悲劇の令嬢ロクサーヌの秘密
黒いヴェール越しに、真新しい墓石に刻まれた名を見つめる。
私は、十六歳で未亡人になった。
春の昼下がりの陽光が、花咲き乱れる庭園に降り注いでいる。
甘い花の香りが風に乗って運ばれてきた。
「この度のことは、本当に何と言っていいか……。大変だったね、きみ。結婚早々、夫と死別だなんて。世の中に、こんなに不幸なことがあるのかと同情するよ」
庭園の一角。東屋で私の向かいに腰かけたラウルが、心底気の毒そうに言った。ラウルは蜂蜜色の巻き毛を春風に弄ばれながら、傍らに無言で座しているアルセーヌに言った。
「アルセーヌも、まさかこんなことになるとは思ってもいなかっただろう」
彼ら二人は幼馴染で、神学校の同窓生でもある。私の夫だった人は彼らの共通の友人で、今回の婚姻はアルセーヌのお膳立てによるものだった。
私の夫は、質の良い織物の商売で一財産を築いた人で、私よりも九つ年上の男であったが、新婚わずか一月目にして帰らぬ人となってしまった。ラウルが眉を寄せる。
「もともと体の弱い男だったから……商いでの無理が祟ったのだろうな。あれだけきみとの結婚を熱望していたのに、まさかこんなにも早く、最愛の妻と死に別れるなんて」
新生活はこれから、という矢先の心臓の病。私は何も言わずに、テーブルの上のティーポットに手を伸ばし、彼ら二人のカップに熱いお茶を注いだ。朝摘み茶葉の目の覚めるような香りが立ち上る。
アルセーヌは、彫像のように動かずにそこに座っていた。ラウルと対称的な漆黒の髪が、春の陽光を吸い込むように美しく輝いている。彼の、古代神話の彫刻のように端正な顔つきは、見る者にちょっと近寄りがたい冷徹さを感じさせたが、彼はその目尻をふいに下げ、傍らのラウルに憂えた美しい声を掛けた。
「こればかりは神のご意思だからね。我々には如何ともしがたい悲劇だ」
「うん。そうだね。僕らが何を言っても、彼女の哀しみを癒すことは出来ないに違いない」
そして暫く、二人は私の淹れたお茶をゆっくりと味わい、まるで夫を喪った私の気を紛らわせようとするように他愛無い話を続けた。未だ喪服に身を包んでいる私は、微笑みを唇に載せないよう苦心しつつ、それらの話に適当に相槌を打っていた。
やがて黄金の陽が緩やかに傾き、庭園の東屋に長い影を作った。私たちは夕暮れの気配に促されるように庭園を後にし、アルセーヌの屋敷に戻った。庭園に面する大きな石造りのアーチを潜ったところでラウルが言った。
「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。今宵は師と約束があるから」
ラウルはそう言って、私の額に軽くキスをした。
「可哀想なロクサーヌ。あんまり気を落としたらいけないよ。こんなことを言うのは大層罪深いと分かってはいるけど、きみはまだ十六だ。愛する人を喪って今はそんな気にもならないだろうけど、いつかはまた良い男に巡り合えるさ。僕も、もちろんアルセーヌも、きみの幸せを心から願っているのだからね」
そう言って私の頭を撫でてから、ラウルはちら、とアルセーヌに視線を投げた。私は察して、そっと彼らの元を離れ、広間から暗い廊下へ出る。人気のない廊下に、二人の囁き声が聞こえた。
「アルセーヌ。きみ、もう少し、自分の身の振り方を考えた方がいいんじゃないか」
「何の話だ」
「きみはこのところ、自分の力を過信しすぎている。先日の国家議会でのきみの発言は、確かに立派だった。けれど、未だ封建的な考え方に囚われている者も多いんだぜ。そうした奴らからは、きみは大変な危険分子とみなされている。きみは確かに才能ある領主かもしれないが、あまりにも急進的過ぎるんだよ」
「そうか。あまり目立たないようにするつもりだったんだがな」
「目立たないだって? 本気で言っているのか? きみのような、道を歩いているだけで人の関心を引くような男が? 今や宮廷でも、きみの噂で持ちきりなんだぞ? 目立たないどころか、大変な有名人と言っていい」
「ほう! 有名人か。それはいい」
「ばか! 僕は、本気で心配して……」
「ははは、お前は臆病だからな。まあ、そうカッカするなよ」
「臆病とは何だ! きみと言う人は、人の気も知らないで……」
と、いつまでも続きそうなラウルの声に、アルセーヌのため息が被さった。
「分かった、分かったって。もうしない……多分」
アルセーヌは笑ってラウルの肩を抱き「悪かったよ」と言った。ラウルはその笑顔に一瞬言葉を失ったが、慌ててそっぽを向いた。
「ふ、ふん! 僕は他の皆と違って、きみには篭絡されないぞ」
「誰がいつ、誰を篭絡したと言うのだ」
「老若男女、数え上げればきりがないだろ……この人たらしめ!」
話しながら歩く二人の足音がこちらに向かってきて、私はそっと柱の陰に隠れた。ラウルの声が、暗い廊下に密やかに響いている。
「しかし、ロクサーヌも相変わらずの美貌だな。久しぶりに会ったが、あの美しい琥珀色の瞳に見つめられると、なんというか、胸がざわめいてしまう。喪に服す女性に、全く不謹慎なことではあるのだが、婚姻を経て、艶やかさが増したと思わないか」
そこでラウルは少し間を置いて、声を潜めた。
「なあ、アルセーヌ……ここだけの話だが、僕は今回のこと、何かの罰だったんじゃないかと思っているんだ。故人のことを悪く言いたくないが、あの男には悪い噂も多かったろう? 周囲からはかなり恨まれていたと言うし。ロクサーヌは可哀想だったが、大丈夫、あの娘なら、この先いくらでも求婚してくる男はいるだろう」
「お前もロクサーヌが欲しいか?」
「ばっ……な、何を言っているんだ、きみは! ぼ、僕は、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「冗談だよ。冗談に決まっているだろう」
冷たいアルセーヌの声に、ラウルが「ぐっ」と息を飲みこんだ。
「きみの冗談のセンスは最悪だな! 全然、笑えない」
「ははは! お前をからかうのは楽しいな」
「このー! きみという奴は!」
彼らは賑やかに話しながら歩いて行く。表門の辺りで、アルセーヌが私を呼んだ。
「ロクサーヌ! ラウルがお帰りだ。顔をお出し」
私は、その声に応じて彼らの元に歩いて行く。ラウルが顔を真っ赤にしていた。
「全く! この男は仕方のない奴だ。これがあの、議会で大演説をした人間とはね!」
そう言って、ラウルは私に視線を寄越した。
「知っているか、ロクサーヌ? この男は、宮廷を騒がせる策士でありながら、その夜には僕の家で子供みたいにカード遊びをしているんだぜ! 全く、こいつときたら、無邪気で、獰猛で……まるで、猫と獅子が同居しているみたいだ!」
呆れたように両手を上げるラウルに、アルセーヌは心底楽しそうに笑った。
「素晴らしい賛辞だな。ありがたく、受け取ろう」
「全く! 付き合う僕の身にもなって欲しいものだ」
ふん、と息を吐いたラウルは、笑って片手を上げ、「ここで結構だよ。また近いうちに」と言って従者を伴って屋敷を出て行った。彼の靴音が遠ざかる。渇いた涼しい風が、私たちの間を吹き抜けた。いつの間にか、鈍色の薄雲が夕陽を覆い隠している。
「おいで、ロクサーヌ」
ふいに名を呼ばれ、振り向く。アルセーヌが右手を私に差し出していた。私だけに向ける、悪戯っぽい笑みを称えて。陽の光の消えた薄闇の中で、私もまた微かに微笑み、その大理石のような手を取る。
アルセーヌは喪服姿の私を連れ、石造りの暗い廊下を抜けて行った。私たちは一言も発さないが、こうして腕を絡めていれば、大抵のことは分かり合える。
大きな部屋の前を通りかかった時、中で刺繡をしていたアルセーヌの奥方が私の姿を見つけ、部屋から急いで出て来て抱擁してくれた。そして、思いつく限りの悔やみの言葉を述べてくれる。私はそれを、哀しみを表す沈黙で受け取った。彼女は、気の休まるまでここに滞在すると良い、部屋はこの通りいくらでもあるのだから、と言ってくれた。この馴染み深い屋敷は、今やアルセーヌとこの奥方のものであったが、まだ子を生していない彼ら夫婦にとっては広すぎるようだ。手入れは行き届いているが人気のない廊下を、私はアルセーヌに伴われて歩いて行った。暫くすると廊下の突き当りに立派な扉が見えて来た。彼は迷うことなく、その部屋の黄金の取手を掴んで押し開ける。
室内は薄暗く、夕暮れの風が吹き込んでくる。蝋燭を灯すにはまだ早い。アルセーヌは扉を閉めると、私を抱きしめて口づけの雨を降らせ、寝台の上に座らせた。私はいつものように、この人の黒檀のような瞳を見つめていた。その瞳の奥には、いつもと同じように、情熱と無慈悲の炎が燃えている。彼は私の頬に優しく手を添え、笑いかけた。
「可愛いロクサーヌ。約束通り、ちょうどひと月だ。よく辛抱してくれた」
私は彼の手に自分の手を重ね、微笑んで頷いた。この人と私の手は不思議なほどよく馴染む、境目なく溶け合うように。彼は私を自分の膝の上に対面に座らせると、私の喪服を脱がせて言った。
「もうこれは必要ない。お前の肌に合う服を用意したから、これに着替えるといい」
そして、寝台に広げてあった真紅のドレスを私に着せた。まるで鳩の血のような濃い赤色のドレスは、私の青白い肌の美しさを際立たせる。アルセーヌは私にこの色のドレスを着せるのが好きだった。彼は私の瞳を覗き込んだ。その濡れたような黒い瞳に、赤いドレスを身に纏った私の姿が映っていた。
「すまなかったね、悪い男の元に嫁がせて。だがこれで、お前の夫だった人の財産と領土は、お前のものだ。彼の商いも、いずれ私の手の者に」
「はい」
「お前はどうする? 彼の屋敷に戻ってもいいし、もちろん私の傍にいても……」
と言いながら、アルセーヌは私の頬を手の甲で優しく撫でた。
「ここに留まります」
私はきっぱりと言った。他の選択肢は考えていなかった。彼は、まるで新しい悪戯を思いついた時のように楽しそうに頷いた。その瞳が、夜空の星のように煌めいている。
「お前も分かっているだろうが、私の妻は形式上のものだから気にしなくていい。この屋敷はいつまでも、私とお前だけのものだ」
私は、まるで猫のように、彼の首筋に顔を摺り寄せた。彼の温かな肌からは、いつもと同じ華やかで深みのある香りがして、私の五感を麻痺させる。アルセーヌは密やかに笑い、私の髪にキスをしながら囁いた。
「愛するロクサーヌ。お前には、また辛抱してもらわねばならない。次のお前の婚姻は……そうだな、刈入れの頃になるだろう。それまでは、ここで、私とともに」
「はい」
屋敷の庭園に乱れ咲く花の中に、毒草がある。その根を煎じた粉末は、耳かき一杯分でゆうに致死量を超える。私の夫は、ある朝、私が目覚めると隣で既に冷たくなっていた。それは、アルセーヌの言った通り、婚礼からちょうど一月経った朝で、私はその夜半に何か物音を聞いた気がしたが、夢の中のことであったかもしれない。
私はアルセーヌの胸から体を起こした。この部屋は、何一つ変わっていない。アルセーヌと私の、子供部屋。目の前の男にとって、政治も婚姻も、遊びの一つなのかもしれない。私は彼の首に腕を回し、その恐ろしく魅惑的な瞳を覗き込んだ。この、時に猫のように無邪気で、時に獅子のように獰猛な美しい存在は、私を捉えて離さない。私は彼の耳元で囁いた。
「あなたは一生私のもの。私は一生あなたのもの。愛するアルセーヌお兄様」
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