメント欄、地獄」
「慣れた」
「強がんなって。ほら、これ」
彼女はスマホを見せた。
匿名掲示板の断片、ログの抜粋、位置情報の切れ端。
「敵指定」速報が初めて上がった座標が、影夜の供物庫周辺だと示していた。
「雪灯祭の準備で、人の出入りも多い。紛れて何か運び込まれてるかも」
「……助かる」
「お節介だよ。私」
「知ってる」
祈は笑って、手を振った。
「半分でも、ちゃんと歌えてるよ」
その言葉が、夜になっても胸に残っていた。
綾人はフェンスから目を離し、屋上を後にした。
雪音の居室に向かい、ドアをノックする。
「……入れ」
中は整然としていた。
壁際に立てかけられた義手の整備具、机の上には鎮音呪の鈴。
雪音はすでに立ち上がっていた。
「影夜の供物庫に行きます。申請ルート、通してもらえますか」
短い沈黙。
雪音は視線を外さずに答えた。
「公式ルートじゃ間に合わない」
「それでも行きます」
「止める気はないよ」
雪音は端末を操作し、承認印を押した。
「命じられなくても、行くつもりだった」
義手の接続部が鳴る。
金属音が短く響き、雪音は鎮音鈴を指先で鳴らした。
鈴の音は雪に吸い込まれ、消えていった。
「行こう。あの子が“敵”になった理由を、見つけるために」
綾人は頷き、扉を開けた。
外では、雪が止んでいた。
夜の街灯が淡く滲み、遠くで鐘の音が響く。
双詠の歌の半分は、まだ空白のまま。
けれどその空白が、次の刃になると信じていた。




