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前編


「いらっしゃいませ!奥のテーブルへどうぞ」

 向けられた笑顔に今日も見惚れ、それなのに気の利いた挨拶もできずにディルク・ノイマンは促されるまま席に着く。

 「本日のパイはチキンとほうれん草のクリームソースです」

 「ではそれを」

 かしこまりました、と一礼して厨房に向かう後ろ姿をそっと目で追う。いい年をした男が何をやっているのかと自分でも思うが、二十代も半ばを過ぎるまで恋愛に免疫がないまま領地のために働きづめだったのだ。今さら女性に心惹かれることがあるなど想像もしていなかった。

 辺境のさらに端、国境の山を目前にしたこの町は最近人の出入りが激しい。

 ここオーラム王国と隣国の間を通る山道が崖崩れで一部塞がってしまい、辺境伯であるディルクもひと月ほど前から町に逗留し、復旧工事を指揮しているのだ。工事の関係者や足止めを食っている旅人でどの宿屋も埋まっている。

 クロツグミ亭という名のこの店も宿屋兼食堂を営んでおり、日替わりのパイが名物である。町に来てすぐにたまたま立ち寄って以来、昼食は必ずここで取るようになった。滞在しているのはここら一帯の管理を任せている部下の屋敷だが、昼になると別行動でクロツグミ亭に通うので「ノイマン辺境伯は無類のパイ好きだ」と思われている。

 そしてクロツグミ亭の者も、パイが大好物の工事関係者だと思っているようだ。辺境の辺境に住む領民は領主のディルクの顔を知らない者の方が多い上、自ら作業に加わることもあるため質素な服装をしている。敢えて隠しているわけではないが、わざわざ身分を明かす必要もないのでそれでいいと思っていた。

 「お待たせしました!熱いのでお気をつけて」

 パイとサラダを運んできた彼女が下がりかけるのを引き止めたくて、「ありがとう、美味そうだな」と声をかける。

 「本当に美味しいんですよ!昨日のミートパイに負けてませんから、ゆっくり味わってくださいね」

 彼女──「ディーちゃん」と店の女将に呼ばれている少女はにっこり笑い、少し言葉を交わしたところで入ってきた黒髪の客の対応に離れていった。

 最初に呼ばれているのを聞いたとき、反射的に顔を上げてしまった。「ディー」はディルクが子どもの頃に呼ばれていた愛称でもあったのだ。そこで返事をした彼女はチョコレート色の髪を編みこみ深い緑色の瞳をした、細い身体でくるくるとよく働く可愛らしい少女だった。

 社交界に出ることのあまりないディルクでも、一応は貴族である。美しいと言われる夫人や令嬢に会う機会もあった。だが豪華なドレスよりもディーのエプロン姿が、念入りに手入れされた指先よりもディーの短く切り揃えられた爪の方が好ましく思えるのだ。

 楽しげに立ち働く様子は見ている方も笑顔になるような温かさが感じられ、当然客にも人気があり…若い男の客が馴れ馴れしく話しかけるのを見て苛立ちをおぼえたのが、自分の気持ちに気付くきっかけとなったのだった。

 なんとか親しくなりたいと思い、混雑する時間を避けて来店するようになったおかげで他愛無い会話はできるようになった。ディーからすれば毎日通ってくれる常連に愛想よく対応しているだけなのだろうが。

 パイにフォークを入れ、ゆっくりと口に運ぶ。ここのパイは確かに美味いが、ディルクは別にパイが特に好きなわけではない。食べ物にこだわりがないのだ。

 しかも本来は食べるのも早い。数分で平らげることもできるのだが、ディーに「ゆっくり味わって」と言われたのとなるべく長くこの場にいたいがために意識してスピードを落としている。

 …そのためクロツグミ亭では「猫舌のお客さん」だと思われているのだが、ディルクはそれを知らない。

 (身分を隠して告白するのは卑怯だろうか…だが領主だと明かした後では無理強いしていると思われるのでは)

 工事が終わったらそのまま城に連れて帰りたい、というところまで想いを募らせた結果、ディルクは現在何重にも悩んでいる。

 ディーに夫や恋人がいないことは知っている。他の客との会話を漏れ聞いただけで自分で確かめたわけではないが、酒場の女と違いフリーだと嘘をついて客の気を引く必要もないはずだ。

 もしも求婚に頷いてくれたとして、辺境伯夫人となることまで承知してくれるかどうか。黙っていたことで気を悪くしないだろうか。許してくれたとして、一族が平民のディーを認めてくれるのか。

 (身分差はどうにかなる。もともと辺境は貴族として社交に長けた夫人より、領民とともに領地を守ろうとしてくれる女性が相応しいのだから)

 告白もまだであるどころか、ディーについてほとんど知らないうちから先走り過ぎのようだが、責任ある立場にいる以上衝動的な行動は取れない。ディーのためにも先に必ず起こるであろう問題を整理しておかなければならないのだ。

 そしてその中での最大の問題が、ディーにこれ以上近付けない理由だった。

 (形だけのこととはいえ…俺には婚約者がいるんだよなあ)


 ──婚約している男が、別の女性を城に連れ帰りたくて悩んでいる。

 言葉にするとディルク本人ですら屑野郎か、と思う。

 ことの起こりは半年前、第三王子から頭を下げて頼まれたことだった。侯爵家の令嬢を娶ってほしい、と。

 『…アーベル侯爵家は、殿下が婿入りすることがほぼ決まっていたのでは?』

 『そうだ、その令嬢は婚約者候補だった。だが交流するうちに…彼女が妹を虐げていることを知ったんだ』

 ディルクと第三王子のクレメンス・オーラムは年齢は幾つか離れているが、ディルクが辺境伯を継ぐ前に鍛錬と実績と人脈のために在籍していた王立騎士団でともに過ごした仲である。正義感が強く立場に驕らず鍛錬に励むクレメンスとディルクは意気投合し、今も友情は続いていた。

 王太子に王子が産まれ、第二王子が友好国の王女と結婚したためクレメンスは国内の有力貴族と縁を結ぶことになったのだ。

 そこで家柄と年齢を鑑みて候補にあげられたのが、アーベル侯爵家の長女だった。十八歳で容姿も整っており学院の成績も優秀、後継として厳しく躾けられてもいたという。

 『頭の良さをひけらかし、妹を見下している。シャルロッテ嬢がちょっとした失敗をしただけで無表情で詰り、怯えながら涙を浮かべて謝るシャルロッテ嬢を私も何度も目にした』

 妹のシャルロッテ嬢は十六歳。次女で家を継ぐわけでもないためそこまで教育に力を入れられておらず、学業も作法も長女には及ばないのは確かだった。

 『私が注意しても、殿下の御前で失礼いたしました、と私に対しての謝罪しかしない。むしろ私がいないところなら更にひどい言動をしているとも取れる。シャルロッテ嬢は至らない点もあるだろうが、朗らかで邪気がなく両親にも学友にも愛されている令嬢だ。自分より劣る妹の方が愛されているという嫉妬もあるのだろう』

 学院での在籍期間が重なったのは一年だが、院生の間でも冷たい姉の仕打ちに耐える妹の噂は広がり、同情されていたという。

 いくら優秀でも、あんな冷たい女性を妻にしたくはない…と思わずこぼしたクレメンスはハッと顔を上げた。『そんな女性を娶れというのは酷なことはわかっている。だが姉君がそばにいることでシャルロッテ嬢が萎縮して、笑顔が消えていくのは痛ましくて見ていられないんだ。あの二人は引き離した方がいい。そのためには…』

 『私に高慢で性悪な女性を押し付ければいいと?』ディルクは冷めた目で後を引き取った。王子に対し不敬ではあるが、友人として話している今は許されるだろう。友人であるばかりに無茶を言われている今なら尚のことだ。

 『…侯爵家の後継である長女を家から出すには、相応の家から望まれることがいちばん説得力があり角が立たない。優秀さを買われ、重要な地である辺境に迎えられるとなれば彼女の矜持も傷つかないだろう。実際家柄もひけを取らず、年齢も釣り合い婚約者のいないディルク以外に適任がいないんだ』

 犯罪者ではないのだから名誉は守りたい、それに優秀なのは間違いないから辺境でも能力を発揮してくれるだろう…と言い募るクレメンスに、ディルクは意地の悪い気分になる。

 『引き離すだけであれば、私が妹君に求婚しても良いのでは?』

 『駄目だ!』反射的に答えたクレメンスは気まずげに目を伏せる。『…シャルロッテ嬢では厳しい辺境で領主夫人を務めるのは難しいだろう。侯爵夫妻も反対すると思う』

 …クレメンスは侯爵家への婿入りを断るわけではないらしい。後継となった妹の方と結婚することを考えているのだろう。

 だがクレメンスの性格からして、気に入った妹と結婚したいがために邪魔な姉を追い出すのが目的とは思えない。姉妹の状況を見かねて穏便に事を収めたいというのが最大の動機のようだ。

 それにしても勝手な話である。ディルクは渋ったが、王子であるクレメンスにはこれまで辺境に便宜をはかってもらった恩があった。ひとつひとつは些細なことだが、借りがあることは間違いない。

 王子が頭を下げて頼む様子に焦ったこともあり、結局ディルクは承知させられてしまったのだった。

 すぐに令嬢を辺境に迎え入れることは承知したが、婚約期間を最低一年もうける。期間が過ぎれば解消しても良く、その際は令嬢に新たな縁談を探す。一度婚約解消となったなら、少々格が落ちる相手でも問題ないだろう…

 話し合いの結果そう決まった。その間にクレメンスは侯爵家に入る準備を整え、妹に後継者教育を受けさせる予定だった。…姉が戻ってこられないように。

 ディルクは長女である令嬢に少しだけ同情したが、自業自得だからと考えるのを止めた。


 ノイマン辺境伯の名でアーベル侯爵家に婚約の打診をすると、クレメンスの説得があったのかすぐに了承の返事が届いた。辺境に慣れてもらうため、と婚約の時点から領地に来てもらうことも決まった。解消が前提の婚約なので大勢で大荷物を持ち込まれるのは面倒だからと、辺境伯領まで送り届けたら使用人は帰ってもらい、荷物はこちらが準備するからと最低限にしてもらうことも何とか承知させた。

 …アーベル侯爵令嬢が辺境伯領に到着した日、ディルクは出迎えることもせず執務室で待っていた。

 クレメンスの都合で強引に婚約を結ばされたことで、ディルクは時間が経つにつれて遅れてきた怒りを持て余していた。決まってしまったことは仕方がないが、家族に冷たく当たるような令嬢を礼儀正しく迎え入れ、交流を深めようという気にはなれない。

 家令に案内され令嬢が執務室に入ってきた時も、ディルクは手元の書類から目を離さなかった。丁寧に挨拶をされちらりと目を向けると、美しい姿勢で礼を取る姿が見て取れた。伏せた顔にさらりと流れ落ちるのは、高位貴族に時折見られる淡い金色の髪だ。

 『殿下の依頼によりこの地に迎えたが、貴女と関わる気はない。辺境伯夫人として学ぶ必要もない。一年後には婚約も解消する予定だから、それまでは好きに過ごすといい』

 必要なことだけを言い、また書類に向き直った。家令に促され令嬢が退出した時、顔を上げろとも言わなかったことに気付き少し罪悪感をおぼえる。

 戻ってきた家令に令嬢をどう扱うか確認された。城の者は皆この婚約についてある程度の事情を知っている。王子に押し付けられた招かれざる客、そのような認識だった。

 『…先ほど本人にも伝えたように、私は今後関わることはしない。相応に遇せよ』

 名ばかりとはいえ辺境伯の婚約者だ。ある程度自由は与えてもいいが、仕事を任せることも贅沢を許すこともない。それなりの生活をさせておけばいい──そう考えてディルクは家令に命じると、それきり令嬢のことを頭から追い出したのだった。


 (…頭から追い出して、最近では実際に忘れかけていたな)

 アーベル侯爵令嬢が辺境伯領に来て、三ヶ月が過ぎようとしていた。しかも今回の崖崩れについて一報が入ってからは、すぐに城を発ちこの町に来て以降戻っていない。

 こうして以前のとおり仕事に集中していれば、約束の一年はすぐに訪れると思っていたのだ。

 (その間に、まさか本当に結婚したい相手に出会うとは思わなかったんだ…)

 クロツグミ亭に通いながら、ディルクは今日も悩んでいる。形だけとはいえ婚約している身で別の女性を口説くなど許されない。だが残り九ヶ月の間、ディーが他の男に奪われない保証はないのだ。

 なぜあんな話を受けてしまったのか…悔やんでももうどうにもならない。

 「今日のパイはスパイスが効いていて美味しいね。故郷の味を思い出すよ」

 「もしかして隣国の方ですか?あちらは香辛料を使った料理が有名ですよね」

 「そうなんだよ。国に帰るところだったんだけど、道が復旧するまで動けなくてね」

 常連のひとりである黒髪の男と親しげに話すディーをやきもきしながら見つめる。急いで工事を終わらせてあの男をさっさと帰してしまいたい。それでなくとも秋も深まっており、雪が降る前に復旧させることが目標なのだ。

 だが工事が終わったら、ディルクも城に戻らなければならない。

 (クレメンスに了解を取って、ディーにだけ事情を打ち明けるのはどうだろうか?)

 その結果ディーが求婚に頷いてくれたら、後はなんとでもしてみせる。

 身分差はどうにでもなる、とディルクが思ったのは、今回の見返りとしてクレメンスに口添えをしてもらうことを考えていたからだ。それを含めてクレメンスに相談してみよう。

 数日迷った末にそう決断すると、さっそく王城への手紙を書くことにした。だが部下の屋敷であてがわれた自室に入る前に、部下に呼び止められる。

 「クレメンス殿下が、こちらに来られると?」

 「はい、既に辺境領に向かっておられると報せが…旅程が順調に進めば十日後にはお城に到着される見込みだとのこと」

 「…私が復旧工事のためここに来ていることは知っているはずだが…仕方ない。いったん城に帰還して殿下をお迎えしよう」

 親しいとはいえ王子殿下を迎えるとなれば準備も必要だ。すぐに出立しなければ間に合わなかった。工事もあと数日で完了する見込みだったので、町を離れるのは気が進まないがやむを得まい。

 (ここを離れたくないのはディーのこともあるが…殿下が来られるのならその件についても直接話し合えるということだ)

 ディルクは後ろ髪を引かれる思いと、クレメンスに早く相談したくて逸る思いを半々に抱えながら城への帰途についたのだった。


 「ディルク!」

 クレメンスはディルクが城に戻った翌日、必要最小限の護衛のみを連れてやって来た。駆け込んできた、と言った方が正しい。まだ到着まで二日ほど余裕があるかと思っていたところを、どれだけ飛ばして来たというのか。

 対応に慌てる使用人たちとともに、ディルクはそれほどの緊急事態が起こったのかと覚悟してクレメンスを執務室へ案内し、人払いいののち向き合った。

 「…それで、どうなさったんですか?王都で何か?それとも我が領地のことでしょうか?」

 「どちらも問題ない。そういうことではなくて…話す前にひとつ確認したい。ディルク、君はアーベル侯爵令嬢とはその後どうなっている?」

 「はぁ…?」よほどの事件があったのかと構えてみれば…とディルクは気が抜けてしまい、返事までもが心情を表したものになってしまう。「城に迎え入れてからは関わっておりません。いずれ解消となる婚約ですから…そう、その件で殿下にお話が」

 さっそく相談ができるとディルクは勇んで言葉を続けようとするが、クレメンスの複雑そうな表情に口をつぐむ。

 「そうか…もしも上手くいっていたなら、結果的に良かったのだと思うこともできたが…いや、これは私自身の咎だ。自ら償う機会を与えられたことを喜ぶべきだな」

 「何をおっしゃっているのです?」

 「アーベル侯爵令嬢が妹を虐げていたという事実は、なかった」

 「…え?でも殿下ご自身の目で確かめられたと」

 クレメンスは苦しげに顔を歪めた。「全て誤解だったんだ…」

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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