中編
──長女が辺境領に出発して間もなく、妹シャルロッテの後継者教育とクレメンスとの婚約が内々で決まった。
これまでのびのびと育てられた次女に、いきなり後継者教育を受けろというのは厳しいだろうとは誰もが予想していたが、教育が始まってすぐ、予想以上に前途が暗いことに侯爵夫妻もクレメンスも気付かされた。姉に厳しくしたぶん妹をこれほど甘やかしていたのかと、夫妻が自分たちの行いを見直すほどに。
授業は素直に受けるものの、興味がないことは覚えられない。悠長に教える余裕はないからと少し厳しく接すると、その素直さゆえすぐに泣き出して授業どころではなくなってしまう。その振る舞いによって貴族令嬢としての教育すらできていないことも明らかになっていた。
それでも長女が辺境伯に望まれ、次女が侯爵家を継ぐということは王家にも既に認められている。侯爵夫人が新たな後継者としてシャルロッテを紹介するため、有力貴族の夫人たちの茶会に連れて行った時にそれは起こった。
令嬢たちが相手でもそうだが、夫人たちとの交流には更に注意が必要になる。それぞれの家族構成や領地の事情、他の夫人との関係なども頭に入れて慎重に会話をしなければならないのだ。それをわかっているからこそ、侯爵夫人はシャルロッテから決して目を離さずにいるつもりだった。マナーはギリギリ許されるとして、とにかく余計なことはしない、話さないときつく言われていたにも関わらず、ある伯爵夫人を失言で怒らせてしまったのだ。
『夫人にはもっと明るい色がお似合いだと思います!先日の園遊会で金髪の綺麗な方が着てらした珊瑚色のドレス、ああいう色合いはどうかしら?とても素敵で目立っていたわ』
…珊瑚色のドレスの夫人は某子爵家の未亡人であり、伯爵夫人の夫と不貞の噂があった。
娘の口をふさぐようにして茶会を中座し、帰宅してから夫人が叱るとシャルロッテは『だから私にはお姉さまと同じことなんてできません!あんなに素晴らしいお姉さまの代わりなんて私には無理です!』と泣き叫び、クレメンスが侯爵邸を訪ねた時にはお姉さまを呼び戻してと子どものように駄々をこねていた。
『だがシャルロッテ嬢は姉君に冷たく当たられていただろう?戻ってきたらまた辛い思いをするではないか』
『…なんのことですか?私はお姉さまに苛められたりしていません!』
シャルロッテは一瞬きょとんとした顔になり、すぐに怒りはじめた。
美しく所作は優雅で頭脳は明晰、そんな姉が自慢でたまらず、それに比べて自分の至らなさが悔しくていつも泣いていた。姉の真似をしては失敗し、姉のようになりたくて後ろをついて回ってはやはり失敗を繰り返す。そのたびに『これではお姉さまに呆れられてしまう』『またお姉さまに叱られる』『お姉さまに嫌われる』と泣くので、学院の者は姉が実際にひどいことを言っているのだと思うようになった。両親はさすがに決めつけることはしなかったが、姉にそれとなく注意をして妹にはさりげなく庇うような行動を取っていた。
唖然として話を聞いたクレメンスは、恐る恐る過去の出来事を振り返ってみた。
ちょっとした失敗で詰られるシャルロッテを何度も目撃した。
それはつまり、シャルロッテがクレメンスの前で何度も失敗しているということだ。
侯爵家の後継として、身内の王族への無礼を注意しないわけにはいかないだろう。それも度重なる無礼だ。感情的にならず冷静に注意しているのをクレメンスは『無表情で詰っている』と解釈したのだ。
これまでシャルロッテがあらゆる意味で幼稚であることが知られなかったのは、姉の助けがあったからだ。だからこそ“ちょっとした”失敗で済んでおり、冷たい雰囲気の姉との対比で“無邪気で明るい令嬢”と良い見方をされていた。
…シャルロッテはぐずぐずと泣きながら、クレメンスに言った。
『殿下が、お姉さまは辺境伯様に見初められたって…お姉さまの素晴らしさを理解する殿方のもとに行くっておっしゃったから、一緒に行きたいのを我慢して笑顔で見送ったけど…やっぱりお姉さまがいないと駄目なの!お姉さまを返して!』
(え…なんだそれ)
どこから指摘するべきか。
ディルクが絶句すると、クレメンスは沈黙に耐えられないかのようにまくし立てた。「わかっている、私が愚かだったんだ。私のとんでもない早合点のせいで、令嬢の人生を捻じ曲げてディルクにも迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかった」婚約を頼まれた時よりも深く、頭を下げた上に膝を折ろうとしたクレメンスを慌てて止める。
自分の過ちに気付き、一刻も早く正さねばと飛んできたのは一本気なクレメンスらしい。だがその性格のせいでここまでの事態になってしまったのも確かだった。
「私のことはいいですが、令嬢をどうされるおつもりですか?」
「…まずは真摯に謝罪したい。そして許してもらえるのなら…侯爵家に戻って、再度後継者となってもらいたいと…」
クレメンスの声はだんだんと小さくなっていく。虫のいい願いであることを承知しているのだろう。シャルロッテとの婚約は内々で決まっているだけなので、姉に変更することはできる。当人が了承してくれるかは置いておいて、クレメンスはそれでいいのだろうか。
…おそらくクレメンスはシャルロッテに惹かれていた。本来の婚約者候補の令嬢の名は頑なに呼ぶことをせず、ずっとシャルロッテの名前だけを口にしていたことでもわかる。
それが罪悪感を更に増しているはずだ。姉のことを『愛される妹に嫉妬している』とまで決め付けていたのだから。
妹に肩入れして勝手な思い込みで姉を継ぐはずの生家から追い出したのだから、私情は挟んでいないつもりでも願望に沿って動いていたことになる。実は姉が好き過ぎるだけだった妹は確かに邪気はないが、邪気がなさすぎて自分の行動が姉の評判を落としていたことも気付かない幼さの持ち主だった。侯爵家を継ぐなど到底無理だろう。
そして現実的なことを言えば、クレメンスにとってもっとも優良な婿入り先である侯爵家は諦めたくないはずだった。クレメンスは決して頭は悪くないのだが、書類に向かうより剣を振る方が向いている気質だ。しっかりした妻と支え合えれば問題なく領地経営もできるだろうが、寄りかかってくるばかりの妻を支えて実質一人で侯爵領を守り抜くことができるかどうか。
姉を侯爵家に戻し、それでもシャルロッテと結婚したいなら国王を説得して新たな爵位をもらうことになるが、いざ領地経営となれば侯爵家の場合と同じで、シャルロッテが妻では苦労するのが目に見えている。
しかも今のクレメンスには、シャルロッテへの想いが残っているかも怪しい。誤解を招く行動をしたという逆恨み半分の気持ちと、姉がいなくなったことで目の当たりにした幼稚な本性に幻滅し、その分理知的で作法も美しかった姉を見直すようになったのかもしれない。
「…結果がどうなるにしろ、まずはこちらの都合で結ばせた婚約を解消するのが先だと思った。幸せに暮らしているならこのまま帰って父上に説明し、破棄するつもりだったが…これが書類だ」
婚約解消成立の書類を受け取り、ディルクはあからさまな喜びを顔に出さないよう注意した。これでディーに会いに行ける、堂々と告白もできる…そう考えた時、不意に自分がアーベル侯爵令嬢と対面した場面が頭に浮かんだ。
顔も上げさせず一方的に話を終わらせた、あれは対面と呼べるものではなかった。それきり一度も言葉を交わすどころか顔を合わせることもしなかった。クレメンスの話だけを信じて令嬢の言い分を聞くこともしなかったなど、クレメンスのことを責められる立場ではない。
(…浮かれるより前にすることがあるだろう。望まれて招かれたと信じて、単身で辺境伯領まで来てくれた令嬢に俺は何と言った?)
思い出した途端全身から冷や汗が出た。勢い良く立ち上がると、項垂れていたクレメンスが顔を上げる。
「殿下、アーベル侯爵令嬢のところへ行きましょう。私も謝罪しなければ」
家令に案内を頼むと、なぜかクレメンスを見て躊躇ったのちに言った。
「…ご令嬢は、離れにてお過ごしかと」
「離れだと?」ディルクは不審に思い聞き返す。「城に別棟はないだろう。どこのことを言っている」
呼んで来ると言い張る家令にとにかく連れて行けと命じ、ディルクとクレメンス、執務室を出た後に合流した護衛数人で家令に続く。
…城の裏口から出てしばらく進み、見えてきたのは物置のような粗末な建物だった。
「…離れ?これが?」
クレメンスが呟く。そこは庭の手入れや城の補修などで一時的に人手を募った際に、臨時雇いの労働者を寝泊りさせるための小屋だった。
城の中で一度も令嬢と顔を合わせたことはなかった。おそらくディルクの行動範囲から離れた部屋を用意したのだと思い、やがて町に出向したためそれも忘れていたのだ。
ディルクは家令を険しい目で問い詰める。「どういうことだ?」
「わ、私はディルク様のご意向に従ったまでです」
「私の意向だと?裏庭の汚い小屋に侯爵令嬢を滞在させることがか?」
「『相応に遇せよ』とおっしゃいました。王子殿下の不興を買い王都から追放された令嬢ですから、悪女に相応しい冷遇で構わぬということだと…」
ディルクはぽかんと口を開けたが、言葉を理解するにつれ怒りがこみあげた。
「辺境伯の婚約者として相応な待遇をしろと言ったのだ!何故そのように曲解したのか!」
怒鳴りつつも当時の状況を思い出す。王子に頼まれて少々厄介な令嬢を引き受けることになった。そのような表現で説明をしたのはディルクだった。父の代から仕えてくれる家令がそれをどう思うか、ディルクを主と仰ぎよく働いてくれる使用人たちがどう感じるか、深く考えることをしていなかったのだ。
ディルクが家令を責めているうちに顔色を失くしたクレメンスが前に出て、護衛とともに小屋の扉に近付く。
「アーベル侯爵令嬢、クレメンス・オーラムだ。話をさせてもらえないだろうか」
…小屋からは返事はおろか、物音ひとつしなかった。
再度声をかけようとして、護衛がクレメンスの注意を促す。示された場所…扉の中央部分を見て目を見開き、手を出しかけるのを護衛が止めて代わりに扉を開け放った。
駆け寄ったディルクも室内を見回す。木枠が組まれただけの寝台、倒れた机に壊れた椅子、割れた窓などが目に入ってくる。こんな場所で侯爵令嬢が暮らしていたなど考えられない。
そして肝心の令嬢の姿は、どこにも見当たらなかった。
「…食事だけはちゃんと…一日一回」
「洗濯は小屋の中でされていたようで…私たちは…」
急遽召集された使用人たちは、おろおろしながら信じられない事実を口にした。
令嬢を小屋に押し込めるとろくに世話もせず、食事も残り物を投げるように与えるのみ。憂さ晴らしに小屋の周りで聞こえるように悪口を言い、やがて令嬢は裏庭にある井戸で水を汲む時以外…それもできるだけ人目を避けて…小屋から一歩も出なくなった。
王子に嫌われ厄介払いされるとは、どれほどの悪女なのか。そういった話題から想像を語る者が現れ話は膨らんでいき、『妹を虐げ我が儘放題、男癖も悪く王子に言い寄ろうとして怒らせた』という尾鰭のみでできた化け物のような噂がいつの間にか浸透していた。
…その上、更に酷い事実が明らかになる。
「扉は外から破られていた」聞き取りに同席していたクレメンスが厳しい顔で言った。「令嬢を害する目的で誰かが押し入ったのだ」
厳しく追求され、やがて下男が口を割った。「男癖の悪い、身持ちの緩い女だって聞いて…ならば手を出してもいいんじゃないかと」
ふた月近く前、そんな女懲らしめてやればいい、と下男たちが酔って押しかけたという。懲らしめるどころかそんな女なら慰めてやるようなもんだ、と笑いながら。
扉は閂がかけられていたが、道具で壊し中に入った。すると令嬢は既に逃げ出した後で、嵌め殺しの窓が割れていた。扉の内側を机と椅子で塞ぎ、それで時間を稼ぎながら扉を破ろうとする音に紛れて逃げたらしい。
ディルクは怒りで目の前が赤くなり、クレメンスの顔は絶望に染まった。
「申し訳ございませんでした」今度はディルクが、クレメンスに膝を折った。
「経緯はどうあれ、殿下に託されたご令嬢を…形式のみであっても婚約者である女性を、安全に保護するのは最低限の義務であったのに…俺はなんてことを」
「元はといえば私の思慮の無さのせいだ。王族に疎まれた令嬢と聞いて周囲がどのように思うのか、考えもしなかったからな…だが…」疲れ切った様子のクレメンスは呟くように続ける。「ディルクのように真面目で闊達な相手となら、アーベル侯爵令嬢も幸せになれるかもしれないと期待もしていた…。もともと聡明な令嬢だったから、妹と離れることで冷静になり、明るくなっているかも、と…まあ、前提が間違っていたわけだが…結局私の責任だな」
歯をギリギリと食い縛りながらディルクはその言葉を聞いていた。たとえ妹に嫉妬して当たっていたのが本当だったとしても、クレメンスの言うとおりディルクがきちんと交流を持っていれば令嬢の心境も変わっていき、いずれ妹と和解できたかもしれなかった。それが誤解であったのなら尚のこと、わずかな時間でも話をする機会を作るべきだった。婚約を続けるほど親しくなったかはわからないが、少なくとも使用人の虐待を許すようなことにはならなかったのだから。
…先ほど下男が令嬢への行いを白状した時、ディルクは下男を殴り飛ばし、さらに城の騎士の剣で斬り捨てようとした。それを止めたのは血の気の引いた顔の家令だった。下男たちと世話係だったメイドたちはひとまず城の地下牢に収監して後ほど処分を、と進言したのだ。「もちろん私の処分も含めてです。…今はそれよりも重大な問題について対処すべきかと」
ディルクは無理矢理に気分を落ち着かせ、クレメンスとともに執務室に戻るとアーベル侯爵令嬢の捜索について考えをめぐらせた。身を守るため小屋を抜け出し、城を出奔したのはふた月近く前。辺境伯領に来てひと月あまり経った頃で、おそらくディルクが国境の町に向かう時点で既に、令嬢は城から居なかったことになる。
世話をしなかったとはいえ食料──食事などと呼べるものではなかった──を運んでいたメイドは不在に気付いていたはずだ。追求すると責任を問われるのが怖くて黙っていたと泣きながら答えた。小屋に連れて行ったのは家令で城に近付かないよう令嬢に告げ、裏庭から出ないよう見張りに言いつけてもいた。だが世話係に具体的な“世話”の仕方を指示していたわけではなく、実際にどうしているかを確認することもなかった。はっきり指示されたわけではなかったから、令嬢が逃げ出した原因を全て自分のせいにされると思ったのだ。
このような環境で貴族の令嬢がひと月以上過ごせたことが信じられなかった。絶望して自死を選んでいてもおかしくない。もしも下男の一件がなく今日まで小屋にいたとしたら、その場合は衰弱死していたかもしれなかった。
家令は最初に小屋に連れてきた際、令嬢のわずかな荷物も一緒に運び入れたという。トランク三個という侯爵令嬢としてはあり得ない量だったのは、ディルクが最小限でと念を押したからだ。トランクはあったが、元は高級だったであろうドレスは全て無残な状態になっていた。自分ひとりで着替え、洗濯するために装飾を取り払って鋏を入れられていたのだ。ディルクは居たたまれない気分になって目を逸らした。
「…逃げ出した時もそのような格好だったのなら、町に下りても貴族だと思われなかったかもしれないな…」
「髪や肌も荒れ、身体もやつれてしまっていただろう。平民に混ざって移動しても目立たなかっただろうが…どこへ向かったのだ?」
土地鑑もなく、行くあてといえば生家の侯爵家しかないはずだ。だが着の身着のままで令嬢がひとり、無事に旅ができるとは思えない。現に侯爵領に帰ってきたという連絡もなく、行き倒れという不吉な想像が二人の頭をよぎる。
「とにかく城下町から虱潰しにあたろう。貴族令嬢と知られぬままどこかで保護されているかもしれない」ディルクは最悪の事態を考えまいと頭を振った。「城の者を総動員させて令嬢の特徴をもとに、領民へ聞き込みを…」
言葉が止まった。ディルク自身は特徴どころか、令嬢の顔を正面から見てもいない。
後ろめたさのあまりそれを告げられなかったが、クレメンスは気付かず頷いた。
「高貴な髪色は隠しているかもしれないな。姿絵があればいいのだが…そうだ」
クレメンスは護衛のひとりを呼ぶ。「お前、アーベル侯爵令嬢に会ったことがあるな?」
「はい。殿下が侯爵家を訪問される時は、毎回随行させていただきましたので」
クレメンスに言われてディルクが紙と鉛筆を用意すると、護衛は考えながらも鉛筆を走らせ始めた。「彼は絵が得意なんだ。余興でその場にいる人間をスケッチさせると、特徴をよく捉えていることに皆驚く」
しばらくして手を止めた護衛は、緊張しながらクレメンスに紙を差し出した。「記憶を頼りに描いたので、直すところがあればお二人に意見をいただければ…」
受け取ったクレメンスは一目見て感嘆の声を上げた。「そっくりだ、流石だな。ディルクもそう思うだろう?」
渡された紙にはさらさらの長い髪をした美しい少女が、控えめに微笑んでいる姿が描かれていた。初対面の時にきちんと顔を見ていたら、心が動いていたかもしれない。美しいと聞いていたので外見に自分が絆されるのを恐れたのも、あのひどい対応の理由だった。
(…?)
ディルクはスケッチを見つめ、かすかに震える手で先ほど受け取った婚約解消の書類を引き寄せた。クレメンスが話の中で呼ぶことはなく、ディルクも呼ぶ機会はないだろうと思い記憶に留めなかった令嬢の名前。
「色を乗せればもっとわかりやすいのだが」クレメンスは話を続けている。「そんな暇はないから言葉で説明するしかないな。髪は染めているかもしれないが、瞳は深い緑色をしている、と」
──ユディト・アーベル。
本当の名はなんというのか何度も聞こうとして、馴れ馴れしいと思われるのが怖くて聞けずじまいだった。ディーナ、シンディ、ナディア…愛称に繋がる名前をいろいろ考えたこともある。
(…ディー…)
ディルクは床に崩れ落ち、悲痛な声で言葉にならない叫びを上げた。
読んでいただき、どうもありがとうございました!