男の娘に恋してしまうのは間違いですか?
約二年ぶりの投稿です。
拙い点も多々ありますがご容赦ください。
七海桃。
彼女は、桜がぱっと開いたような美少女だ。
目を疑うほどに端正な、ともすれば人形のようでさえある容姿は、息も凍る冬の日の雪花みたいに冷々としていて、雑誌の表紙を飾るモデルにさえ比肩することをまるで疑わせない。すれ違えば、十人中十人が老若男女の分け隔てもなく振り返ってしまうだろう。
淡泊で、それでいてどこか憂いを帯びた独特の雰囲気の少女。
それが七海玲である。
だが。
一つ。
たった一つ、既述した要旨には過誤があった。
彼女は、『彼女』ではない。
彼女は――『彼』は、生物学的に男性である。
× × ×
昔から、ずっと。
張り詰めた糸のように緊迫したアクション映画よりも、キャンディーみたいに甘ったるい少女漫画の方が。
野暮ったい短パンよりも、フリルがあしらわれらスカートの方が。
男らしいことよりも、女の子らしいことが。
ずっとずっと、私は好きだった。
それでも――私は、男だ。
『自分のこと女だって思ってるカマ野郎wwwwwww』
『同じ人間だと思えね』
『キモチ悪。どうして生きてるの?』
『男がスカートとか、正直キツイよね(笑)』
夢を見た。
悪い、悪い夢だ。
人が、私を見ている。
犯罪者を侮蔑するような目で私を見ている。
その中には数日前までは気安く談笑していた友人も含まれていた。
いや、とうに友人なんかではないんだろう。
私にとっても、彼ら彼女らにとっても。
もう後戻りなんてできない。
二度と。二度と。
――ピピピッ
小気味いい電子音が耳朶を打つ。
眠気が覚め、嫌なくらい目が冴える。
でも、私には毛布から這い出るような気力なんてない。
毛虫でも食したような猛烈な不快感に、私は浅い息を重ねた。
「……馬鹿みたい」
こうなることは百も万も承知だったはず。
かつての決断に私はなんの後悔もない。
だってのに私はどうしてまた今日も性懲りなく、こんな瘡蓋を剥し抉るような行為を繰り返しているんだろう。
ひょっとして、未練でもあるのだろうか。
だとすれば我が事ながら滑稽で仕方がないね。
――もしかしたら
昔抱いた子供じみた願望に、思わず自嘲する。
知ってた癖に。
同調性をイエス・キリスト以上に崇拝するあいつらは、私のような異常者に決して寛容ではない。大衆と一寸でも食い違っていれば、あいつらは何食わぬ顔で埃でも掃くように爪弾きにし、排他する。
そんな奴らが私を受け容れるはずもないのは、火を見るより明らじゃないか。
結局、私があの時抱いた一抹の期待も蓋を開けてしまえば不毛でしかない。
鏡を見る。
そこには、上等なドールのように可憐な女の子が映り込んでいた。
「はっは」
乾いた笑みが漏れる。
可愛い。ああ、本当に可愛いさ。
でも、鏡に映る花が咲いたような笑顔とは裏腹に、私の心は氷のように冷え切っていた。
今ではこんなんだけど、中学の頃の私は当たり障りのない子だった。
髪だってこんなに伸ばしていない。
あの頃の私は、何もかもが平々凡々な、そこら中に蛆虫みたいにあちこち見かける学生の皮を被っていた。本当は無骨な学ランなんかよりも、可愛らしいセーラー服に袖を通したかったくせにね。
排斥されたくない。
それ一心で私はずっと、男子のフリをしていたんだ。
だけどやっぱり、そうやって自分を押し殺すのが嫌で嫌で仕方が無かったのが、私の偽らざる本音だった。
好きなものを、好きだと言えない。
それならいっそ消えてしまえばいいのに。
そんなわだがまりが募りに募って高校デビューした挙句が……この有様だ。
底なしの醜悪に溺れ、生きるフリをして死んでいく日々。
(……ねえ、私。ホントにこれが私の望んだものなのかな)
あのまま息を殺していれば、きっとこうはならなかったのだろうに――。
そんな考えが浮かんだ途端、つい私は失笑してしまう。
「……馬鹿らしい」
そんなこと考えたって、どうせ意味なんてないのにね。
畢竟、誰にも時を巻いて戻すことなんてできやしない。
後の祭りだ。
もう、どうしようもない。
「……はあ」
窓から覗いた空は、病人の顔色のように暗く濁っていた。
数時間後。
朝食を済ませ、制服に着替えた私は、躯体が鉄鉛にでもなったような遅々とした足取りで学校への通学路を沿っていた。
二十四時間の中で。
まず間違いなくこの数十分は、どんなに凄惨な拷問も幼児のおままごとに思えてしまうくらいの責め苦を私に押し付けているだろう。
いや。
正確には、校門を潜り抜けて自席に腰を下ろすまで、だ。
「――――」
耳障りな喧騒が鼓膜を嬲る。
どうやらまた今日も、この時間が来たようだ。
げんなりと嘆息し、私は学窓の敷地に足を踏み入れる。
そうして私は、強烈な腐敗臭でもかいだようなしかめ面を呈しながら足早に歩を進め――、
――目、目、目、目目目目目目目目……
背筋を舐め回されるような感覚に嫌悪感に、思わず顔を青ざめてしまう。
被害妄想だと、自分でも分かっているんだ。
それでもやっぱり私は、注がれる不躾な眼差しの一切合切に害虫じみた悪意が蠢いているのだと、そう思い込んでしまう。
これだから、人混みは嫌いだ。
頭上の曇天の空模様と同じような陰鬱な感情が胸中を澱ませる。
(早く教室に行こ……)
まぁ、教室も針のむしろであることには変わりないんだけどね。
散々な様相につい忍び笑いが浮かぶ。
でも、ここよりかは人っ気が少ない分きっと教室の方が幾分かはマシだ。
私は屍人のように足を引きずり、ようやく玄関口に辿り着く。そして、木製の古びた下駄箱の取っ手を引いた。
画鋲とかは……漫画じゃあるまいし、流石に入ってないよね?
毎度の事ながらこうして身構えてしまう自分に苦笑し、私は靴箱の中をまさぐって、目当ての革靴を探り当てようとする。
「……?」
その、最中。
指先が、革靴ではない何かに触れた。
(画鋲……じゃないよね)
過ぎた杞憂であって欲しいものだ。
目を細め訝しむ私は恐る恐る、あるいは危険兵器を扱うように慎重に慎重を重ね、そっと「それ」を取り出した。
「それ」は、一片の封筒だった。
淡雪の如く色素の抜け落ちた白妙の上包み。
その耳をハートのシールで閉じたそれは、どこからどう見ても――、
「……ラブレター?」
そういう風にしか、見えなかった。
……いや、ちょっと待て。
落ち着け落ち着け。
少女漫画の見過ぎだぞ、私。
淡泊にメールで告白を済ますことも珍しくないこのご時世でラブレターだなんて、時代錯誤も甚だしいだろ。
きっと何かの間違いなんだとそう言い聞かせ、私は己の不面目な曲解を証明すべく、ラブレター(ではない)の封を開けた。
どうせ、怪しげな新興宗教への勧誘文句でも綴られているのだろう。
大して期待もせず、私は二つ折りにされていた紙面へ視線を落とし、
『好きです。付き合ってください』
て…………。
「……マジか」
天を仰ぎ、瞼をごしごしと擦る。
素数を数え、ようやく凪いだ水面のような平常心を取り戻した私は、もう一度その文字列を瞬きもせず凝視し――、
『好きです。付き合ってください』
――それが断じて見間違えなどでないことを、弥が上にも再認識させられた。
……。
…………。
……………………。
…………………………………………。
「はんっ」
目を細め。
私は――笑えない漫才を見ているような最悪の心地で鼻を鳴らす。
(随分と、手の凝った悪ふざけだこと)
論ずるまでもなく、これは底意地の悪い嫌がらせだ。
私を快く思わない連中はごまんと居る。あいつらは取り沙汰されるような暴挙にこそ打って出ないが、それでも何が面白いんだがこういう陰湿な真似はしょっちゅう繰り返すのだ。
今回も、きっとその類だろう。
それにだ。
そもそも、私なんかを誰かが好きになってくれるはずもないしね。
(差出人は……咲崎結衣? どっかで聞いたことがある気がするけど……まあ、どうでもいいや。ていうか『放課後屋上で待ってます』って。こんなの、行くわけないじゃん)
冒頭の続きを通覧して余計に馬鹿らしくなった。
あまりにチープすぎる。
これなら三十秒もあれば余裕で書けるだろう。
「ホント、下らない」
くしゃくしゃに手紙を丸め、力づくでバックに押し込む。
これ以上靴箱で立ち往生していても得られるものは何もない。
私は淡々と、機械的な足取りで教室に向かった。
不意に、ぽつぽつと。
降り注ぐ小さな針を並べたような驟雨は、なぜだかすすり泣く誰かの嗚咽のように思えてならなかった。
「やっぱり、ダメだったのかな……」
放課後。
屋上で、篠突く雨をワインレッドの洋傘で凌ぐ少女の――咲崎結衣の喉奥から思わずと言った様子でせり出たか細い声音は、バケツでも引っ繰り返したように豪勢な雨足によりあえなく塗りつぶされた。
× × × × ×
自分の足音にでも追われるようにせかせかと。
私は、息を切らし小走りで廊下を駆け抜けていた。
やや古びた放・課・後・の校舎は廃墟さながらに閑散としていて、歌声じみた雨音や靴音が奏でる音色がやけに大きく感じられる。そんな校舎の一角で、雑多な演奏会を台無しにせんとばかりに怒声そのものの悪態が鳴り渡った。
「ああもう……! 今日はホントにツイてない!」
言うまでもなく。
わざわざ放課後に私が此処に顔を出したのは部活に赴くためでも、ましてや例のラブレターの返事をするためでもない。
そも私は天下無双のエリート帰宅員。
部活だなんて青春、それこそ終身縁もゆかりもないだろう。
そんな偏屈な私に限って、断じて後者も有り得ない。
なら、どうして私がこの場に足を運んだのか。
その所以は1+1よりも単純明快で、それでいて呆れてしまうほどに間抜けなものだった。
私がこうして門戸を叩いたのは――ある『忘れ物』を回収するためだ。
(まさか、課題をうっかり机に忘れるなんて……!)
私史上、最も目も当てられない失態である。
自宅でこれに気付いた私の絶望感と言ったらね……。
よりにもよって、提出日は明日。
流石にふて寝してうっちゃっておくわけにもいかないので、こうしてせっせと出向いた次第だ。
ちなみに、こうも急ぎ足になってしまっているのにも理由がある。
それは――。
「はー……。ホント、死ねばいいのに」
被害妄想なのかもしれない。
だけどやっぱり、むざむざ指定された刻限である『放課後』に馳せ参じた私を偽ラブレターを用意した俗悪趣味この上ないあいつらがせせら笑っていると思えば、溶岩でも飲み込んだように腸が煮えくり返る。
だから、まあ、ちょっとはしたないけど、こんな風に一秒でも早く帰路に就こうと足早になってしまうのもしょうがないよね…………うん。
(……とにかく、とっとと課題を回収しなきゃ)
言った傍から目の端に、『2―5』と記されたプレートが留まる。
私はそくさと、慣れてはいるが親しんではいない教室に足を踏み入れようと、閉ざされた引き戸へ向かった。
「……?」
しかし、いざ引き戸を引こうとするも……私の指先が取っ手に触れるのを待たず、引き戸はひとりでにがらがらと開かれる。
言うに及ばず、これはポルターガイストとかいう論拠の片鱗もない心霊現象などではない。ただただ何者かにより教室から引き戸が引かれただけだ。十中八九、担任教師かなにかなのだろう。いたずらに怖がる必要はない……んだけど、もしこれで顔も名前も知らない強盗犯とかだったりしたら嫌だなあ。
「……む。七海か」
しかし結局、私の懸念は杞憂だったらしい。
引き戸から姿を見せたのは案の定、中肉中背の担任教師だった。
名前は……竹下とかだったけ。中村かも。まあ、どうでもいっか。
「忘れ物をしてしまって。入ってもいいですか?」
私は、そう淡々と事務的に要件を告げる。
「……ああ。だが、なるべく早く済ませてくれ。施錠できん」
何か言いたげな顔を作りながらも竹下(仮)はそう返答する。
それに軽く頭を下げ、私はてくてくと教室に踏み入れた。
そんな私に何を思ったのか、竹下は悩まし気にこちらをじっと注視する。
(うげー……。あの人こっち見てる……)
止めなよそういうこと。陰キャは凝視とかされると脇から変な汗が出るんだぞ。
私は竹下の張り付くような視線を出来る限り気にしないようにし、手っ取り早く自机からプリントを引き出した。
そして引き攣った頬もそのままに、早足で竹下を素通りしていざ家に引き返そうとした、その時。
「……おい、七海」
竹下の、やけにきまり悪そうな声が耳朶を打った。
「……どうかされました?」
私は、感情が抜け落ちたような無表情で振り返る。
漏れ出た声音は自分が思った以上に平坦で抑揚が少なく、きっと竹下からすれば機械音声のそれにしか聞こえなかったと思う。
――話しかけるな
そんな突き刺すような意思が、手に取るように伝わったと思う。
「あー……、その、なんだ。お前のその趣味についてだが……」
なのに、それでも竹下は遠慮がちに口を開いた。
竹下は時折言葉を探すように視線を傾けながら、朗々と私に説き聞かせる。
「昨今は多様性が広がって、お前みたいな奴を受け容れようっていう風潮も強まってきたがな……やはり、実際に同じクラスになるとどうしても敬遠されるぞ。お前の気持ちも分かるが、せめて男子制服の袖ぐらいは通せ。そのままじゃ何時まで経ってもクラスに馴染ん。それにな……」
……はー、長い。お前は校長かってくらい長い。
どうせ毒にも薬にもならない説教だ。子守歌かなにかだと思えば、つつが無くやり過ごせるだろう。
しかし、そんな上の空な私の胸中に気付いたのか。
はぁ……と竹下はこれ見よがしに肺の底からため息を付く。
「まったく……」
頭痛でも堪えるような渋面を作る竹下に、私は冷めた眼差しを注いだ。
「もう、そろそろ帰っていいですか? 私も暇じゃないので」
「……好きにしろ」
もはやどれだけ大衆論理を並べても、種のない土に水をやるようなものだと理解したのだろう。竹下は不服そうではあるが渋々と私を解放した。それに私はようやくかと鼻を鳴らして、くるりと踵を返す。
(ホント、ああいう人はどこにでも居るね)
私も、竹下に悪気が無いことくらいは分かってる。
和気藹々とした義務教育の管理外である高校という場では、教師が生徒に対しドライであることも少なくはない。そんな中で私を気にかけてくれている時点で、竹下がそれなりの人格者であることは火を見るより明らかだ。
ただ――私とこの人は、致命的なまでに価値観が合わなかった。
きっと竹下にとって、私のコレは趣味の範疇でしかないんだろう。
でも私からしてみればまるで違う。
コレは、私が私であるための存在証明だ。
そう易々と譲るれるわけがない。
誰かの厚意を無下にするのは心が痛む。それでも、私は――。
「…………」
不意に。
廊下を抜け、校舎から出た私の視界に、ふとある女の子が映り込む。
それだけなら小学生の絵日記のネタにさえならない四方山話だ。だけども敢て、一つ奇異な点を述べるなら――女の子は、雨模様は息災だというのに、なぜか傘をさしてなかった。
一応、その手にやけに小洒落た洋傘を握っているので、うっかり傘を忘れてしまったわけではないのだろう。
とぼとぼと覚束ない足取りで歩を進める女の子のびしょ濡れの背中は今にも消え入りそうで、幽霊みたいに儚かった。
(……どうしたんだろう、あの子)
もしかして失恋でもしたのだろうか。
あるいは、何か取り返しのつかない失敗をしでかして落ち込んでしまっているのかもしれない。
「……はぁ」
私は、うんざりと吐息を漏らす。
ああいう子は苦手だ。どうしても、自分と重ねてしまう。
あくまで彼女は赤の他人。こんな有難迷惑なのかもしれないお節介を焼く必要性なんて、どこにもない。
でも私はやらないで後悔するよりも、やって後悔する方が好きだ。
観念した私はすたすたと女の子へ歩み寄り、彼女を自分の傘の中にそっと招き入れる。
「ほら、風邪ひくよ」
「……っ」
少女はぴくりと肩を揺らしたが、こちらを振り向くことはない。
「……誰か知りませんが、ほっといて下さい」
蚊の鳴くようなか細い声は切なげに震えていた。
それを耳にして私は、鮮明な輪郭こそ帯びていないものの、彼女の心が締め付けられるようなやるせなさを確信する。
だからこそ私は、やれるだけ能天気で空元気な声を絞り出した。
「いやー、私もそうしたいんだけどね。でも、それじゃあ後味が悪いでしょ? それに私も退屈しててね~。ほら、どうせ一期一会の出会いなんだから、壁に話しかける気分でお悩みの一つや二つ言ってみなよ」
「…………」
女の子しばらく逡巡するように口を噤むが、何を思ったのかついに私の食い入るような視線に白旗を上げ……。
「――わたし、好きな女の子がいたんですよ」
固まった。
(好きな『女の子』……? 男の子の言い間違いじゃなくて?)
思いもよらない突飛な返答に一瞬思考が止まる。
埋め尽くさんばかりの疑問符を浮かべる私の当惑を察したのだろう。
彼女は咎めるような、それでいてどこか疲れ切ったような声を投げかけた。
「わたしが女の子を好きになるのがそんなに不思議ですか?」
「い、いや。そんなことはないよ」
私だって人の事をああだこうだ言える立場ではない。
それに……私は、自分と同じ苦悩に呻く人をあいつらのように嘲笑いたくなかった。
気付けば、口を開いていた。
「私は、君のことを不思議になんか思ってないよ。というか、カッコいいとも思う。いつだって、自分の好きなことを好きだって言うのには勇気が要る。それが世間一般の常識からかけ離れていれば猶更だ。素直に、尊敬するよ」
「……!」
背中越しにでも彼女が目を見開くのが分かった。
でも、これが私の偽ざらる本音だ。これだけは有耶無耶にしたくない。
「……あなたは、あの人に似ていますね」
「あの人?」
小首を傾げる私に、彼女は愛しむようにそれを口にした。
「わたしの大好きな女の子ですよ。あの人は、あなたのように優しくて高邁な人でした。……わたしが、憧れてしまうくらい」
「……そっか」
いいなあ、この子は。誰かをちゃんと愛せて。
身の毛もよだつ悪意に晒され天邪鬼になってしまった私は、知らず知らず彼女に羨望にも似た感傷を抱いた。
だがそれも、続く次の言葉に搔き消されてしまう。
「……本当は今日、その人に告白するつもりだったんですよ。でも、ダメでした。直接会うのが恥ずかしいからってラブレターなんて臆病風に吹かれるべきじゃなかったですね。こんなんだから、あの人も来てくれなかったんです」
そんな彼女の自嘲じみた独白に――私は、頭が真っ白になる。
ラブレター。
ヤバい……ちょっと、心当たりがある。というかありすぎる。
アレか? アレなのか? 善人面した私こそが諸悪の根源だったのか?
嘘であってくれと、私は恐る恐る彼女に問いかけた。
「あの……もしかして『あの人』って、七海桃のことなんじゃない……?」
「? どうして、あなたがそれを――」
首をひねり不思議がる彼女は、くるりと私へ振り返り――
「……え?」
呆然と、息を漏らした。
× × × × ×
――ピピピッ
軽快な電子音が小刻みに鼓膜を震わせる。
「……ぅう」
瞼を擦りながら、私は手探りでスマホを手元に寄せアラームを解除。
そのままとぼとぼと心許ない足取りでタンスに向かい制服を取り出す。
制服に袖を通しながら私は閑静なリビングに躍り出て、てきぱきと朝食の準備を済ませた。
「――♪」
その間、私は頬を緩ませ鼻歌まで口ずさんでいた。
見てのとおり今日の私は快晴の青空の如く機嫌が良い。
今ならば大抵の事は笑って許せるだろう。
なにせ、昨日は――。
誰も、何も言えない。
蛇口を捻ったように雨の矢が降りしきる中、私たちの間には空々しいくらいの静寂が不穏に漂っていた。
なんせ、予報外れの大雨に打ちひしがれる彼女に傘を差し伸べた私こそが、他ならぬその大雨を降らせた張本人だったんだからね。私なら絶対殴ってる。というか目玉を刳くり抜くまであるよ。
私は、深々と重苦しい溜息を吐いた。
(こうなるんだったら、下手に勘繰らなきゃ良かったのに……)
後悔するもこの人生万事が覆水盆に返らず。
もし、付近に喋る青タヌキがいれば早急速やかに身ぐるみ剥して、強奪したタイムマシーンで過去の過ちを正そうとしていたんだろうけど、如何私の周囲には喋る青タヌキはいない。
「その……ごめんなさい」
そして、青タヌキにさえ見捨てられた私は、こうして土下座せんとばかりに彼女に頭を下げることしか出来なかった。
「知らなかったとはいえ、私の短慮が君を苦しめた。本当に、ごめん」
でも、この言葉にだけはなんの嘘偽りはない。
私がもっとちゃんとあのラブレターに向きあっていたら、きっとこんなことにはならなかっただろう。
ぜんぶ、私のせいだ。
「――そんなことありませんよ」
「!?」
耳元に滑り込んだその一声に私は目を剥く。
慌てて顔を上げれば――彼女が、微笑んでいた。その微笑は無垢な子供のようにあどけなく、それでいて絵画の天使のように美しくて、私は吸い込まれるように目を奪われる。
「そもそも、あなたの背景を知っていながら、下らない羞恥心に押し負けてラブレターなんて化石じみた手段を取ったわたしにも非があります。私にもっと勇気があれば、こんなことにはならなかったでしょう」
「…………」
いや、それは違う。それを差し引いても私が……。
しかし彼女は、私が言いかけた異存を見透かしたようにくすりと小悪魔じみた微笑を作る。
「でも、それでもまだ納得できないなら――」
不意に、ぞわりと。
蠱惑的なその笑みは格好の得物を見つけ涎を垂らす肉食獣を彷彿とさせ、思わず後退るが――。
「これで、おあいこです」
致命的に、遅い。
彼女はウサギのように軽快に跳躍。そのまま息をつく暇もなく、体重をまるで感じさせない動きでひしと私に抱き付いた。
「!? ちょ、どうし……」
息が止まるほどギュッと肌を寄せられあたふたと混乱してしまう。
早鐘を打つ心臓がやけにうるさい。久しぶりに触れた人肌は、火傷してしまいそうなくらい暖かった。
かつてなくオロオロと慌てふためく私を上目遣いする彼女は、蜂蜜を口一杯に頬張ったような幸せそうな顔で目を細める。
「えへへ……一度こうやって先輩を抱き枕みたいに抱き寄せてみたかったんですよ」
うーん、それはちょっと理解できないな。
ほんのちょっと冷静になって、私は視線を小柄な少女に傾ける。
「そ、そうなんだ。……ところで、これっていつ終わるの?」
怖じ怖じと問いだす私に、一言。
「私が死ぬまでって、言ったらどうします?」
冗談であって欲しいな……。
本気か否かが雲を掴むが如く定かではない微笑に私は頬を引き攣らせる。
そのまま、私はラブレターを無視した後ろめたさも手伝い大した抵抗も出来ず、鎖骨を撫でられたり指先を絡められたりと好き放題にされて、彼女が肌をツヤツヤさせて満足する頃には生ける死骸の如く辟易していた。
「ふうー……。これで一か月は頑張れます」
「アレの何がいいんだか……」
ようやく適正な距離を取ってくれた後輩(?)を眺めながら、私は疲弊半分感心半分の心境で嘆息した。
きっと、これは彼女なりの気遣いなのだろう。
罪には罰を。募った罪悪感は制裁を以でしか払拭できない。
先程の、限りなく痴漢に近しい行為はうんざりするほどの心労を私に植え付け、尚且つ彼女は(これっぽっちも理解できない)私利私欲を満たせた。
――これで、おあいこです
罪には罰を。
過ぎた裏読みでなければ、恐らくこれが彼女の『罰』なのだ。
これ以上気に病む必要なんてないとそう言外に告げているのだろう。
こうも慮ってまだ異を唱えては、それこそ彼女に失礼だ。
故に、私が口にするべき言葉は辛気臭い謝罪なんかじゃなく――。
「――色々ありがとね、結衣ちゃん」
誰の心にも暖かい火を灯す、この呪文をおいて他はないだろう。
出し抜けに名前を呼ばれ、狐につままられたような顔で面食らった結衣ちゃんは、その数秒後にすべてを察したように破顔した。
「いえいえ、こちらこそ。私も先輩の肢体を思う存分まさぐれて満足できましたし」
「それはそれでどうなのかな……」
やっぱコイツただのおっさんだわ……。
冗談めかしたその返答に私は苦笑し。
「――さて」
不意に。
それまでの妹じみた親しみ易い雰囲気はその一言を区切りに一変する。
亜麻色の双眸で私を射貫く結衣ちゃんは、物怖じせず問いを投げた。
「そろそろ、返事を聞いても?」
「……返事?」
訝しむ私に、彼女は感情の読めない微笑をたたえ応答する。
「ええ。あのラブレターの返事です」
ああ……そういえば、事の発端はあの恋文だったんだっけ。
私も、この期に及んでその淡い恋情が虚妄だとは嘯かない。
仏と結衣ちゃんの顔は三度まで。
ようやく私にも、あの時くしゃくしゃに丸めたラブレターと向き合う時が来たようだ。
――好きです。付き合って下さい
達筆な筆跡が脳裏に浮かぶ。
まだ、私はあまり咲崎結衣を知らない。
それでも、彼女が他人の不幸をせせら笑うような俗悪でないこと、子猫みたいに可愛いこと、舌を巻くくらい気配り上手なこと……私を、ほんの少しでも愛してくれていることくらいは把握している。
それに……、
――私、好きな女の子がいたんですよ
彼女だけは、私を一人の女の子として見てくれる。
それがただ泣きたくなってしまうくらい嬉しいんだ。
同時に、彼女となら臍曲がりな私も屈託なく笑えるんじゃないかって、そんな期待が風船のように膨らむ。
ずっと、私は独りだった。
月の裏側に一人取り残されたような空白と恐怖は、呪縛の如く私の血肉に焼き付いてしまっている。
でも。
もし、もう一度誰かの隣に私が寄り添っていいのなら。
私は――。
「ごめんね、結衣ちゃん」
私は、力のない笑みを浮かべた。
誰かと話したい。誰かと笑い合いたい。
でも――それ以上に誰かと関係を持つことがどうしようもなく怖い。
昔、私にも親友と呼べる間柄の友人がいた。
苦楽を共にしてきたそいつとの他愛もない日々は馬鹿々々しいくらい楽しくて、私はずっとそれが続くんだと思った。
『私』を知ったそいつは、いとも容易く私を切り捨てた。
――気色悪いな、お前
あいつが最後に言い放った一言がまだこびりついて離れない。
あれからあいつは私の隣から離れ去ってしまった。もう二度と、あの頃の情景が息を吹き返すことはないだろう。
私はもう、誰とも関わりたくない。
ずっと独りでいればなにも失わずに済むんだ。
もう二度と、傷つくことはないんだ。
なら、それでいい。それでいいんだ。
「……そうですか」
結衣ちゃんは物寂しげにそっと目を伏せる。
傘を打つ雨音は、また一段と強まったような気がした。
× × × ×
今日の私は機嫌が良かった。
良くなければ、いけなかった。
あの雨の日、私は差し伸べられた手を不要と振り払った。
それでよかった。ずっと独りでいれば、もう二度とあんな胸を抉るような苦痛を味わうこともないんだから。
万々歳じゃないか。
いっそ歓喜に酔って小躍りしたっていい。
無味乾燥とした代り映えのしない日々。
それだけが、私の幸福なんだ。
その安寧さえ保てば、他はもう心底どうでもよかった。
この世に永遠なんて御大層な代物は存在しない。
命よりも大事なものも、最後にはどれも等しく塵に帰る。
なら、端から一つとして、失って困るようなものを持ち合わせないのが大正解だ。
だからあの日結衣ちゃんの恋路に終止符を打ったことに後悔はない。
ない、筈なのに。
――……そうですか
どうしてだろう。
何度も何度も、目を閉じても鮮明に、端正な顔を悲痛に歪めた結衣ちゃんの寂しげな表情が頭に浮かんでしまうのは。
「あっ」
それを直視できる気がしなくてあちこちに視線を彷徨わせていると、不意に刻々と時を刻む丸時計が目に留まる。
その秒針は、もう七時五十分を指し示していた。
「……そろそろ、学校行かなくちゃ」
胸の奥のわがたまりを見て見ぬフリをして。
バックを手に取り、私は見えないなにかから逃げるように急ぎ足で玄関口へと歩を進めた。
「各自予習を怠らないように」
その一言を皮切りに、緊張の糸が切れたように教室内は弛緩する。
「おい、購買行こうぜ?」
「あー、今日は弁当持ってるから俺はパス」
「ねえねえ、昨日のドラマ見た? ヤバかったよね~」
これで四限目も仕舞いだ。
昼休みということもあって、教室は耳が痛いくらい賑わっていた。
世間話に花を咲かせたり忙しなくスマホへ指を走らせたりと、各々がめいめいに昼休みを謳歌しようとする姿がしばしば目につく。
誰も彼もが楽しそうで、私の目にそれは別世界の光景のように見えた。
「……ご飯食べよ」
私はごそごそとバックから弁当箱を取り出そうとする。
が……どういう訳か、どれだけ隈なく探しても目当てのプラスチック製の容器は見当たらなかった。
どうやら、うっかり忘れてしまったらしい。
(あーあー)
マジかー。
まあでも今すぐ干乾びて餓死するくらい空腹でもないし、いっか。
そう私は淡泊と割り切り、ポケットからスマホを手繰り寄せる。
人類の叡智の結晶たるこの端末機ほど、暇を潰すのにもってこいな品物はない。
ここは適当にネットサーフィンでもして無聊を慰めるとしよう。
そう、私は見飽きたホーム画面を開こうとするも。
(うわぁ……)
スマホはうんともすんとも言わず。
いつまで経っても、依然として液晶画面は墨汁でも流したような暗闇を映すままだった。
充電切れらしい。
(……こりゃあ、いよいよ今日が厄日かもしんないね)
私は、肺腑の底から瘦せ細った嘆息を漏らす。
しかし、とうとう本格的に手持ち無沙汰だ。
まるでやる事がない。
よし。こういう時は……。
(……もう、寝るしかないか)
私は自分の細腕を枕にそっと顔を伏せた。
やっぱり、こういう徒然とした、思わず欠伸が漏れ出るような退屈な時間にはこれに限るね。
昨日は満足に寝付けなかったせいだろう。
瞼を閉じてものの数秒で、私は死んだように眠りに付いた。
そうして、温かくやわらかな泥の中にずぶずぶと入っていくような感覚に溺れて、どれだけ時が経っただろうか。
不意に、騒然としていた教室に一抹の当惑の色が落とされる。
「おい、あれって……」
色濃い震動は伝染病の如く室内に波及する。
それまでのんびりと小舟を漕いでいた私だったが、やや異質に醸成された空気感に揺さぶられ目が冴えてしまう。
(……? どうしたのかな?)
もしかしてもう授業始まった?
私は欠伸を噛み殺しながら、ちらりと衆目の焦点に視線を傾け――。
「えっ」
凝然と、目を見開き絶句した。
何なら失神したまである。
雑踏の視線を釘付けにするのは、世界の誰よりも意外な人物だった。
絶対に、ここに居てはいけない人物だった。
その人物の。
彼女の名は――。
「あっ! 先輩ーー!」
彼女は――咲崎結衣は、向日葵のような満面の笑みを浮かべていた
少女の鈴を転がしたような澄んだ声音が響き渡る。
その瞳は、火を見るよりも一目瞭然に私を捉えていた。
故にバタバタと手を振られる当人、とどのつまり私へ周囲の視線が注がれてしまうのは自明の理で――。
「――おや、どうしたのかな?」
しかし、その男は傾倒しかけた視線をたった一言で搔っ攫う。
柊独歩。
目を疑うほどにその輪郭は整っていて、夏の訪れを思わせる清涼感に溢れた雰囲気も相まり、まさしく『美青年』といった風体の男だ。
どこか貴族然とした鼻につく立ち振る舞いも、彼ならば不思議なほど様になっている。
もちろん、めちゃくちゃモテる。
それこそ童話の王子様と言わんばかりだ。
もし彼にじっと見詰められでもしたら、男女の拘りなく誰もが林檎のように赤面することだろう。
されど悲しいかな、結衣ちゃんにはまるで効きやしない。
結衣ちゃんは目の前に立つ柊を「なんだコイツ?」と訝しみながら、ちらりとこちらを流し目する。
「いえ、ちょっと七海先輩に用がありまして」
「……七海?」
柊は、微笑を崩さずにすっと目を眇める。
「へえ、彼にねえ。ちょっと気になるな。よかったらどんな用件なのか教えてくれないかい?」
投げられた問いに、私は目を丸くした。
柊は、初対面の人相手にこんな踏み込んだ質問はしない。
平時ならば「そうなんだ」で済ます話だ。
(それなのに、どうして……)
首をひねる私を余所に、事態はより混沌とした様相を呈する。
結衣ちゃんも決して馬鹿ではない。
どころかたぶん、私なんかよりも頭が回るんだ。
故に、お茶を濁すのにお誂え向きな詭弁なんて、腐るほど思いついたことだろう。
それなのに。
「そ、そんなこと聞かないで下さいよ……」
結衣ちゃんはなぜか――頬を染めていた。
もじもじと、恥ずかしさに下を向き。
紅葉よりも顔を赤らめて照れるその姿は恋する乙女そのもので。
「……は?」
柊は、幽霊でも見たような顔で言葉を失う。
唖然呆然と柊が目を点にするのも致し方ない。
なんせ私も、生きた心地がしないくらい度肝を抜かれたんだから。
結衣ちゃんの言動は、彼女が私に思いを寄せていると示唆するようなもの。
おかげで突き刺さる視線がいつもに増して痛い。
(ちょちょ、なにやってくれてるの結衣ちゃん!?)
内心で涙目になる私を見計らったように、結衣ちゃんはこちらへ手を振る。
「ほらー、早く来てくださいよ先輩!」
「…………」
本音を言うなら、むちゃくちゃ無視したい。
私は独りでいたいんだ。結衣ちゃんが言う『用件』がなんにせよ、それは私が理が非でも死守する平穏を掻き乱すことだろう。
ならば、知らぬ存ぜぬを決め込むのが最適解だ。
(とはいえ、ね……)
結衣ちゃんはまずそれを許容しない。
これだけでは私を動かせないと知れば、その凶行は加速度的にエスカレートしていくだろう。
それを止められるのは、他ならぬ私だけ。
ただえさえ針の筵な教室なんだ。
それなのにこれ以上居心地が悪くなれば、私は確実に不登校になる。
それは流石にちょっとね……。
(……行くしか、ないか)
でも、話をするにしてもこんな公衆の面前でなんて以ての外だ。
結衣ちゃんの『用件』の魔物性が大いに懸念される以上、話をするなら出来る限り人目が付かない穴場が望ましいだろう。
いっそ陰キャらしくトイレで談笑でもしようか。
現実逃避もそれくらいにし、私は思考を矢の如く巡らす。
描く理想絵図は、私と結衣ちゃんの二人っきりの構図。
されど、数百人という大人数を収容する学校内において、それを実現できる箇所なんて極少数だ。
でも、ないわけでもない。
あるとすれば、そこは――。
見渡す限りの澄み切った青。
つい昨日まで、天空の水の底が割れたのではかと見紛うほどの雨天を呈していた大空は一変し雲一つない快晴を映し出している。
燦然とした炎天下の日差しは、ハワイのそれを彷彿とさせた。
屋上。
周囲を見渡した私は、満足げに息を吐く。
(やっぱり、ここは内緒話にうってつけだね)
内緒話をする相手もいなければ宝の持ち腐れなのが玉に瑕。
出入口を遮断する引き戸はそれなりに分厚い。聞き耳を立てたとしても徒労に終わるだけだろう。
ちなみに鍵は開いてた。ザルだね。
「いやぁ、いい眺めですね~」
背後。
間延びした声が、閑古鳥の鳴く屋上に響き渡った。
それとなく私は市街地を隅から隅まで遠見し感嘆の声を上げる結衣ちゃんを一瞥する。
こうしてちゃんと髪を整えた彼女を見ると、その咲いた花のような可憐さを骨身にしみて実感する。絹糸のように艶のあるセミロングの髪や吸い込まれそうな亜麻色の瞳、子猫じみた愛嬌を感じさせる愛らしい顔立ちといい、まさしく非の打ち所のない美少女だ。
アイドルも立つ瀬がない端正な美貌に思わず見惚れてしまう。
とはいえ、ね。
可愛ければどんな悪行も笑って許される、なんてこともなく。
「――で、何の用かな? 言っとくけど昨日の発言なら撤回しないよ」
自然、吐き出された声は機械の如く冷淡だった。
呑気に屋上の景色を観覧していた結衣ちゃんを私は瞬きもせず睥睨する。
結衣ちゃんは、私が理が非でも死守する平穏を、あるいは修復不可能なくらいに引っ掻き回した。
それも十中八九、意図的にね。
そりゃあ私だってキレるよ。
二度とこんな羽目にあってたまるかとも思う。
どうせ、動機は昨日の一件についてだ。
まだ未練でもあるんだかね。
ならもう、ここで一縷の望みさえ抱けないくらいに心を折ろう。
そう心に決めた私は、猟犬の如く結衣ちゃんを鋭く睨んだ。
好きな人に敵愾心を剥き出しにされるんだ。さぞや堪えるだろう。
私は爪の垢ほども疑えないような確証を得る。
「? どうしたんですか、そんなにジッと見詰めて。可愛いですね。結婚しましょうよ」
しかし。
結衣ちゃんは一向に顔を曇らせず、ただただ不思議そうに小首を傾げるばかりだった。
「…………」
チッ……。
まるで手応えがない。
海面を蹴り上げるような不毛さに閉口する。
あれだけ気遣いが出来るんだから、私の骨に食い込むような非難の視線を認知できていない事はないだろう。
だけどもどういう訳か、それに結衣ちゃんは蛙の面へ水とばかりに何の痛痒も感じていない様子だ。
どころかずけずけと求婚までしてくる始末。
その強靭なメンタルは何製なのかが相当気になるね。
昨日の、触れれば壊れてしまいそうな儚さがまるで夢だ。
「……それで、用件は?」
これでは、どれだけ口汚く罵詈雑言を喚き散らしても幽霊を殴るようなものだ。
この不利な現状では、とてもじゃないが結衣ちゃんを追い返すことは出来ない。
毒茸を食したような苦い顔でそう判断した私は渋々と、状況に変化を求め彼女に再度説明を求める。
「あー。まあ、用件と言えるようなものではありませんが……」
頬を掻く結衣ちゃんは、手元の小振りなバックを開ける。
そういえばこんなバック持ってたな……と目を眇める私の前に差し出されたのは――可愛らしい、猫柄の弁当箱だった。
「一緒にお昼ご飯食べません、先輩?」
にこりと、朗らかに結衣ちゃんははにかむ。
知らず知らず見ているこっちが顔をほころばせてしまいそうな笑顔。
その子供のようなあどけない微笑に、私はほっと肩の力を抜く。
(よし、これなら……!)
これは僥倖としか言いようのない色好き内容だ。
息巻き、私はいけしゃあしゃあと詐欺師のように嘯く。
「それなら残念だね。お昼ご飯ならついさっき食べたよ」
もちろんこれは大嘘だ。
私は弁当箱さえ持ってきていない。
だけど、この虚言ならば結衣ちゃんも難なく言い包められるだろう。
私がもう食べたんだって主張するなら、彼女は引き下がるしかないからね。
後は二度と来るなと釘を刺せばいいだけだ。
ようやく解放されると、刑期を終えた受刑者さながらの心地で胸を撫で下ろす――が。
「あれ? 先輩、弁当忘れてましたよね?」
「――っ!?」
どうしてそれを!?
目を見開く私に結衣ちゃんは、してやったりとほくそ笑む。
隠しようもない得意顔を目にして悟った。――大嘘だと。
「ふふっ。夢の中でお腹一杯食べたんですね」
「…………」
何てこったい、完膚無きままに言い負かされたぞ。
小悪魔的な笑みにぐぬぬと内心で絶息しそうな調子で呻く。
(ああもう、こうなったら――)
もはや致し方もない。私は溜息を吐く。
「安心してください。こんなこともあろうかと少し多めに作りました。ですから――」
「結衣ちゃん」
言葉を遮り私は口を開く。
心は、白雪の如く冷え切っていた。
「ご飯なら一緒に食べない。用がそれだけなら帰って。私は、独りでいたいの」
酔いが覚めたような顔で薄情にそう告げる。
舌が回らないくせに、下手な駆け引きを仕掛けたのが間違いだった。
初めからこういう直截な物言いで追い返せばよかったと、今更ながら後悔する。
とはいえ、こうも手痛く拒絶されたんだ。
これでは粘着質なストーカも匙を投げることだろう。
結衣ちゃんだって例外じゃない。青菜に塩とばかりに項垂れて、すごすごと私の視界から消えてくれる筈だ。
そうだ。そうだろう。
普通なら、きっとそうだ。
「――でも、わたしは先輩と一緒にいたいですよ?」
しかし結衣ちゃんは普通ではなかった。
どれだけ侘しく足蹴にされようとも、彼女は折れない。
挙句の果てにやっとその度し難い事実を理解した私は、嗚咽の前触れのような表情でギリっと唇を噛む。
口惜しい。
テコでも動かない強情な結衣ちゃんも。
そんな彼女に、ほんの少しでも胸が高鳴った自分自身も。
視界に映るありとあらゆる要素が、おもちゃ箱でも引っ繰り返すように私の心を搔き乱す。
うるさいと、そう闇雲に叫びたかった。
なのに、いざその罵声を吐こうとすると、言葉が急に固い木片にでもなったかのように咽喉に突っかかりまるで声が出なかった。
屋上に、砂袋のように重い沈黙が澱む。
そのままいたずらに秒針が空回り――。
「わたしは」
沈黙を破ったのは、結衣ちゃんだった。
俯いたその面貌が何を描いているのか、私には分からない。
ただ、笑ってはいないんだろうと、何となく推し量れた。
「わたしは、ずっと自分が嫌いでした。お父さんを不安にさせたくなくて、友達に嫌われたくなくて、ずっと本音を押し殺していた自分が嫌いで仕方ない。好きなことを好きだって言えない自分が、ただ憎かった」
彼女は細い指先でギュッと自分のシャツを掴む。
訥々とした声音は、風が吹くだけで掠れてしまいそうだった。
――わたしが女の子を好きになるのがそんなに不思議ですか?
色濃い諦念が滲んだ声が脳裏によぎる。
世界は、異常者に決して寛容ではない。
結衣ちゃんはそんな救い難い摂理を十数年もの歳月でつくづくと痛感したのだろう。故に、彼女は息を吸い口を閉ざした。
排斥されたくない。それ一心で、ずっと。
私も同じだったから、何となくそれが分かった。
「だから、先輩が眩しく見えたんです。飾らないありのままの自分を貫こうとする先輩はわたしの憧れで……いつしか好きな人になっていました。自分でも手前勝手な自覚はあります。先輩に迷惑をかけるかもしれません。でも、それでも……」
懐かしむように、あるいは噛み締めるように。
筆舌に尽くし難い面差しで独白を続けていた結衣ちゃんは、目を逸らさずに私を見据えて。
「わたしは、先輩と一緒にいたい」
そう、言った。
「…………」
押し黙った私は、朝日を覗き込んだように目を細める。
たぶん、私がどれだけ正鵠を射た世論を並べても、どんなに苛烈な心を抉る痛罵で足蹴にしても、彼女は変わらないだろう。
私が、そうであったように。
「……お昼休みの時だけだからね」
気が付けば、ぶっきらぼうな返答が漏れ出ていた。
慮外の返答に結衣ちゃんは間抜けな顔で呆然とする。相当驚いているようだ。
でも、一番度肝を抜かれたのは他でもない私自身だ。
どうしてこんな思ってもいない事を宣ってしまったのかと、遅まきながら後悔の念に駆られる。
「せ……先輩! 本当ですよね!? 嘘じゃないですよね!? 言質取りましたよ!? 意地悪に撤回とかしませんよね!?」
けれども。
目を白黒させながらも、飛び跳ねそうな勢いで嬉しがる結衣ちゃんを見ていると何だか「まあいっか」て思えてきて、私は思わず苦笑する。
「勘違いしないでよ。しつこく付き纏われるのが面倒なだけ」
「またまた、照れちゃって~」
照れてはない。じろっと咎めるような視線を向ける。
しかし結衣ちゃんはそれを柳に風と受け流し、にこにこと頬を緩ませた。
「それじゃあ先輩、早速一緒にお昼ご飯を食べましょうよ! 具体的には口移しで……」
「帰っていいかな?」
ここぞとばかりに言い寄る結衣ちゃんを撥ね退ける。
それでもやっぱり、結衣ちゃんの笑みは深まるばかりだった。
満面に喜色を湛えた彼女を見ていて、つい小さく微笑んでしまったのは末代までの恥である。
――その日。
ほとんど密着しているような居心地の悪い距離感で食べたあのお昼ご飯の味を、きっと私は忘れることはないだろう。
《了》
読了下さり有難うございます。
作者が音楽の授業でリコーダーが唖然としてしまうほど吹けず、教師から「なんでそんな普通の事が出来ないのか」と言われクソ凹んだ経験から生み出された本作を読んで、何か読む前と心情に変化があれば作者冥利に尽きます。ちなみに弁明しますが作者は勉強はちゃんと出来るんですよ。ただ壊滅的に音楽センスが欠落しているだけです。音楽は大好きなのにね~……。
以下、蛇足になるのでカットされた作中の裏設定です。
興味のある方はご覧になって下さい。
■七海桃
小学生の頃までは女の子の恰好で居たが父親に口煩く注意されて、中学に上がったのを契機に髪型や服装を改める。桃の母親は芸術家で、自分を曲げることが大っ嫌いだった。教師である父親は桃が後々どういう扱いを受けるのか誰よりも理解していたが故に桃に「普通」を強要したが、それが母親の逆鱗に触れてしまい、口論の末二人は離婚した。更に桃を引き取った母親は元々体が悪く、離婚のストレスで持病が悪化して病死。この一件が深い傷となり、桃が心を閉ざす要因の一つとなった。
■咲埼結衣
体調を崩し入院していた際に母親の遺品整理をしていた桃と出会う。その頃の桃は既に『元親友』と別離しており自分の好きな格好をしていた。周囲からの期待に押し潰されてしまいそうな彼女にとって桃はあまりにも眩しく、ゆえに惹かれたのだろう。持ち前の交友関係をフル活用し桃が進学した高校に入学する。入学した際は真っ先に桃に声を掛けようとしたが病院で会った時とはあまりにも乖離した態度に戸惑い、ラブレターを差し出す決意をするまで葛藤していた。
■柊独歩
丁寧に描写された癖に碌に登場場面に恵まれなかった奴。百合に男を挟むわけにはいかないので仕様がない。お察しの通りこいつが桃の元親友で、彼女に対しては愛憎入り混じった感情を抱いている。ちなみに結衣の親戚。
■竹下
数学教師。桃の服装はかつて半日以上の口論の末に竹下が折れた結果、特例的に認められたものである。実はこの日の四限目にクラス写真を撮るために屋上を使用しており、鍵をかけ忘れている。それに気付いた竹下は慌てて施錠しようと走ったが、屋上で仲睦まじく昼食を食べる二人を見て、何も言わずに踵を返した。その後は各方面に頭を下げて昼休みだけは屋上を開放することとなる。
ちなみにこの竹下という名前は作者が通っている高校の教師のもの。ハゲから連想した。これがバレると作者は死ぬかも分からん。
個人的に一番のお気に入りキャラ。
実は桃と並々ならぬ関係(物は言いよう)があるが、こればかりはわざわざ声高に流布するのも無粋なので読者の想像のお任せします。
……まだまだ語り切れない話も多くありますが、後書きの分量が凄いことになりそうなのでこれくらいに留めます。
多様性がどうだと騒がしい昨今、作者は別に世間様と同じようなことを喧伝するつもりはありませんが、「普通」ではなくとも幸せになる権利くらいは誰にも有るはずです。それを掴み取れるか否かは人それぞれですが、自分が人と違ってもそれを過度に悲観せず、逆に「他と違う俺カッケー」くらいに開き直ったら嫌なことばかりの人生も少しは輝くのではないでしょうか。