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「双子の勇者、片方は敵にされた」  ──運命で分かたれた兄弟が、二つの世界を懸けて戦う。  作者: 妙原奇天


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第16話 祖式反転(カウンターポイント)

 最終夜の前日。

 雪は弱く、空は低い。街全体が大きな息を手前で止めているみたいで、音は遠く、光は近い。綾人はコートの内ポケットに薄い封筒と布袋を確かめ、寮の玄関で靴紐を結び直した。祈から届いた短いメッセージは、たった一行。

 「見る。泣かない。必要なら、読む」

 それだけで、十分だった。泣かないと決めるのは難しい。けれど、決めるのは祈だ。決めたなら、彼女はやる。綾人は端末をしまい、外の冷気に肩を預けた。

 待ち合わせは、影夜の端に冬だけ現れる空き地。薄い膜が薄暗がりの中で揺れている。そこが、間奏層の入口。雪音はすでにいて、義手の袖口を軽く叩いていた。凛人はフードを目深にかぶり、喉に手を当てて、痛みの場所を探る指先の癖を隠しもしない。

 「遅い」

 「早すぎ」

 短い文がぶつかって、すぐに笑いに変わる。緊張をほどく儀式は、いつでも雑で、効く。雪音は二人を見比べ、顎で膜を示した。

 「潜る。今日で座標を確定する。反転の書式まで持っていく。出たら、もう戻らない」

 「了解」

 「了解」

 三人の返事が重なったところで、雪音は義手の蓋を開いた。ボビンは入っていない。代わりに、巻き取った原糸だけが布袋に収まっている。義手の中は空で、軽い。彼女はその空を自分のほうへ傾けるようにして笑い、糸の端を凛人へ、もう一端を綾人へ渡した。

 「これは私の仕事の完成じゃない。あなたたちの選択の開始」

 雪音の声は、薄い膜よりも薄いのに、不思議と深かった。糸は冷たくなく、手の温度によく馴染んだ。

 薄膜をくぐると、間奏層は、いつものように無音だった。宇宙に似ていて、全然違う。足が沈まず、音が残らず、線だけがそこにある。梁は三本。第一の梁は雪灯祭の暗闇の夜に立ち、第二の梁は延長公演の二夜を経て太くなった。第三の梁は、まだ細く、しかし確かに位置を取っている。

 紅葉の封筒を開く。紙は薄く、線は濃い。数式は難しく見えるが、見た瞬間に「ここだ」と体が反応する種類の図だった。雪音が原糸を梁の座標に通し、綾人が“纏”の起点を胸骨の前に作る。凛人は喉の紅紋に手を添え、息の初速を低く構える。

 「紅葉の補助式、再確認」

 雪音が短く言い、紙を空間に置く。置くと、紙は落ちずに、そこに留まる。間奏層では、言葉は物体と同じ扱いを受ける。祈の誓約もまた、紙の形で存在した。白い紙、黒いインクの短い文。名を持って見る、責任を持って見る、恐れを持って見る。三つの動詞が、梁に触れずに、梁のそばで呼吸をしている。

 「敵=最短。ここが核」

 綾人は息を整え、言葉を置く。置いた言葉は、紙と同じく落ちない。空中で薄く揺れ、梁の影と干渉して、波紋のような微小な歪みが広がる。

 「最短を切る。それが祖式の反転」

 凛人が頷く。喉の紅紋は薄い光を持って、痛みの輪郭をきっちり残していた。

 「……それで、もう一つ」

 綾人は、そこで言葉を足した。胸骨の前の導線を一段だけ落とし、声を低く、はっきり。

 「敵指定は“最短”だけじゃない。“最安”も敵だ」

 間奏層の空気が、揺れた。空気ではないが、そう感じた。雪音が目だけで「続けろ」と促す。

 「コスト最小化だけを正義とする計算。痛みの配分を見ず、数字の軽いほうへ流す思考。道の短さだけじゃなく、安さだけに縛られる道。——あれもまた、最短と同じくらい、強い」

 置いた言葉の隣に、別の言葉が並ぶ。敵=最短/敵=最安。ふたつの等号は、別の線で梁につながる。最安の線は細く、しかし粘つく。雪音が原糸を一本、そこへ通す。糸はその粘つきに引かれ、少し重くなった。

 凛人は笑った。

 「兄ちゃん、そういうところが好き」

 「どの」

「遠回りの理屈を、ちゃんと手で持てるように話すところ」


 「理屈は持てると強い」

 「持てなくても、歌えると強い」

 いつもの応酬が、梁の下で短く転がり、すっと消える。雪音が頷いた。

 「敵=最短、敵=最安。——反転の核は二つでいく。二つを同時に剥がすのではなく、『待つ』『遠回り』『見守る責任』で、順に剥がす。最短を外し、最安を外す。順序は舞台が決める。私たちは順応する」

 祈の紙が、それを聞いている気がした。紙は返事をしない。けれど、インクの黒は深く、視界の端で頼もしく沈んでいる。

 「書式、組む」

 綾人と凛人は、互いの位置を半歩ずらした。完璧に対称に立つのをやめて、体格分だけずらす。ずれを肯定すると、肩と肘の自由度が増える。雪音の糸が、そのずれに合わせて張力を変える。紅葉の数式は、二本の等号に別々の余白を与えた。

 「待つことを加える」

 綾人が一拍、空白を置く。間奏層は、それを「待ち」として記録する。

 「遠回りを加える」

 凛人が一歩、わざと正面から外して踏む。踏んだ位置に、薄い印が残る。

 「見守る責任を加える」

 祈の紙の文の上に、雪音の糸が一本だけ横切る。糸は鳴らない。鳴らないのに、鈴の影が揺れた。

 反転の書式は、ゆっくり、しかし確かに、形になっていった。梁の根本に短い音符のような点が幾つも打たれ、そこに言葉が重なる。最短を待ちで鈍らせ、最安を遠回りで重くし、見守る責任で通過の角度を変える。祖式の流れを、祖式の言葉で折り返す。カウンターポイント——主旋律の影を別の旋律で受け止めるみたいに。

 完成に近づくほど、代償の輪郭が出てきた。雪音が視線で示す。紅葉の紙に、細い注記があったのだ。

 〈貼り替えの瞬間、第三の梁は“声”で支える。双子の声帯と肺が梁の重さを受け、片方は声を失う可能性〉

 祈の紙の端が、風もないのに小さく揺れた。泣かないと決めた彼女の目が、どこかでかすかに熱を帯びる音が、ここまで響いた気がした。

 綾人は、すぐに言った。

 「俺が受け持つ」

 凛人は、首を振るのに一秒もかけなかった。

 「最後の伸ばしは、兄ちゃん。声を置くなら、最初の息の俺だ」

 「だめだ。最短は俺たち二人が切った。最安を剥がすのも二人だ。声が要るのは、たぶん最後の伸ばしの前。伸ばしの形を作る“纏”のほうだ」

 「違う。最初の息がなければ、伸ばしは形にならない。最初の息の責任は俺が持つ」

 短い沈黙。

 二人は、互いの喉を見た。紅紋の薄い光。胸骨の前の導線。幼い頃からの、呼吸の癖。

 雪音が口を開く前に、二人は結論を出した。

 握手。

グローブを外す。素手と素手。骨の位置の違いが、そのまま受け止めになる。

 「じゃあ、こう決める」

 綾人が言う。

 「最初の息は、凛人。最後の伸ばしは、俺。声を置く必要が出たら、より必要な側が置く。『置く』は『失う』じゃない。ここに置く」

 綾人は自分の胸骨の前に、指先で小さな円を描いた。梁の根本のすぐ下。声を置く席。言葉が残る席。

 凛人は頷いた。

 「置くなら、俺は喉の中。最初の息の直後の空白に置く。そこなら、次の人が拾える」

 「拾うのは、観客だ」

 祈の紙が、深く沈んだ。雪音の糸が、その上をもう一度横切る。糸はやはり鳴らない。鳴らないことが、今日は強さになった。

 蜂蜜菓子の最後の一片を、雪音が差し出した。いつの間にか、彼女がポケットから出していたのだ。二人で割る。割るときは、いつもと同じ。力を入れすぎない。真ん中から、少しだけ兄の側を多くする。凛人は文句を言うフリをし、綾人は笑うだけにする。

 「甘いの、嫌いだ」

 「知ってる」

 「嫌いだけど、今日のはうまい」

 「うん」

 蜜の匂いが、間奏層には存在しない風に乗った。気のせいでもいい。気のせいであるほうが、強いときもある。

 雪音は義手を外した。肘から先が空になり、重さのバランスが変わる。彼女は少しだけ体を傾け、その姿勢に慣れるように呼吸を一つ置いた。それから、糸だけを二人の手に託す。

 「書式は完成。あとは、舞台。私は袖。鈴は、鳴らさない」

 「任せて」

 綾人の声は、思っていたより落ち着いていた。凛人が笑い、喉の痛みを一度だけ押し下げる。

 「兄ちゃん」

 「ん」

 「俺たち、歌が好きだな」

 「好きだね」

 「じゃ、やるか」

 「やる」

 間奏層から戻る前、紅葉の紙の端に、極小の文字があるのに気づいた。誰が書いたのか分からないくらいに小さい文字。けれど、筆跡は紅葉のものだった。

 〈勝っても、制度を敵にしないで〉

 綾人は、声に出さずに頷いた。

 薄膜をくぐる。音が戻り、匂いが戻り、寒さが戻る。影夜の空き地は、さっきより暗く、街の灯は、さっきより近い。

 祈が待っていた。雪を払う仕草も、声を上げる間もなく、綾人と凛人は首だけで合図を返す。彼女は涙を選ばない。目元は乾いている。代わりに、言葉が強い。

 「見てる。泣かない。必要なら、読む」

 雪音は、義手のない袖をポケットに入れたまま、空を見上げる。明日が最終夜。延長公演の、最後の舞台。祖式反転の、最初の本番。

 その夜、寮に戻ってから、綾人は机に家族写真を並べた。角度の違う二枚を、わざと少し重ねる。重なりは、ぴったりではない。余白が生まれる。その余白に、今の自分の影がうっすら入る。影は濃くない。濃くないから、深くなる。

 喉に触れる。声が出る。出るのが当たり前ではないことを、今日の紙が教えてくれた。もし明日、置くことになったら、置く。置く席は決めた。拾う人も、決まっている。祈の紙。観客の目。雪音の糸。紅葉の点。凛人の最初の息。全部で、ひとつの席になる。

 端末が震えた。紅葉からだ。本文はやはり短く、簡潔。

 「座標、保持。反転、可。——待て」

 「待つ」

 綾人は小さく返し、灯りを落とす。寝る前に、胸骨の前で小さな円を指先で描く。声を置く席を、体に覚えさせる。呼吸の音が静かで、眠りは遠くない。

 夜は長い。最終夜は、もっと長い。待つことを、もう恐れない。遠回りを、もう恥じない。見守る責任を、もう誰かに預けない。

 翌日。

 朝の空気は薄く、雪は細い。都市は延長公演の最終夜の準備をしている。警備導線は昨日と変わらないように見えて、ところどころで柔らかさが増えている。祈の宣言以降、客席の温度は自分で調整できるようになった。匿名の声はまだある。けれど、名前のある目撃が、ゆっくり、確実に増えている。

 綾人は蜂蜜菓子を二袋買った。一袋は凛人に。もう一袋は、舞台の端のベンチに置く。誰が食べてもいい。甘さは、待ちの練習に向いている。噛むあいだ、人は歩幅を小さくするから。

 昼すぎ、凛人から短い音声が届いた。

 「兄ちゃん、最初の息、明日、盗まない」

 「盗まない?」

 「盗む必要がない。置いてくれた席に、自然に入る。最初の息、置く前に、渡す。渡した息は、客席で回る」

 「了解」

 「甘いの、嫌いだ」

 「知ってる」

 「でも、明日のは、うまいはず」

 音声はそこで切れた。切れたあとに残る無音は、怖くなかった。無音は、今日は味方だ。間奏層で「待つ」を紙にした。紙にしたから、舞台で直せる。直せるなら、怖くない。

 夕方。

 雪音から一通のメッセージ。画像一枚。外した義手を整備するための分解図。その図に手書きで一言。

 「空にしておく」

 空にしておく、は強い。空の分だけ、誰かの選択が入る。彼女はそれをわかっている。わかっている人の言葉は、短い。

 夜へ。

 綾人は窓を閉め、コートをかけ、封筒と布袋をポケットに入れる。扉の取っ手は冷たい。冷たいものは、現実だ。現実を握って、階段を降りる。

 最終夜の手前の夜。

 双子は間奏層に再潜行し、梁の座標を確定した。敵=最短、敵=最安。待つこと、遠回り、見守る責任。反転の書式は完成。代償は露わ。片方は声を失うかもしれない。けれど、置く席は決めた。拾う人も、決めた。泣かない人も、決めた。鳴らさない鈴も、決めた。点を打つ人も、決めた。

 明日、舞台は開く。

 最短は少し重く、最安は少し粘い。

 観客は待てる。祈は読むかもしれないし、読まないかもしれない。

 雪音は袖で空を見上げ、紅葉は遠くで点を打つ。

 凛人は最初の息を渡し、綾人は最後の伸ばしの席を保つ。

 そして、もし声を置くなら——

 それは、失うことではない。

 ここに置き、明日の誰かが拾うための、最初の仕事だ。

 カウンターポイント。

 主旋律を壊さず、しかし主旋律の行き先を変える影の歌。

 その影の歌を、明日、都市の真ん中で歌う。

 見える人の前で。見えない人のために。

 遠回りで。待ちながら。責任を持って。

 雪は、まだ、やまない。

 やまないままで、街の輪郭をやわらげる。

 輪郭がやわらぐと、線は引き直せる。

 線が引き直せれば、道は変わる。

 道が変われば、敵は移る。

 移った敵は、もう、人ではない。

 最短で、最安で、鋭かった歯は、少しだけ丸くなる。

 丸くなった歯で、明日、都市は噛み合う。

 綾人は、部屋の灯を消した。

 暗闇は、恐怖ではない。

 聴くための暗闇だ。

 胸骨の前の円に、もう一度、指を当てる。

 そこに置く。

 置いて、明日、歌う。

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